2016年5月1日 主日礼拝「燃える柴」
本日の聖書箇所
出エジプト記3章〜4章
説教題
「燃える柴」
今週の聖句
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」
出エジプト記3章12節
訳してみましょう
1793 Present choices determine future reward.
(現在の選択は、将来の報酬を決めます。)
1794 We honor God’s name when we call Him our Father and live like His Son.
(私たちは、神さまを私たちの父と呼び、イエス様のように生きるとき、神さまの名をほめたたえる。)
説教メモ
今日学ぶことは、神さまは私たち一人ひとりに使命をお与えになっているということです。それは、一人の魂を救いに導くことであるかもしれないし、あるいは教会を建て上げることかもしれません。また、社会において神さまのみこころにかなう働きをするということであるかもしれません。そんな様々な使命を、神さまはそれぞれ一人ひとりにお与えくださっています。
モーセには、イスラエルの民をエジプトから導くようにという使命が与えられました。本朝の聖書箇所では、モーセに使命を与えると同時に、使命を達成するために必要な力をも与えてくださることを私たちに教えています。
モーセは自分自身の力、地位などといった人間的なことではなく、神さまの助けと支えを頼みにして使命を果たすように導かれています。そのことを学んでまいります。
今週の聖句です。
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト3:12)
非常に力強い励ましのことばです。しかしこれは、モーセにだけ語られたおことばではないということをおぼえておいてください。神さまのおことばとして聖書に記されています。聖書を読む私たちへのおことばでもあります。私たちが何か新しい責任を持つようなことがあれば、神さまは私たちにも、モーセに語られたように私たちにも語られていることを忘れてはいけません。私たちは神さまから与えられた使命を達成することにおいて、神の大いなる助けに期待することができます。私たちの力ではなし得ないことを、神さまは私たちを通して成してくださいます。
1.呼び出される神
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。(出エジプト3:1)
イテロとは出エジプト2:18に登場する「レウエル」と同一人物であると先週見ました。イテロは祭司職での名を指します。モーセはミデヤンの地に逃れて祭司イテロの羊を飼い、イテロの娘である「チッポラ」を妻としました。チッポラとの間に男の子が生まれ、その名を「ゲルショム(私は外国にいる寄留者だ)」と名づけました。
この時のモーセの地位というのは、どのようなものであったでしょうか。自分の羊ではなく、イテロの羊を託されて飼っていましたから、色々ととやかく意見できる立場ではありませんでした。働き人くらいの地位だったのでしょうか、ミデヤンの地ではモーセの地位はあまりありませんでした。
「ホレブ」という名前が出てきます。皆さんは「シナイ山」という言葉はご存知かと思います。学者の意見によると、ホレブとは山脈の名前で、その中にあるシナイ山という位置づけにあるようです。チェーン式バイブルには、ホレブ山とは伝統的にはシナイ半島南中央部にあるジェベル・ムーサ(2285メートル)と考えられていると説明されています。その辺りでモーセはしゅうとイテロの羊を飼っていました。
モーセはそこで、不思議な現象を見ました。それは燃えているのに、いつまでも焼き尽きない不思議な火の光景でした。その不思議な火に近づくモーセの姿がここにあります。ここには「燃える柴」と書かれています。私の第一印象としては、羊などが食べる草が枯れたものということがあります。聖書学者によると、これは当時の荒れ地で育っていた「アカシアの木」だったのではないかと言われています。それはどちらでも良いと思います。
それは燃えているのにいつまでも火が消えない、焼き尽きないという不思議な現象でした。好奇心にそそられて近づくモーセは、神さまがモーセを呼ぶ声を聞きました。
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。《と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。(出エジプト3:4)
そして神さまは、ご自分のことをモーセに説明し、ご自分がイスラエルの痛みと苦しみを心に留められていること、そして契約に基づいて救いの計画を持っておられること、そしてその計画を実現すべくモーセを選んだことを告げられました。
神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト3:5〜7)
ここで前章の、出エジプト2章23節をご覧ください。
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。(出エジプト2:23)
神さまは確かに彼らの叫びを聞かれました。
わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。(出エジプト3:8)
アブラハムに約束されたのは、乳と蜜の流れる約束の地「カナン」という表現があります。そこは本当に良い地であったようです。乳は主に羊かと思いますがその乳が流れる地、つまり家畜を養うための牧草が豊富にあるということ。蜜とは蜜蜂がたくさんいたということでしょう。現在は蜜蜂がとても少なくなってしまったと言われています。ですから果樹園などでは人工授粉をしなければ実がならないほどです。カナンの地には蜜蜂たくさんおり、蜜蜂が好む草花や樹木がたくさんあって、それだけ実りも多かった豊かな地でした。そこに、アブラハムに約束したとおりイスラエル人を連れ上るのだとおっしゃっています。
