2025年9月21日 主日礼拝「キリストのからだなる教会」

賛  美  新聖歌259「聖いふみは教える」
      新聖歌382「心から願うのは」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇1篇
讃  美  讃美歌70「父、み子、み霊の」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌324「主イエスは救いを」
聖書朗読  コリント人への手紙 第一 12章12〜20節
説  教  「キリストのからだなる教会」
讃  美  讃美歌504「実れる田の面は」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 12章12節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙 第一 12章12〜20節

説教題

「キリストのからだなる教会」

今週の聖句

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

コリント人への手紙 第一 12章12節

「キリストのからだなる教会」

コリント人への手紙 第一 12章12〜20節

○コリントの教会に不満、反発、分裂があったのはなぜでしょうか。今日の箇所から自分なりに考えて書き出してみましょう。

○そこから主が「私」と「私たち」に示されたことは何でしたか。それを今日から実践しましょう。

体のたとえ——

この世でも、社会の構造や仕組みを体にたとえて説明することがあります。一番身近なところでは、家族、会社、何かの団体などのトップのことを「頭(あたま・かしら)」と言ったりします。日本とく国では「国体」などと言われます。これは日本という国家の状態、お国柄のこと。または国のあり方、国家の根本体制のことを言います。しかし戦前や戦中には天皇中心の体制を絶対視する危険な思想として用いられました。また世界に目を向けてみても、昔から政治や会社内に起こる問題に対して「体」をテーマとして説明したり、説得したりすることが試みられてきたようです。古い記録によると、イエス様がお生まれになる500年も前、日本では縄文時代から弥生時代に移ろうとしていた昔々から、「体」というイメージが用いられ、「身分上の多様性があるところには調和が必要である」ことが一生懸命説明と言いますが、説得されていた記録があります。例えばローマでは、労働を拒否する、あるいは反抗する労働者たちに「一生懸命働け、従え」と命じ、「お前たち労働者と奴隷は体の足なのだ。働くことがお前たちの役割なのだ。だから体の『頭』と『胸』(当時はこの2つが体の最重要部分と考えられていたのでしょう)である統治者のために、食糧を生産するように」と促した、と言うよりも強制したのです。

このように昔から現代に至るまで、社会の構造や仕組みを体にたとえて説明されてきたわけですから、今の私たちにも「体」というイメージによる説明は決して理解できないものではないでしょう。しかし理解できたとしても、ほんの一部の『頭』とか『胸』とかとされている人たちを除いて、ほとんどの支配下に置かれている弱い立場にある人たちの心には、強い反発の思いが噴出するのではないでしょうか。これがこの世において体にたとえられる社会の構造や仕組み、つまり「支配」の形です。

この「体」のイメージを用いて、パウロはここから教会についてコリントの聖徒たちに説明して行きます。これまでコリント人への手紙の中で見てきたように、コリントの教会には内部に分裂がありました。身分や貧富の差、そして賜物の違いや差による悩み、混乱、分裂や争いがありました。そのようなコリントの教会に対して、パウロはこの世でもおなじみの「体」というイメージを用いて説明説得に入るわけですが、その結論というのは、この世のそれとは正反対の結論に至るのです。この世の罪によって汚された支配ではない。教会は神の心(胸・神の胸にある親心、御霊)が宿るキリストを頭(かしら)とする一つからだであって、三位一体なる神がご支配されるところなのだと。何度もお話ししているのですが、皆さん「支配」という漢字を書いてみてください。そこに何が見られますか。「支え」と「配慮」です。これが神が創造された本来の支配の形なのです。そこには美しい(トーヴ)秩序があるのです。三位一体なる神が教会をご支配なさるというのは、ご自身のからだである教会を愛する、本当に大切にするその愛による支え、そして配慮なのです。この世の権威者『頭』『胸』による支配ではない。不満や反発や分裂をもたらす支配ではない。教会の『頭』『胸』であられる三位一体の神が手落ちのないように、良い結果になるようにあれこれと心を配っておられる。そのような恵みの支配下に置かれているならば、そこには不満や反発や分裂は起こらないのではないでしょうか。常に喜びがあり、祈りがあり、感謝があり、平安があり、一致があるはずでしょう。ところがコリントの教会には不満、反発、分裂があった。なぜでしょうか。いつの間にか自分が教会の『頭』『胸』になってしまっていたのかもしれません。

私たちは「キリスト」である!

