2025年3月16日 主日礼拝「私に倣う者となってください」
賛 美 「この道はひとつ」
「歌いつつ歩まん」他
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇32篇8〜11節
讃 美 讃美歌11「あめつちにまさる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌121「馬槽のなかに」
聖書朗読 コリント人への手紙第一4章9〜21節
説 教 「私に倣う者となってください」
讃 美 讃美歌336「主イエスよ、十字架を」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書14章6節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一4章9~21節
説教題
「私に倣う者となってください」
今週の聖句
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネの福音書14章6節
説教「私に倣う者となってください」
コリント人への手紙第一4章9〜21節
- 「道」というヘブル語、ギリシア語の持つ他の意味は何でしょうか。
- パウロが父の心をもって勧めた「福音にふさわしい生き方」とはどのような生き方でしょうか。
はじめに—「わたしが道であり…」
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハ146)。言わずもがな、代表的とも言える、イエス様が教えられた深い真理のみことばです。皆さんも暗唱され、日々の慰めとされているのではないでしょうか。
これもご存知のとおり、私の息子「道」という名は、このみことばから付けさせていただきました。名前のとおり、彼は自力で道を開き、脇目も振らず我が道を行く立派な男に成長してくれました。親の願いどおりです。・・・というのは全く逆です。
聖書の原語であるヘブル語で【道】とは、「踏みつける」という動詞の意味もあります。もしも踏みつけられた道のない、しかも目印となるものが何一つない砂漠のようなところで「まっすぐに歩け」と言われたら、自分はまっすぐに歩いているつもりでも、たいていの人は知らず知らずのうちに左へ旋回し、そのまま続けていると、結局同じところをぐるぐる回ることになってしまうのだそうです。私たちがまっすぐに歩き目的地に行けるのは、道のおかげだと言うことができると思います。人生においても同じことが言えるのではないでしょうか。殊に思いがけない悩み、悲しみの暗闇に放り出された時、何の目印も見当たらなければ、私たちは暗闇の中をぐるぐると彷徨ってしまうでしょう。ある人は言いました。「暗闇の中を出て行き、あなたの手を神の御手のみに委ねなさい。それこそが、自ら灯火を掲げて進むのにまさり、あなたが知っている道を行くのにまさる確かな道である」と。そしてイエス様は、あの十字架で人々に踏み付けられ、道となられ、私たち罪人を神のもとに行くことができるようにしてくださいました。イエス・キリストという道を通ってのみ、「あなたの罪を赦そう、あなたに恵みを施そう」と両腕を力いっぱい広げて待っておられる父なる神のもとに行くことができるのです。また、たとえ自らの罪ゆえに、悲しみの道、絶望の道、孤独の道を行く時があっても、決してひとりではない。なぜならその道は、痛みも、病も、悲しみをもご存知の主がともに行かれる道だからです。
「道」という名前は、最善を知り、愛をもって導かれる神の確かな道を、ひと足、ひと足祈りつつ歩んで欲しい。そんな願いを込めてつけたはずなのですが・・・。
そして「道」というギリシャ語には他に「生き方」という意味もあります。それを踏まえて、冒頭の「わたしが道であり、わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」という真理のみことばをお読みいただくとどうでしょうか。特に私たちイエス・キリストの十字架によって罪赦され、恵みによって神の子とされた者たちは、イエス・キリストの生き方に倣ってのみ、父なる神のみもとに到達することができるのでしょう。父なる神の愛をいっぱいに受け、神の独り子イエス・キリストとともに神の国を受け継ぐことができるのでしょう。それが神が定められた永遠不変の筋道、真理だからです。
さて、本朝もコリント人への手紙の講解を進めてまいります。
これまで見てきたとおり、コリントの教会は内部の争いのために苦しみ、辟易し、倒れそうになっていました。そして今日の箇所でパウロは、そのようなコリントの聖徒たちに、父のような心をもって、福音に与った者として、つまりイエス・キリストの十字架によって、恵みによって(受ける資格のない者であるにもかかわらず)神に愛され、赦され、選ばれ、召された者として、ふさわしい生き方をするように勧めています。
