2025年7月20日 主日礼拝「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」

賛  美  新聖歌478「山は緑」
      新聖歌475「まもなくかなたの」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇37篇3〜6節
讃  美  讃美歌11「あめつちにまさる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  250「つみのちから」
聖書朗読  コリント人への手紙 第一 10章14~22節
説  教  「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」
讃  美  讃美歌508「主よ、日に日に」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 10章14節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙 第一 10章14~22節

説教題

「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」

今週の聖句

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

コリント人への手紙 第一 10章14節

説教「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」

コリント人への手紙 第一 10章14~22節

14、ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
15、私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。
16、私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17、パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
18、肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
19、私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
20、むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
21、あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。
22、それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

はじめに——霊的な世界に生きる

クリスチャンであるならば当然、目に見えている世界がすべてであるとは思っておられないと思います。私たちは目に見える世界に生きていると同時に、霊的な世界に生きている、生かされている。そのことを普段どれだけ認識し、実感し、感動し、喜んで、また敬虔な恐れをもって生きておられるでしょうか。イエス様は言われました。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」(ヨハ424)と。この礼拝も、このように目に見える世界で献げられていますが、まことに霊的なものです。霊である主がご臨在くださっている。その主に招かれて私たちはここにいる。その主に私たちは礼拝を献げることが許されている。主が私たちの祈りを聞いてくださっている。主の御手が伸べられている・・・。私たちは今、そのことをどれだけ認識し、実感し、感動し、喜んで、また敬虔な恐れをもってこの礼拝を霊である神にお献げできているでしょうか。ある1人の黒人女性は、毎朝起きてすぐに主を礼拝し、主に祈ることを欠かさないそうなのですが、彼女の寝室の出入口のドアには鏡がかけられていて、朝起きて寝室を出る時にはその鏡を見て髪を整え、しっかり身なりを整え、そして主の御前に進み出て祈るのだそうです。素晴らしい信仰ではないでしょうか。

聖書はこう言います。「あなたがたはイエス・キリスト見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っているではないか」(Ⅰペテ18)と。なぜでしょうか。その答えも聖書に記されています。「あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(同19)。そしてパウロは言うのです。「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」(ガラ220)と。

私たちが今生きているこの目に見える世界は、実に霊的な世界です。実は目の前に広がっている目に見えない霊的な世界に生きているのです。生かされているのです。目に見えない霊的な神に、私たちはイエス・キリストを通してこれほどまでに愛されている、赦されている、守られている。私たちの感覚や感情がどうであろうとも、私たちの現状がどうであろうとも、「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたを愛している」と言われる真実な主が、お言葉(約束)どおり私たちとともにいてくださり、すべての道で私たちを守り、すべての必要を満たし、約束の地へと杖と鞭をもって悪しきものから守り、主が戦ってくださり、導いてくださっている。それは私たちがイエス・キリストの十字架と復活を信じ、すべての罪が赦され、神の怒りが宥められ、神との完全なる平和な関係をいただいているからです。そのように霊的な世界に生かされている私たちは、どれだけ普段そのことを認識し、実感しているでしょうか。どれだけ感動し、どれだけ感謝できているでしょうか。それは今朝の礼拝に向かう私たちの姿、態度を省みるならば、自ずと分かってくるものなのかもしれません。あるいは私たちが普段、何に魅力を感じ、何に頼り、何に重きを置いているかを省みると分かるでしょう。私たちを取り巻く霊的な世界には、霊的な存在であるサタンもいるのです。そのサタンは、アダムとエバに見るからに美味しそうで、目に慕わしく、自分を賢くしてくれそうな木の実を見せて、神のみことばに背くように誘惑しました。目に見える木の実自体に何か特別な力が宿っていたのではなかったのでしょう。霊的な挑戦であり、霊的な失敗でした。2人は見事に失敗し、神に背き、つまり罪を犯してしまい、神の園から追放されてしまった。神はどれほど悲しまれたでしょうか。それが偶像礼拝のはじめであったように思います。

さて、1週あきましたが、今朝もコリント人への手紙第一の講解を進めてまいります。10章14節に進みますが、ここでパウロの話しは再び偶像礼拝に戻ります。偶像礼拝の誤りに陥らないためにはどうするべきかが述べられます。パウロは次のように言います。「避けなさい」と。

