2026年1月4日 主日礼拝「堅く立って、動かされることなく」

賛  美 
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌1「神のちからを」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌172「こころして待て」
聖書朗読  コリント人への手紙 第一 15章50〜58節
説  教  「堅く立って、動かされることなく」
讃  美  讃美歌532「ひとたびは死にし身も」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌203「しずけくやすけき」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 15章58節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙 第一 15章50〜58節

説教題

「堅く立って、動かされることなく」

今週の聖句

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

コリント人への手紙 第一 15章58節

説教「堅く立って、動かされることなく」

コリント人への手紙 第一 15章50〜58節

報いがあるから

新しい年が明け、三が日も過ぎ、明日からまたいつもの仕事が始まるという方が多いかと思います。この三が日も仕事をされた方もおられたでしょうか。大変お疲れさまでした。そう言う私も、元旦礼拝があるために1日は休みをいただいたのですが、2日は普通に出勤しました。皆が休みの中、自分だけ働くのは正直誰でも嫌だと思います。私も嫌でしたが、実は三が日に出勤する人にはお年玉が出ることが約束されていたのです。雇う側は特別にお年玉を出すかわりに頑張ってもらおうと考え、雇われる側はお年玉がもらえるから頑張ろうかと思える。それが正直なところでしょう。ところが、2日の仕事終わりの帰り際に、思ってもいなかったことが起こったのです。いつもは絶対に許されないことなのですが、お正月に出した食材の余りを持って帰って良いと言われ、私ともう1人の人は尾頭付きの立派な海老が4〜50尾入ったものをいただきました。私たちはとても喜んで、冗談半分で「こんなに凄い物がもらえると前もって分かっていたら、もっと喜んで、楽しく頑張ったのにね」と笑い合いました。冗談半分と言うだけあり、半分は冗談ですが、半分は本気でした。

私たちは、報われると信じるからこそ何事も頑張れるのではないでしょうか。仕事ばかりではありません。お正月返上での辛い受験勉強をしている学生もおられますね。苦しいダイエットや筋トレをされている方はおられるでしょうか。寒い冬の最中に行う豊かな実りのための畑作業や、時が来たら綺麗な花を咲かせるための花壇の手入れなど。また時々、報われないなぁと思ってしまうかもしれない家事や育児。しかしやはり、必ずどこかで報われると信じるからこそ頑張れるのではないでしょうか。そして自分が想像できる以上の素晴らしい報いがあると前もって知っていたら、嫌がらずに、喜んで、もっともっと頑張れるのかもしれません。

そして正直なところ、それは私たちの信仰も同じなのではないでしょうか。聖書に登場する立派な信仰者たちも、あちらこちらで神が報いてくださるようにと祈っています。またあちらこちらで、神ご自身が必ず報いてくださると約束し、その人の信仰と良い行いをするようにと励ましてくださっています。たとえば「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ」(箴2521-22)と。どういう意味か分かりますか。復讐ではありません。これは「たとえ相手があなたの敵であっても、その人が目の前で困っていたら親切にしてあげなさい。主があなたに報いてくださるから」ということです。主の報いを期待して信じて、敵さえも愛しなさいということです。また主はこう言われます。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ」(エレ3116)と。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(マタ512)。「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタ64,6,18)。そしてさらに聖書は言います。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブ116)。神が確かにおられることと、神がご自分を求める者には必ず神の最善をもって報いてくださる方であることを信じなければ、その信仰がなければ、その信仰は空しい信仰。無益な信仰。本当の喜びがない信仰。私たちの行いも空しい行い、無益な行い、喜びがない行いになってしまうでしょう。皆さんは礼拝に何か報いを期待して来られていますか? 期待して来て良いのでしょう。神は私たちの想像以上の大きな報いを用意しておられます。それをまったく期待しない礼拝は、おそらく神に喜ばれることはできないし、本当には神を喜ぶこともできないのです。皆さん、礼拝に来て、何か神から報いをいただいていますか? そんなものいただいたことがないと言われるでしょうか? 守りとか、癒やしとか、満たしとか、私たちは神の報いを日々たくさんいただいていると思いますが、実は神の用意しておられる信仰者への報いは、もっともっと素晴らしいもので、それは将来に約束されているものです。黙示録で主は何を言われているでしょうか。「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る」(黙2212)と、そう言われているのです。