そこでパウロはまず、実際のコリントの聖徒の生き方と、パウロたち福音に仕える働き人(使徒)の生き方との違いを明らかにしつつ、コリントの聖徒たちの生き方の間違いを指摘します。間違いというのは、あなたがたの今の生き方は、神があなたがたに与えたいと心から願われている神の国に至る生き方ではないということです。
前回の最後、4章8節でパウロはこのように言いました。「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに」。コリントの聖徒たちの今の生き方をこのように示しつつ、それに続けての4章9節です。
コリントの聖徒とパウロとの対比
4章9節 私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。
「死罪に決まった者のように」とあります。これは当時ローマ時代の光景です。ローマ時代には、大きな戦争で勝利した将軍には栄誉が与えられました。その1つに、勝利を祝い、勝利の栄光を表現する豪華な凱旋行列がありました。凱旋行列の先頭には音楽を演奏し、歌を歌う楽士たちがいて、その後ろには神へのささげ物とされる動物と戦利品を乗せた馬車、そして戦いの場面や戦った相手の国と神殿の滅亡を描いた大きな車が続きました。さらにその後ろには、捕虜とされた王たちと王族たち、将軍たちとその家族が鉄の鎖に縛られ、しばしば裸にされて、屈辱と恥を受けながら引かれて行きました。彼らは皆、行列の行進の後には死刑にされました。「死罪に決まった者のように」とは、このような人のことを言っています。
次に「最後の出場者」とありますが、これはローマのコロセウム(=円形闘技場・コロシアムの語源となっている)で、ガチガチに剣や盾で武装した剣闘士や、ライオンなど野獣の前に裸同然の姿で放り込まれ、殺される囚人のことです。そしてそれは見せ物として行われていました。
パウロは自分たち働き人(使徒)は王様どころか、このように卑しめられている、軽蔑されている、取るに足りない者として見下げられていると言います。しかも全世界、全方位で見せ物とされている、さらし者にされていると。
そして注意して見てください。4章8節でパウロは「神は私たち使徒を・・・」と言っています。神の働き人がこのように卑しめられている原因は「神」であると言っているのです。神が全世界の人々に対し、神の働き人をこのような見せ物、さらし者とされる。これはどういうことかと言うと、「見本とする」ということでしょう。パウロは「神のせいだ」と神を責めてはいません。「これが神のみこころである」と言っているのです。
4章10節 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。
パウロはさらに言います。あなたがたはキリストにあって賢い者。強い者。尊ばれている者。しかし注意しなさい。自分を欺いてはいけない。自分は愚かな者、弱い者、卑しめられている者、取るに足りない者であることを本当は知りながら、賢い者、強い者、尊ばれている者のように振る舞ってはいけない。あなたがたは、あなたがたが愚かな者、弱い者、卑しめられている者と定めている者から福音を聞き、教えられ、養われ、今のあなたがたとなったのではないですか。確かに「成長させたのは神」だとあなたがたは言うでしょう(37)。しかし神は、愚かな者、弱い者、卑しめられている者を通してあなたがたをここまで導かれたのです。そうしてあなたがたは「キリストにあって」、「キリストを通して」賢い者、強い者、尊ばれている者とされているのです。それはあなたの知恵や力によるものではない。神の恵みであるのです。またあなたがたは、愚かな者、弱い者、卑しめられている者から愚かな十字架の福音を聞き、それをあなたがたはあなたがた自身の愚かさの中、弱さの中でへりくだって信じることができたのです。そうしてあなたがたは罪に対して死に、新しい永遠のいのちが与えられ、新しいいのちによって生まれ変わり、神の国に至る道、イエス・キリストの道、イエス・キリストに倣うあなたの生き方へと導かれた。そしてすでに歩み始めている。神はそれを賢い道、強い道、尊い道だと言われるのです。
パウロの状況
続けてパウロは、パウロはじめ、神によって使徒とされた者たちの「今に至るまで」そして「今現在」の実際の状況を述べて行きます。
4章11節 今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、
使徒の働きやパウロの書簡を見るならば、特に説明する必要はないでしょう。パウロはじめ使徒たちはこのように生きて来たし、生きていました。