見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト3:9〜10)
これがモーセに託された使命でした。モーセはエジプトに行って、イスラエルの民を約束の地カナンに連れ上るという大きな使命が与えられました。「今、行きなさい。」とモーセに命じられました。
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。(出エジプト2:23)
エジプトの王は死んだと書いてあります。それなのに、「パロのもとに遣わそう」とあります。「パロ」とは称号です。モーセが生まれ育った当時の王(パロ)は死に、次の王がエジプトを支配していました。
神さまはモーセに重ねて迫りました。「今、行きなさい。」と強調して迫っておられます。しかしモーセはなかなか素直に従いませんでした。
モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)
モーセは行きたくなくてごねています。そんな大きな仕事をしなければならないとは、私はいったい何者なのでしょうか、と断っています。しかし神さまはおっしゃいました。
神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」(出エジプト3:12)
「わたしがあなたを遣わすのだ」
モーセはこのおことばを聞いてはっとしたのでしょう。40年前、モーセは神さまに遣わされていなかったのに街へ出て行き、エジプト人を殺し、また翌日にはヘブル人同士が言い争っている中に仲裁に入り、そのヘブル人から認められませんでした。そこで仕方なくミデヤンの地に逃れ、40年という時を過ごしました。
しかし今回は、「わたしはあなたとともにいる。」「わたしがあなたを遣わすのだ。」とおっしゃっています。モーセが自分勝手にするのではなく、神さまがそのことをされるのだ、とおっしゃっています。
これは私たちにとって大切なことです。私たちは色々と計画を立てて実行しようとします。しかし私たちの計画・実行が神さまのみこころにかなっているかどうかということは、祈って決めていかなければなりません。神さまは、神さまのみこころにかなうことであれば、必ずそのことを成し遂げてくださいます。その力を私たちに与えてくださいます。もし私たちだけの計画であれば、神さまはそのように導かれることはありません。モーセが最初に失敗したように私たちも失敗します。
モーセには「わたしがあなたを遣わすのだ。」とおっしゃってくださっているのに、モーセはどうしたでしょうか。
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」(出エジプト3:13)
あなたのお名前をお聞かせください、そしてイスラエルの長老たちのところに行ってそう告げたいと思いますから、とモーセは言っています。モーセの重い腰が少しだけ動きました。
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」(出エジプト3:14)
モーセは神さまに神さまのお名前によってイスラエル人の長老のところに行って、民を導きたい。ですからあなたのお名前を教えてくださいとお願いしました。すると神さまは、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」とお答えになりました。
ヘブル語ですと「アサエル ハイヤー」、英語の聖書ですと「I am who I am」「I am that I am」と書かれています。このヘブル語は「わたしは存在していた、私は今存在している、わたしはこれからも存在し続けるであろう」という、どの意味にも時勢を超えた存在であることがのべられています。神さまの自在性、優越性、永遠性があらわされていると理解されています。
神さまはご自分だけで満ち足りることができる存在です。またあらゆるエジプトの神々をしのぐ完全無欠、唯一の存在です。さらに永遠に変わることなく、その年月は尽きることがありません。
これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(ヘブル1:11〜12)
その神さまが「あなたとともにいる。」「あなたとともにいて、あなたを遣わす。」とおっしゃっています。そしてモーセはエジプトに行く決断をします。
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる上思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。」(出エジプト3:15〜20)
これから学びますが、エジプトに下る10の災いのことを、主はここであらかじめおっしゃっています。
わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」(出エジプト3:21〜22)
ただエジプトを出るだけではなく、金銀を持って出ていくようにおっしゃっています。それがおよそ430年間にわたり奴隷生活をしていたイスラエル人への報酬であるということをエジプト人に言えば、エジプト人は喜んで金銀を差し出すだろうという、神さまのご配慮です。そしてそれらは、その後の40年の荒野の旅で用いられることとなります。
以上が3章です。そして4章に入ります。4章では2つのことを見てまいります。
2.杖としるし
モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」主はなおまた、彼に仰せられた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと彼の手はツァラトアに冒されて雪のようになった。また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」(出エジプト4:1〜9)
3つのしるしを与えると約束されています。それは、
- 蛇
- ツァラアト
- ナイルの川が血に変わる
