2025年12月14日 主日礼拝「復活の初穂となられたイエス」
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 イザヤ書11章1〜5節
讃 美 讃美歌96「エサイの根より」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌97「朝日は昇りて」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 15章20〜34節
説 教 「復活の初穂となられたイエス」
讃 美 讃美歌171「なおしばしの」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 15章20節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 15章20〜34節
説教題
「復活の初穂となられたイエス」
今週の聖句
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
コリント人への手紙 第一 15章20節
「復活の初穂となられたイエス」
コリント人への手紙 第一 15章20〜34節
【ギリシャ語一口メモ】
- 「初穂・ἀπαρχή」first-fruits 収穫された最初の農作物、最初の成果。宗教的な意味として、最初の収穫、最初の成果を神に献げる行為。このような信仰は当時の古代ギリシャ、ローマ、ヘブライ人の宗教に見られた。
偉大な出来事——
2025年のアドベントは3週目を迎えました。イエス様の一度目の来臨であるクリスマスを記念する日はもう間もなくです。そして私たちが今待ち望んでいるイエス様の2度目の到来、再臨もまた、確実に近づいています。もし今日、イエス様が再臨なさったら、この世界はどのように変えられるのでしょうか。
ところで、世を変えてしまうような出来事が、これまでいくつも歴史の中で起きてきました。日本におけるクーデター「大化の改新」や、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の戦い」、日本を急速に近代化させる大きな転換点となった「明治維新」など。世界史では「コロンブスのアメリカ到達」、「宗教改革」、「フランス革命」、「産業革命」、「第一次世界大戦」、「インターネットの登場」など、社会や技術、思想や文化に計り知れない影響を与えたものが数多くあります。しかしもしパウロが現代に生きていたならば、「そのいずれも、神であるイエス・キリストが人となってこの世に降られ、十字架につけられて死に、3日目によみがえられた。この歴史上の出来事が人間に与えた影響とは比べものにならないのではないか」。そのように言うのではないかと思います。大きな転換点となる出来事にはそれぞれ中心人物がいて、彼らが国全体に、世界全体に変化をもたらしたことはまことに偉大なことだと思います。しかし人間同士の対立、傷つけ合い、殺し合うことが伴うようなものは決して偉大だとは言えないでしょう。それに対して、イエス・キリストの誕生、十字架、復活は、どれだけ世界に大きな変化をもたらし、どれだけの人々に良い変化をもたらしたでしょうか。人間同士が愛し合い、赦し合うことへと導かれた偉大な方。「あなたは生きなさい」と偉大なしるしを行われた方。これからイエス・キリストが再びこの世に来られたら、世界に、またどれだけの人々に、どれだけの変化をもたらすでしょうか。私たちは今、このイエス・キリストの1度目の来臨を祝い、そして2度目の来臨を待ち望む者たちです。
イエス・キリストは、これまで数え切れないほどの人を絶望の中から立ち上がらせてきました。これまで数え切れないほどの人に、まことのいのちを与えて来ました。これまでどれだけの数え切れないほどの人が、困難があってもこの地上の人生を信仰をもって生き抜き、最後の敵である死に勝利し、死の先にある永遠のいのち、からだのよみがえりに希望を見いだし、確信を得て、ハレルヤと叫びつつ天に召されて行ったことか。それが真の救いというものでしょう。
イエス・キリストの誕生、そしてイエス・キリストの十字架の死は、その救いの絶対条件でした。罪人が罪から贖い出されて神の子とされ、永遠のいのちを賜るための絶対条件でした。しかしそれらも、イエス・キリストの復活なしには無効なのです。効力や効果が全くない、目的を達成できないのです。イエス・キリストの復活なしに救いはあり得ないし、教会もキリストの教えも成り立たないし、救いの完成となる神の国の到来もあり得ないのです。復活がなければ、イエス様はもうおられないのですから。
今日の箇所でもパウロは、キリスト(救い主)の復活が人間に与える変化を説明しています。先週は「もし、キリスト(救い主)の復活がないなら」という仮定に基づいて論じられましたが、それは事実ではありません。事実は「キリスト(救い主)は復活された」です。そこでパウロは、今日の箇所ではまず、「キリスト(救い主・私たちを救われる主)は復活された」という事実に基づいて、復活、よみがえりについて論じて行きます。
