2025年6月29日 主日礼拝「賞を得られるように走りなさい」

賛  美
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇103篇1〜5節
讃  美  讃美歌9「ちからの主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌324「主イエスは救いを」
聖書朗読  コリント人への手紙第一 9章24〜27節
説  教  「賞を得られるように走りなさい」
讃  美  讃美歌385「うたがい迷いの」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ピリピ人への手紙3章14節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一 9章24~27節

説教題

「賞を得られるように走りなさい」

今週の聖句

キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ピリピ人への手紙3章14節

説教「賞を得られるように走りなさい」

コリント人への手紙第一9章24〜27節

  • 私たちが求めるべき賞とは何でしょうか。
  • 朽ちない冠を受けるために、あなたはどのような「節制・ἐγκρατεύομαι」(自制、自粛、我慢、度を越さないよう控えめにすること)をしたいですか。

24、競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
25、競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26、ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
27、むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

はじめに

大抵の方は高校生の頃、マラソン大会のようなものが毎年学校で行われ、それに参加されたことと思います。随分と昔の話しになりますが、私が通っていた高校では毎年競歩大会が行われていました。市街地の高校から山の上の方のお寺まで、往復で25㎞ほどのコースでした。途中、平坦な道もあれば、折り返し地点となる山のお寺の手前までには心臓破りの坂があり、最後はもうへとへとになってゴールするのです。競歩大会に対する姿勢も様々で、野球部や陸上部は目標タイムと上位何名までに入るようにと言う指令が与えられており、そのような人たちはスタートからゴールまで必死に走り続けるのですが、そうではない人たちは、最善を尽くして頑張ろうとする人たちもいれば、おやつを持参して途中で敷物を広げお菓子パーティーを開くなどという、パリピなグループもいて、様々でした。しかしほとんど全員が途中でやめてしまうことなく、真面目にゴールしていました。もちろん、途中で体調を崩して仕方なく棄権という人もいましたが、ほとんど皆、ゴールを目指して歩きました。ゴール近くで私の父が仕事の荷物を配達している途中で偶然、ゴールを目指して歩いている私の姿を見たそうなのですが、疲れ切って何かに取りつかれているように歩いていたと言って笑っていました。そのような私のように走ることが得意ではなく、持久力にも乏しく、辛くて苦しくて、それはもう必死にゴールしようとする幾人かの人たちは、最後は先にゴールした人たちに「頑張れー、頑張れー!」と励まされ、恥ずかしながら皆の大声援と拍手の中ゴールするのです。オリンピックのマラソンでも見られるシーンですね。ちなみに私は3年間、ビリから何位を競い、皆さんの温かな大声援と拍手をいただくことができた幸いな者です。

教会に対する勧め

さて、すでに先ほど皆さんとともに拝読しましたが、今日の箇所でパウロは「賞を得られるように走りなさい」「朽ちない冠を受けるために節制しなさい」と教えます。

9章24節      競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
9章25節      競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

注意しておきたいことは、この勧めは「あなたがた」と言われているように、実は教会に対する勧めなのです。教会の中でそれぞれが競い合って、誰かを蹴落として、あなた一人が賞を得るように、朽ちない冠を受けるようにというものではありません。それは教会ではありません。そこは神の国ではありません。神の国は喜びの国です。皆が活かされて喜んでいる所です。この世のように、誰かが喜ぶために誰かが泣かされている、誰かが生きるために誰かが殺されている、そのような所ではないのです。皆が喜んで、それぞれに分け与えられている賜物を活かして、活かされて、喜んでいるところ。それが神の国であり、教会です。「賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい」。得られる“ように”“そのように”です。それぞれが最善を尽くしなさい。それぞれに最善を尽くしてゴールを目指しなさいということでしょう。