また同時に聖書はこうも言っています。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(ヘブ1036)。忍耐。信仰生活で多くの人がつまずくのはこの点ではないでしょうか。教会へ来たら病気はしない。仕事はうまく行く。そうではないでしょう。信仰があろうがなかろうが、失敗するときには失敗し、病気になる時は病気になるのです。だったら教会へ行く必要はないと知恵を働かせて去って行く人もいるのです。しかし私たちに約束されている神からの報い、それに対する私たちの希望というのは、そのような安っぽいものではないのです。近視眼的なものではないのです。あまりにも高く、想像を超えるものであるがゆえにはっきりと分からず、見える所は不鮮明かもしれません。しかし、神は素晴らしい報いを確かに約束してくださり、その約束をご自身のみことば、聖書66巻のみことば、そして復活のイエス・キリストを通して見せてくださっているのです。そして言われるのです。「わたしだ。恐れることはない」と。

私たちの信仰は決して御利益信仰ではありません。この世の御利益信仰は、商売繁盛などこの世での繁栄、良い報いをもっともっとと貪るように自ら掴み取るために良い行いに励むものです。しかし私たちの信仰は、数々の良い行いではなく、神が唯一イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えようと約束され、実際にイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、恵みによってこの世の何物にも代えがたい喜び、平安、罪の赦し、からだと魂の救い、永遠のいのち、天の御国に入れていただけるという資格をすでにいただいている。そのことを信じて、そのことに日々感謝し励まされて、天の御国に至るまで、神の御心にかなったより良い人生、神を喜びながら、自分の人生も喜びながら活き活きと生かされ、そして神の栄光を自分のこの体をもってあらわして行きたい、あらわして行こうと願うものです。良い報いはもう約束されているのです。約束はすでに果たされているのです。それを信じて生きるのです。そして神のいつくしみと恵みは、いのちの日の限り神を信じ、神に依り頼む者の“後を追ってくる”のです。後を追ってくるから見えないのでしょうか。しかし先日の元旦礼拝のメッセージではないですが、振り返ってみてください。確かにそれが分かるのではないでしょうか。

そして、後を追ってくる究極の神のいつくしみと恵み、究極の報いが私たちの復活です。先ほど、正直なところ、人は報われると信じるからこそ何事も頑張れると申しました。ですから、私たちの復活がどれほど素晴らしいかをも知らないと、本当には頑張れないのです。

コリントの教会の聖徒たちも、異教の街、この世の繁栄、この世の知恵がもてはやされる世でイエス・キリストを信じ救われた者たちでした。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、恵みによってこの世の何物にも代えがたい喜び、平安、罪の赦し、からだと魂の救い、永遠のいのち、天の御国に入れていただけるという資格をすでにいただいた。そのことを信じて、そのことに日々励まされて、天の御国に至るまで、神の御心にかなったより良い人生、神を喜びながら、神の栄光を自分のこの体をもってあらわして行きたい、あらわして行こうと願う者たちでした。ところがやがて、この世の影響を受け、神の報いを疑い、信仰は弱くなり、神の栄光ではなくこの世の栄光を求めるようになってしまい、自分の賜物を誇ったり、他人をさばいたり、派閥争いをしたり、服装や髪型を乱してしまったり、近親相姦などの不道徳や不品行があったり、礼拝が偶像礼拝と混同されたり、誤った教えが入り込んだりしてしまっていました。パウロはそのようなコリントの教会の聖徒たちの信仰が未熟で弱いのは、終わりの日にあなたがたが復活させられることを知らず、またそれを信じていないからだと戒めました。そしてもう一度本当の福音に、つまりイエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰に立ち返るようにと説いてきました。そして今日のところで、あなたがたの信仰が未熟で弱いのは、あなたがたの復活がどれほど素晴らしい報いであるのかをあなたがたが分かっていないからだとして、パウロは最終的な救いの完成、最高に素晴らしい報いである復活の素晴らしさについて説明を続けます。