偶像礼拝を「避けなさい」

10章14節    ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

「ですから」というのは、10章1〜13節の訓戒全体を受けているのでしょう。世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするために書かれた、旧約のイスラエルの民の出エジプト時における荒野での様々な出来事。神の恵み、神の守り、神の導きの中にありながらも、神が見えず、神を見ず、神を信じられず、自分たちの欲望の方に目を留め、貪欲に陥り、過去の偶像礼拝が当たり前のようなエジプトでの辛い奴隷生活さえも懐かしみ、高慢になり、神に文句を言い逆らった。これらのために神の怒りが下り、神の約束の地、乳と蜜の流れる素晴らしい祝福に満ちた約束の地(➡神の国)を目の前にして滅ぼされてしまったイスラエルの民。このことを通してでしょうか、パウロはコロサイ人への手紙3章で「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります」(コロ35-6)と教えています。出エジプトを果たしたイスラエルの民は確かに神に選ばれた神の民ではありましたが、その恵みを忘れ偶像礼拝をしたために滅ぼされてしまったのです。

「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」。この「避ける」というギリシャ語は「逃げる、走って逃げ去る、脱出する」という意味の語です。また聖書は別のところで「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」(Ⅰヨハ521)と言っています。私の愛する者たちよ、私が霊的に生んだ私の子どもたちよ、神に愛されている神の子どもたちよ、偶像礼拝を避けなさい。偶像から自分を守るために、偶像礼拝から逃げなさい、脱出しなさいと。淫らな欲に満ちた町ソドムが神の怒りによって滅ぼされようとした時、ロトがその町からの脱出を命じられ、それに従って必至に走って逃げ出したように。その時、ロトのうしろにいたロトの妻は、振り返って塩の柱にされてしまいましたが、そのように振り返ることもせずに必至になって偶像礼拝から脱出するようにと、パウロは自分が霊的に生んだ愛する子どもたちに懇願しているようです。

パウロは偶像礼拝の罪に立ち向かって戦えとは言わないのです。エペソ人への手紙6章でも、「偶像礼拝に誘うサタン、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。神のすべての武具をとりなさい。腰には真理の帯を。胸には正義の胸当てを。そして信仰の盾を取り、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペ611-17)と言っています。これらはすべて立ち向かって戦うためのものではなく、自分を守るためのものでしょう。霊的な世界で自らを過信し、戦いを挑むならばどうなるか。恐らく負けてしまいます。それに立ち向かったらそちらに目が行ってしまい、そちらに引っ張って行かれてしまうでしょう。私たちは弱いのです。そして気づけば捕らえられ、罪の奴隷にされ、滅びへと引っ張って行かれてしまっていたなんてことがあっては大変なのです。

ところで、偶像とは何でしょうか。すでにご存知かと思いますが確認のために申し上げます。偶像とは、神よりも大事にするものすべてです。礼拝よりも別の何かを優先したり、礼拝中に何か別のことをしてみたり、別のことの方が気になってそちらに思いが持って行かれたり。そのようなものの上に神の怒りが下るのだと、厳しいようですが、そのように聖書は厳しく「警告」しているのです。愛するわが子よ、そうであってはならないと、神はご自身の愛をみことばにして私たちに教えているのです。

しかし、私たちがたとえよそ見をして神から目を逸らしてしまう時があったとしても、私たちがたとえ神を一瞬でも忘れてしまう時があったとしても、神は私たちから目を逸らされず、私たちを一瞬でも忘れてしまわれることなどないお方です。神は私たちを忘れることをなさらずに、イエス・キリストを十字架につけられることにより私たちの罪を忘れてくださるのです。そして私たちの罪に目を留めるのではなく、私たちがこれまで神を愛し、神に仕え、聖徒たちに仕え、教会に仕えてきたこと。本当に小さな奉仕。そちらの方にこそ目を留めてくださるのです。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません」(ヘブ610)とヘブル人への手紙の著者は言っています。親に言われたから嫌々ながら礼拝に来た。何か義理とか義務とか習慣のようにして礼拝に来た。礼拝に来たものの、他のことが気になっている。それでも神は礼拝に来たこと、それでも私たちの内にある本当に小さなご自身への愛、神への奉仕、献身を見いだしてくださり、その愛をわたしは忘れない、覚えていると仰ってくださるのです。何という恵みでしょうか。そして恵みによって私たちのご自身への信仰を色々な形で励ましてくださっているのです。神は不公平な方ではない。神は義なるお方である。その神の公平、神の義というのは、私たちすべての人間の罪に対する厳しいさばきにおいて表されるだけではないのです。ご自身に対する私たちの本当にごく小さな愛、ごく小さな奉仕に対する恵み深いお取り扱いにおいてこそ表されるのです。言うまでもなく、私たちが救われるのは、神が私たちの善い行いを良しとする、ほめてくださるからではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰を通して、神の賜物として、ギフトとして無償で与えられるものです。しかし神は、私たちのいかに小さく貧しい神への愛、神への奉仕(礼拝)、献身に目を留め、それを覚え、喜んで受け入れてくださる。私たちの不完全で小さな愛でしかないのに、小さな奉仕でしかないのに、神はそれに大きく報いてくださることにおいて、ご自身の義を表してくださり、その祝福にあずからせてくださるのです。そんな幸いな者とされているのにもかかわらず、これほどまでに神に愛されているにもかかわらず、偶像に走って行って良いものだろうか。偶像に引っ張られてしまって良いものだろうか。ですから「偶像礼拝を避けなさい。逃げ出しなさい。必至に脱出しなさい。いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。そうでないと滅ぼされてしまうから」。パウロはそのように教えます。

