2025年6月22日 主日礼拝「福音の恵みをともに受ける者となるために」
賛 美 新聖歌429「地の塵に等しかり」
新聖歌433「天つ真清水」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇18篇25〜29節
讃 美 讃美歌8「われら主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌227「みそらたかく」
聖書朗読 コリント人への手紙第一 9章19〜23節
説 教 「福音の恵みをともに受ける者となるために」
讃 美 讃美歌244「行けどもゆけども」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 9章22節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 9章19~23節
説教題
「福音の恵みをともに受ける者となるために」
今週の聖句
すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
コリント人への手紙第一 9章22節
説教「福音の恵みをともに受ける者となるために」
コリント人への手紙第一9章19〜23節
- パウロの「(自発的に)すべての人の奴隷になる」とは、どういうことでしょうか。
- 「すべての人に、すべてのものとなった」その目的と方法はどのようなものだったでしょうか。
19、私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
20、ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21、律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22、弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
23、私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
はじめに
私は普段、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見てはいないのですが、先日、職場でつけられているテレビがふと視界に入り、音は聞こえないのですが、映像と字幕につい見入ってしまいました。水曜日の回でした。場面は戦時中、中国の駐屯地でのことです。駐屯地では敵に食糧などの補給路が断たれてしまい、食べる物も底をつき、部隊の全員がひどく飢えていていました。そのような中、部隊の一人の青年が飢えのために正気を失ってしまい、現地の農家を襲い、そこにいた老婆に銃を向けて食料を奪おうとする騒ぎを起こしたのです。銃口を向けられた老婆は、自分に銃口を向けた青年をあわれむような眼差しで見つめ、そして卵を茹でて食べさせてあげました。その時に老婆が言った台詞。「空腹は人を変えてしまう」。深く考えさせられる台詞でした。そして後にみんな大好きアンパンマンの誕生。アンパンマンはお腹を空かせている人に自分の顔を裂いて分け与えることで、その人を飢餓から救います。これは先ほどのような戦争体験を持つ作者のやなせたかしさんが、飢えに苦しむ人を目の当たりにした経験から生まれた発想なのだそうです。またこれはイエス・キリストの姿と重なるところがあります。イエス様は食卓でパンを取り、それを裂き、「これはわたしのからだである」と言って弟子たちに分け与えられました(マタ2626)。そして魂に飢え渇きを覚える人々に、まさに十字架で自分のからだを裂いて与えられ、そして救ったのです。
魂の飢え渇き。何度かお話ししていますが、「魂(ネフェシュ・נֶפֶשׁ)」というヘブル語のもともとの意味は「喉」です。人の魂というのは、本当に飢え渇きを覚えるものなのです。お腹が空いて飢えるのと同じように、魂も飢えるのです。カラッカラに喉が渇くのと同じように、魂もカラッカラに渇くのです。つまり人間は、飢え渇いた喉のように、その欲求を満たそうとする渇望のかたまりだと言うことです。そしてそれが満たされないと本当に人を変えてしまう。皆さんも経験したことがあるのではないでしょうか。皆さんも、魂に飢え渇きを覚えて神を求められたのではないですか。魂が飢え渇き、幸せ、平安を得たいとか、愛、赦し、慰め、また天国に行きたいとか、魂が飢え渇きをもって切実に神的存在(その時は真の神を知らなかったはず)に何かを求められたのではないでしょうか。そのような私たちを、神はあわれみご覧になり、恵みによって私たちの切実な求めに応えてくださいました。私たちをあわれんでくださり、恵みによって、私たち人間が本当に必要としているいのちのパン、そしていのちの水を与えてくださいました。しかもそれは神が誰かの手を通して届けてくださったのです。私たちは本当に幸せ者です。
