2024年7月21日 主日礼拝「賢く再臨を待ち望む」

礼拝式順序

賛  美
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇121篇1〜8節
讃  美  讃美歌52「主のさかえに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌534「ほむべきかな」
聖書朗読  マタイの福音書25章1〜13節
説  教  「賢く再臨を待ち望む」
讃  美  讃美歌172「こころして待て」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書25章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書25章1〜13節

説教題

「賢く再臨を待ち望む」

今週の聖句

ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

マタイの福音書25章13節

説教「賢く再臨を待ち望む」

マタイの福音書25章1〜13節

皆さんは、待つことが得意でしょうか。恐らく大抵の方は待つこと、待たされることが苦手で嫌いだと思います。車を運転される方であるなら、赤信号で待たされることを腹立たしく思うことも多いのではないかと思います。特に急いでいる時などは本当にイライラします。私は何度か赤信号でどれくらい待たされるのか時間を計ってみてことがあります。体感的に数分間待たされているように感じていても、実際に時間を計ってみると、以外と数十秒なのだということが分かりました。私なりの統計によりますと、国道をまたぐ大きな交差点(九反の信号)では2分でしたが、しかし大きな交差点を除くほとんどの交差点での赤信号の待ち時間は40秒くらいでした。こんなわずかな時間さえも待てないのが現代人なのかなと思わされます。そのような現代人は、信号はやがて必ず青になるということを忘れてはいけません。

それにしても現代人は待つことが苦手です。なぜでしょうか。何か分からないことがあればポケットからスマホを取り出して検索すれば、簡単に答えがすぐに見つかる時代。その恩恵に与っている私たちは、もはや分からないことを時間をかけて自分で本や辞書を調べたり、誰かに聞いたり、もしかしたら分厚い聖書にじっくり向き合い、神からお答えを示していただくまで待つなどという時間は考えられなくなっているのではないでしょうか。先ほどの赤信号ではないですが、皆さんは最近、最長何分(実際は何秒かも?)イライラせずに聖書を読まれましたか。それは冗談として、「聖書は神から私たちへのラブレターである」と良く言われますが、昔は手紙を出して、その手紙に返事が来るのを待つことは当たり前でした。ところが今はどうでしょう。メールやDM、LINEなどで相手にメッセージを送れば、即座に返事が返ってくるのです。少しでも返事が遅くなろうものなら、未読スルーだの、既読スルーだのと相手を批判してしまうのです。自分は嫌われているのではないかと、変な心配までしてしまうのです。必要のない心配をして、自分で自分を苦しめ、あるいは相手を批判して、関係までも壊してしまうことさえあるのです。

さて、マタイの福音書は25章へと入ります。1節に「そこで」とありますが、これは24章から始まったイエス・キリストの再臨の時期に関する主題の続きであることを示しています。前回は「再臨は必ず来るのだ」ということ、そしてその再臨が「遅くなると考えてはいけない」ことを教えられたのに対し、今日のところでは、再臨が「早く来ると考えてはいけない」ことについて教えられています。

25章1節      そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。

当時のユダヤ人の結婚式は、おもに夜に始まりました。まず、花婿は花嫁を婚礼の行われる場所(大抵は花婿の家)に連れて来るための礼服を着て、頭には美しい冠をかぶり、友人たちと一緒に太鼓の音に合わせて歌を歌いながら花嫁の家に向かいました。この時、花婿が来る前に先触れの男の人が花嫁の家に行き、「そら、花婿が来られた。迎えに出なさい」と言うと、花婿を迎える役割を任された花嫁の友人(娘たち)がそろってともしびを手にして花婿を出迎えるのが常でした。CSの視覚教材等で、ともしびを手にした娘たちが、花婿一行を花嫁の家までの長い道のりを足もとを照らしながら案内をしているような情景が描かれているのを見た記憶があるのですが、どうやらこの場面では、花嫁の家の前で花婿を出迎えている光景が描かれているように思います。その方が花婿なるイエス・キリストの再臨を迎える光景のたとえに適っているように思います。また「ともしび」ですが、こちらもランプが描かれることが多いように思いますが、原語のとおりであるなら、これは「たいまつ」です。棒の先に布か何かを巻いて、油を浸して火をつけるものです。そして「娘」と訳された語は「乙女」であり、誰とも結婚していない娘たちのことです。読み込みすぎではないと思いますが、これはどの偶像とも結婚していない、どの偶像とも契約を結んでいない聖徒たち、つまり私たちキリスト者を指しているのでしょう。ですから今日の箇所は他でもない私たちクリスチャンが心して聞くべきところなのです。