10章15節    私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。

パウロは「あなたたちは賢いのだから、私が言うことを自分で判断しなさい。自分で判断し、決めて、決心しなさい」と言います。私たちは偶像礼拝を「避ける、逃げ出す、必至に脱出する、いのちがけで逃げる、決してうしろを振り返らない」ことを、自分で判断し、自分で決心しなければなりません。先ほどの「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので塩の柱になってしまった」(創1926)というところ。それは夫がそう言ったから従っただけで、自分で判断し、自分で決心しなかったために滅ぼされてしまったことを暗示しているのではないでしょうか。私たちもただ言われたからとか、ただついていくだけではだめなのです。

聖餐に対する理解

続く16節からは、私たちが月に一度あずかっている聖餐の恵みについて語られます。その恵みを通しての世の終わりに生きる私たちへの警告でもあります。

10章16節    私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10章17節    パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
10章18節    肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。

「賛美の杯」とは少々難しい表現ですが、ギリシャ語の意味からすると「神から授かる具体的な恵みとしての杯」であるということです。そしてキリストのからであるパンを裂く。ここは明らかに聖餐式のことを言っています。また、「祭壇の交わり」は「主の食卓の交わり(聖餐式)」に共通点を見つけることができ、「主の食卓の交わり(聖餐式)」は「天の御国での食卓の交わり」に共通点を見つけることができます。

聖餐式の式文の序言にはこのように記されています。「聖餐は、主イエス・キリストが守るようにと定め、教会に与えた、救いの契約のしるしと保証です。それは、目に見えない霊的な事柄を、目に見えるしるしによって明らかにしたものです。聖餐そのものは、私たちの内に信仰を生み出すものではなく、聖霊の働きによって私たちの信仰を強め、神の救いの約束をいよいよ確信させ、保証するものです」。そして式辞では次のように述べられます。「聖餐は、主イエス・キリストが十字架につけられる前夜、弟子たちとともに最後の食事をとる時に制定された新しい契約の礼典です。主は主の再臨の日まで主の死を告げ知らせるためにこれを守るようにと命じられました。この聖餐にあずかる時、主は聖霊の働きによって私たち1人1人の内に親しく臨んでくださいます。これによって教会全体に主の霊が満たされて、私たちは終わりの日に向かって希望をもって前進させていただくのです。そのため聖餐にあずかる人は、神の御前に自分自身を深く吟味し、悔い改めと信仰をもってこれに臨んでください」。

「〜にあずかる」と私たちは良く言いますが、その意味をよくご存知でしょうか。「あずかる(ギリシャ語でκοινωνία)」というのは、そこに参加するとか、関わるとか、そのようなことを言うのではなく、「親密な関係、まったくの結合、一心同体となる」ことを意味しています。そして教会は主の1つからだです。からだの1部分が偶像礼拝などの罪を犯すならば、1人の人が犯した罪によって民全体が滅ぼされてしまったのと同様に、教会全体に悪影響を及ぼすのです。そのような霊的世界が現実にあるのです。しかしその逆も然りです。ある先生が言われました。「教会で奏楽上手だねってほめられたら、自分がほめられたと思って喜びなさい」と。