聖徒のからだのよみがえりの根拠
15章20節 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
キリスト(救い主)の復活はイエス様だけの復活ではなく、初穂としての復活でした。初穂は最初の実りであると共に、その年の実りを代表するものです。英語では「first-fruits」で、収穫された最初の農作物や、最初の成果を指しています。ここには宗教的な意味も含まれており、最初の収穫、最初の成果を神に献げる行為で、それはこの後に続く何日、何週間にもわたって続く収穫が成功するように、豊作であるように祈るという信仰が込められています。このような信仰は当時の古代ギリシャ、ローマ、そしてユダヤ人の宗教に見られる信仰でした。不思議と私たち日本人の信仰にも見られるものです。それはそうとして、キリストの復活は「初穂・first-fruits」だったということです。この後に必ず続くという約束であると同時に、また神への献げ物、祈り(豊作祈願)なのです。キリストは十字架にかけられ屠られ、死なれ、私たち人間の罪の贖いとなられたばかりでなく、よみがえられて、生きた神への献げ物、なだめの供えものとなられ、神の右の座につかれ、今も続いている魂の収穫、刈り取りが成功するように、豊かであるようにと祈ってくださっているのです。
ですから、イエス様が復活されたということを、1回きりの、瞬間的な、イエス様だけの肉体的な死後の出来事だと考えてはなりません。「よみがえられた」と訳されるギリシャ語は、「よみがえり続けている、よみがえられたその効力が継続している」という意味の語です。私たちは今も、イエス様の再臨の時に至るまで、神の復活の力にあずかれるのです。先週も見ましたが、「復活」という名詞の意味はなんだったでしょう。「再び生き返ること」でした。「よみがえる」の動詞の意味は何だったでしょう。「死者の中から生き返る、立ち上がる」であり、そのイメージとして、神がその人をつかんで上に上げる、立ち上がらせるという物理的な動作があるのだということでした。
神は死に打ち勝たれた
初穂であるイエス・キリストの復活は、「死」という人間にとっては絶望でしかないことにも、神は打ち勝たれたのだと言うことです。今も打ち勝っておられるのです。それを信じる者は、たとえ1度死んだとしても、イエス様の復活のいのちにあずかって、神の子としてまた新しく生まれることができるのです。新しくいのちを得て、そこから立ち上がることができるのです。それは肉体的な死後の出来事ばかりではありません。この世にあって生きる者がイエス様の復活を信じ、その神の力にあずかるなら、たとえ霊的に死んだとしても、倒れてしまったとしても、何度でも、何度でも神の子としてまた新しく生まれることができるのです。そしてそれはただの繰り返しではなく、「成長」なのです。神は私たちがキリストを復活させた神の力によって、その力を信じて、その力に与ることによって、霊的な死から立ち上がり、そうしてまたそこで神と一つにされ、神の恵みと力をいただき、確信し、そして罪の奴隷から解放され、日々新しく造りかえられて行くことができるようにされたのです。私たちは何度も信仰を失ってしまいそうなほどの失敗、罪、後悔、悲しみ、苦しみ、霊的な死を何度も経験してきたことでしょう。しかし私たちは今もこうして神の御前で生きているのです。生かされているのです。私たちは何度も、何度も神に助けを求め、何度も、何度も助けられてきました。私たちが何度でも、何度でも救いを求めて神の御名を呼び求めたならば、神は何度でも、何度でも私たちをあわれみ、救い出してくださった。神が静かにみことばを与え、約束を思い出させ、その御手で、立ちすくみ、うずくまり、死んでしまったような私たちの腕をつかんで立ち上がらせてくださった。上に引き上げてくださった。泣いている子どもを「大丈夫だよ」と優しく声をかけ、抱き上げて、「高い高い」をする親の姿を思い起こします。笑顔を取り戻す子どもの姿を思い起こします。そのように、キリストを復活させた神の力によって、私たちを何度も復活させてくださったのではないでしょうか。その恵みによって、私たちは少しずつかもしれませんが、その度ごとに自己中心的な態度を捨て、赦しと愛を実践できるようになってきているのではないでしょうか。キリストの似姿に変えられてきているのではないでしょうか。
実例が聖書に記されています。イエス様の復活を知った弟子たちは、聖霊を受けると、それ以前とは全く変えられ、強くされました。「イエスなど知らない」と3回も言ったペテロも、復活のイエス様の赦し「大丈夫だよ」を経験した後、慈しみ深い者となり、悪に悪を返すのではなく、神の恵みのわざをなすものとなりました。短気で怒りっぽかったヨハネもまた、「兄弟を愛せない者は神を知らない者だ」と人に教えるほど、熱烈な愛の使徒に変えられて行きました。彼らは生きている間、恐らく愛することにおいて失敗もあり絶望もあったでしょう。しかし、復活のイエス様とともに歩み、復活の力に与り、よみがえらされ、立ち上がらされ、引き上げられた。ゲームで言うならライフを回復し、レベルやスキルが上がり、イエス様に倣って赦しと愛の人生を歩んだのだと思います。キリストの復活にあずかるなら、私たちも彼らのように赦しと愛を実践できるように変えられて行くのです。
