2025年6月1日 主日礼拝「神が人に与えられた自由と権利の使い方」

礼拝式順序

賛  美 
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇122篇6〜9節
讃  美  讃美歌1「神のちからを」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌158「あめには御使」
聖書朗読  コリント人への手紙第一 9章1〜12節
説  教  「神が人に与えられた自由と権利の使い方」
讃  美  讃美歌350「わが主よ、神よ」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌206「主のきよきつくえより」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 9章12b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一 9章1〜12節

説教題

「神が人に与えられた自由と権利の使い方」

今週の聖句

むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

コリント人への手紙第一 9章12b節

説教「神が人に与えられた自由と権利の使い方」

コリント人への手紙第一 9章1〜12節

  • 自由と権利を求めるにあたり、私たちが見失ってはならないものとは何でしょうか。
  • 私たちは恵みによってキリストの使徒とされた者として、与えられている自由と権利を何で覆うべきでしょうか。

1、私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
2、たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。
3、私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
4、私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。
5、私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6、あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。
7、はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。
8、私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。
9、モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
10、私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。
11、私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
12、ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

はじめに—自由になりたくないかい?

前回パウロは、偶像に供えた肉の問題について語りましたが、それはつまり私たちに与えられている自由と権利の使い方の問題でした。この自由と権利についてパウロが述べていることに耳を傾けていると、私の頭の中にある歌の歌詞響いて来るのです。それは「自由になりたくないかい!?」と叫ぶ、こんな歌詞です。

「自由になりたくないかい 熱くなりたくはないかい

 自由になりたくないかい 思うように生きたくはないかい

 自由っていったいなんだい どうすりゃ自由になるかい

 自由っていったいなんだい 君は思うように生きているかい」

歌というのは人の心の発露だと言われています。これは歌の歌詞になっていますが、世に満ちているすべての人の思いなのではないでしょうか。あるいはまた、この世に満ちている、人の心に常に問いかけてくる誰かから(エペソ人への手紙では「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」(エペ612)と言っている者)の声でしょう。思えば昔から、時代を超えて、世の人々は自分たちの自由と権利を主張して叫び続けているようです。

私が中学生の頃、一人のアーティストがデビューしました。先ほどの歌詞はその彼の作品です。彼は私よりも4歳くらい年上で同世代。16歳の頃から曲を作り始め、17歳でレコードデビューしました。そして彼は同世代の若者の主張を代弁して世に発してくれるような存在で、中学生だった私を含め、多くの若者が彼の鮮烈な歌のメッセージに「そうだ、そうだ」と共感していたものです。彼のほとんどのメッセージの内容の中心にあるのは「自由と権利」に対する熱い主張だったように思います。大人とか世のルールに束縛されることを嫌うもの。そして同時に、今になって彼の多くの歌を聴き直すと、実は切ないほどに、時には激しく、時には静かに、真実の愛と真実の慰めを、魂の飢え渇きをもって求めるメッセージに溢れていることが分かるのです。私を含めた世の若者たちは、自由と権利を主張する彼の歌に熱く共感して叫び、そして同時に、深い所で真実の愛と慰めを求めるメッセージに共感して涙を流したりして。そんな彼でしたが、1992年に26歳という若さで悲しくて残念な最後を迎えました。どこまでも自由を求め続け、そしてどこまでも真実の愛を求め続け、叫び続け、それでも解決が見出せず、迷い、悩み、苦しみの中での最後だったようです。これもまた、神を知らない世の多くの人々が経験してしまうことなのかもしれないと思うと、神を知らされ、神に救われた私たちはどう思うでしょうか。

神の愛を見失った、自由と権利を求める主張

この自由と権利を求める主張というのは、アダムとエバの時からあったようです。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。神である主は東の方のエデンに園を設け、そこでご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた」(創27-9)。「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創216-17)。

ローマ人への手紙の中でパウロは、ここで未知のものがこの世界に忍び込んで来て、初めて「罪」という名前が付けられ、それがウイルスの感染拡大のように世にはびこってしまったと言っています。このそれまで未知であり、「罪」と名付けられたものとはいったい何でしょうか。それは「自由と権利に対する誘惑」とも言えるでしょう。何でも食べて良いのだ、あなたには権利があるはずだ、自由があるというささやき。そして神から、神の愛から目をそらせ、人を死(霊的な死、永遠の滅び)に至らしめようとするもの。聖書は罪のことを、神に背くことだと言います。神に背を向けて自分勝手な道に出て行くことだと言うのです。そこに誘う声。