10章19節    私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

少しさかのぼって、8章のところでパウロは、「さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています」(84)と述べました。そして当時コリントの町に当たり前のように存在し、そこに住む人々の崇拝の対象とされていたジュピターやミネルバ、アフロディトといったギリシャやローマなどの神々をいっさい架空のものと宣言しました。またこの日本に、長野市に当たり前のように存在し、そこに住む人びとの崇拝の対象とされている様々な神々もまた同じで、そのような偶像の神々は実際には存在しないということを私たちは知っています。本当に存在するのは、唯一の神、天地万物の創造主、私たちの主イエス・キリストの父なる神のみ。偶像などというものは何者でもなく、目に見えるものとしては石や木や金属で造られたもの、ただの塊にすぎない。詩篇の記者も言います。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない」(詩1154-7)。

8章でパウロは偶像を否定した後で「弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」(89)と言って、もっぱら主にある兄弟姉妹に対する愛の配慮のために身を慎むようにと言う勧めをしていました。ところが、ここでは明らかに偶像には何か力があり、気をつけろ、避けろ、逃げろと言っています。その意味、理由とは何でしょうか。そこには目に見えない霊的な世界があるということでしょう。そちらにこそ気をつけろということでしょう。

10章20節    むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

「悪霊と交わる」。この「交わる」もまた、先ほどの16〜18節の「あずかる」と同じギリシャ語(κοινωνία)が用いられています。つまり「悪霊と親密な関係、まったくの結合、一心同体となる」ということです。神に私たちを、私たちの霊を、心を献げられるのであるならば、私たちは神と親密な関係、まったくの結合、一心同体となる。しかし悪霊に私たちを、私たちの霊を、心を献げるのであるならば、私たちは悪霊と親密な関係、まったくの結合、一心同体となってしまう。私たちは簡単に偶像礼拝を考え、実行してしまう者たちではないでしょうか。先ほども申しましたが、偶像とは神よりも大事にするすべてのものです。神から目を移し、自分を富ませ、自分を高め、自分の欲望を満たし、自分を幸せにしてくれそうな何かに目を留め、そこに心を注いでしまうならば、実はそこに重大な、恐ろしい霊的な世界があるのです。そのことを私たちは認識しているでしょうか。もしかしたら本当には認識出来ていないのではないでしょうか。だからこそ聖書はパウロを通して「あなたたちは賢いのだから、わたしが言うことを自分で判断しなさい。自分で判断し、決めて、決心しなさい」と言うのでしょう。「偶像礼拝を避ける、逃げ出す、必至に脱出する、いのちがけで逃げる、決してうしろを振り返らない」ことを、自分で判断し、自分で決心しなければならない、何としても危険を回避するようにと言うのでしょう。そうでないと、約束の地を目の前にして滅ぼされてしまうよ、神が上に召してくださるという、その賞を得られなくなってしまうよと、愛をもって警告しているのでしょう。

愛の警告は続きます。

10章21節    あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

私たちイエス・キリストの十字架と復活を信じ受け入れた者は、聖餐によってキリストの肉と血とにあずかっているではありませんか。言い換えれば、聖餐によって、恵みによってキリストと一体となっているのです。ともにおられるどころではないのです。このような私であるのに、親密な関係、まったくの結合、一心同体となってくださっている。それにもかかわらず、キリストにある者が悪霊の杯を飲み、悪霊の食卓にあずかることによって、悪霊と一体となってしまうならばどうなるか。

偶像に自ら近づいて、その背後にいる悪霊どもの食卓につくことと、キリストの恵みに進み出て、聖餐によってキリストの血とからだにあずかることとは、全く相容れない行為、どちらか一方のみが可能なのだということを言って、パウロはコリントのキリスト者たちに厳しく選択を迫っています。同時に私たち同じ手紙を読む者にも、世の終わりに生き、ますます霊的な世界においては戦いが激しさを増す、そこに生きる私たちにも厳しく選択を迫っています。そしてパウロは言うのです。「私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくはありません。私が生んだ、私の愛する子たちよ」と。

