2025年3月30日 主日礼拝「世にさばかれてはなりません」
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇4篇5〜8節
讃 美 讃美歌15「我らのみかみは」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌140「いのちのいのちに」
聖書朗読 コリント人への手紙第一6章1~11節
説 教 「世にさばかれてはなりません」
讃 美 讃美歌291「主にまかせよ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ペテロの手紙第一2章9節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一6章1~11節
説教題
「世にさばかれてはなりません」
今週の聖句
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
ペテロの手紙第一2章9節
説教「世にさばかれてはなりません」
コリント人への手紙第一6章1~11節
- 教会が世にさばかれてはならない理由は何でしょうか。
- パウロが「正しくない人たち」の前での聖徒間の訴訟を批判した理由が3つあります。それは何でしょうか。
はじめに—人に相談される?相談する?
皆さんは、誰かから何かトラブルを相談されたことがあるでしょうか。殺人や窃盗など犯罪に関わる刑事事件は、まず警察です。「この前、金庫ごと盗まれちゃったんだよね」と相談されたら、「何やってるの、早く警察に行きなよ」ということになるでしょう。一方、刑事事件ではない民事事件であれば、弁護士に相談し裁判をするということになるのでしょうが、実は民事事件というのは、私たちの身の回りに数え切れないほどあります。民事事件とは、人と人とのトラブルのことです。「人間のほとんどすべての問題、また悩み、苦しみなどは、すべて人間関係から来る」とも言われますが、本当にそうだと思います。そのような問題、悩み、苦しみなどを誰かに相談されたことはあるでしょうか。恐らくあるでしょう。それが皆さんが「クリスチャンだから」という理由で相談相手に選ばれたのだとしたら、とても素晴らしいことです。その時、どのようなアドバイスをされましたか。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民(くにたみ)、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ29)。
私たちは、神に選ばれ、神の愛とあわれみが注がれ、イエス・キリストの十字架の恵みによって罪の暗闇から救われ、驚くべき光の中に召され、神のものとされた幸いな者たちです。そのような私たちが、世では王である祭司とされています。王というのは世の最高支配者です。権威をもって治める者です。そしてその支配というのは、罪によってその性質が変化してしまっていない真の支配、罪の汚れが完全に取り除かれた支配、つまり愛とあわれみによる完全な「支えと配慮」であるべきでしょう。また祭司というのは、まず自らを聖め、そして「主の前に立って、仕える者」、つまり神と人との間に立つ仲介者を意味します。また「仕える者」というのは、神とともに歩み、神と1つとなるためにいつでも神の御前にいる人のことです。多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされている人のことです。そうすることによって、主を知り、主と1つとなり、主がその人を通して現されるようになる。祭司の務めとして、民に神と神の律法を教えたり、礼拝をささげたり、民のために執り成しの祈りをするなどの働きがありますが、真実を知っておられる主に訪ね求め、裁きつかさとして助言や判決を下すこと、これもまた祭司の務めの1つです。そのような祭司として召されている者として、私たちは私たちに人間関係による悩みや苦しみを相談された人に、どのような言葉をかけられたでしょうか。もしかしたら、その人と一緒になって相手の悪口を言うことに終始していたなんてこともあったかもしれません。それは同情とか思いやりではありません。私たちが経験するであろうすべての悩みや苦しみを経験された私たちの主、大祭司であるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。同情できるお方です。真の思いやりをお持ちの方です。そのイエス様は、私たちと一緒になって相手の文句を言われるでしょうか。
また、皆さんは何かの問題、そのほとんどが人間関係から来る悩みや苦しみを、誰かに相談されることもあるでしょう。それがもし、教会の中で起こった民事事件(人と人とのトラブル)であり、それを相談する相手が教会外の誰かであるとしたら。それも文句ばかりであったなら、聞かされる未信者の相手はどう思うでしょうか。「やぱりね。教会もこの世とまったく変わらないな」などと思われてしまっては大変です。教会に何の幸いも魅力も見出せない、神の恵みが証されていないようでは大変です。私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった主の栄誉を告げ知らせるどころではなくなってしまうのではないでしょうか。そのような教会に、誰が救いを求めて行こうと思うでしょう。
実はコリントの教会ではこのようなことが起こっていたのです。コリントの教会の中では、多くの民事事件(人と人とのトラブル)があり、さらには民事訴訟が世の法廷に持ち込まれていました。今日の6章で扱われているコリント教会内での民事訴訟は、財産や金銭に関するものです。そして当時は世のそういった財産関連の裁判では当然のように不正が行われていました。ですからパウロは、「どうしてあなたがたは、不正が行われることを承知していながら、世にさばきを求めるのか」と言うのです。なので今日のパウロの勧めを今の時代に、また事件の内容を問わず、すべての状況に適用すべきだと解釈するには無理があると言わざるを得ませんが、それでも私たちに何かしら考えさせ、教え示すことがあるのです。