12章12節    ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

「キリストもそれと同様」? パウロは何を言っているのでしょう。パウロはコリントの教会を、私たち教会を「キリスト」だと言うのです。さらっと言っていますが、相当凄いことを言っていると思います。あなたがたはもはやキリストなのだと言っているのです。父なる神は御心によって自由に私たちを選び、ご自分の子としてくださいました。これは養子にするというものです。それは信じられない恵みによって家族の一員、一部分に加えられたのかもしれない。しかしもはや神の目に、まことの子であるキリストと養子とされた私たちの身分には何の差もない。御子とかわらずに、真の父の愛による支えと配慮、神が手落ちのないように、良い結果になるようにあれこれと心を配っておられる。それほどの恵みを、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いとそれを信じる信仰によっていただいているのです。本当に感謝なことではないでしょうか。嬉しいことではないでしょうか。しかしキリストとされた、別の箇所では「キリストを着た」と言われていますが、それは私たちに与えられている個性がなくなったということでしょうか。全員キリストになった?全員頭になった?

そうではありません。神は私たちに与えられている個性を認め、丸ごと愛し、大切にされ、必要として選んでくださったのです。子としてくださったのです。また突き詰めるならば、私たちの個性さえも私たちを造られた神が私たちに与えられたものでしょう。私たちはそう信じる者たちです。個性、賜物も神が自由に私たちに与えられたもの。それを神が用いたいと思っておられるのは当然のことです。それを互いに認めず、あるいは自分でも認めずに批判し、互いの個性や賜物を、自分の個性や賜物を殺してしまってはならないのです。同時に聖書は、神の御心、恵みによって私たちに与えられている個性や賜物について、ローマの信徒に宛てたローマ人への手紙12章で「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」(ロマ123)とも教えています。自分の個性や賜物を武器にして自分勝手に振り回し、相手を倒そうとするならば、この世の支配者、この世の『頭・胸』と同じです。「こんな私、こんな自分の個性や賜物ですけれども、主が最善に用いてくださいますように」と切に祈りたいものです。そうすれば私たちの思いをはるかに超えた平安が与えられます。「こんな私、こんな個性、こんな賜物」。へりくだるのは良いことですが、神が与えてくださったものを「こんな」と言ってしまって良いのでしょうか。

からだの部分、器官

パウロはローマ人への手紙で続けてこう言います。これはコリント人への手紙第一12章12節と同じ事を言っています。

【ローマ人への手紙】
12章4節      一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12章5節      大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

改めて「器官」とは何でしょうか。器官とは生き物の体を構成する単位です。そして体を“活かす”ためにそれぞれが特定の機能を果たすものです。パウロは「ちょうど、ぴったり同じように」教会もそのようなものだと言います。パウロは教会を人間の体にたとえながら、からだなる教会は実に多様な部分から成っているのだと語ります。

私たちの体のことを考えてみましょう。神は世の初めに、ご自身のかたちに人間を造られました。神は無駄なものは何一つ造られませんでした。もし鼻が息をしないとか、喉が食べ物を通さないとか、心臓が動きを止めてしまうならば、からだ全体が死に至ってしまいます。ちょうど、ぴったり同じように、教会に召された聖徒はみな、一人ひとりの個性や賜物、重要な働き、役割があるのです。全員です。もれなく、ひとり残らず、です。

昔、無駄な臓器とされてきたかわいそうな「虫垂(盲腸から突き出た細長い管のような器官)」ですが、今では研究の結果、体内に侵入した病原体などを攻撃する免疫細胞を造る働きをしたり、腸内環境のバランスを保ったりするなど、重要な役割を持つ器官だということが分かっています。ですから、できる限り切除しない方が良いと考えられているようです。虫垂を失ったならば、からだ全体に別の負荷が掛かってくるからです。だから最近、あまり盲腸を切ったという話しを聞かなくなったのかもしれません。切り取ってしまうだけではありません。からだの器官の一つでも、任された機能を十分に果たせないならば、からだ全体に悪影響をもたらしてしまうのです。それは教会でも同じで、一見役に立たないように見える人が、役に立たないと思ってしまっている人が、実は教会に欠くことができない役割があり、重要な存在だったりするのです。