神さまの力強い励ましがここでうかがえます。果たしてイスラエルの民は自分を信用して受け入れるかどうか、とモーセは未だに戸惑いをあらわします。そんなモーセに対して3つのしるしを与えました。
一つ目の「蛇」ですが、古代近東において知恵や豊穣、癒しのシンボルとして用いられていました。また、礼拝の対象でもありました。エジプトの力に打ち勝つにはこれらのしるしが必要であったということです。ツァラアトについてはレビ記などに記されていますのでご覧いただければと思います。そして3つめは、後に10の災いが出てきますが、その最初のしるしとして行われた「エジプト中の水が血に変わる」ということです。パロとエジプトの神々を討ち滅ぼす力が与えられたことの証拠です。そして10の災いの最後のことも先取りしておっしゃっています。
主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた上思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」(出エジプト4:21〜23)
続けて24節からは、少し理解に苦しむことが書かれています。
さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(出エジプト4:24〜26)
なぜ、神さまはモーセを殺そうとしたのでしょうか。これからイスラエルの民を導き上るために遣わされ、励ましのおことばまでかけられたモーセを、なぜ殺そうとしたのでしょうか。
モーセの妻チッポラは、火打ち石をとって息子のゲルショムの包皮を切り、モーセの両足につけました。難解な箇所ではありますが、多くの聖書学者たちの意見を見てみますと、神さまはイスラエルの民に「割礼を受けなければならない」と命じられました。モーセはこの割礼を、息子のゲルショムにしていませんでした。ミデヤンの地に住んでおり、妻もミデヤン人であったからかもしれません。そのことをモーセにお示しになったのだと思います。チッポラはその辺のことを分かっていました。ですから、チッポラが息子ゲルショムに割礼を施しました。そこで「血の花婿」と言ったのだと私は思います。聖書学者によっては意見が違うかと思います。
さて、主はアロンに仰せられた。「荒野に行ってモーセに会え。」彼は行って神の山でモーセに会い、口づけした。(出エジプト4:27)
ここでモーセの兄であるアロンが登場します。
モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。(出エジプト4:28〜31)
3.エジプトに帰るモーセ
モーセは前の経験があるので、エジプト人は自分を受け入れないだろうという怯えがありました。しかし神さまは、「わたしがあなたをエジプトに遣わすのだ。あなたはあなたの力に頼ってするのではない。」とおっしゃり、3つのしるしを加えました。なおも言い訳をするモーセに兄のアロンがいるではないかとおっしゃいました。アロンは言葉の人、アロンがあなたの代わりにスピーカーとなって民に色々と告げるであろう。そのように神さまはすべてを備えてくださいました。それでモーセはアロンを伴ってエジプトに帰ります。そしてエジプトの長老たちにすべてを告げると、思いの外、彼らはモーセを受け入れました。エジプトにおいてイスラエルの民はモーセを指導者として迎えました。
英語の文章の二番目をご覧ください。
We honor God’s name when we call Him our Father and live like His Son.
(私たちは、神さまを私たちの父と呼び、イエス様のように生きるとき、神さまの名をほめたたえる。)
私たちは、神さまが主であるということを良く分かっています。ところが、いざ神さまが私たちに何か使命をくださるとき、私たちはモーセのように色々と屁理屈を言い、なかなか素直に従おうとしません。しかし神さまは「わたしがあなたを遣わすのだ。行きなさい。」とおっしゃいます。さらに付け加えさせていただきますならば、「あなたは信仰をもって歩み出しなさい。」とおっしゃいます。現状を見ているだけではなく、信仰によって歩み出しなさい。そしてイエス様ののようにあなたは生活しなさい、ということです。私たちの多くは事情が分かっています。私たちは罪を犯してしまうことがあります。それは古い自分が死にきっていないからです。罪に死んでいるものは罪を犯さないと、パウロはローマ書6章でのべています。また、ガラテヤ書でも言われています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)
そのことも私たちは頭では分かっています。ところが現状はどうでしょうか。モーセのように屁理屈を言って拒んでいる姿があるのではないでしょうか。そこは私たちは、信仰をもって第一歩を歩み出さなければなりません。信仰をもって歩み出すとき、神さまはあらゆる必要を備え、力を与えてくださいます。それだからこそ、私たちはキリストのように生きることが出来るのです。ただ、神さまが主であるということを知っているだけではなく、神さまに忠実に生きることによって私たちは神さまが望んでおられるような私たちに成長していきます。
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)
天におられる神さまのみこころを行う者が、天の御国にはいるのです。私たちは十字架の事実を知っています。しかしその後、進んで行きません。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6:11)
パウロは自分は十字架で死んだのだから、これからは神さまに対して生きているのだと「思いなさい」と書いています。それが私たちの信仰の第一ステップです。神さまがモーセを導いてくださったように、私たちにそれぞれに使命をお与えになり、それを実行できる力を与えてくださいます。ただ私たちは信仰をもって歩み出さなければなりません。頭で理解しているだけではいけません。実際に一歩、また一歩と歩み出さなければならないということを、今日は是非おぼえておいていただきたいと思います。