2025年2月16日 主日礼拝「御霊の恵み、御霊の力」
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇68編19〜20節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌183「主のみたまくだりまし」
聖書朗読 コリント人への手紙第一2章10〜16節
説 教 「御霊の恵み、御霊の力」
讃 美 讃美歌499「みたまよくだりて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一2章11節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一2章10~16節
説教題
「御霊の恵み、御霊の力」
今週の聖句
しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
コリント人への手紙第一2章12節
説教「御霊の恵み、御霊の力」
コリント人への手紙第一2章11節
- 私たちに信仰が与えられ、信仰を持ち続けていられるのはどうしてでしょうか?
- その理由を知ったなら、私たちはどのように生きて行くべきでしょうか?
はじめに
2025年が始まってあっという間に1月が終わり、2月に入ったかと思ったらもう半ば。皆さんの中には「今年こそは」と、年の初めに1年の目標を立てられ、そして強く決意した方もおられると思います。年の初めの目標、そして決意の最も代表的なものとして「聖書通読」があるのではないでしょうか。聖書通読を目標として掲げられた方がおられるならば、今ごろどうしているでしょうか。聖書通読というのは、クリスチャンが目標とする率第1位であると同時に、挫折してしまう率も第1位であるのかもしれません。聖書通読という目標を成し遂げることができる人というのはどのような方なのでしょう。よほど神のみことばを心から慕い求めている方、強靱な意志の持ち主、主からの特別な召命が与えられている人などでしょうか。聖書通読を目標として掲げるならまだしも、もはやその目標すら掲げることもしなくなっていたりして・・・。人間自身の(本来持ち合わせている)知恵とか力とは、なんと頼りないものかと思わされます。
ところで、私たちの「信仰」はどうでしょうか。「良し、今日から私は信じよう」と自前の知恵や力で決心した人は、今ごろどうしているでしょうか。およそ2000年前のイエス・キリストの十字架を信じる者は救われる。イエス・キリストが2000年前に、この私の罪のために十字架にかけられ、血を流され、死なれ、そしてよみがえられた。そのことを信じるならば、すべての罪が赦されて、永遠のいのちが与えられる。2000年前のイエス・キリストの十字架の効力は未だ継続中。この世的に考えるなら、愚かなこと、馬鹿げている、でたらめだと思えるこのような話しを、私たちはどうして信じよう、信じたいと思ったのでしょう。そしてどうして信じたのでしょう。信じられたのでしょう。信じて、今も信じ続けていられるのはなぜでしょうか。毎週日曜日ごとに「教会へ行こう、行きたい」と思わされ、わざわざ教会に出向き、こうして礼拝をささげ続けられるのはなぜでしょうか。それは恐らく、人間自身の(本来持ち合わせている)頼りない知恵とか力によるものではないでしょう。
「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ123)。イエス・キリストを受け入れた人々、受け入れ、信じたいと願う人々には、聖霊・御霊、神の霊が与えられるのです。霊というヘブル語、そしてギリシア語には他にどのような意味があったでしょう。息、風でしたね。聖霊・御霊とは神の霊、神の息、神の風です。自然界の風と同じで、それがいつ、どこで、どこから来て、どのように与えられたかは分かりません。けれども風が木々の葉を揺らすように、吹き付ける相手を動かす力があるのです。そのように、私たちの信仰は、神の恵みによって与えられたもの。そして聖書は、それはすべての人々に与えられたのではなく、制限的に私たち、つまり神を愛し、神に召された者たちにのみ与えられたものだと言うのです。だからこそ本当に恵みなのです。御霊の働きがなければイエス・キリストを信じることはできず、神を知ることもできません。私たちの信仰が未だ継続中なのは、私たちの知恵や力によるのではなく、神の恵み、私たちの内に住まわれる御霊の恵み、御霊の力によるのです。
パウロはこの手紙の中で、4節で初めて「御霊」に言及しました。そして今日の10節からも御霊について語ります。今日のところから御霊の恵みについて改めて学び、感謝をもってその力に心から頼る者とされたいと願います。
啓示された神の知恵
2章10節 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