霊的な死の方に傾いてしまいましたが、神は霊的な死ばかりでなく、肉体的な死の問題も同じく重要なこととして私たちに示してくださっています。救いにおいて、霊ばかりでなく肉体も救われなければ本当の救いではないのです。霊的な死からのよみがえりばかりが希望や喜び、救いなのではなく、肉体的な死からのよみがりも、私たちの希望、喜び、救いであることを聖書は教えています。
キリストの復活は「初穂・first-fruits」だった。この後に必ず続くという約束であると同時に、また神への献げ物、祈り(豊作祈願)だった。肉体的に死んだとしても、キリストと同じように、キリストの祈りによって、神の赦し、恵み、神の力によって、キリストを信じるものは復活するのです。そのからだはよみがえらされるのです。しかしそれは、再生ではなく新生であると言われます。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(直訳:そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(直訳:新しいものが到来しました)」(Ⅱコリ517)。私たちはこの新しい到来、救いの完成を、信仰をもって待ち望む者たちです。
一人の人によって
15章22節 アダムにあってすべての人(全人類)が死んでいるように、キリストにあってすべての人(全信徒)が生かされるのです。
人類最初の人であるアダムは、神に罪を犯して神から遠ざかったばかりか、それ以降のすべての人に死をもたらしました(創317-19)。アダムの罪は、アダムとその子孫であるすべての人が罪を持って生まれ、死に瀕し、永遠の滅びへと向かって死すべきものとして生まれるようにしてしまいました。そのようにアダムは初穂となり、人類に死を招き寄せました。パウロは、そのようなアダムとキリストを対比して復活、よみがえりの確かさを説明します。(ちなみに、男から生まれていない、聖霊御霊神によって生まれたのはアダムとキリストだけ)
キリストは初穂となり、人類に復活のいのちを招き寄せたのです。罪のないキリストが人間のすべての罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いを成して復活された。そしてキリストが再び世に来られる時、それを信じるすべての人に、これまでキリストを信じて死んで行ったすべての者に、霊も肉体も完全な救い、復活、新生の恵みに与らせ、そして真の永遠のいのちを与えられるのです。
復活の順序
23節でパウロは、すべての人の復活にそれぞれ順序があると説明します。その最初が、初穂であるキリストです。そのキリストはすでに復活されました。しかし、キリストの復活が直ちにキリストに属する人たちの救いの完成をもたらすわけではありません。私たちは確かに今、キリストの死と復活によって救われています。しかし、今を救いの完成の時と見なすのは間違っています。私たちはとかく、精神的な平和で満足してしまいがちですが、聖書が教えるのはそればかりではなく、世界の平和と言いますか、政治的な平和ももたらされ、そこが神の国だと教えています。
そこが神の国かどうか。それは見れば分かるのです。何を見て分かるのか。それは弱い人、虐げられている人が大切にされているかどうかでしょう。神がそれぞれに与えられている賜物を、それぞれが自分の益のため、自分の栄光のために用いるのではなく、弱い人、虐げられている人の益となるために、神の栄光のために用いられているかどうかでしょう。そこはまさに神が王であり、神が治め支配される神の国です。神が王となり、神の愛による完全な支えと配慮によって成る神の国です。そこに生きるものすべてが、神の御心通りに本来の姿に活かされ、皆が喜んで生きる世界。それは本来、神がはじめに創造された世界の姿でした。その世界にどこからともなく罪がこっそり忍び込み、破壊してしまったのです。その世界はキリストが再臨される時には回復されます。いや、新生です。新しく創造されるのです。
今の世を見渡してどうでしょうか。皆が神の御心通りに活かされているでしょうか。神の御心通りに活かされているならば、そこに必ず喜びが生じるはずです。私たちも何度かはその喜びを感じたことがあるでしょう。しかし今の世は、皆が活かされて喜ぶようになってはいません。誰かが喜ぶために他の誰かが悲しんでいます。誰かが生かされるために、誰かが殺されています。誰かが勝つために誰かが排除されています。そこは神の国ではありません。この世界は、イエス・キリストのご降誕によって喜び、救いはもたらされたけれど、イエス・キリストの十字架の死と復活によって救いはもたらされたけれど、完成は未だしていないことがわかります。順序があるのです。その順序は、確実に進んで来ているのです。キリストの到来、世の終わりは近づいているのです。
終わり、それは始まり