実にこの世の多くの人々は、支配、力、この暗闇の支配者たち、またサタンとか悪魔とか悪霊とかと言われるものによって、また自らの罪によって、神が私たち人間にただで与えたいと願われる神からのいのちのパン、いのちの水、みことば、福音、聖霊(神の親心、愛)の補給路が断たれ、飢え渇きを覚えているのです。そしてそれは人を変えてしまう。私たちはどうするのでしょうか。同じ飢え渇きと、それが恵みによって満たされた経験をしている私たちは、そのような世の人々を見てどうするのでしょうか。前回のパウロのように「そうせずにはいられないのです」という思いが与えられないでしょうか。実際「そうせずにはいられないのです」という思いがあるからこそ、私たちは家族や隣人の救いを祈っているのでしょう。断たれた補給路を何とかして、あらゆる犠牲を払って、またありとあらゆる方法をもって繋げようとしているのでしょう。礼拝にお誘いしたり、トラクトをお届けしたり、とりなし祈ったり。何とかして福音を伝えたい、届けたいと願う。それは本当に素晴らしいことですし、神が先に救われ、召された者に求めておられることです。しかし補給路が断たれているということは、そこに敵の存在があるということです。そこに戦いがあるということです。その戦いに私たちはどのようにして勝利するのでしょうか。剣をブンブン振り回して立ち向かうのでしょうか。イエス様は言われました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタ2652)と。パウロもイエス様のこの御声を直接聞いたのではないでしょうか。そして自分の権利と自由の行使を捨てたのです。自らこの世の底辺のようなところにいる奴隷のする仕事をしながら、福音宣教の奉仕に励んだのです。そして今日の箇所でも、私たちに正しい戦い方と申しますか、奉仕の仕方を教えています。聖書は神が喜ばれ、受け入れてくださる方法、みこころを示してくれています。また奉仕する私たちがどこかで失敗してしまうことなく、必ず福音の恵み祝福をともに受ける者となるための方法を示してくれています。今日も聖書のみことばに聞いてまいりましょう。
自ら奴隷になった
9章19節 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になった」。パウロはここで「奴隷」ということばを用いていますが、奴隷は本来、他から強制されて奴隷になるのです。しかしパウロの場合は、あくまでも自由に、自ら進んで奴隷になったと言うのです。「奴隷になった」という語は自動詞と呼ばれるものが用いられており、自分から、自発的に奴隷になったのだという強い意志が感じられる語です。「あの人が救われるためならば、私は喜んで奴隷になりましょう」。自分から喜んで奴隷となった人というのは、もはや奴隷ではありません。それは「喜んで、徹底的に仕える」ということです。
ところで、みことばの光を用いて聖書通読をされている方は今、列王記第一から学んでいます。イスラエルの王ソロモンを通して、どのようにしてイスラエルの王国が確立されて行くか。それはつまり、いかにして神の王国、天の御国が確立されて行くかというものです。残念ながらソロモンは、最初は良かったのですが、一つ一つ神に背き、罪を犯して行き、ついには王国を確立するどころか分裂へと向かわせてしまいました。その実際の歴史から学ばされるところです。
この世の王とか、この世の祭司は何だかとても偉そうにしていますが、イスラエルの王、あるいは祭司に求められていること。それは人に仕えられるためではなく、人に仕えることです。神はご自分の国、神の国を治める王、祭司には、人に徹底的に仕えることを求めておられます。その姿は、私たちの主イエス・キリストに見られる姿です。イスラエルの真の王であり祭司であられるイエス・キリストはそのようなお方でした。自分の立場などを高めてくれそうな金持ちや世の偉い人ではない、世の貧しい人たち、世の弱い人たち、世の罪人とされている人たちに徹底的に寄り添われ、徹底的に仕えられました。やさしい言葉をかけられ、励まし力づけ、体も魂も癒やされました。そして新約の今、主は言われます。「あなたがたは選ばれた種族、【王である祭司】、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ29)。私たちは私たちに徹底的に仕えてくださり、救ってくださった主イエス・キリストに仕える者でなければならないのに。徹底的にへりくだられたイエス・キリストよりも、さらにへりくだるものでなければならないはずなのに。それなのに、主に対しても、世の人々に対しても、どれだけ高慢な、この世の王や祭司のような態度を取っていることかと思わされます。
「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(エペ66-7)。神のみこころとは何でしょうか。「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(マタ1814)。「わたし(イエス・キリスト)の父(神)のみこころは、子(イエス・キリスト)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハ640)。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅱテモ24)。より多くの人を獲得すること。より多くの人を神の子とすること。イエス・キリストに対する信仰に導いて救うこと。そのために、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えるのです。イエス様のように。そのイエス様の周囲にはどのような人々が集まって来たでしょうか。それはもう救いを求める人々が集まって来て、大群衆となりました。そしてイエス様が自ら貧しい者となられ、同じ目線に立たれ、心から寄り添い、喜んで仕えられた群れは、どのような群れだったでしょうか。喜びがあったでしょう。平安があったでしょう。活き活きとしたいのちがあり、恵みに満ち溢れていたでしょう。どんどん大きな群れになって行った。そこはもう神の国でした。しかし、その中には何とかして神の祝福の補給路を断とうとする敵対者も紛れていたのです。
自ら奴隷になった目的
9章20節 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
9章21節 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