パウロは「賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか」と問うていますが、実はコリントの人たちはスポーツ競技に親しみ、それについて良く知っていました。コリントの町では、2年ごとに古代ギリシア時代の4大大会の1つであった「イストミア大祭」という競技大会が開かれていました。この競技大会は、海の神ポセイドンを記念するもので、「コリント海峡」という名称にちなんで名付けられ、人気と名声を集めていました。今で言う、世界中の人が注目するオリンピックのようなものでしょう。パウロはコリントで1年半にわたって働きをしました。ということは、その間にこのイストミア大祭があった可能性が高いのです。そしてこのイストミア大祭という皆が良く知り、注目している競技大会を例にして、教会に対する勧めをしているのです。その競技大会に参加する選手たちは全員、優勝者に与えられる月桂樹の冠を受けるために、2年間、その目標を持って日々練習に励み、生活の中でも節制し頑張っているではありませんか。「彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは、私たち教会は朽ちない冠を受けるためにそうするのです」。

救いの完成

パウロは「賞」とは何であるかを、ピリピ人への手紙3章14節ではっきりと述べています。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」(ピリ314)。

「キリスト・イエスにあって」。キリスト、油注がれた者、メシア、救い主イエスにあって。主イエス・キリストの十字架の死と復活は、神と私たちとの関係における救いの基礎です。救いとは、神と私たちとの関係を妨げている罪の問題の解決、つまり罪が赦されることを意味しています。そして救い、罪の赦しは、赦しなくしては死後永遠に続いてしまう罰が免除される、恵みによって罰を受けなければならないという義務を果たさなくても良いと許されることを意味し、永遠に神とともに過ごすことができる祝福を意味します。

しかし疑問が残ります。私たちはイエス様を信じて救われた後でも、なお罪を繰り返し犯してしまい、不完全な部分があり、「救われていない部分」を持っていることを自覚しながら信仰生活を続けているからです。「こんな自分は本当に救われているのだろうか」。それだけならまだましで、高慢にも「あの人は本当に救われているのだろうか」とまで思ってしまうこともあったりして・・・。パウロも最初は「あいつは本当に救われているのだろうか」と疑われ、後にも「あいつは本当に使徒なのか」と疑われていた人でした。

そのパウロは言うのです。「私はイエス・キリストを信じて救われた。私は復活のイエス・キリストとお会いし、使徒とされた。しかし私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求している(必死に追い求めている。ある人には何かに取り憑かれているかのように見えるかもしれないけれども、私はただ捕らえようと追求している)のです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし(それを掴み取ろうとして必死に手を伸ばし)、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」(ピリ312-14)。パウロはそれほどまでに「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただく(つまり救いの完成)」というゴールを目指しているのです。パウロは前回(先週の聖書箇所)からの文脈の中で、恵みによって救われた者が福音を宣べ伝える者となり、福音を伝えられて救われた人たちと共に自分も恵みを受ける者となれるように、救いの完成を目指して努力すること、つまり自己訓練をすべきことを説いています。

では、その「救いの完成」とは、いつどのようなことを言うのでしょうか。それはイエス・キリストの再臨によって、完全に私たちが罪から解放され、真の永遠のいのちを得るという、神のご計画の最終的な成就のことを言うのです。主イエス様が世の終わりにもう一度来てくださるのは、「ご自分を待ち望んでいる人々の救いのため」(ヘブ928)、私たちがいつまでも主と共にいる者となるためです。それが救いの完成です。

救いの完成へのステップ

イエス・キリストを信じて救われた人には、3つの救いのステップが保証されています。まずは「義認」です。過去形の救いです。これは信じた瞬間に与えられる祝福です。義認というのは法廷用語です。父なる神との関係が変化した、父なる神と和解させられたというのがその意味です。

次のステップは「聖化」です。現在進行形の救いです。救いの完成に向かうプロセスです。私たちイエス・キリストを信じた者は全員、この過程を歩んでいます。私たちは時が進むと共にキリストに似た者に変えられて行きます。

そして次のステップが「栄化」です。未来形の救いです。これは救いが完成した状態を言います。私たちはやがて、イエス・キリストが再臨される時には、栄光の姿に変えられるのです。

この「聖化」という現在進行形の救いのプロセスの中に、様々な試練があり、試みがあり、激しい攻撃があり、それ故に失格者となる可能性すらあるのだと、それはイエス様も何度も愛をもって警告しておられることです。