ここで昔からある疑問があります。それは「そもそも、なぜ神は食べてはならない木、食べたら死んでしまうというような危険な木を、人の目の前に置かれたのか」問題です。なぜだと思われますか。

それは「鳥かごの扉を開けておくようなもの」です。鳥を鳥かごに無理矢理に閉じ込めておくのではなく、鳥かごの扉を開けておいて、鳥がいつでもそこから出て行くことができるようにしておいてあげること。同じように神は人をご自分のご支配のもとに置かれますが、それは決してそこに無理矢理に閉じ込めておくのではなく、いつでも出て行くことができるように、逃げることができるようにしておられるのです。神は創造の初めから人に自由と権利を与えておられるのです。そして同時に、そこに神の愛をあらわしておられるのです。神は人を愛し、信頼し、神が人に与えられた自由と権利をもって自由に神を愛すること、自由にご自分のご支配、神の支えと配慮、神の愛のもとにとどまることを期待しておられるのです。決して誘惑などしているのではありません。人を心から愛しているのです。初めて「罪」と名付けられたものは、この神の愛を見失わせ、自分のためだけの自由と権利を求めさせ、ついには神の愛から離れさせてしまう。霊的な死をもたらし、永遠の滅びに至らしめようとする。神との関係を破壊し、人との関係をも悪くしてしまう。アダムとエバは罪を相手のせいにしてしまった。その影響がその後の人生の中で彼らの関係に全く悪影響を及ぼさなかったのだろうかと考えると、それはないだろうなと思うのです。人類最初の殺人事件が起こったこと然り。彼らは神が彼らに与えられた何をしても良いという自由と権利の知識によって高ぶり、神の愛に甘え、軽く見て、神の愛と完全なご支配の領域から出ていくことになってしまい、また死に行く者となってしまいました。これは私たちと無関係ではありません。大いに関係があります。

聖書は私たちに問いかける

パウロは私たちに問うているようです。「自由になりたくはないですか。自由っていったい何でしょうか。どうすれば自由になるでしょうか。あなたは今、本当に自由に生きていますか。本当に自分の思い通りに、幸いに生きられていますか」と。

パウロは今日からの9章で、人に与えられている自由と権利の本当に正しい用い方について教えて行きます。私たちが本当に幸いに、思うように、自由に、この世を神の国のように生きるための秘訣を語ります。そしてあなたがたに本当に必要なのは、見るべきものは、求めるべきものは信仰と希望と愛、中でも愛であるというところへと向かって行きます。そのはじめに、今日のところで、使徒であるパウロ自身に与えられている経済的権利をどのように用いているかを語り、自分自身を模範として私たちに示していきます。

パウロの自由と権利

9章1節        私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
9章2節        たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。

パウロははじめに、自分が使徒であることを確認させます。

まず私たちの知識として、新約聖書では使徒はおもに次の3つの条件を満たす者とされていることを覚えたいと思います。
①イエス・キリストが復活されたことを直接目撃し、その証人として語り伝えることができる人
②イエス・キリストと行動を共にし、その教えと生き方を直接学んだ人
③イエス・キリストによって直接選ばれ、使徒として任命された人

パウロはペテロやヤコブたちと違って、この条件を満たしていないのではないかと、コリントの教会のある人たちによって、彼の使徒の権威が疑われていました。

「私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか」。パウロの答えは「私は使徒です。私は私たちの主イエスを見ました」です。パウロは確かにダマスコに向かう道の途上で復活のキリストに会っています(使徒91以下)。そしてイエス様によって直接異邦人への使徒として任命されました(使徒2221)。アラビアの荒野で3年間、聖霊によってイエス様の御声に聞き、その教えと生き方を直接学びました(ガラ116-17)。また、もしパウロが使徒でなかったなら、パウロを疑い批判していたコリントの教会の人たち自身、キリストに属する者ではないということになってしまいます。コリントの教会は何に属する教会なのか分からなくなってしまうではありませんか。しかしパウロは彼らを責める権利も自由もありながら、愛をもって言うのです。「あなたがたが、主にあって私の働きの実、良い作品となってくれたではないですか。そのあなたがたが、私が主にあって使徒であることの証明ですよ」と。

