2025年5月25日 主日礼拝「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」

賛  美  新聖歌434「語り告げばや」
      新聖歌437「行きて告げよ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇134篇1〜3節
讃  美  讃美歌84「かみにたより」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌90「ここもかみの」
聖書朗読  コリント人への手紙第一 8章1〜13節
説  教  「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」
讃  美  讃美歌339「君なるイエスよ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 8章1節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一 8章1~13節

説教題

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」

今週の聖句

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

コリント人への手紙第一 8章1節

説教「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」

コリント人への手紙第一8章1〜13節

  • 神への愛と兄弟愛は、何を知ることによって生まれるでしょうか。
  • 知識(教理)と愛、どちらが必要だと思いますか。それはなぜですか。

1、次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
2、自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
3、しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
4、さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
5、というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
6、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。
7、しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。
8、しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。
9、ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
10、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
11、つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
12、あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
13、ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

はじめに—

たまにクリスチャンの方から、神社仏閣を巡るのが趣味だと言われるのを聞くことがあります。日本の文化遺産として親しむとか、建物の建築の技術や美しさを愛でるとか、雰囲気で心が安らぐだとか、御朱印を集めるのが面白いからと言われた方もおられました。色々とその理由を聞くのですが、それを聞いて「良い趣味だ」と言われる方もおられれば、「けしからん」と思われる方もおられ、人それぞれ、様々だと思います。しかし賛否両論であっても、両者に共通していることは、「偶像の神という神はこの世に存在しない。神は唯一、天と地のすべてを創られた神がおられるだけなのだから」なのではないでしょうか。同じ理由で、日常の慌ただしさから離れて、ブラッと善光寺あたりに行って、善光寺の境内にあるスタバか何かで一息つこうとか、仲見世通りに並ぶ美味しそうなお店を食べ歩きでもしたいなんてこともあるのではないでしょうか。実はそれは私の願望なのですが、なかなか実現できていません。

神社仏閣を巡り、文化遺産に親しみ、心安らわせること。善光寺あたりを散歩してスタバで一息ついたり食べ歩きをしたりすること。それはその人に認められた権利であり自由です。しかし注意しなければならないのは、それらを他のクリスチャンも当然自分と同じように考えているだろうとか、自分と同じ信仰のレベルなのだと決めつけてはならないということです。思ったり感じたりすることは人それぞれなのだということです。もしも一緒に行きましょうとお誘いしたその人が、それまで深く偶像と関わってこられ、そこから救われた方で、同じイエス・キリストを信じる信仰があっても、偶像と関わることにはもっと敏感で、行くことに対して恐れたり、どこか負い目を感じてしまうような人であったらどうしましょう。誘ってくれたその人の手前、あるいは自分の信仰を批判されることを恐れて、はっきりと「私は良くないと思う。行きたくない」とは言えずに、お付き合いで行くことになってしまったら。たとえお誘いした動機が相手を思って、相手を元気づけるためであったとしても、それは本当にその人を励ますもの、その人を建て上げるものとなるでしょうか。

クリスチャンならそんなこと気にすることない。だって唯一の神以外、神などいないのだから。偶像の神なんてものはいないのだから。そんなの常識ではないか。そう思える人は「信仰の強い人」です。そしてそれは正論かもしれません。しかし皆が皆、信仰の強い人ではないし、「信仰の弱い人」もいるのです。正論が必ずしも皆にとって正論とは限らないのです。つまりすべてを自己中心に捉えるのではなく、もっと相手の信仰や思いに関心を持って、慎重に行きましょうということです。

パウロはコリントの教会に対してばかりでなく、ローマの教会などに手紙を送り、その中で「信仰の強い者と弱い者」という問題を扱っています。そして互いにさばき合うことなく、キリスト者が一致を保って生きることを教えています。そして今日の箇所では、さばき合うことをやめるだけでなく、信仰の強いとされる者が、信仰の弱いとされる者の前に妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように固く決心することを求めています。しかし忘れてはならないことは、「お互いに」ということ。ある人はある面において信仰の強い人であり、ある面においては信仰の弱い人です。皆そうなのです。ですから互いに相手に関心を持ち、相手の心に関わって、愛し合い、互いにうわべだけを見てさばき合うことをやめ、互いにつまずきになるものを置かないようにしましょうということです。