以前にも学びましたが、あらかじめ招待客を祝宴に招待しておき、招待された客たちは祝宴の準備が整うまで普段の生活をしながら待ち、祝宴の準備が完全に整ったならば使いが出され、「準備が整いましたからおいでください」と改めて招待客を祝宴に招くというスタイルでした。ですから結婚式の準備に時間がかかると、夜遅くになってしまうことも間々あったようです。しかしその日には、予定の時間より遅くなることはあっても、必ず花婿は早嫁の家にやって来て、祝宴は開かれるのです。

どうやらイエス様が語られたこのたとえでは、結婚式の準備が怠けられていたのではなく、かえって念入りに落ち度なく行われたのでしょう。素晴らしい祝宴が用意されたのでしょう。それで予想していたよりも時間がかかったようで、花婿が花嫁を迎えに来た時間が真夜中になってしまったようです。

25章2節      そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

ここでは娘は10人とされており、10人の娘のうち、5人は愚かで、5人は賢かったと言われています。しかしこの数や比率に深い意味はありません。キリスト者のうち、ある者は賢い娘たちのようであり、ある者は愚かな娘たちのようだということです。

25章3節      愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25章4節      賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。

たいまつの他に、棒にくくりつけた布切れか何かを浸す油の容器があったようです。油なしのたいまつは火をつけてもすぐに消えてしまいますが、十分に油を染み込ませたたいまつは、15分くらいは燃えたのではないでしょうか。

「愚か」と訳された語。この語には「間抜け、怠け者でだらしない、緩慢、無礼である、気だるい、うんざりした、どんよりした、軽々しく落ち着きのない」という意味があります。愚かな娘たちは、花婿を待つことを軽く考えていたのでしょう。それほど歓迎する気持ちもなかったのかもしれません。あまり関心を寄せることもなく、楽しみにすることもなかった。気だるくて、うんざり、どんよりしていた。イライラして、落ち着かなくて。軽々しく他の愚かな娘たちと「遅いね、まったく何をやっているのだろう、信じられない」などと、花婿の悪口でも言っていたのかもしれません。この時の感情は、恐らく急にこの時に湧いて出ていたものだけではなかったはずです。以前から培われてきていたものが影響したのかもしれません。花婿(ユダヤでは婚約期間が1年あったので、皆花婿のことを知っていたでしょう)に対する感情や態度、また彼という人に対する信頼(信仰とも言える?)。迎えること、待つことに対する感情や態度。それがこの時の備えるというところに現れてしまったのでしょう。その気があれば、仲間内で色々相談して、助け合って、容器に油を用意することだってできたはずです。その気がなかったのですね。

それに対して賢い娘たち。「賢い」という語にも色々と意味があり、「分別がある、慎重、気の利いた、華々しい、考え深い、口重い、思慮深い、注意深くきめ細かい」というものがあります。賢いと言われる娘たちは、遅れている花婿の到着を待つ間中、慎重な行動を取り、たいまつの火が消えないように油を常に染み込ませ、無駄口を叩かず、色々と思い巡らし、「遅いね、どうしたのかしら。でもあの方だから必ず来るから待ちましょう。あなた油の残りは大丈夫?」などと気を利かせながら、言いながら、彼女たちは慎重に備えて花婿を待ち続けました。

備えておく。それだけのことなのかもしれませんが、備えておくことの中に、その人の、またそのことに対する態度や思い、関心の度合い、愛、期待、信仰などが如実に表れるものです。

25章5節      花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。

花婿は予想に反してなかなか来ませんでした。花婿の到着に時間がかかり、遅くなり、夜は次第に深まって行く中、娘たちは待ちくたびれてうとうとし出し、ついには眠りに落ちてしまいました。これは何を意味し、イエス様は何を私たちに教えておられるのでしょうか。

聖書の言う「眠り」というのは、肉体的な眠りのことだけではなく、霊的な眠りのことをも言うと前回も申しました。そして夜、闇。これも霊的な夜、闇をも指していると言えるでしょう。パウロも言いました。「あなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが、眠りから覚めるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は私たちの救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました」(ロマ1311-12)。