世の法廷に訴えるのか
6章1節 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
まずパウロは、教会の中に争いがある場合、その解決方法として世の法廷に訴えてはならないと言います。パウロは世の法廷で裁判を受けることを、「正しくない人たちに」訴えることだと言っています。世の法廷で裁く人は神を知らない者たちです。先ほども言いましたが、当時のローマの植民地では、殺人とか盗みとかの刑事事件はローマの法廷で比較的公正に処理されましたが、民事事件(人と人とのトラブル、金銭にかかわるトラブル、結婚や離婚に関するトラブルなど)は、それが加害者であれ、被害者であれ、男性であるとか、社会的地位が高い人や裕福な人に有利に行われる傾向がありました。正しく裁かれない、不正が行われるなどということは、もう当たり前、世の常識でした。そしてパウロがこの時扱っているコリント教会内のトラブルは財産や金銭に関するものでした。コリントの教会にも様々な社会的地位の人々がいました。自分よりも立場の弱い兄弟姉妹を、自分に有利に処理しようと、世の法廷に訴えた人もいたのです。世に対して神の恵みを証するのではなく、恵みとは遠くかけ離れた教会の醜い姿を晒(さら)してしまっていたのです。
金銭関係のトラブルに関してですと、イエス様のこのようなたとえを思い起こします。マタイの福音書18章23節からのところです。ここでイエス様は天の御国(神の国)をこのようにたとえています。
【マタイの福音書18章23〜35節】
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは事の成り行きも見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
すでにマタイの福音書で学びましたが、ここでの1万タラントという「返しきれないほどの負債」とは、私たちの罪をたとえたものです。1タラントは土日を除いた約23年分の賃金に値します。1日8時間、時給1,000円で換算するならば約5,000万円。その1万倍の5,000億円、23万年分働かなければ返せないというのですから、返しきれないのは当然です。そして「主君」というのはもちろん神。「清算」というのは、終わりの時、すべての人が神の御前に立たされさばきを受ける場面を想定しているものです。私たちは一生をかけても償えない5,000億円にたとえられるほどの多くの罪を、苦しみの中で神にあわれみを求め、赦して欲しいと神に懇願し、神はそのような私たちを憐れんでくださり、ただご自身のひとり子イエス・キリストを信じるならば、イエス・キリストの十字架による身代わりの死、イエス・キリストの流された血、イエス・キリストのいのちをもってすべての罪を帳消しにしよう、赦そうではないかと約束してくださり、そして私たちはただイエス・キリストを信じ、赦された者たちです。赦されるはずのないこの私が赦されたという、信じられないほどの恵みをいただいた者たちです。それなのに、自分に対して100デナリ(100日分の賃金に相当、約8万円)という罪を犯す者は徹底的に赦さない。5,000億円の罪が赦された私が、わずか8万円というこの私に対する罪を赦さず、徹底的に叩きのめすならばどうなるのか。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言われてしまう。そして神は怒って、永遠の獄吏に引き渡される。そしてイエス様は言われるのです。「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」と。
神の一方的なあわれみ、恵みをいただいている者たちの群れである教会は、この世に対して神の恵みを証するのです。赦されるはずのない私が赦された。愛される資格のない私が愛されているという神の恵みを証するのです。常に主を見上げ、主とともに歩み、多くの時間を主とともに過ごすことで、主の恵み、喜びに満たされている。そうすることによって、ますます主を知り、主と1つとなって行く。そのような私たちであるならば、自然と神の恵みをこの世に証して行くことになるでしょう。しかし教会が教会の主を見上げず、主を忘れ、主の恵みを忘れ、互いにさばき合って歩んで行くならば、恵みと遠くかけ離れた教会の醜い姿を晒すことになってしまうのです。
聖徒間の訴訟(争い、さばき合い)を許さない理由
続く2節からは、教会の兄弟姉妹の間での訴訟(争い、さばき合い)を許さない理由が述べられます。
6章2節 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6章3節 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。
6章4節 それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。
6章5節 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。
6章6節 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
パウロが正しくない人たちの前で、つまりこの世の法廷で兄弟姉妹を訴えていることを批判した理由は3つあります。