前提

8章1節        次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

今日の箇所も7章に続いて、コリントの聖徒からの質問状に対する回答となります。

コリントをはじめとする当時のギリシャの町々には、色々な神々の神殿がありました。そして町の公の行事や、個人の家の冠婚葬祭などは、それらの神殿の祭りの儀式として行われていました。ですから社会生活の中で、偶像の神殿での会食に招かれることが多かったのです。今の私たちとあまり変わらないですね。その町の行事や、個人の家の冠婚葬祭などの会食では、祭りの儀式の中で偶像にいけにえとして献げられた肉を食べました。そればかりではありません。異邦の神殿で偶像に供えられた大量の肉は、一部は献げた人に戻され、一部は祭司に与えられ、残りは町中の店で売られていました。ですからコリントの聖徒たちが普段買って食べる肉は、ほとんどが神殿で偶像に供えられた肉だったのです。それでコリントの聖徒のある人たちは、その肉が偶像の神にいけにえとして献げられたものだから、汚れた食物なのではないかと疑い、もしそうなら、それを食べてしまえば自分たちも偶像礼拝をしたことになるのではないかと悩み、パウロに質問していたのでした。

私は彼らの気持ちが良く分かります。私は結婚する前に実家暮らしをしていましたが、私の実家は偶像に溢れ、偶像への供えものに溢れていました。お客様から頂いたお菓子とか饅頭は、すべて一度偶像に供えられ、そのお下がりを食べていました。やがて私がイエス・キリストを信じ、救われて間もない頃、はじめは供えものは食べないと決めていましたが、やがて偶像という神などいないという知識を得て、偶像に供えられたお菓子や饅頭を食べるようになりました。最初は自ら進んで食べることはしませんでしたし、食べることに全く抵抗がなかったと言えば嘘になります。次第に私の信仰も強くなり、あまり抵抗なく食べるようになりました。私のお客さんにも私から「どうぞ」と食べるように勧めたほどです。

コリントの教会の聖徒の中には、自分には知識があると誇る人たちがいました。彼らはなんの躊躇もなく、はばかることなく偶像に献げられた食べ物を自由に食べていました。そのような彼らには、彼らに与えられたいわゆる「キリスト者の自由」を誇る標語があったようです。「私たちはみな知識をもっている」と。その知識というのは、「偶像というものは本来存在しない神であるから、そのような神にささげられた肉であったとしても、一向に食べて差し支えない」という知識でした。

ここでパウロはおもむろに「知識と愛」について語ります。パウロは彼らが持っている知識、主張している知識を「その通りだ」と認めつつも、それに制限を設けるのです。「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」と。

正しい知識がある人が、その自分の知識に基づいて行うことであっても、その行いによって誰かがつまずいてしまうことがあるのです。偶像にささげられた肉を単なる肉として考えることができないキリスト者もいたのです。あの人が食べるから自分も食べてしまったけれども、そのことで何か悪いことをしてしまったという自己嫌悪、良心の呵責を覚えるキリスト者もいたのです。そして彼らはそこで信仰的につまずいてしまったのです。

時に「信仰の強い人」の知識は、それが正しければ正しいほど、その人を高慢にしてしまいます。他人を思いやることができなくなってしまうことがある。それが「信仰の弱い人」をつまずかせることになってしまうことがある。自分の正しい知識に基づく行動、それは決して間違ってはいないけれども、もしかしたら思わぬかたちで人に害を及ぼす間違った行いになり得ることを覚えて、常に慎重になりなさいとパウロは教えるのです。

知識は人を高ぶらせる。この「高ぶらせる」というのは、「大きく膨らませる」という意味の語です。知識はその人を大きく膨らませる。それは決して悪いことではないかもしれない。いわゆる「成長」ですから。しかし知識によって大きく膨らんだその人は、やがて自分にも他人にも害を及ぼすことになるかもしれないのです。

しかし愛は人を育てる。愛は良い意味で大きく膨らませるのです。自分も他人も育てるのです。「育てる」と訳されているギリシャ語は、「建て上げる、構築する」という意味を持ちます。それは人格や信仰を正しく立派に形成するという比喩的表現です。他には「励ます、勇気づける」という意味もあります。人を高ぶらせ、膨らませ、人に害を与えてしまうかもしれない知識よりも、自分を、他人を育てる、成長させる、正しく立派に建て上げる愛が重要である。その愛をもって、一旦知識、正論を置いておいて、愛を優先すべき時がある。