朽ちない冠を受けるために節制する

9章25節      競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

「節制・ἐγκρατεύομαι」というギリシャ語は、「自制する、自粛する、我慢する、度を超さないように控えめにする」という意味の語です。パウロは朽ちない冠を受けるために何をしたと、この手紙の中で述べてきたでしょうか。それは「さらに良いもののために、権利や自由の行使を放棄することもあった」ということでした。それと同じように、コリントの聖徒にも福音のために、自らの救いの完成のために節制するように勧めました。「あらゆることについて」節制するように、自制し、自粛し、時には我慢し、度を超さないように控えめにするように。それぞれが良く吟味し、祈り、追い求め、考え、自分のために、教会のために、福音のために、隣人のために、キリストのために、救いの完成を目指してセルフコントロールするように。また自分自身が目標をはっきりとさせて、その目標を目指し、途中で自分自身が失格者にならないようにセルフコントロールするようにと教えます。

失格者にならないようにするために

9章26節      ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
9章27節      むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

パウロは言います。「私は自分のからだを打ちたたいて服従させるのだ」と。しかしこれは、救いを得るための努力を言っているのではありません。救いはあくまでも神からの「恵み」なのです。私たちがいくら良い行いをしたとしても、神が求められる良い行いの基準には決して達することはできません。ですから救いは神が唯一イエス・キリストを信じるならば与えてくださるという約束によって一方的に与えられる「恵み」なのです。私たちの努力によるのではありません。

パウロがここで言っているのは、恵みによって救われた者が、救いの完成を目指して努めることです。本当に恵みをいただいた者であるならば、恵みの上にあぐらをかいていてはならない、あぐらなどかいていることなどできないでしょうということです。

ですからパウロの言う「失格者」というのは、決して救いを失う者のことではありません。パウロが27節で警戒すると言っているのは、自分の救いではなく、救いの完成の時に、つまり突然やってくるイエス・キリストの再臨の時に、キリスト・イエスから報いを受ける資格を失うことがある、「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」、神の国に入れていただくという、その賞を逃してしまうかもしれない危険があるということです。27節後半の直訳は「もしかしたら私が、他の人に宣べ伝えた後に、逆に私自身が賞を受ける資格を喪失するかもしれない」です。「あなたも福音を信じて、救われて、神の国に入れていただきましょう」と宣べ伝えておきながら、自分が神の国に入れていただけないなんてことがあって良いものか。イエス様もいくつかのたとえ話の中で、最終的に残念な結果となり「戸の外で泣いて悔しがる」人の姿を示し、そうような者であってはならないと、愛をもって警告してくださっています。そのためにパウロは、スポーツ競技者のように節制したし、教会に対しても節制するようにと教えるのです。節制(セルフコントール)するとは、あらゆることにおいて「自制する、自粛する、我慢する、度を超さないように控えめにする」ということです。

ところで、「完成」に似た言葉で「達成」という言葉があります。どちらも目標を成し遂げるという意味合いを持ちますが、ニュアンスが異なります。「完成」は、物事が完全にできあがること、またはある状態に達することを指し、例えば「建物の完成」のように形あるものの最終段階を意味することが多いです。一方、「達成」は、目標や目的を成し遂げることを指し、例えば「目標達成」のように、目指していた状態に到達することを意味します。私たちは救いの完成を目指すと同時に、救いの達成を目指しているのです。

救いの完成は神がなさること。救いの達成は、神が私たちを救ってくださった目的を果たしていくということでしょう。私たちすべては、もれなく神によって目的をもって造られました。神はどの人にも目的を与えておられます。神は、私たちがその目的を知り、そのために生きて行くように願っておられます。そしてそれぞれの目的にふさわしい賜物をも与えてくださっています。それぞれに分け与えられた賜物を活かして、それぞれが喜んで活き活きと、神の御心の通りに生きることを願っておられます。すべてのこと、すべての人に目的があるのなら、イエス・キリストの十字架の贖い、御子イエス・キリストのいのちをもって贖われ、神のものとされた救われた私たちには、もっと確かな目的があるはずです。私たちは決して目的なしに救われたのではありません。神はなぜ、何のために私を救ってくださったのか、神が私に対して持っておられる目的、つまり神の御心が何なのかを知り、それを私たちの生活を通して果たして行く、それが救いの達成です。