また、私たちの器官を良く観察すると、一つの器官は多くの目的のために造られているのだということも見えてこないでしょうか。口は食べるため、話すため、鼻が詰まってしまった時などは呼吸するという役割も与えられています。その鼻は呼吸する他に、臭いを嗅いだり、ウイルスや細菌、花粉などを鼻水とともに体外へ排出したり。先ほどの盲腸もそう。それぞれの器官に適した働きが必ずあり、またたくさんの働きがあるのです。自分の働きは何なのか、良く考え、研究し、働きを与えられた神に祈り求め、教えていただき、そしてそれをより良く用いていくのです。誰のためでしょうか。体の『頭』と『胸』である統治者なる神のために。ご自身のからだである教会を愛する、本当に大切にするその愛によって支え配慮されておられる神の教会ために。そしてからだの器官、教会の部分とされているすべてお互いのために。神がお考え(頭)によって創造され、神の御心(胸・親心、聖霊)が注がれている私たちが、キリストのからだの部分として神の御旨のとおりに本来の姿に活かされていく。それによって皆が活かされて、皆が喜んでいる教会。それこそ、生き生きと生きた教会、健康健全な教会です。そのような教会であるならば、自ずと成長して行く、建て上げられて行くことでしょう。イエス様も「神の国はこのようなものだ」と言われました。この世の支配、罪に汚れてしまった支配によって混乱し、争いがあり、悲しみがあり、分裂があるこの世にあって、キリストの教会は、本来の神が本来のご支配をなさる素晴らしい神の国をあらわし、そして建て上げて行く。広げていく。そしてそこに世の人々を招いて行くのです。

1つの御霊を飲んで

12章13節    私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

恵みによって神の子キリストとされ、一つのからだとされた私たちは、主によってそれぞれの所から召されました。「所」というのは、国籍、環境、その時の状況、境遇、その時の苦しい悩みや悲しみの状態などのことです。それぞれ違います。しかし皆、一つの御霊によって召されたのです。神の御霊。神の御心。真の親心によって召されたのです。皆さんどうですか。それぞれの所でもがき苦しみ、沈みそうになって必至に助け救いを求める私たちの腕を、神は真の父の心で掴み、死の淵から引き上げてくださいました。そして神の子とされたのです。

「バプテスマ」とはご存知「洗礼」のことですが、本来は罪が水で綺麗に洗われるというものではなく、「水葬(海や川、湖など水に遺体を沈めて葬る葬儀の方法)」です。そこから引き上げられた。新しいいのちが与えられ、神の子として生まれ変わった。神の家族に入れられ、一つからだなる教会に迎え入れられた。そして天の御国の国籍を持つ真の神の子として新しく生まれ変わった。そこから成長して行く。それが私たちです。まさに聖書が「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(ロマ64)と言っている通りです。

新しいいのちによって生まれ変わったばかりの私たちは、もしかしたら何も分からない生まれたての赤ちゃんのように、乳を慕い求めて泣きわめくだけの者だったのかもしれません。そのような私たちを、常に父なる神は見守り、優しく、神の伸ばされた御腕であるキリストを通して、神の愛、あわれみ、救いに飢え渇く私たちの魂に、生ける水、つまり御霊を飲ませられました。そのようにして私たちは今に至るまで、神の愛に守られて育まれ、成長させていただいて来たのです。神が与えられたそれぞれの賜物をもって成長してきたのです。

成長とともに

ところが、死の淵から引き上げられた私たちではありましたが、未だに罪の性質が完全には拭い切れていなかったのでしょうか。キリストとともに完全に葬られていなかったのでしょうか。子どもが成長すると自己主張が強くなって来る。それは肉のわが子を見ると切実に感じるものではありますが・・・。自己主張、そのほとんどは不平不満でしょう。その矛先は親に向かい、また同じ親から生まれた他の子、つまり兄弟や姉妹に向かうのです。

12章14節    実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12章15節    たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12章16節    たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12章17節    もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12章18節    しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12章19節    もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12章20節    しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。