その愛を最優先する姿勢は、父なるまことの神と御子キリストの内に見られるものです。神であるイエス・キリストは、神の御姿、御位を捨てて、へりくだられて人となられ、人の弱さをすべて経験されたゆえにすべてご存知で、権威をもって罪を厳しく裁かれることだけをするのではなく、時に愛を優先し、信仰の弱い人に寄り添い、そしてその人を励まし、勇気づけ、癒やし、そして真の信仰を建て上げられたのです。

知るべきほどのことをまだ知らないのです

8章2節        自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

パウロは言います。「あなたは知識としては偶像に献げられた肉は何ら人を汚すことはないということを知っているでしょう。したがって、その知識に基づけば、偶像に献げられた肉でも自由に食べることができます。しかし、自分がそのような知識をもって行動していると思っているなら、あなたはまだ本当に大切なこと、本当に知るべきことを何も分かっていないのです」。本当に大切で、私たちが知るべきほどのこととは何でしょうか。あなたも私も一部分しか分かっていないと言われることは何でしょか。私たちが主に「教えてください」と求めるべきほどのこととは何でしょうか。

8章3節        しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

もし今、あなたが神を愛しているのならば、あなたは神に知られているということですよ。この「知られている」というのは、神に深く愛されているということです。人は弱いもので、愛してくれる相手を愛する者です。本来は自分を愛してくれない人は愛せない、残念な生き物です。なので、今もし私が神を愛しているならば、神が先に私を深く愛してくださった、愛して下さっていることを知るのです。

また「知られている」という語の中には、「学ばされている、気づかされている、確かめさせられている」という意味も含まれています。もしあなたが知識を愛し求めるそのもう一方で、神を愛し、神を求めるならば、あなたは神によって学ばされる、気づかされる、確かめさせられる。それは、ただ神の恵みによってあなたは愛されているのだということです。愛される資格のないこの私が、これほどまでに神に愛されている。赦されるはずのないこの私が、これほどまでに神に赦されている。神を愛する、神を求める、神を知ろうとすればするほど、それを知るようになるのです。

そしてこの私にこれほどまでに注がれる神の恵み、神の愛、神の赦しが、兄弟姉妹や隣人に対する真の愛を生むのです。その愛が人をへりくだらせ、そして人を育てるのです。自分も他人も建て上げるのです。

もちろんパウロは、知識を否定して愛することだけを勧めているのではありません。知識(教理、教え)ばかりがあって愛がない教会はどうなのでしょう。反対に、愛ばかりがあって教理がない教会はどうなのでしょう。自分を建て上げ、他人を建て上げ、教会を建て上げるためには、知識と愛と両方とも必要なのです。ただ、あなたがたの知識を、愛をもって慎重に用いなさい。神に与えられているあなたがたの権利、神に認められているあなたがたの自由を、愛をもって慎重に用いなさいということです。

神に対する認識

続けてパウロは、自分と手紙の読者であるコリントの聖徒たち、ひいては私たちがすでに共有している神についての知識について、改めて整理をします。

8章4節        さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
8章5節        というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
8章6節        私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。

まず、この世には多くの神々と多くの主があると世の人々は言っているけれども、偶像の神という神は実際には存在しないということ。日本の神話でも、主と呼ばれる神はたくさんいます。町中にも石や木、人間や動物などが神として祭られ、そのような神々が溢れています。使徒の働きでも、古代ギリシャのアテネの町でパウロはこう言っています。「道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」(使1724-25

私たちの神に対する知識。それは聖書のはじめ創世記1章1節で語られる神、聖書のおわり黙示録22章21節で語られる主。聖書のはじめからおわりまでを貫いて啓示される、この神、主だけが唯一であるということです。

そしてパウロがここで「唯一の神、唯一の主」と「唯一」を強調しているように、コリントの町のみならず、世の多くの偶像の神々と、父なる神と子なる主イエス・キリストは、完全に異なるものです。似ている点、共通点など実は一つもないのです。私たちを創られた神と、私たちが造った神というように、むしろまったく逆の存在です。山、巨大な石、大木、人間や動物を、人間が勝手に神だと決めつけただけ。だから実際には存在しない神々に献げられた肉を食べるということに対しては、何も問題ないのです。