10章22節    それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

私たちは主のねたみを引き起こす必要はないのです。神はすでに私たちを、ねたむほどに愛しておられるからです。それほどの愛がすでに注がれているからです。

しかし私たちが何か勘違いをして、神に指示を出せる立場のように思って高ぶり、主を試すようなことはしてはなりません。主はそのような高慢な思いを砕かれます。そのことについても、世の終わりを生きる私たちへの教訓とするために、旧約聖書にはこのような出来事が記録されています。「イスラエルの民は、自分を造った神を捨て、自分の救いの岩(キリストの恵み)を軽んじた。彼らは異なる神々で主のねたみを引き起こした。忌み嫌うべきもので、主の怒りを燃えさせた。彼らは、神ではない悪霊どもにいけにえを献げた。彼らの知らなかった神々に、近ごろ出て来た新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々に」(申3215-17)。その結果、どうなったでしょうか。「主は言われた。『わたしの顔を彼らから隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。・・・彼らは、神でないものでわたしのねたみを引き起こし、彼らの空しいものでわたしの怒りを燃えさせた』」(申3220-21)。「主は言われた。『わたしの顔を彼らから隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう』。これが主のさばきです。人をその欲望に引き渡し、なすがままにされること。見て見ぬ振りをされてしまう。何とも悲しく、何とも寂しいことではないでしょうか。そんなの嫌ではないですか。

サタン(元来は「敵対者」という意味。神の計画を破壊する者。サタンは悪意を持って常に神とその民に敵対する現実的存在。神の前に立ち、神の民を告訴する者)のやり方です。人間にいかにも良さそうなものを見せ、それを偶像にし、偶像を求めさせ、そして神に背を向けさせ、神に背かせ、神が約束される約束の地ではなく、自分の欲望を目指し、そちらの方向に進ませる。そのような強力な霊的な力は、今もこの現実世界にも満ちているのです。

しかし、もし私たちが、ねたむほどに私たちを愛される神の愛に目が開かれるならば、そちらの霊的な力、今もこの現実世界に満ちている神の愛にこそ目が開かれ、それに注目するならば、サタンの力は私たちに何の効力も持つことはできないでしょう。神は私たちをねたむほどに愛され、ご自身の御子イエス・キリストをこの世にお送りくださいました。そしてイエス・キリストを十字架につけられ、私たちの罪とともに葬り、そして3日目によみがえらされました。そしてそのことを信じ、主に感謝し、主を愛し、主に御霊と真実をもって礼拝を献げる者には、私たちの身と霊とを主に献げるならば、ご自身との完全な平和な関係、親密な関係を与えてくださいます。たとえ不完全であり、本当に小さな愛であっても、主はそれを喜んで受け入れてくださいます。

パウロは愛をもって懇願します。「愛する者たちよ。私が福音を伝え、私が生んだ愛するわが子たちよ。コリントの教会よ。偶像礼拝を避けなさい。あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくないのです」と。私たちに福音を届け、私たちを霊的に生んでくださった信仰の先達たちは言われるのではないでしょうか。「愛する者たちよ。私が福音を伝え、私が生んだ愛するわが子たちよ。長野聖書教会よ。偶像礼拝を避けなさい。あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくないのです」と。また私たちも、私たちが多くの犠牲をもって福音を届け、信じて救われ、神の子とされた人たちに対しては、文字通りそれがわが子であったり、あるいは家族であったり、友人や知人であったりですが、同じように懇願するのではないでしょうか。「愛する者たちよ。私が福音を伝え、私が生んだ愛するわが子たちよ。偶像礼拝を避けなさい。あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくないのです」と。ですから私たちもパウロの思い、いや神の御思い、愛の深さが分かるのではないでしょうか。

今、私たちはこの素晴らしい恵み、私たちを取り囲む霊的な恵みの世界に生かされていることにこそ目が開かれ、ますます主を愛し、主を信頼し、神が約束される地、神が召してくださる神の国、天の御国を目指して一直線に、脇目も振らず歩んでまいりたいと思います。賞を得るように、賞を得るためにあらゆることにおいて節制し、偶像礼拝を避け、走り抜きたいと思います。自分で判断し、自分で決心するのです。

節制する、偶像礼拝を避ける、自分の欲望を制しようとする時に試練が襲うでしょう。サタンの激しい攻撃から自分を守ろうとする時に、痛みや苦しみや困難が伴うでしょう。しかし神の約束があります。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(1013)。そしてその道は主がともにおられる道。ともにおられるどころではない、一心同体となってくださっている道。共に重荷を負い、共に泣き、共に喜んでくださる道。そのような霊的な世界に生かされていることをますます認識し、実感し、感動し、私たちはともにこの現実世界において、霊的な世界を喜んで歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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