「啓示」という難しい単語がありますが、これは人の知恵や力では分からないような神の真理を、神ご自身が人間に対してよく分かるようにあらわし示してくださることを言います。神はご自身の霊、御霊を通して私たちに「それ」を、つまり神の奥義、人には隠されている神の愛、神の知恵、イエス・キリストとイエス・キリストの十字架による救いの計画、約束を良く分かるようにあらわし示してくださいました。御霊は神ご自身の霊ですから、当然、神の深さだけではない、その広さ、長さ、高さ、すべてをご存知です。神の綿密に練られたご計画について、御心(みこころ)について100%正しく知っておられる方です。すべて説明できるお方。その御霊が私たちに注がれ、私たちの内に住んでいてくださっている。寝食を共にしてくださっている。寝ている時も、食べている時も、神はご自身の深い御心を私たちにあらわし示してくださっておられるのです。「ご覧なさい、これがわたし(神)の心ですよ」といつも指し示すように教えてくださり、そればかりでなく分かるように、信じることができるようにしてくださっているのです。私たちが神に心を開き、霊の耳、霊の目を開いていただき、上からの知恵、理解力、洞察力を祈り求め、そして与えられるならば、日常の中に溢れている出来事や、ハプニングであっても、また空の鳥や野の花を通しても、神の深み、神の心、お考え(御心)、綿密に練られたご計画がこの私にもあるのだと分かるのです。信じられるのです。信じて従えるのです。
「神は“私たちに”御霊によって啓示してくださいました」。私たち。どのような私たちですか。賢くない、知恵も力もない私たち。本来なら神の奥義(神が秘密にしておられること、知り尽くしがたい、極めがたいこと)を知る事などできない、許されていない者たち。真の神を知らない、知ろうともしない、神を無視し自分の欲望を追い求め、偶像礼拝に生きる私たち。そのような私たちのところに福音、みことばが宣べ伝えられました。イエス・キリストの十字架のメッセージが届けられました。それを私たちはいつ、どこで、どのようにして信じることができたのでしょうか。はっきりといつ、どこで、どのようにしてかは分からない。しかし風のように御霊が注がれ、御霊の力によって知ることができ、信じることができた。私たちの信仰はただ神の恵みによるのです。私たちの救いは、神が恵みとして与えてくださったもの。誇るのは自分自身ではなく、主です。
パウロは自分たちの知恵や力を誇り、それを他人との比較材料とし、互いに分かれて争っていたコリントの聖徒たちに向けてこのことを言うのです。
神と御霊の関係
2章11節 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
パウロは、神と御霊との密接な関係を、人間と人間の霊との関係と比較して説明しています。
この私の心、考え、計画。この私の悩み、悲しみ、苦しみ。この私の喜び、幸せ。他人には見えないこれらのものを、誰が100%分かってくれるでしょうか。神とこの私以外、誰も100%理解することなどできません。そこがもどかしいところではあるのですが。それと同じように、神のことは神の霊、御霊のほかには誰も100%知らないし、分からないのです。
パウロは10節の後半で、神が御霊を通してご自分を愛する者たちに神の知恵を啓示される理由として、「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」からだと説明しました。「神の深み」は、先ほども申しましたが、人間には計り知れない神の御心、お考えのこと。そしてその中には綿密に練られた私たちに対する救いのご計画が含まれます。また、私たちが直面する様々な苦難の中にある神の御心、お気持ちというのは、誰も100%理解することができないでしょう。わたしたちは苦難の中にある時、その中にさえも神の御心、お気持ち、真実の愛、あわれみ、救いのご計画がどれほど注がれているか分かりませんし、人間の知恵で考えても理解できない時があるので、それで神に文句を言ったり、神に背いて罪を犯してしまったりしてしまうのでしょう。しかし神はそのように頑なな私たちに対しても、変わらない真実の愛をもって臨んでくださっています。聖霊を通して深い愛を注がれ、御霊を通していつも声をかけ、いつも御手を差し伸べておられます。それは確かに、どこからともなく吹いて来る風のように、私たちを動かす見えない力となっているのです。私たちは風を肌で感じるように、神の愛を、神の力を肌で感じておられるのではないでしょうか。
そしてその霊、力は、この世の霊や力ではなく、神の子とする霊、力なのです。
私たちと御霊との関係
2章12節 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
この世の人々は神秘的なことに興味を抱き、占いや予言をしてそれが当たったという人の言うことを信じようとします。しかし、御霊の働きはそのようなものではありません。御霊は神の霊なので、過去・現在・未来のことすべてご存知です。だからといって、そのようなことで人を支配したり、恐れおののかせようとしたりはされません。過去・現在・未来のことをすべてご存知の上で、本当の支配(真実の愛による支えと配慮)をされるのです。そして御霊がなそうとしておられることは、罪人をさばくことではなく、罪人を滅ぼすことでもなく、罪人がキリストを信じて救われ、神の子とされ、神の支えと配慮の下で、神を愛し、永遠に幸せに生きて行くことができるようにすることです。