9章22節 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
パウロが自ら奴隷になった目的ははっきりしています。それは「何とかして、何人かでも救うため」でした。ユダヤ人を救うためにはユダヤ人のようになった。ユダヤ人と神を恐れる異邦人、ユダヤ教に改宗した人たちを救うためには、そのような人になった。真の神を知らない人たちを救うためには、そのような人になった。弱い人たちを救うためには、弱い人になった。すべての人を救うために、すべてのものとなった。この「すべてのものとなった」という所を直訳すると、「すべての姿になった」です。変幻自在、カメレオンのようなパウロ。パウロは福音を伝える相手と同じ立場になり、彼らを理解しようとしました。「何とかして、何人かでも救うため」に、すべての人に合わせて、すべてのものになったのです。
パウロにとって、それは決して簡単なことではなかったはずです。パウロはユダヤ人社会では、かつてはエリート中のエリートでした。ヘブル人の中のヘブル人で、律法については権威のあるガマリエルの門下生でした。ローマの市民権も持っていました。身分や学歴、権威まであり、十分に人に仕えられる素質、資格がありました。実際にそれらを思う存分用いていました。しかし、イエス・キリストに会って使徒として召され、福音伝道のために献身してからは、それらすべてをゴミ扱いして、捨てて(ピリ38)、福音のために自分のすべてをかけたのです。一人でも多くの魂を救うことを望まれる主のみこころをなすために。パウロと同じように十字架のイエス・キリスト、復活のイエス・キリストに出会い、救われ、召された私たちも、教会も、このパウロのように福音のために献身する者となりたいと願わされます。神からのいのちの補給路が断たれ、その魂に飢え渇きを覚え、本来の姿ではなくなってしまっている世の多くの人々に、かつての自分の姿を重ね、「何とかして救うために」という思いが与えられ続けたいと願わされます。
乗松雅休(のりまつ まさやす)
乗松雅休という方をご存知でしょうか。彼は日本のプロテスタント最初の海外宣教師です。1896年、日清戦争が終わると、彼は単身で朝鮮に渡りました。そして朝鮮で、自ら朝鮮人になりきって、ひたすら朝鮮人に福音を伝えることに努めたのです。その働きにおいて最大の障害は、彼が「日本人であること」でした。ある人が朝鮮の彼の家を訪ねたとき、大変な衝撃を受けたそうです。乗松さんは家族間の会話もすべて朝鮮語。衣服も、食器も、住居もことごとく朝鮮式でした。彼の風貌や物腰もまるで朝鮮人のようであったそうです。そしてこれが彼の朝鮮伝道が祝された理由でした。朝鮮各地にキリストの群れが出来、朝鮮人伝道者も起こされたのです。
パウロの、そして乗松宣教師の「すべての人に、すべてのものとなりました。それは何とかして、何人かでも救うため」。この精神が最もよく現れているみことばは何でしょうか。私たちの週報の表紙に、何と教会聖句として掲げられているみことばです。「喜ぶ者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ロマ1215)。この模範を示されたのが、やはり真の愛をもって人々に仕えられたイエス様でした。イエス様がお持ちであった真の愛というのは、外側から相手に与える同情ではなく、相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり感じたりすることです。私たちはこのイエス様の御姿に神の国の真の王、真実の友、真実の隣人である姿を見るのです。私たちはこの方から目を離してはならないのです。この方に似せられて行くことが求められているからです。
しかし、そうではない
すでに皆さんご承知のこととは思いますが、確認しておきたいと思います。私たちがカメレオンになるのは、決してこの世とか相手に対する妥協ではないということです。世に流されることではないし、この世に同化することではありません。「福音のために」「人々をイエス・キリストに対する信仰に導いて救うために」あらゆることをするのだということです。
また、福音を宣べ伝えるという目的のためには手段を選ばないということでもありません。極端なことを言えば、それは死刑囚に福音を宣べ伝えるのに、自分も殺人を犯して死刑囚になるということです。そうではないのです。私たちがカメレオンになるというのは、イエス様のように、あくまでもその人の立場になって物を考え、行動するという意味です。
9章23節 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
「私も福音の恵みをともに受ける者となるため」に、カメレオンになる。徹底的に同化する。しかしこれも決して打算的ではないのです。他の人を自分の利益のために獲得しようとするのは打算です。しかしパウロの奉仕、乗松宣教師の奉仕、私たちの奉仕は打算ではありません。パウロも、乗松宣教師も、私たちも、神によって神の目的(みこころ)のために奉仕するようにと、神によって選ばれ、神によって召されて、それで誰かの救いのために努力しているのです。その出発点あるいは原点は、この私に注がれた神の愛、神のあわれみ、神の恵みです。