パウロなどは、使徒として仕える中で様々な苦難を体験してきました。パウロ自身が証ししていることですが、死に直面することもたびたびありました。何度も牢にいれられました。ローマ人にむちで打たれたことが3度。石で打たれたことが1度。船で難破したことが3度。何度もキリストの十字架の福音を宣べ伝えるために旅を続け、川の難、盗賊の難、同胞のユダヤ人から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、偽兄弟による難。多くの難にあい、労し苦しみ、枕するところもなく、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物すらなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
何よりも耐えがたかったのは、恐らく肉体的な苦難というよりも、霊的な、精神的苦痛だったのではないでしょうか。11節に「ひどい扱いを受け」とありますが、このギリシャ語は、十字架につけられる直前にイエス・キリストに課せられた虐待を表す語と同じで、それは肉体的苦痛よりも精神的苦痛に注目させる語です。そしてパウロはじめ働き人の生き方は、イエス・キリストの生き方と同じ。働き人の道は、イエス・キリストの道でもあったのだということを、私たちはここに知るのではないでしょうか。
このような実際のパウロの姿、生き方は、コリントの聖徒の姿、生き方とは対照的でした。競技場で興奮しながら手を叩いたりヤジを飛ばしたりしながら見せ物を見物する者たちのようなコリントの聖徒。そしてその中で戦わされ死んで行くという見せ物にされている働き人。全く異なる立場にいました。どうしてこれほどの違いが生じてしまったのでしょうか。それは十字架にまで従われた、十字架につけられたキリスト・イエスに対する態度が、キリスト・イエスの生き方、キリスト・イエスの道に対する態度が、いつからか、その違いほど大きく異なってしまっていたからでしょう。
4章12節 労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
4章13節 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。
「労苦して自分の手で働いている」というのは、実際に過酷な仕事のことを言っています。ここで用いられている動詞は「くたくたになるくらいの労働」を指しています。そして当時のギリシア人は、肉体労働は奴隷にだけにふさわしいものと見なして軽蔑していました。このことを考えると、「あなたがたにののしられ」という事実はさらに重要になってくるように思います。
その「ののしられる」ですが、これも先ほどの「虐待」とともに、キリストに用いられるもう一つの語です。そして「耐え忍ぶ」。歯を食いしばって何とか耐えるのです。決して楽ではないのです。中傷される、ののしられ、悪態をつかれる。それでもその相手を祝福し、優しいことば、慰めのことば、労をねぎらうことばをかける。私たちが実際にそのようにする時、どう感じますか。自分の心が責めるのではないでしょうか。耐えきれない思いがこみ上げてくるのではないでしょうか。まるで自分がこの世の屑、かすになったかのような、惨めな思い、なんでこんなことをしなければならないのかと思い悩むことはないでしょうか。
それは親子の関係の中にも見られると思います。素直で従順で可愛かった子どもが、自我に目覚め、反抗期を迎え、思春期に入る頃には親に逆らい、親の生き方を見下し、我が道を行くどこかの息子のように「パパのようにはなりたくない」とまで罵られ、それでもわが子を突き放すこともできず、優しいことばをかけ、一生懸命わが子のために働いて・・・。まるで私の実感がこもったような話しですが。
皆さんにお祈りいただいている妻の父も、時には妻と喧嘩をし、時にはののしられ、それでも子のために70過ぎても一生懸命働き、得たものを妻に届けてくれる。私たちが40、50を過ぎても親にそのようにさせてしまうなど、本当に自分の愚かさ、弱さを思い知らされます。親の労苦は自分が親になってはじめて分かるというのも真理ですね。
それでも私たちがそのようにしなければ、そのように生きたいと願うのは、そして生きることができるのは、イエス・キリストを通して父なる神の愛、あわれみ、恵みをいただいていることを知っているからでしょう。神が原因なのです。
パウロの生き方は本当にイエス・キリストの生き方ではないでしょうか。そしてパウロは、それが神によるもの、神のみこころ、神が良しとされ、神が喜ばれる生き方であると述べるのです。私たちを苦しめることを神が喜ばれるのでしょうか。決してそうではありません。私たちがイエス・キリストという道を通って神のところに行くことが神のみこころ、神が本当に喜ばれる道なのです。なぜなら、「イエス・キリストが道であり、真理であり、いのちだから。イエス・キリストを通してでなければ、イエス・キリストという道をたどらなければ、イエス・キリストの生き方を生きるのでなければ、だれひとり神のみもとに行くことはない」からです。それが神の真理だからです。私たちは悩むでしょう。苦しむでしょう。私も悩みます。苦しみます。試みにあうのです。それならば、生きている間に何か良いことがあるのだろうかと。それならば、コリントの聖徒たちのように生きた方が楽だし、幸せだと思ってしまう。