自己主張、不平不満の矛先はまず父なる神に向かいます。そして兄弟姉妹に向かうのです。何に対する不平不満なのでしょうか。神がこの私に与えておられる賜物、神があの人に与えておられる賜物に対してです。コリントの教会で言うならば、それは神が与えられた国籍、環境、身分や境遇に対して。また、教会の中で偏って重んじられていた異言という特定の賜物に対してのことでした。あの人は恵まれていていいな。あんなに素晴らしい賜物があっていいな。私はこんなにも恵まれていない。主よ、どうしてですか。あの人はあんなにも用いられている。けれど私なんて何の役にも立っていないのではないだろうか。そのように人に思わせてしまうのには、「恵まれている、用いられている」と思われている人たちの高慢があったのでしょう。高慢があり、蔑むような雰囲気があり、そしてそこに対立や分裂があったのでしょう。

パウロは15節の足と、16節の耳が語る仮想の台詞のようなものを通して、自分をとても重要に思って他の人を軽んじる態度が正しくないこと。そして反対に自分を軽んじて他の人をうらやんだりする態度が正しくないことを説明します。

パウロは、全身が目や耳であったら、体がまともに機能できないではないか。体が多様な各部分を必要とするように、教会は聖徒の互いが必要であることを説得するのです。しかし、昔からあるこの世の説得のように、労働を拒否する労働者たちに「一生懸命働け」と命じ、「お前たち労働者と奴隷はからの足なのだ。働くことがお前たちの役割なのだ。だから体の『頭』と『胸』(どちらも体の最重要部分として)である統治者のために、お前たち労働者と奴隷はただ一生懸命働け!」と強制したのではなく、神の愛と恵みを前提にして、各自が神に与えられ、また置かれた役割を十分果たして、同じ目的、つまり神のお考え、神の御心のために喜んで、互いの違いを認め、違いこそ喜んで受け入れ、ともに神と教会、お互いのために仕えて行こうではないかと説得しているのです。あなたがたは神の愛、全知全能なる父なる神の完全な御心によって、全員が同じからだ(教会)を構成し建て上げられて行くために召された大切な一人一人なのだから、強い部分は弱い部分の大切さを認めて配慮すべきであるし、また、自分は弱い部分だからと言って劣等感を持って、自分に与えられているすべてを軽んじるべきではない。お互いに、相手も、そして自分も、本当に尊い存在であることを認めるように。認めて自分に与えられているものに満足し、感謝し、神と教会のために最善に用いるようにと説得しているのです。そしてそれは必然的にからだの一部分とされている自分のためにもなるのです。それが神のくださる良い報いというものでしょう。

神は「みこころにしたがって」それぞれの部分を必要とし、からだに、教会に備えてくださいました。教会に様々な人が集まり、様々な御霊の賜物を持つ人が召されている根本的な原因は神なのです。賜物を与えておられるのは、唯一の父なる神なのです。あなたの賜物も、あの人の賜物も、同じ父なる神が与えられたもの。そして神は様々なそれぞれに違った賜物を必要とし、尊いとし、用いられるお方です。どんな賜物も無駄なもの、不必要なものなど一つもないのです。必ず意味がある。必ず神のお考えと御旨(愛)があるのです。

そこでパウロは教会の中で際立っている賜物を持っている聖徒には、忠実で謙遜に、すべての兄弟姉妹を尊重しなさいと勧めます。つまりこのように言っているのでしょう。「たとえあなたに特別な賜物があるとしても、あなたがからだの要求する全部だと思ったり、あるいは自分は最高だ!と思ったりしてはならない」ということです。それとともに、それとは反対に、教会の中で誰かと比べてあまり目立たず、際立っていない賜物を持っている聖徒に対しては、自分の賜物を決して軽んじることなく、また他の兄弟姉妹の賜物をうらやんではならないと勧めます。「たとえ、あなたには華やかで際立っている賜物はなくても、キリストのからだなる教会の一員として、あなたはあなただけに与えられている賜物があって、それこそが重要なのだから、それを神と教会のために十分に発揮するべきですよ」と励ますのです。

パウロはからだのたとえを通して、教会を構成する一人ひとりの重要性を強調しています。見た目にはあまり重要に見えないとしても、その部位を失ったり、痛んでしまうとからだ全体が力を発揮できなくなると語ります。ですから、厳しいようですが自分が持っている賜物が他の人の賜物よりも重要だとか、あるいは重要ではないと考えてしまうことは両方とも高慢の罪です。一つのからだとなった教会を理解しようとしない態度なのです。神の愛と御心を蔑み、分かろうとしない態度です。罪があって、そこに傷や痛みがあるならば、からだ全体に悪い影響を及ぼしてしまうのです。