天の御国の祝宴の準備が念入りになされる中、イエス・キリストの再臨が遅れ、なかなか来られない。霊的な夜、闇。恐れ、不安、不信仰、悲しみ、苦しみなど。「期待が長引くと、心は病む」とは箴言13章12節のみことばです。その通り、私たちは例外なく全員が弱い者のゆえに、期待が長引くと心を病み、待ちくたびれて霊的な夜、闇を迎え、そして霊的にうとうとし出し、まどろみ、ついには寝入ってしまうのです。

しかし、注意して見たいところなのですが、イエス様はここで寝入ってしまったことを批判しているのではありません。なぜなら、愚かな娘たちだけでなく、賢い娘たちも「みな」眠くなり寝入ったからです。「安きにありて危うきを思う。思えばすなわち備えあり。備えあれば憂いなし」。普段(平時)から危ない所を知ると、そこを何とかしようと思うから、それにきちんと備えるので、何かあっても大丈夫だということを、イエス様は前回から続けて言われているのでしょう。

イエス様は、夜中になって夜が深まり、闇が深まり、「誰もが」寝入るだろう時間になると言われるのです。多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合う。不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。苦難の多い、苦難が続く霊的な夜、闇、それが今実際に起ころうとしている、起きている。

ですから、私たちも霊的に寝入ってしまうことが良くあるのではないでしょうか。信仰があるゆえの苦しみ、悩みの時。大切な人を失って悲しい時。祈りがなかなか聞かれずに心が病んでしまう時など。そのような時、イエス様はそのことを責めたり非難したりはされないでしょう。主は私たちのそのような弱さをすべてご存知で、慰め、励ましてくださるお方です。弱い私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださるほどに私たちを愛してくださるお方だからです。弱い私たちのために、毎日父なる神にとりなし祈ってくださるお方だからです。しかし、ご自分に対する信仰、信頼、期待だけは失って欲しくないと願われているでしょう。信仰を失ってしまいそうになるほどの苦難の日数を、私たちが信仰を完全に失ってしまうことのないように、主はあわれみによって短くしてくださるお方だからです。「もし日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」(2422)。待つことが苦手な私たち。赤信号の何十秒という待ち時間が永遠に感じてしまいイライラする私たち。しかし主にこれほどまでに愛されている私たち、主の愛と約束を信じる私たちは、そのような時でも落ち着いて、慎重に、思慮深く、イエス様に対する信仰、信頼、期待だけは何があっても失わないように、イエス様がやがて再び来られる。その時、私たちの救いが完成する。すべてが報われる。その信仰、信頼、期待、関心だけは失わないように気をつけるべきです。平時から備えておくべきです。

いよいよ、遅いなぁと待ちくたびれた花婿の到着です。普段からの備えの差が明らかになります。

25章6節      ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

「ところが」と、緊急事態を感じさせる語があります。夜中になって、皆が寝入ってしまったところに、先ぶれの男が到着し「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫びました。たいまつの火が消えていたとは記されていませんから、恐らく彼女たちがうとうとして寝入ってしまったのはわずか15分くらいだったのでしょう。そのわずかな間に花婿が到着しました。まさに「盗人のように来られる」のです。花婿はもう到着しているのです。来るのが遅くなった花婿が、いよいよ近くまで来たことを知らせてくれた人がいなかったということです。

25章8節      愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
25章9節      しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』

愚かな娘たちは、このいざという時に油がないこと、余分の油も用意していなかったことにようやく気付き、慌ててしまい、賢い娘たちにあなたたちの油を私たちに分けてくださいと頼みました。しかし油を用意していた賢い娘たちは「それはとんでもないことです。絶対に足りません」とそれを断ります。随分と薄情な娘たち。彼女たちは本当に賢いのだろうかと考えてしまいます。

このたとえの中にこれが存在するのは、誰も究極的には、別の人の準備に頼ることはできないということを、私たちに思い出させるためではないでしょうか。自分の過ちは自分が責任を負うべきで、いや負うしかなく、他の人にそれを負わせてはならないのです。天の御国が臨む時、それぞれが自分ひとりで神の御前に立つのですから。

「とんでもない。絶対に足りない。それより、早く店に行って自分の分の油を買ってください」。愚かな娘たちは店に行って自分の分を買ってくるしかありません。当時、祝いの時には夜中でも店をあけて必要なものを売ってくれたそうです。と言うことはなおのこと、愚かな娘たちはその気があれば前もっていつでも油は買い足せたということです。