からだの復活の素晴らしさは誰も経験したことがないので、その素晴らしさを理解できるようにすることは容易なことではありません。何とか理解してもらうためには、絵を描いて見せたり、分かりやすいたとえを用いたりするなどして説明するしかないでしょう。しかしそれにも限界があるのです。ヨハネの黙示録で描かれる、天の御国の素晴らしさなどどうでしょうか。天の御国、神の国の素晴らしさを説明するのに、ヨハネの黙示録でヨハネは苦労して何とかその情景を想像させるように宝石でたとえています。都には神の栄光があり、その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった…。都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた(金の塊、それも透き通ったガラスに似た金の塊なんて見たことないし)…。都の城壁の土台石は12種類の宝石で飾られていて、12の門は12個の真珠で、どの門も超巨大な1つの真珠でできていた(巨大な真珠の玉なんて恐くない?)…。これを聞いて、正直なところ「素晴らしい!そこに入りたい!」と本当に憧れることができるでしょうか。ただ神がヨハネに見せ、そしてそれを見せられたヨハネがここで言いたいのは、信仰者に約束されている天の御国、神の国はこの地のどんなものよりも素晴らしいのだということです。それを何とか伝えたいのです。そしてこの世での激しい迫害に耐えられるように何とかして励ますのです。

私たちが経験する「復活」も同じ事です。復活したら、どのように私たちのからだとか感覚が変えられるのかは正直分かりません。神の輝かしい栄光の中で永遠に住まうことができるその素晴らしさも、どれだけ素晴らしいのか、どれだけ幸せなことなのか、絵空事のようにしか考えられないのかもしれない。しかし、からだの復活はこの地のどんなものよりも素晴らしいもの、本当に幸いなものなのだということを、パウロは一生懸命苦労して説明するのです。50節で「兄弟たち」と愛をもって語りかけ、愛をもって一生懸命苦労して説明するのです。そしてこの地上での労苦の多い聖徒の人生を励ますのです。是非この愛と愛による励ましを感じ取り、自分のものとして受け取っていただきたいのです。

15章51節    聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。

復活は、人間の限界がある想像とか理想に邪魔されて、良く分からないというような虚しい期待ではありません。人間の理性や知性や理解力を超える、神の恵みのみわざであり、福音の奥義です。奥義というのは、最も重要で肝心で秘められている、隠されているものです。お正月の出勤に特別手当が約束されていることは知っていた。しかし最後に尾頭付きの海老をたくさんもらえるというもっと素晴らしく喜ばしい報いがあることは隠されていた(?)。その奥義をパウロは今、あなたがたに告げましょうと言うのです。

15章50節    兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15章51節    聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。

パウロは終わりの日にラッパの音が鳴り響くとき、一瞬のうちに私たちは変えられると説明します。一瞬にして罪も死も勝利に呑み込まれるのだと。では、その日を待つ間、信仰者はどのように生きるべきなのか。

なすべきことに最善を尽くす

コリントの教会には、復活に対して様々な反応があったようです。その中に、復活の時が今日明日にでも来ると思い込んで、現実の生活をおろそかにする者たちがいました。彼らは復活を信じたのはいいけれども、その理解が不十分な上に、神の計画と、その時までどのように生きることが神のみこころなのかを分かっていませんでした。そこでパウロは、神が罪人を救い、復活を与えてくださった目的を明らかにしながら、復活を信じるならば、現実の生活で主のための労を、また聖く生きるための労を惜しんではならないことを教えます。それぞれに神から分け与えられている賜物を用いて、神と隣人との親しい交わりの中で、喜んで神に聞き従い、喜んで神に委ねられた使命を忠実になし、喜んで聖く生き、喜んで良いことに熱心に励んでいくべきであると教えます。今をなおざりにするのではなく、今を一生懸命大切に生きるのだと。