神の霊、御霊は神のすべてご存知です。私たちは御霊を通してのみ、見えない神の、見えない神の御心が分かるのです。ですから自分の知恵に頼らず、神に頼ることが大切です。それこそが私たちが恐れずに生き生きと生き続けられる秘訣です。それこそが永遠のいのちです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハ173)。神が私たちに恵みとして与えてくださったもの、イエス・キリストの十字架による救いは、人間的な知恵によっては理解できない神が隠された奥義であり、神の愛とあわれみであり、綿密に練られた救いのご計画であり、御霊は私たちにそれを教え、悟れるようにしてくださいます。日々私たちには様々な出来事が起こります。ですから日々御霊に満たされ、御霊によって教えていただくことが必要です。
2章13節 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。
「御霊に教えられたことば」とは、具体的は神の霊感によって書かれた聖書のみことばのことです。見えない神の、見えない心が、それらすべてを知っている神の霊によって文字にあらわされたもの。そこには神の「深み」がぎっしり記されている。パウロは神の深み、神の知恵であるイエス・キリストの十字架による救いを語るのに、神の霊によって書かれた聖書のみことばを用いて語る、説明するのだと言います。神の霊によって書かれた聖書のみことばによって、神の霊・神のお心を説明するのだと言います。
以前パウロは、ダマスコへ向かう途中でイエス・キリストと出会い、劇的な回心を経験した後、誰にも会わずにすぐに荒野へと行きました。荒野は神に出会う場所です。そこでパウロは何年もあまり人とは会わず、会ってもその人から教えられることはせず、御霊に導かれ、それまでの人生を振り返り、それまでの出来事一つ一つを聖書のみことばに重ねるようにして神の深さ、御心、綿密に練られた計画を悟らされるという経験をしました。そこで御霊に教えられたことに従ってコリントの聖徒を教えました。自分の知恵によっては教えなかったのです。自分の知恵や自分の知恵による言葉によって宣教した町では、あまり成果がなかったからでした。パウロは聖書のみことばを一字一句間違えずに用いようとはしなかったのではないでしょうか。パウロは手紙の中で自由に聖書のみことばを引用しているからです。パウロは聖書のみことばを一字一句間違えずに伝えるというのではなく、聖書のみことばを「正しく、曲げずに、真っ直ぐに、薄めずに」伝えるのです。私たちも教えられるところではないでしょうか。
神を知らない者、神に背く者、罪人がキリストを信じて救われ、神を愛し、神の支えと配慮の下に、永遠に幸せに生きて行くことができるようにする。そのために御霊は、聖書のみことばと共に働かれ、神の御霊、神の御心、人間に対する神の恵みを悟らせ、理解させようとされるのです。御霊がそうしてくださらなければ、イエス・キリストの十字架による救いを100%正しく知ることはできません。私たちは神秘的な体験のようなものに頼るのでは、そうそう神秘的な体験などできない平凡な日常生活の中で、いや、苦難に満ちている日常生活の中で、どうやって神を信じ、キリストを信じ従っていけるでしょうか。神秘的な体験ばかりを追い求めるならば、それはもはやこの世を支配し、真の神から私たちの目を逸らせようとするこの世の霊、悪霊の支配下にいることになってしまうでしょう。
御霊は穏やかな風のようです。私たちを生かす温かな神の息です。つまずいて転んで傷ついたわが子の膝小僧に、優しくフーッと息をかけられる親心。御霊はいつも変わらない神の愛によって心を満たし、神を常に喜びながら、感謝と平安をもって生きて行けるようにしてくださいます。そして、そのための力と知恵、導きを聖書のみことばから得られるように、みことばを理解して神のみこころを悟れるように助けてくださいます。
御霊に属することと肉に属する人
2章14節 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
「生まれながらの人間」。直訳すると「肉的な人」です。英語の訳では「自然的な人、御霊のない人」と翻訳されています。
私たちは生まれたままでは肉的な人、御霊を持たない人、霊的に死んでいる者です。神に聖霊を与えられ、神の息が吹き込まれて、温かな親心が注がれて初めて霊的に生かされ、そして神のこと、神の深み、神の御心、神が綿密に練られたご計画、イエス・キリストの十字架による救いのことが分かるようになるのです。
生まれながらの人間、肉的な人、御霊のない人が福音を受け入れない理由というのは、知識的に理解できないからではありません。知識は十分にあるのです。教科書にだって載っています。毎年クリスマスをお祝いしています。しかし福音は受け入れられない。愚かだ、馬鹿げている、でたらめだと考える。それは知識があっても、真理として捉えることができないからです。受け入れることができないからです。肉的にしか考えられず、受け入れられない、歓迎できない、ウェルカムと無条件で受け入れることができないからです。