この世が終わるということは、どういうことでしょうか。それは人間の罪、自己中心、貪りの心を利用して治めていたこの世の支配、力、政治、またこの暗闇の世界の支配者たち、天上にいるもろもろの悪霊が滅ぼされるということです。そして、人類にとって最後の敵、しぶとく最後まで立ちはだかる敵が「死」です。
「死」は、すべていのちあるものの敵であり、誰もが迎えるものです。キリストは十字架と復活によってその死を滅ぼされました。死を従わせました。しかしどうでしょうか。人々はなおも死んでいます。その最後の敵である死が、最後に滅ぼされるのです。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(ヘブ214-15)。この救い主、よみがえられたキリストが再び復活のからだをもって世に来られ、真の王、平和の君となり、この世を完全に治められる時、死は力尽き、完全に働けないようにされるのです。もはや死はないのです。よみがえらされた霊とからだは、永遠に生きる者とされるのです。しかしよみがえらされた霊とからだをもって永遠に生きる道は2つあります。イエス・キリストを信じる信仰と神の恵みによって与えられる永遠のいのちの道か、それとも、イエス・キリストを信じずに歩いて行ってしまう永遠の滅びへの道か。だからこそ、からだのよみがえりを信じる私たちは、この事実を厳かに受け入れ、愛する者に福音を宣べ伝えるのです。
「神は万物をその方、神の御子、救い主イエス・キリストの足の下に従わせた」のです。天においても地においても、すべての権威がイエス・キリストに与えられました。その権威とは、罪を赦す権威です。人は皆だれでも、行いによるのではなく、このイエス・キリストを信じ、救いを求めてすがるならば、救われるのです。それが福音です。
しかし神はどうしてイエス・キリストがよみがえられたと同時に、神の国を完成させてくださらなかったのでしょうか。キリストの復活から多くの時間が経っています。未だ人は皆、苦難や最後の敵である死と戦っています。しかしそれは神が「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Ⅱペテ39)からに他なりません。神はすべての人がご自分に救いを求め、そして救われることを忍耐して、はらわたが千切れるほどのあわれみをもって待ち望んでおられるのです。
復活否定と信徒の生活
29節から、パウロは続けて、キリストの復活は信じていても、世の考えに影響され、人間の肉体の復活を否定してしまっている人たちに対して、「その否定には根拠がない」という論証に戻ります。
コリントの教会のあるグループの中に、バプテスマ(洗礼)を受けられずに死んだ人のために、生きている聖徒がバプテスマを代わりに受けるということが行われていたようです。パウロはこのような行いに対して、「それはけしからん」とも、「それは大いに結構」とも言っていません。確かにバプテスマは、キリスト教の初期から重要な儀式でしたが、バプテスマが聖礼典の一つとして正式に教義化されたのは中世期を経て、16世紀のトリエント公会議においてです。ですからこの時のパウロにとって、残念ながら病気などの事情によってバプテスマを受けられずに死んでしまった人が、生きている間に「その口でイエスを主と告白し、その心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じ、救われ」たか、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われ」(ロマ109-10)たかが何よりも重要だったのではないでしょうか。公の信仰告白ができていなかったとしても、個人的にでも「心に信じて義と認められ」、個人的なつぶやきでさえも「口で告白する」なら救われる。救ってくださるのは神のみわざであって、人間ではない。神のみぞ知る。「人はうわべを見るが、主は心を見」られるお方。すべてをご存知で、すべてが可能な神にお任せすれば良い。「からだのよみがえり」を論じるここでは、ただ死者のためのバプテスマという行いを取り上げて、あなたがたはそういうことをしているけれども、それは死者が復活すると信じているからでしょう。それなのにどうして復活を否定するのかと論じるのです。
そこからパウロは、復活がないのなら、聖徒が福音のために受ける迫害や危険にも、すべて意味がないと語ります。死者の復活がないのなら、パウロ自身が「私は日々死んでいるのです。毎日が死の連続です」と言うほどに、キリストの為に苦労し、また獣と戦うような困難な戦いも何の益もないことになる。しかしパウロが幾度となく直面した死を覚悟するほどの危機が、決してパウロを倒すことができなかったのは、彼に復活に対する望みがあったからでした。つまり、様々な危険や迫害、困難に耐えたパウロの姿こそ、死者の復活が確かであるという証拠なのです。パウロは自分を死者の復活が確かであるという証拠として差し出すのです。また、同じようにコリントの聖徒も、皇帝崇拝が絶対の世にあって、「私は日々死んでいるのです。毎日が死の連続です」と言うほどに、キリストのために、信仰を守るために苦労し、また獣と戦うような、いつ死んでも、いつ殺されてもおかしくないような困難な戦いをしているあなたがた自身も、死者の復活が確かにあるという証拠なのではないかと、そうパウロは問うているのです。