しかし偶像の神という神は実際に存在しないけれども、「神々と呼ばれるもの」は存在するのです。偶像が存在しないことは、偶像崇拝を無害化しないのです。偶像崇拝ははっきりと害悪です。その背後に人を永遠の滅びへと巧みに誘う悪霊の存在が認められているからです。神はその害悪から、私たちを永遠の滅びから何としても守りたいと、それほどまでに私たちを愛するからこそ、真の神以外の神々、人間が造りだした神々を拝むことを禁じるのです。それを害悪だとして、罪と数えて、その罪から遠ざかりなさい、罪を犯してはならないと、聖書のはじめから終わりに至るまで一貫して教えられるのです。もし神を愛するなら、真の神を探し求めるなら、そのような神、そのような神の愛、そのような恵みを知らされることでしょう。見いだすことでしょう。

問題の原因

8章7節        しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

偶像の神は存在しない。だから偶像に献げられた肉を食べても何ら問題はない。しかし、すべての人にこの知識があるわけではない。信仰の強さがあるわけではない。コリントの教会で、神を信じてはいても、それまで生きて来た環境や習慣、あるいは感覚(物事のとらえ方、感じ方)のせいで、時には他の神々が絶対に存在しないという確信が揺るがされることがありました。今の私たちには感覚が鈍っているので分からなくなっているのかもしれませんが、救われて間もない方などは、それまで生きて来た偶像礼拝の環境や習慣、あるいは感覚のせいで、時には他の神々が絶対に存在しないという確信が揺るがされることがあるのです。私にもありました。しかしそれを責めてはならないのです。

ある人は弱さの中で救いを求めて偶像を求めていたのでしょう。そしてやがてまことの神を知り、救われました。まことの神を知るまでは知ることのなかった罪。その罪を知れば知るほどに、その罪の悲惨さを知れば知るほどに、神ご自身の御子イエス・キリストを人間に与え、イエス・キリストを十字架にかけてまでその罪を赦してくださった神を愛することになるのです。多く赦された者は、より多く神を愛するものなのです。それで罪に対して敏感になり、良心を痛め、本当にこれで良いのかと真剣に考えて悩むのです。それだけ神に愛されていることを知り、神を愛しているからです。神のために何ができるだろうか、どのようにしてお仕えできるかといつも考えているからです。信仰の弱い人は、信仰の強い人でもあるのです。信仰の弱い方から教えられることも多いのです。

そして、信仰の弱い人は、偶像に献げられた肉であることを知りながら食べることが、偶像礼拝の罪を犯すことにつながると真剣に考えて、本当に神に感謝し、神を愛するがゆえに心と良心に葛藤を感じ、罪の意識に悩まされていたのです。もし、そのような人たちの葛藤や不安がまったく誰からもケアされることがなく、顧みられず、普通に食べるように勧められ、勧める人の手前はっきりと「NO!」とは言えず、良心が責められ苦しめられ続けるならば、どうなってしまうでしょうか。彼らの良心は弱くなり、汚されてしまうとパウロは警告します。

「汚される」というギリシャ語は、特に土壌において汚染することを意味するギリシャ語です。心の土壌が汚染されてしまう。そして汚染された土壌からは何が生じて、どのような実を結ぶでしょうか。あるいは、汚染された土壌に蒔かれたみことばの種は、芽を出すことさえできないでしょう。イエス様も言われました。心が耕され良い土に蒔かれた種が芽を出し、成長し、豊かな実を結ぶのだと。その人を建て上げるのだと。

この心の土壌が汚染されることについて、パウロはローマ人への手紙でこのように言っています。「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(ロマ1423)。つまり、自分の知識を、それが正しいものであっても無理矢理に人に押しつけるならば、意図せず相手に罪を犯させてしまうことになるということです。相手を建て上げるどころではないのです。