このパウロと同じようにして、これまで聖霊をとおしてキリストによって使徒とされた働き人によって、キリストの教会は建て上げられてきました。また私たちも、聖霊を通し、みことばを通して主にお会いし、主の御声を聞き、主の御心を示される。直接指示を受ける。そのような経験があるのではないでしょうか。それで私たちも自分がある意味で使徒とされていることを知るのではないでしょうか。主が私たちそれぞれに賜物を与え、その人にしか遣わすことのできない所、人へと遣わされているのです。多くの先生方は「私たちは今も、使徒の働き29章からの続きを記している」と言われます。これからも私たちは一人ひとりがキリストの弟子、使徒となってキリストの教会を建て上げ続けて行くのです。建て上げる人たちがキリストの使徒ではなかったら、その教会に集う人たちはいったい何なのでしょう。この長野聖書教会に集う私たち、これから長野聖書教会に集い、教会に繋がっていく人たちは一体何者となるのでしょうか。「あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です」。私たちも自分が使徒とされていることを誇れる、そのような働きの実、ギリシャ語では「作品」を意味する語ですが、実、作品である教会を建て上げて行きたいものです。作品には制作者の意図が込められ、そしてそれが作品にあらわれるものです。後になって私たちの働きの実、作品である教会を見て、確かに私たちはキリストの使徒であったのだと喜び誇れるものでありたいと願います。またその栄誉は、後に神から賞、栄冠として与えられるのだとパウロは教えています。

もう一つ、パウロが使徒ではないのではないかと疑わせるものがありました。それは、パウロが他の使徒のように教会から生活費をもらわないで伝道していたからでした。パウロがコリントの教会から経済的報酬を受けないのは、パウロ自身が自分の使徒としての資格にやましさを感じているからなのではないかと疑う人もいたのです。

実はこの時代、世の宗教の教師が生計を立てる方法には、次の4つがありました。
①自分を派遣した団体に自分の費用を請求する
②自分が活動する町に行って、そこに裕福な家に滞在しながら支援を受ける
③物乞いをする
④自ら商売をする
この中で、最も恥ずべきことと見なされたのは何だったと思われますか。普通考えれば物乞いをすることだと思いますが、実は自ら商売をすることが宗教の教師としてもっとも恥ずべきこととされていたのです。しかしパウロは天幕作りをして生計を立てていました。費用を請求したり、支援を受けたりする権利が認められているにもかかわらず、そうはせずに、自ら商売をして生計を立てていました。しかも天幕作りというのは、当時おもに奴隷の職業と考えられていました。ですからコリントの教会は、自分たちの指導者であるパウロが自分たちの支援を受けることを実は望んでいたのかもしれません。自分たちの名誉のために。ところがパウロはそれを望まなかった。なぜでしょうか。決して自分の利益のためではなかったことは分かります。パウロは自由でいたかったのでしょう。誰にも束縛されたくなかったのでしょう。それもまた自分のためだけの身勝手な自由ではありませんでした。愛を見失った自由ではありませんでした。

パウロはキリストにのみ留まっていたかったのでしょう。何よりも真実の愛によったのでしょう。キリストを愛し、キリストの教会を愛し、キリストの教会の聖徒たちを真実に愛していたから。もし、パウロが特定の人からサポートを受ければ、その人に対して正しい牧会ができなくなってしまうかもしれません。淫らな行いをした人からサポートを受けていたのであったのなら、その人を批判しづらいということもあり得ると考えたからでしょう。このようなことをあらかじめ防いで、この世から教会がさばかれてしまうことのないように、世に対するキリストの福音伝道の妨げとならないように、教会を主にあって健全に建て上げて行くために、愛する聖徒が自分の権利を行使するせいで一人も失うことのないように、パウロは神と人のために進んで自分の権利を行使しなかったのです。それがパウロの自由と権利の使い方でした。

もちろんパウロは知識がなかったわけではありません。労働者が報酬を受ける権利が当然あること、それが神の定めであることを良く知っていました。パウロは、伝道者は伝道によって生活する権利があること、いや、それどころか、それは神の定めたことであることを良く知っていました。パウロが福音の宣教という霊的な労働をしたのなら、その益を受けた人たちから物質的な報酬を期待して良いことも、悪いことではなく神の御心であることを良く知っていました。しかしパウロは、自分の益のために使徒とされている者の権利を行使しようとはしませんでした。