1つは、「聖徒が世界をさばく者だから」です。「さばく」というのは、裁判において審判する、判断する、決定するということです。私たちはやがてイエス様が再び世に来られる主の日、世の終わりの日、神の国が完成される時には、世をさばかなければならないのです。世を審判し、善悪を判断し、判決を下さなければならない。イエス様とともに世をさばかなければならない。もしそのさばきの席で、兄弟姉妹とでさえ争う姿勢のままで臨み、世に有罪判決を下すならば、イエス様は私たちの方に振り向いて、「わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言われてしまうでしょう。ですから私たちは、世をさばくことと比べるなら、ごく小さな身の回りの事件、小さな世の争いを扱うことに常に長けていなければなりません。長けているというのはどういう意味でしょうか。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものと“された”民として、していただいた者としてさばくことに長けていなければならないのです。冒頭の言葉を繰り返しますが、私たちは、神に選ばれ、神の愛とあわれみが注がれ、イエス・キリストの十字架の恵みによって罪の暗闇から救われ、驚くべき光の中に召され、神のものとされた幸いな者たちです。そのような私たちが、世では王である祭司とされています。王というのは世の最高支配者です。権威をもって治める者です。そしてその支配というのは、罪によってその性質が変化してしまっていない真の支配、罪の汚れが完全に取り除かれた支配、つまり愛とあわれみによる完全な「支えと配慮」です。また祭司というのは、まず自らを聖め、そして「主の前に立って、仕える者」、つまり神と人との間に立つ仲介者です。また「仕える者」というのは、神とともに歩み、神と1つとなるためにいつでも神の御前にいる人のことです。多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされている人のことです。そうすることによって、主を知り、主と1つとなり、主がその人を通して現されるようになる。祭司の務めとして、民に神と神の律法を教えたり、礼拝をささげたり、民のために執り成しの祈りをするなどの働きがありますが、真実を知っておられる主に訪ね求め、裁きつかさとして助言や判決を下すこと、これもまた祭司の務めの1つです。私たちは常日頃からこういった務めを果たし、その務めに長けた者となっていかなければなりません。
2つ目に「後に神が世界をさばかれる時には、聖徒を基準にされるから」です。2節の「あなたがたに【よって】」というのは、尺度を意味しています。その日が来たら、神が私たちを基準にして世をさばかれる。私たちも私たち自身を基準にして世をさばくことになるのです。責任重大です。これもまた、イエス様が急に来られた時に、私たちが互いにさばき合っていたとしたらどうでしょう。それを尺度として神が世をさばかれ、私たちも神とともにさばくことになってしまったら、一体どうなってしまうのでしょうか。ですから、その時になって神に正しく世をさばいていただけるように、常日頃から正しい尺度を身に着けていなければならないでしょう。その正しい尺度(ものさし、ルール、判断や評価の基準とするもの)というのは何でしょうか。それは神が私たちに与えられた律法でしょう。その律法とは何でしょうか。イエス様は言われました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この2つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(マタ2237−40)と。
さらに3つ目に、「聖徒に兄弟間の争いをさばく知恵がないことは、恥ずかしいことだから」です。コリントの聖徒は自分たちには知恵があると考えていましたが、実は教会内の些細な争いも正しい神の知恵によって正しく取り扱うことができていなかったのです。教会の中のまだ信仰の成長途上にいる人を取り込んで、言いくるめて、自分に有利な解決に持って行こうとする悪知恵がありました。それでも自分に有利な解決が得られなければ、世の法廷に、信者でない人に訴える。神と他人を顧みないその醜い姿はこの世と何一つ変わることなく、かえって世から馬鹿にされていた。「まったくあの人たちは神だの、キリストだの、愛だの、恵みだの言っているけれども、実のところは醜く争いあっていて、愚かだなぁ」と噂されていた。パウロの耳にもあちらこちらから聞こえていた。それは本当に恥ずかしいことではないでしょうか。
信者でない人たちの前での兄弟間の訴訟
6章7節 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
6章8節 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
パウロは「兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でする」ことは間違いだと批判しています。それは世で言うところの「敗北」であると。
たとえば、教会の兄弟姉妹の犯した罪というのは、神に対する罪と言うよりも、自分に対する罪でしょう。自分の判断基準による不満でしょう。その罪に対する批判を教会外の信者でない人たちの前でする。それは惨めな敗北なのです。世に対する惨めな敗北であり、また神に対する敗北でもあります。
では、勝利するためにはどうすべきなのでしょうか。パウロは7節で結構挑発的な勧めを与えています。「むしろ不正な行いを甘んじて受けなさい。むしろだまし取られるままでいなさい」と。これはパウロが兄弟姉妹の悪の一切に目をつぶることを勧めているのではありません。
イエス様は言われました。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」と(マタ539−40)。これはつまり「愛をもって互いに赦し合いなさい」ということです。何度も赦し合いなさいということです。先ほどのマタイの福音書18章の1万タラントの負債のある者のたとえでは、赦し合うことがいかに難しいことであり、それには祈りと、神からこの私に注がれた愛とあわれみ、恵みを思い起こすことが必要であるということをも教えているところでした。それはいくら全能の神であっても、人の罪を赦すことは決して容易いことではないということをも教えているのではないでしょうか。しかし私たちは赦されているのです。