また、死者の復活を信じず、またそれを知らないなら、その人は放蕩し、節制せずに生きることになってしまうでしょう。一見すると自由で楽しそうに見えて良いかもしれません。しかし本当は「どうせ明日は死ぬのだから」という、何の希望も喜びもない人生。果たして本当に幸せなのでしょうか。ただ死ぬために生きる人生って何なのでしょう。それは神の御心ではありません。神の御心は、ご自身が創造し、愛しておられる者が、地上では神が与えられたいのちを活き活きと生き、そして誰一人として滅びることがないようにという心です。その心が、すべての人に注がれているのです。
ここでパウロはコリントの教会の人々に一つの警告を与えます。
15章33節 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
惑わされてはいけません。思い違いをしてはいけません。
コリントの教会には、やはり世の文化や思想の影響を受け、死人の復活はないといいふらし、今が楽しければいいではないかと言って、不道徳な生活を送っている「自分は知恵のある者だ」と言っている人がいました。コリントの教会員の中には、そのような彼らと交わることによって、復活否定の考えと、そこからくる放縦な生活に影響されて、彼らと同じ罪を犯している者たちがいたらしいのです。
「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラ67)。「だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに降るのです」(エペ56)
パウロの警告は、自分は知恵ある者だとしている者たちから悪い影響を受けて復活の希望を失い、天の御国、神の国、救いの完成の希望を失って「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」というような、今のことしか考えない、その瞬間さえ楽しければ、自分が幸せだと思えればそれで良いということになって、キリスト者本来のあるべき生き方を損なわないための警告です。そして、
15章34節 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。
と、悪い影響を与える人、悪い影響を受けてしまっている人に向かって命じています。さらに
15章34節 神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
復活を否定するのは、神について正しい知識を持っていない証拠であると言って、自称「自分は知恵ある者」を恥じ入らせ、自らを反省して正しい信仰に立ち返るように進めているのです。
慰め
イエス・キリストはよみがえらされ、罪と死に勝利された。よみがえらされたイエス・キリストが再び来られる日には、主に従ったすべての者たちがよみがえらされ、主の栄光を仰ぎながら、主と共に永遠に生きて行けるのだ。
「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか」(ロマ1311-12)。
パウロは、イエスキリストの到来からすでに始まった「終わりの時」を生きる私たちに、キリストの再臨を待ち望む私たちに、キリストに従う者たちが、私たちが、このような復活の希望を持って互いを慰めるべきだと教えているのです。この世での人生には様々な戦いがあり、辛いことも、病に苦しめられることも、愛する者を失って悲しみに暮れることもあるのです。しかし私たちは、神がイエス・キリストの復活、それが初穂であることによって保証してくださった永遠のいのちが約束されているので、この希望をもって主に従い、大胆に生きて行けるのです。「毎日が死の連続です」と言うほどに苦労し、また獣と戦うような困難な戦いをしていても、どんなに辛く悲しいことがあっても、復活を確信し、そこに生きる望みを見いだし、どこまでも神に従って行く者でいよう。そう互いを慰める者たちでありたいと願います。慰めとは、困難な中で大きく息を吸わせ、落ち着かせ、労をねぎらい、励ますこと。リフレッシュさせてまた立ち上がらせること。このリフレッシュという言葉にも、1度死に、新しくいのちと肉体を得るという意味があります。そのように、からだの復活を信じ、キリストの復活を信じる私たちは今現在も、神の力とその恵みにあずかることができます。そしてそれを信じる者同士である私たちは互いを慰める、そのような者たちでありたいと願います。主とともに歩み、長い年月を経ても必ず約束を果たし、救い主を私たちに与えてくださった、その同じ主のみことば、約束、主の再臨、救いの完成を信じ、胸に刻み、主にこの身と霊を神に献げ、私たちは必ず主の復活の偉大な恵みにあずかる者で居続けましょう。あきらめずに隣人を愛し、実りと収穫を信じ、福音の種を蒔く者でいたいと願います。