しかしそうでしょうか。神のみもとに行くことは、決して死後の話しばかりではないのです。神の国は私たちが死んだ後の話ではないのです。今、ここも神の国。教会などは特にそうです。ここも神が支配されるところ、神が完全に支え配慮してくださるところ。永遠のいのちも私たちが死んだ後の話ではないのです。すでにイエス・キリストを信じ受け入れた時から、永遠のいのちがあたえられ、永遠のいのちによって生かされているのです。いのち、生きる。それは動物的ないのちや生きるだけではなく、霊的ないのち、活き活きと生きるいのちでもあります。そしてそれらは、私ひとりのものではありません。私ひとりの中に現れるものではありません。お互いがあり、共同体があり、そこに神の国が生まれ、そこに永遠のいのち、活き活きと生きるいのちが生まれるのです。だから教会が必要なのです。そうでなければ1人で自由に信仰生活を送った方が楽でしょう。しかし、コリントの教会のようにお互いがさばき合い、争いあっているところに、神の国は現れず、永遠のいのちもありません。ついには倒れ、滅びに至る道なのです。
コリントの教会に対するパウロの愛情
4章14節 私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。
ここでパウロの厳しさが優しさに取って代わります。
「諭す」とありますが、これはよく「戒める」と訳される語です。過ちを責める思いを表しているのですが、しかし、愛するゆえに非難するということが、「諭す」と訳されたことの意味でしょう。パウロはこれまで、結構痛烈なことばで語ってきましたが、それはコリントの教会の人々を辱めるためではなく、むしろ愛するわが子を諭すような、慈しみ深い父の心ゆえでした。パウロが厳しく彼らを諭したのは、挫折させるためではなく、成長させるため。倒れさせるためではなく、建て上げるためでした。
14章15節 たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
当時「養育係」というのは、年配の信頼できる奴隷でした。その家の子どもを毎日学校に連れて行ったり、行儀を教えてしつけたりする役目を果たしていました。たとえ1人の子どもに多くの養育係がいることがあっても、父親はひとりだけ。養育係の奴隷に、その子に対する愛があったとしても、父の真実の愛、何があっても変わることのない愛に勝るものではないであろう。福音を説き聞かせ、イエス・キリストにおいて彼らを生み、彼らをわが子のように愛し、真に心を配るのはパウロでした。パウロにとっても、自分が宣べ伝えた福音によってわが子を生み、労苦しながらも愛することができるということは、本当に幸いなことであったのではないでしょうか。パウロ自身にとっても、活き活きと生きることのできる道となったのではないでしょうか。私たちはパウロのような幸いに与っているでしょうか。「私の心から愛する霊のわが子、テモテよ」と、そのように言える人がおられるでしょうか。それはどなたでしょうか。
14章16節 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
パウロは凄いです。この世の父親で「私に倣う者となりなさい」と言える人はいるのでしょうか。「私の言う通りにしなさい」と言えても、「私を見ならいなさい」というのは極めて難しいと思わされます。
パウロは高慢になって言っているのではありません。パウロは言うのです。「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい」(111)と。パウロは別のところで「自分の身を打ちたたいてキリストに従わせている」とも言っていますが、パウロにとっても決して簡単なことではないということでしょう。
当時は福音者などが今のように1人1冊とか、スマホで一発検索などという時代ではありませんでしたから、キリストに倣うと言ったら、身近な者に倣うのは唯一の学習法でした。それは机の上でということもあったでしょうが、何よりもイエス様の弟子たちのように、師である人の「生き方」を通して学び取るものでした。ですからキリストに倣って忠実に生きているパウロを見習うのは、最も妥当な方法だったわけです。しかしこの時、パウロはエペソに滞在しており、すぐにはコリントの町に行くことができない何らかの事情があったようです。
4章17節 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