私たちキリストのからだなる教会の『頭』と『胸』は主なる神、父なる神です。そして私たちは各器官として召されている。それはこの世的な罪の支配ではなく、どこまでも全地全能にしてなおも父の愛をお持ちである神の完全なるご計画、御旨、御心によるものです。三位一体なる神が教会をご支配なさるというのは、ご自身のからだである教会を愛する、本当に大切にするその愛による支え、そして配慮なのです。この世の権威者『頭』『胸』による支配ではない。不満や反発や分裂をもたらす支配ではない。『頭』『胸』である神が手落ちのないように、良い結果になるようにあれこれと心を配っておられる。そのような恵みの支配下に置かれているならば、そこには不満や反発や分裂は起こらないのではないでしょうか。常に喜びがあり、祈りがあり、感謝があり、平安があり、一致があるはずでしょう。

パウロは人種的、社会的身分による差別があり、そこに分裂や争いがあったというコリントの教会においての難しい問題の中で、教会を人間のからだにたとえながら、からだが本当に多様な部分から成っていると語りました。キリストは十字架によってあらゆる人間的な隔ての壁を打ち壊されました。民族、身分、文化も、その関係を妨げるものになってはなりません。愛と奉仕による一致があってこそキリストの教会です。それは人種的、社会的身分による差別がないと思われる現代の私たち教会にも同じように言えることです。そして体にとってどの部分も、どんな部分も、盲腸から突き出て垂れ下がっている「虫垂」のように、どんなに小さくて目立たなくても、人間の目に無駄なように見えても、研究して突き詰めて見るならばかえってその部分こそが重要で尊いのだと、神の御心を語りました。そしてさらに、それぞれが与えられている賜物を用いて、からだの各部分が互いに協力して行くべきことも語りました。口が食べたいと思っても、足や手が動かなければ食べられないのです。各部分は互いに結ばれていて、ある部分の不調は他の部分の不調につながり、最悪の場合は死に至ってしまうのです。

また、人間のからだの各部分がお互いに協力して無駄なく働けているのは、脳からの指示によるのではないでしょうか。脳からの指示系統に異常が生じると、からだの部分が正常に機能しなくなってしまいます。キリストではなく、人が教会の脳、『頭』『胸』のようになってしまい、教会に分裂を引き起こしたり、教会を自分の思いのままにしようとしたりするのでは、教会としての機能を果たせなくなってしまうのです。ですから教会の各部分をなす聖徒(私たち)は、キリストの愛によって結ばれ、謙遜に神がそれぞれに与えられたそれぞれの使命を果たして互いに協力し、教会としての使命を果たして行けるようにする必要があります。

賜物が与えられている目的

私たちに賜物が与えられている目的は、教会に仕えることにあります。また、私たちに賜物が与えられているのは、奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちは神に愛され、大切にされ、尊ばれ、召されている者として、かしらなるキリストを愛し、お互いに愛し合い、自分に与えられている賜物に感謝し、有効に用いて、キリストのからだなる教会を建て上げてまいりましょう。罪に満ちたこの世の真ん中で、素晴らしい神の国をあらわし、ここに罪に苦しみ救いを求めている人々を招いてまいりたいと思います。

この後賛美する讃美歌は、ちょうどこの時期にぴったりの賛美です。私は金曜日に母を篠ノ井の医院に連れて行ったのですが、道中、刈り取りを待つこうべを垂れる稲穂の田の面、またすでに刈り取られた田を見ました。イエス様の言われたみことばを思い出しました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタ937-38)。神はすべての人が救われて、真理を知ることを願われているお方。この時期にちょうどぴったりの賛美を通して、私たちをも救った、主のやさしいお考え、御旨を覚えたいと思います。御心を成すために、まず私たちが神のお考えと御旨に従順に、与えられている賜物を活かしてそれぞれが働き手となりましょう。キリストのからだ教会の『頭』と『胸』、支配者なる主。支えと配慮をもって教会に確かな愛の御心をお持ちの主のために、私たちは主を信じ、主に感謝し、喜んで私たちの賜物を献げ、用い、教会が一致して神の恵みを証し、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。収穫をしてまいりましょう。人々を教会に、主の御前にお連れするのです。

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