では、私たちが今このようにして十字架の福音をウェルカムと受け入れていられるのはなぜでしょうか。信仰が与えられ、信仰をそれでも継続できているのはなぜでしょうか。神の恵みによって、神の選びによって、神の召しによって御霊が注がれているからに違いありません。御霊が注がれ、御霊を通して神の愛が十分すぎるほどに注がれているからに違いありません。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(Ⅰコリ118)。
キリストの心を持つ御霊を受けている人
2章15節 御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。
2章16節 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。
「御霊を受けている人」。聖書はその人は「預言者」だと言います。神秘的に未来の出来事をさもそれらしく語る予言者ではなく、預言者(神のことばを預かっている人)です。また「御霊を受けている人」、その人は「御霊の人」だと聖書は言います(Ⅰコリ1437)。その「御霊の人」というのは、もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげることができる人であると聖書は言います。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけている人だと言います(ガラ61)。そして、「御霊を受けている人」とは、「キリストの心を持っている人」であると。
キリストの心とは何でしょうか。当時の「心」は、現在の私たちのように感情を表すものではありませんでした。感情を支配する器官はむしろ内臓でした。しかし心(ハート)というのは、内面的ないのち全体を表すものです。私たちはキリストの心を持っている。キリストのいのち全体を持っているのです。
御霊は人間の感情のように不安定で波があるようなものではなく、いつも吹いている穏やかな風のようです。私たちを生かす神の息です。御霊はいつも変わらない神の愛によって心を満たし、神を常に喜びながら、感謝と平安をもって生きて行けるようにしてくださいます。御霊が与えられ、御霊が私たちの内に住まわれ、神の霊、キリストのいのち全体が与えられている。だからと行って、高慢になったり、好き勝手なことをしたりするような者となってはいけません。イエス様のように父なる神に依り頼み、謙遜の限りを尽くして神と隣人とに仕えて行くのです。
自分が教えられ、人を教える
パウロは今日のところで、救いに対する神の深い知恵は、人間の知識や知恵では知ることができず、ただ御霊を通してのみ知ることができると教えました。そしてそれは、神の主権的な恵み(選び、召し)によって与えられるものであると。それはつまり、イエス・キリストの十字架の福音が届けられ、それを信じ、信仰を持ち続けることができている私たちは、恵みによって神に選ばれ、召されており、確実に救われている幸いな者たちであるということです。
誇るものは主を誇りなさい。パウロは、恵みによって与えられた御霊によって、御霊の恵みによって神の知恵を知るようになったコリントの聖徒が、肉的で世的なことに従って党派を作り争い合っていたことをここでも叱責しています。そして神の恵みに感謝して、神の恵みに依り頼んで生きて行くようにと勧めます。御霊によって日々教えられ、御霊によって日々導かれるようにと勧めます。
御霊は私たちを真に生かす力です。御霊は神が喜ばれ、神が望まれる生き方を私たちができるようにしてくださるお方です。そして御霊は、私たちが福音、イエス・キリストの十字架を悟れるようにするだけではなく、それを人々に教え、伝える力も与えてくださるお方です。イエス様はあらかじめ弟子たちに、もし捕らえられることがあっても、何を語るべきか心配しなくても良いと語られました。なぜなら、その時には語るべきことを御霊が教えてくださるからであると。御霊がそうしてくださるのですから、私たちが御霊に依り頼みさえするならば、どこにいてもキリストの証人として生きて行くことができます。そして御霊が教えてくださる語るべきことというのは、主が語られたことばです。御霊は主が語られたこと以外は与えられません。そうでなかったら、それは人間の知恵によって出た愚かなことばとなってしまうでしょう。人間の限りある知恵から出た言葉や知恵では、神の知恵を説明するのには役不足です。神の恵みによって与えられたことは、御霊に教えられたことばによってのみ伝えることができるし、伝わるのです。私たちは常に御霊に満たされ、御霊の力によってみことばを悟り、そしてそれを正しく伝え、教え、福音を宣べ伝えてまいりましょう。御霊の満たしを祈り求めましょう。御霊の助けを祈り求めましょう。神はその祈りに答えて、御霊でみたしてくださいます。一人一人が御霊に満たされ、そして教会全体が御霊に満たされて、素晴らしい神の栄光を、それぞれが置かれいているところであらわしてまいりましょう。