パウロはコリントの教会の諸々の問題、主に分争の解決のためにテモテを派遣しました。パウロがすでにコリント教会に教えておいたキリスト・イエスにあるパウロの生き方を、イエス・キリストの「道」を、テモテを通してもう一度教えるためにです。コリントのキリスト者は、それをもうすっかり忘れてしまっていたようです。
パウロの生き方の模範は、あくまでもキリスト・イエスでした。人々に踏まれ、道となられたイエス様の生き方でした。そしてその生き方は、父なる神のみもとに行くことができる、唯一の道だったのです。
4章18節 あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。
ここに出て来る「思い上がる」というギリシャ語の動詞は、実はコリント人への手紙に6回登場し、他にはコロサイ人への手紙で1回出て来るだけで、新約聖書のどこにも出てこないものです。この動詞がコリントのキリスト者の場合に特別よく当てはまる動詞であるということです。
彼らは自信たっぷりに「パウロなんてコリントに戻って来ることはないだろう」と断言してはばかりませんでした。肉の父親に対して、思春期の子が馬鹿にするような態度。パウロがあえて知恵のある自分たちと面と向かう勇気はないだろうと言っていたのでしょう。パウロをことばの知恵によって言い負かす自身があったのかもしれません。もちろん、そのような彼らの思い込みは間違いでした。
4章19節 しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。
パウロは「主のみこころであれば」と、いつもの条件付きで「すぐにも」行くつもりであると言います。パウロは全く自由に、自分の思いによって行動するのではないのです。自分の思いだけによるならば、恐らくパウロでさえも肉の思いがあり、敵対心、復讐心もあったでしょう。それでは決して神が喜ばれる良い結果は得られないのです。主はこの時点で、コリントへの訪問をパウロに赦してはおられませんでした。パウロはそれを承知していました。
パウロは自分に反対する者たちに言います。やはり父の心をもって諭すのです。「思い上がっているあなたたち。口は上手であっても、力を見せることはできるでしょうか。口が上手であろうがそれは問題ではない。神に従っているか、イエス・キリストに従っているか、その道に歩んでいるかどうかを見せてみなさい」と。
神のみことばは、私たち人に何をすべきかを告げるだけではありません。神はみことばに聞き従う者には、それを実行する力をも与えてくださるのです。みことばを聞くだけで実行しない人は、実のところ、神を信頼していないのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われる、主のみことばに信頼し、従っていないのです。
教会の仲間割れに対する最後の勧め
4章20節 神の国は、ことばではなく力にあるのです。
神の国は、コリントのキリスト者たちが誇っていた雄弁さや学問とか教理とか理論とか、そういった世の知恵にあるのではなく、神のみことばの実践という神の力の現れにあるのです。パウロは、神の国がコリントの聖徒の生き方に真に現れることを期待しているのです。
4章21節 あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。
コリントの聖徒たちが「あなたはむちを持って来い、厳しく懲らしめるつもりで来て見ろ」と、高慢を捨てずにパウロに立ち向かおうとするのか。それとも「愛をもって柔和な心で来てください」と悔い改めるのか。果たしてコリントの聖徒たちの選択はどちらだったのでしょう。これほどまでに自分たちに対する父なる神の愛、恵みが語られ、パウロを通してのキリスト・イエスの道、生き方が示され、パウロの父のような愛に触れた彼らが、一体どのような選択をすることができたのでしょうか。そして私たちもどのような選択をするでしょうか。選択は私たちに任されているのです。どちらの道を行くのか、どちらの生き方を選ぶのか。永遠のいのち、神の国に至る生き方を選ぶのか。それとも永遠の滅びに至る道を選ぶのか。
パウロは心から願うのです。「私に倣う者となってください」。私の生き方、それはつまりイエス・キリストの生き方に倣う者となってくださいということ。人々に踏まれ、道となられたイエス・キリストの道を行きなさい。それが福音にふさわしい生き方。それが唯一確実に父なる神のみもとに行くことができる道であると。そして父なる神のみもとに行き、神の国、神の完全な支えと配慮の中に生き、日々生かされていることを知り、神が溢れんばかりに注がれる神の愛を思いっ切り受け、救われた喜びと感謝をもって、神に信頼し、みことばに信頼し、実践し、永遠に続く今日からの毎日を、永遠に活き活きと生きなさいと、パウロは心から願っているのです。神はパウロとコリントの教会を通して私たちに願っておられるのです。