私たち、私たち教会に対する神の御心については、先週も見たところです。改めて振り返りますが、神の私たち教会に対する御心とは何でしょうか。「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(マタ1814)。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハ640)。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅱテモ24)。そして「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じてきた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともいます」(マタ2819-20)。イエス様の視線も、世の終わり、そして神の国の完成へと向けられています。そして私たち教会の視線をも、世の終わり、そして神の国の完成、ゴールを見据えるようにと言われ、励まし、そして実際に力を与えてくださっているのです。

目標達成のために

パウロは私たち教会に勧めます。「あなたがたも賞を得られるように走りなさい。朽ちない冠を受けるために節制しなさい」。得られる“ように”です。それぞれが最善を尽くしなさい。それぞれに最善を尽くしてゴールを目指しなさいということです。ゴール目指し、確実にゴールするためには何が必要か。ひたむきに前に向かって進むのです。同時に節制するのです。時には苦しくて、息も絶え絶えの時もあります。疲れて倒れそうな時には、主は憩いのみぎわに私たちを伴われ、休息するように言われるのではないでしょうか。憩い、リフレッシュ。つまりそこでまた新しくいのちを得るためです。また、一旦立ち止まって、自分が走っているコースが間違っていないか、目標がずれていないか確かめることも必要でしょう。また走るフォームが崩れていないか、フォームチェックするように言われるかもしれません。イエス様は終わりの時には身を起こし、頭を上げ、姿勢を良くしなさいと言われました。給水も必要でしょう。給油でしょうか。私たちは主から生ける水、また油をそそいでいただくのです。主は求める者には惜しみなく注いでくださいます。いや、注がれています。体力、持久力、耐える力をつけるために、普段から良い栄養をしっかり摂取することも必要です。私たちの魂に必要な栄養。それは主の御口から出るみことばです。私たちには主の御口が語られるみことば、主の約束をいつも確かめる必要があります。神に信頼するためにです。確実にゴールするためには、自分の力に頼ることなく、神に信頼することこそが何よりも大切なことだからです。共に励まし合うことも必要でしょう。同じ主を見上げ、同じゴールを目指す者たちが励まし合う。強い人が弱い人に愛をもってエールを送る。神に励まされた経験のある者であるならば、お互いにエールを送る者となるのではないでしょうか。

それらの必要がある時に、弟子たちがガリラヤへと帰って行ったように、私たちもゴールを目指す中でスタート地点、信仰の原点に戻される時もあるでしょう。それもひたむきに前に向かって進むことです。主は疲れやすく、迷いやすい私たちをご存知の上で、週に一度の憩いの時を与えてくださっています。礼拝です。私たちの心や思いのすべてを神に献げ、神が喜んで受け入れてくださるいけにえ、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心をお献げし、私たちの一切を神の御心に従わせる。それが礼拝です。そこで私たちは信仰の原点に戻り、休息し、自らを省みて、新しくいのちを得て、再びここからゴールを目指して正しいコースを走って行くことができるのです。走り続けることができるでしょう。

救いの始まりも完成も、神の恵み、神の力によるのです。救いの開始から完成までの期間もまた、神の恵みによって進んで行くのです。私たちが救いの達成を目指して、忠実に、また熱心に歩むなら、その途上もまた神の力によって支えられるのです。神が私たちに何かを命じられる時、神は必ずそれを成し遂げる力を与えてくださいます。自分たちの頑張りだけではいつか倒れてしまうでしょう。私たちの主イエス・キリストは、信仰の創始者であり完成者です。この方から目を離してはなりません。私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするために。教会のかしら、まことの牧者であられるイエス・キリストを、私たちはともに見上げ、心を1つにして救いの道を歩き続け、ともに救いの完成を目指して、救いの達成、神が私たちを救ってくださった目的を果たしていくということに努めてまいりましょう。

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