そしてパウロは使徒とされている自分たちが、その使徒の権利を使わずにいつも耐え忍ぶ理由について、「キリストの福音に対し、何の妨げにもならないように」と言います。

すべてを愛で覆う

9章12節      ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

パウロは「自分たちの権利を用いずに、むしろ、すべてのことを耐え忍んでいます」と言います。ここの「耐え忍ぶ」というギリシャ語は、堪(こら)える、辛抱強く耐えるという意味の語です。権利を用いないことによって、何を堪え、辛抱強く耐えると言うのでしょうか。悲しさでしょうか、苦しさでしょうか、悔しさでしょうか、貧しさでしょうか。まるで自由とは反対に聞こえないでしょうか。しかし「耐え忍ぶ」というギリシャ語には、「覆う」という意味もあります。何で覆うのでしょうか。イエス・キリストで覆う、イエス・キリストを着るのです。私たちの主イエス様のように、すべてのことを神と隣人を愛する、その愛で覆うのです。喜びで覆うのです。勝利で覆うのです。イエス様の地上でのご生涯は悲しみ、苦しみ、悔しさ、敗北の人生だったでしょうか。イエス様がどこまでも神を愛し、人を愛し、自らを低くされ、弱くて貧しい者、罪人を赦し生かすという人生、そして最終的にすべての罪人のために十字架にかけられ死なれたイエス様の地上での人生は、悲しみ、苦しみ、悔しさ、敗北の人生だったでしょうか。そうではないでしょう。神に愛され、神に喜ばれ、神を喜ぶ、そのような喜びと平安に満ちた、豊かに富んだ真の勝利の人生でした。その証拠に、イエス・キリストは今も生きておられ、天に上られ神の右の座に着いておられます。今も統べ治めておられる、王の王、主の主なのです。このイエス様に召され、弟子とされ、また遣わされている私たちは、イエス様から、そしてイエス様にあらわされる神の愛、神の真実の約束から目を離してはならないのです。信仰、希望、愛にとどまって、本当の自由と権利を行使するのです。

パウロは自らの自由によって、当然認められている権利を行使しなかった。教会負担で飲み食いする権利。教会負担で働き人の妻もサポートを受けることができる権利。教会負担で生活のための働きをやめて、伝道に専念する権利。それらの権利を自らの自由によって自由に行使しなかったのです。そしてパウロはそれを自らの喜び、幸い、誇りとしていました。それで満足し、他人や自分を傷つけるような自由を追い求め続けることはしませんでした。する必要がなかったからでしょう。私たちにも神によって自由が認められている。神によって様々な権利が与えられている。何をしても良い。どこへ行っても良い。何を食べても良い。それは知識として知っている。しかしそれを自分の益のためだけに用いるならば、私たちは決して満足を知ることはないでしょう。自由と権利をわがままに、どこまでも主張し、追い求め、自由に束縛されて、自由ではなくなってしまうでしょう。神との関係、人との関係に平和や平安がなく、争いが起こるでしょう。それゆえに喜びや平安に満ちた幸せな人生を送ることはないでしょう。神の愛を見つめ、神が真実の愛によって私たち人間に与えてくださっている自由と権利を見つめ、それを追い求め、それを神のために、キリストのために、福音のために、教会のために、隣人のために行使していく。つまずきとならないように。これが使徒パウロのキリストにある自由な生き方でした。パウロの本当の自由な生き方から、私たちは学びたいと思います。

「自由になりたくないですか。思うように生きたくはないですかか。自由っていったい何でしょうか。どうすれば自由になれるのでしょう。あなたは自分の思うように生きられているでしょうか」。いつの時代にも聞こえて来る世のこの問いに、聖書は答えます。自由と放縦(思うままにふるまうこと)は違うのだと。自分の権利、自分の自由を主張し、その通りに生きることは、喜び、勝利の人生に見えるけれども、かえってそれは悲しみ、敗北の人生となってしまうであろうと。そこに真の喜び、平安はないのだと。

創造の初めに人間に与えられている真の自由、真の権利を行使する。神の愛に留まり、神に与えられている真の自由、権利に感謝してそれで満足する。神の愛に背き、神の愛を信じずに目を逸らし、神が与えてくださっている自由と権利を身勝手にはき違え、身勝手に追い求めることをしない人生。身勝手な権利の主張、身勝手な自由の行使によって神の愛によるご支配、完全な支えと配慮に背を向けて出て行くことをしない人生。それが神に創られた私たち人間の本当の幸い、喜び、神との平和、隣人との平和、勝利に満ちた人生です。

「平和を作り出す人は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです」(マタ59)、「『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」(1023-24)。神が私たちに求められ、またキリストの御姿に見られるこの益であり、真の勝利である生き方を私たちは追い求め、身勝手な権利の主張、身勝手な自由の行使ではなく、真の自由をもって、真の幸い、真の勝利へと進んでまいりましょう。あなたがたは主イエス・キリストを覆いなさい。「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いては行けません」(ロマ1314)。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。それらで覆いなさい」(コロ312)。私たちは神に与えられている自由と権利の上にイエス・キリストを着て、すべてを神の愛で覆い、隣人への愛で覆い、そうして自分自身を建て上げ、隣人を建て上げ、教会を建て上げ、この地上で神の国を建て上げてまいりましょう。

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