しかし時すでに遅し。後の祭り、覆水盆に返らず。

25章10節    そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。

普通の場合、花婿の家に行って祝宴が始まるのですが、この場合は花嫁の家で祝宴が行われたようです。愚かな娘たちが油を買いに行っていた間に、花婿がやって来てしまいました。それはそうです。「花婿が来られた」と聞いてから、慌ててその場を離れ、油を買いに行ってしまったのですから。そして備えができていた娘たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入れましたが、愚かな娘たちは間に合わず、戸が閉じられてしまいました。

25章11節    その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

油を買って戻って来た愚かな娘たちは、ようやく花嫁の家に到着し「ご主人様、ご主人様、あけてください」とお願いしました。「ご主人様、ご主人様」と同情心に訴えて頼み願った様子がうかがえます。

25章12節    しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』

花婿はきっぱりと「私はあなたがたを知りません」と告げます。これはユダヤでのきっぱり断る時の言い方です。

イエス様は22章で「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」(2214)と語られました。もっと前の7章では「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(721)と語られました。「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした」(723-27)。イエス・キリストを救い主として信じる。それが私たちがまず据えるべき唯一の土台です。しかしイエス様が注意として言われることは、信じている、活動に加わっていると、信仰を口で言っているだけで、使徒信条を諳(そら)んじて何となく言うだけで、実は無関心な弟子ではいけないということです。心で信じて、真実に告白して、心から主に期待して、信頼して、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とをさばき給わん」との主の時を待つのです。たとえ霊的な眠りに落ちてしまったとしても、主に対する信仰の火は完全に消してはならないのです。火がくすぶっていたとしても、眠ることもなく、まどろむこともない主は、それが完全に消えないように守ってくださっています。

油を十分に備えていなかった愚かな娘たちは、花婿を迎える活動には加わっていました。しかし花婿を迎えることに対する関心や信頼、期待がない者たちでした。今、私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを再び迎えることに対する関心や信頼、信仰、期待はあるでしょうか。大きいでしょうか。そうであるならば、私たちは天の御国を完成させるために、救いを完成させるために再臨されるイエス・キリストを迎えようと、たとえ寝入っていたとしても、その日その時を逃さないように、今からそのためにできることをすべてするはずであり、十分な油を用意した賢い娘のように、備えられる時に備えなければなりません。

25章13節    ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

しかし重ねて申しますが、私たちは皆弱い者たち。わずかな時間でも永遠に感じ、待ちくたびれて、イライラして、霊的に眠ってしまうような者たち。イエス様はそのことはすべてご存知の上で、あなたがたは再臨の信仰、希望だけは失わないように。必ず天の御国、神の国は完成し、あなたがたの救いが完成する日、すべての労苦が報われる日が来る。今、その信仰、希望だけは失わないようにと励まされるのです。私たちにも身に覚えがありますね。学生時代、普段は勉強をしないでいて、いざ試験の日が近づいて来たら慌てて勉強する。そのようにではなく、いつでもその日を見据えて、いつでも大丈夫だというようにしておかなければなりません。それが賢く再臨を待ち望むことです。

イエス・キリストの十字架の死と復活、昇天、再臨、そして神の愛を心から信じ、心から期待する者は自ずと賢く備えるのです。賢いとは、分別がある、慎重、気の利いた、華々しい、考え深い、口重い、思慮深い、注意深くきめ細かいというものでした。反対の愚かとは何だったでしょうか。間抜け、怠け者でだらしない、緩慢、無礼である、気だるい、うんざりした、どんよりした、軽々しく落ち着きのないというものでした。

私たちは今朝、改めて聖霊に導かれ、イエス・キリストの再臨に対する私たちの思いや態度を顧みさせていただきたいと願います。そして、花婿なるイエス・キリストの到着を信じ、期待し、楽しみにし、いつでも喜んで迎える者、いつ来られても祝宴の中に入れていただける者とさせていただきたいと願います。夜が深まって来ている今、私たちは待ちくたびれて、うとうととし、眠り込んでしまっているでしょうか。そうであったとしても、主はそれを責めたりはなさいません。しかし今一度目を覚まし、自分に備えができているかどうか顧みる時間が与えられるように祈り求めたいと思います。主がご自分のいのちを捨ててまで愛してくださっている私たちのいのちが、その日その時になって決して失われてはならないと願われる主が、ご自身の再臨に対する私たちの信仰、信頼、期待を顧みるようにと願われておられます。私たちはイエス・キリストを喜んでお迎えするたいまつの火が、いざという時になったら消えてしまいそうになっていた、しかも油もなかったなどということがないように、普段から賢く備えてまいりましょう。

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