ある先生の証です。クリスチャンホームでの集会で、集会が終わってから饅頭が出ました。甘党の先生は「先生、とても美味しい饅頭があるのです。ぜひどうぞ」と言ってくれたので食べようとしてその饅頭を見ると、なんと「○○神社」と焼き印が押されていました。その先生はその時、何を思ったでしょうか。饅頭を食べたでしょうか、食べなかったでしょうか。先生は「何と無神経な!」と思ったそうです。しかし勧めてくださった家庭集会の主催者である方を気遣って、はっきりと「NO!」とは言えず、饅頭は食べたそうです。ただし、何か悪いことをしている感じで食べたのだそうです。饅頭自体は決して汚れているわけではないけれども、食べたことで敗北感を感じたそうです。そして一緒に集会に集っていた方々も、その先生が食べたから、食べてしまったから自分たちも食べよう、食べなければみたいな雰囲気になってしまったそうです。「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(ロマ1423)。善意であっても饅頭を振る舞った方の責任は重大です。愛の配慮が必要でした。

食物に対する権利と自己制限

8章8節        しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。
8章9節        ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
8章10節      知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
8章11節      つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
8章12節      あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
8章13節      ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

私たちは何を食べても良いのです。食べ物が信仰を持てるようにはしてくれないので、食べないからと言って損になることも、食べるからと言って得をすることもありません。食物が信仰を評価する基準になることもないので、食べ物を食べるかよりも、兄弟姉妹に対して関心を持つことの方が重要です。もし私たちが、私たち自身の持つ知識、正論を容赦なく相手に押しつけ、兄弟姉妹がつまずいてしまい、良心が傷つき、心の土壌が汚されてしまい、きちんと建て上げられずに知らず知らずのうちに滅びへと進んで行ってしまうことになるならば、私たちはキリストに対して罪を犯すことになります。なぜなら、その人のためにもキリストは十字架につけられ、死んでくださったからです。相手に対して関心を持ち、つまりそれは愛するということ。相手を愛し、大切にし、相手をつまずかせて罪を犯させないためならば、自分の権利と自由を行使することも控えるべきです。食べても良いけれども、食べなくても良いのです。

食べる、食べないはその人の自由ということであったとしても、もし無遠慮にふるまうならば、弱い兄弟たちをつまずかせてしまうことになりかねない。とすれば、時として、自由は愛によって制限されるべきであるというのが、聖書が教えようとしていることです。つまり、ものごとは、正論だけでは通用しないことがあるということ。他の人を顧みるという愛の配慮が必要。正論、知識、主義を押し通すことは、ある意味において信仰的かもしれません。しかし愛は正論、知識、主義よりも大切なのだということです。

いずれにしても、次のみことばの通りです。「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」(ロマ1415)。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラ513)。

教会の中には様々な信仰のレベルの人々がいる中で、パウロはその知識をもって、お互いにより高いレベルの信仰に至るように励まします。そして、教会の中で知識が足りない人々に配慮し、彼らのレベルに合わせるべき時があることを教えます。パウロはコリントの教会で提起された問題について、弱い人々に「この知識をみなが持つように努力しなさい」と命令するのではなく、逆にすでに知識を持つ人々に、弱い兄弟に配慮して自分の自由の行使を控えるように勧めます。それを実践するためには、兄弟姉妹それぞれの立場を思いやる愛が必要です。その愛はどこから出るのか。神からでしょう。そして神に愛され、神に愛されている自分という知識ではないでしょうか。私たちはこの知識にこそ注目し、追い求めるべきなのではないでしょうか。

重ねて言いますが、自分の自由の行使によって人の益を求めるというパウロの教えは、イエス・キリストが罪人に与えられた愛に基づいています。キリストは、罪人(私)を救うためにご自分の自由と権利を放棄し、自ら低くなって、十字架の苦難と死を受けられました(ピリ26-8)。このキリストの愛が、パウロのこの教えの原理です。キリストがなされたように愛によって行うことこそ、キリストの言われた新しい戒めです。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1334)。自ら知恵と知識があると高ぶっていると、自己中心になってはばかることなく行動してしまいがちです。そして、寛容さを失い、配慮をせずに、人を傷つけてしまうこともあります。私たちは「お互いに」、みことばから教えを受け、人に配慮するという愛を実践したいと願います。

また、私たちへの主からの使命は大きく分けて2つあるのですが、それは「福音を宣べ伝えること」、そして「キリストのからだである教会を建て上げること」です。キリストに倣い、まことの知識に基づく愛の行いによって、キリストの救いを証してまいりましょう。そしてまことの知識によってお互いを建て上げ、そして教会を建て上げて行きましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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