以前のあなたがたは、そして今のあなたがたは
兄弟姉妹の悪の一切に目をつぶるのではない。なぜならパウロは5章で、教会が聖であるために、罪を犯した聖徒に対しては正しく対処するように勧めたばかりです。しかしそれは、罪を犯した者を真の悔い改めへと導く、愛のむちであることを言っていたのです。あなたがたは互いに赦し合い、愛し合い、真の愛をもって悔い改めへと導いてあげるのだと。また悔い改めへと導かれなさいと。その点について、パウロはこの後、このような勧めを与えています。
6章9節 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6章10節 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
6章11節 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
パウロは問うのです。以前のあなたがたはどのような者であったかと。そして今のあなたがたは、どのような者にされているでしょうかと。
以前の私たちはどのような者だったでしょうか。この世の欲を満たすために、悩みや問題の解決のために、この世の知恵に従って向かって行ったのはどこでしたか。ものを言えない偶像のところでした。偶像というのは、真の神以外の人間が作り出した空しい偶像のことであり、また真の神よりも大切にする何かです。以前は愚かで、真の神を知らず、神に不従順で、神に逆らい、神に背を向け迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、誘われるままに引かれて行ったのは、ものを言えない偶像のところでした。私たちは自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行うことによって、自分の思い通りの人生を歩もうと努力することによって、色々な悩みや苦しみを解決しようとしたのかもしれません。しかしその結果、悩みや苦しみは何の解決も得られず、人間のほとんどの問題は人間関係によるものですから、当然人を憎み、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。そのような闇の中で道に迷い、同じところをグルグルと巡り、疲れ果てて死にそうに倒れていた私たちが、ほんのわずかにでも心から神を求め、神の救いを求め始めた瞬間に、神はこの時を待ってましたとばかりに御手を伸べ、救いへの道、永遠のいのちへの道、イエス・キリストを私たちに示し、導いてくださいました。神の救いの御手は、ある人には1枚のチラシだったでしょう。ある人には1つのクリスチャンファミリーの礼拝を守る生活でした。ある人には友人の誘いであり、ある人には友人の突然の死であり、ある人には歌や偉人の言葉、ある自己啓発本に記されていた詩篇の1節。ある人にはテモテのように幼い頃から聖書に親しむことのできる環境の中での気付き。神はその人にふさわしい時に、ふさわしい方法をもって召し、そして暗闇と死から救い出してくださいました。かつては知らず知らずのうちに、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら神の御怒りを受けるべき子らであった私たちを、神は怒るどころかずっとあわれんでご覧になってくださっていた。今か今かと待っていてくださっていた。そして神の時に、あの時に聖霊を注いでくださり、罪によって冷え切っていた私たちの心に何か温かなものを注ぎ、大きく息をつかせてくださり、罪を責め立てるのではなく、同情や思いやりをもって労苦を労ってくださり、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださって、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。私たちに神の子どもという身分を与えてくださいました。
これほどまでの愛、これほどまでのあわれみ、これほどまでの同情や思いやり、これほどまでの負債免除、これほどまでの赦し、これほどまでの恵みをいただいている私たちは何ものなのでしょうか。
私たちは何ものか
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ29)。
私たちは世の終わりに向かってどのように生きて行くのか。どのような私たちの姿を世に証していくのか。
王である祭司として、心から神を信じ、神の恵みに信頼し、この世を正しく支えと配慮をもって治め、祭司として神とともに歩み、神の御前にいて、多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされ、ますます主を知り、主と1つとなり、主が私たちを通して現されるようになる。世の人々に神と神の律法(全身全霊で神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛すること)を教え、口で教え、生き方を通して教える。礼拝をささげ、世の人々を愛し、赦し、世の人々のために執り成しをする。真実を知っておられる主に訪ね求め、裁きつかさとして神のみこころにかなった助言や判決を下し、世の人々を悔い改めへと導き、イエス・キリストの御前にお連れし、世の人々が罪から解放され、真の幸いの道に歩むことができるようにする。
私たち教会は、永遠の王であり大祭司であるイエス・キリストを信じて従い続け、世での王である祭司としての務めを果たして行く者とされたいと願います。また、大祭司であるイエス・キリストを信じて従い続け、教会という信仰の共同体としてこれからも主の栄光を世に現し、日々、世に対する敗北ではなく、素晴らしく、喜ばしい勝利をおさめ、それを証してまいりましょう。