かつては真の神を知らず、知らなかったからとは言え、神を無視し、神に背を向けて、よそ見をして、真の神以外の神々を拝み、自分勝手に生きてきた私たち。自分勝手に生き、勝手に罪を犯し、道に迷い、親を見失った迷子の子どものようにどうしたら良いのか、どこに向かって歩いて行ったら良いのか全く分からずに、恐れて泣き、出口の見えない暗闇のトンネルのような中で苦しんでいた私たち。そのような私たちさえ、真の神は見放さず、毎日愛していてくださり、あわれでくださり、大切に扱ってくださり、忍耐してくださり、赦してくださり、たくさんの恵みをもって生かしていてくださっていた。私たちが神に背を向けていたために、私たちの目には見えていませんでしたが、実は神の愛の御手は絶えず私たちに向かって伸ばし続けられており、「あなたはわたしを信じて、わたしのこの手を自ら掴んで、わたしによって救われなさい。救われて欲しい」と願われていた主。神は目に見えるものしか信じることができない弱い私たちのために、神の愛とあわれみ、見えない神の救いの御手の現れである神の御子イエス・キリスト、暗闇の中で道を照らす真の光であるイエス・キリストをこの世にお送りくださいました。
その神であるイエス・キリストは、この世でカメレオンのように私たち罪人、人間の間に住まわれました。徹底的に貧しい者、弱い者、罪人さえも愛され、仕えられ、同じ立場に自分を置き、同じ気持ちで物を見たり感じたりされました。そして神であるイエス・キリストは私たち人間の罪を負われ、貧しさ弱さを負われ、私たちの身代わりとして十字架につけられ死なれた。ご自分の体を裂かれた。父なる神はどれほどお辛かったことでしょうか。しかしそれほどまでに、魂に飢え渇きを覚え、本来の姿を変えてしまい、罪の中で苦しむあなたの罪を赦そうと、罪人である私たちに対する愛、あわれみ、同情を明らかに示してくださったのです。これほどまでにあなたを愛している、あなたのいのち、あなたの体、あなたの魂が大切なのだと。わたしに背いてきたあなたを、わたしはそれでも愛している。あなたをあわれんでいる、心からかわいそうに思っている。永遠に愛したいのだと。そして神はイエス・キリストを3日目によみがえらせました。私たちに神の本当の赦しと、永遠のいのちの道があることを見せてくださったのです。そして約束してくださっています。人間と違って真の神ですから、約束は必ず守られるお方です。このイエス・キリストを信じ、救いの御手を掴むようにしてイエス・キリストを信じてよりすがるならば、神の愛とあわれみをひたすら求めるならば、あなたを満たそう、あなたを救おう。あなたに永遠のいのちを約束しよう。イエス・キリストを信じて、天国に連れて行ってくださいとイエス様にお願いすれば、イエス様は必ず天国に連れて行こうと約束してくださっています。そして喜んで天国にあなたを迎え入れようと約束してくださっているのです。
そして今、神がイエス・キリストをこの世に遣わされたように、イエス・キリストは私たちをこの世に遣わされています。私たちが福音の恵みをともに受ける者となるために。それは、支配、力、この暗闇の支配者たち、またサタンとか悪魔とか悪霊とかと言われるものによって神からのいのちのパン、いのちの水、みことば、福音、聖霊(神の親心・愛)の補給路が断たれてしまい、魂に飢え渇きを覚え、本来の姿を変えてしまっている人々に、神からのいのちのパン、いのちの水の補給路を確保し、いのちのパン、いのちの水が与えられ、本来の姿を取り戻し、その人が救われて、私たちもともに救いの喜びを味わう者となるために。本当にともに救いの喜びを味わう者となるためには、「すべての人に、すべてのものとなる」。すべての姿になる。自ら徹底的に仕える者となり、真に人と同化し、同情し、あわれみ深い者となるのです。真の愛によって、外側から相手に与える同情ではなく、相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり感じたりするのです。何とかして、何人かでも救うために。そうすれば、私たちは福音の恵みをともに受けることができるのです。本当に喜ぶことができるのです。パウロはイエス・キリストに見られるこの愛を追い求めるようにと私たち、そして私たちキリストの教会に命じています。
もう一度言います。「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(エペ66-7)。神のみこころとは何でしょうか。「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(マタ1814)。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハ640)。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅱテモ24)。
どんな犠牲を払っても、またありとあらゆる方法をもって、より多くの人を獲得すること。より多くの人をイエス・キリストに対する信仰に導いて神の子とすること。そして福音の恵みをともに受ける者となるために。そのために私たちは、イエス様のように人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えるのです。そのイエス様の周囲にはどのような人々が集まって来たでしょうか。それはもう救いを求める人々が集まって来て、大群衆となりました。そしてイエス様が自ら貧しい者となられ、同じ目線に立たれ、心から寄り添い、喜んで仕えられた群れは、どのような群れだったでしょうか。喜びがあったでしょう。平安があったでしょう。活き活きとしたいのちがあり、恵みに満ち溢れていたでしょう。愛による一致がありました。そこはもう神の国でした。神の国の一部完成である私たち教会も、そのような群れとなりたいものです。そのような群れに、一人、また一人と加えられて行き、教会は成長し、終わりの日には神の国が完成するのです。私たちの救いも完成するのです。
しかし、その中には何とかして神の祝福の補給路を断とうとする敵対者も紛れている。そのことについては次回、続く24節からのところで見たいと思います。