復活を信じるならば、世に惑わされ、影響されて、肉の思い、肉の行いに傾いてしまってはならない。そう教えるパウロこそ、からだの復活を信じていたので、後に聖徒とともに空中で主の再臨を迎えることを待ち望んでいました。その確かな希望のゆえに、どんな辛い迫害や苦しみや労働にも耐えなから、最善を尽くして、自分の身を打ち叩くようにして神と人とに仕え、誰かが救われるならば自分を無にし、誰かがつまずいてしまうことがないように食べるにも飲むにも、何をするにも自分を制し、自分に敵対する人を心から赦し、心から愛し、そして福音を伝え続けました。そのようなパウロの人生が、復活についての確かな約束と、それを信じて復活を待つ人が生きるべき生き方を示しているのです。パウロの人生を見て分かるとおり、人は世にいる間は、だれでも困難に直面します。その時がいつ来るか、どれほど続くかも分かりません。しかし、パウロのようにどんな状況でもイエス様から目を離してはならないのです。そして最終的には必ずすべての労苦が報われる。素晴らしい報い、救いの完成、復活を信じ期待し、神のみことば、確かな約束にすがりながら、心揺るがされることなく神に、神のみことばに従い続けるのです。

パウロは復活についてもう一つ重大な真理を告げます。「血肉のからだ」は神の国を相続できないのだと教えるのです。「血肉のからだ」というのはユダヤ人の慣用句で、単純に死ぬべきからだを指します。私たちの生まれながらの体のことです。生まれながらの体、死ぬべきからだとは何でしょうか。それはアダムの子孫として肉によって生まれた者。罪の支配下にあり、罪の報酬である死の支配下にある体のことです。しかし私たちは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、神の愛とあわれみ、真実、恵みによって永遠のいのちが与えられ、そのいのちによって新しく生まれた者たちです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ316)。その保証として神は御霊をくださいました(Ⅱコリ55)。神の律法さえも利用して人に苦痛を与える罪の支配下にあった私たちが、この世にあって喜んで御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結びたいと願う。喜んで主を礼拝したいと願う。自分自身の栄光よりも、神の栄光をあらわして生きたいと願う。それこそ御霊が与えられた証拠です。すでにイエス・キリストにあって、世に勝利した証拠です。必ず報われる証拠です。

私たちは日々勝利を味わって生きることができる

15章57節    しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15章58節    ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださった。この「与えてくださった」と訳されているギリシャ語は現在分詞で言われています。つまり「まさに今」というライブ感です。

それにしても、未だ私たちとって死は、どうしても避けられないものです。だれもアダムの罪から始まった罪の支配から自由になれず、常に恐れます。しかし死を世にもたらした罪を、神はキリストの十字架で解決してくださいました。イエス・キリストの復活に死は呑み込まれ、イエス・キリストは死に勝利されました。

このイエス・キリストを信じる者は、まさに今、必ずその勝利に与ることができるのです。最終的な勝利を私たちに与えるキリストの再臨が、自分が生きている時か死後なのかは分かりませんが、それに関係なく、必ず私たちはイエス・キリストの再臨の時、終わりの時、それはつまり、この世の労苦からの解放の時でしょう。その時には私たちの想像をはるかに超えた素晴らしい新しいからだを与えていただくことができるのです。私たちの想像をはるかに超えた素晴らしい大きな喜びが与えられるのです。合図であるラッパが鳴ると、たちまち、一瞬のうちに変えられるのです。

それまでの間にも、神は日々私たちをキリストに似た者として変えてくださいます。聖化のわざを私たち一人ひとりの上になしてくださいます。日々主がともにいてくださり、すべてのことを支え配慮してくださり、恵みによって良いものを与え、慰め、励まし、守り導いてくださいます。未だ肉の体、肉の思い、罪に支配されている私たちであっても、「まさに今」というライブ感でのイエス・キリストの勝利によって、私たちをその勝利に与らせ、私たちが罪に勝利して聖く生き、神に喜ばれる生き方ができるように力を与えてくださいます。そして福音を伝えていくことができるようにも力を与えてくださいます。

この世を生きて行く中で、自分自身の弱さのために落胆することもあるでしょう。私たちは毎日倒れ、失敗するでしょう。しかし神は、イエス・キリストを復活させて死に勝利されたその同じ力を、まさに今、私たちの上に注ぎ、私たちを立ち上がらせ、勝たせてくださいました。神ご自身の栄光を私たちを通してあらわしてくださいました。決して私たちの良い行いによるのではなく、唯一イエス・キリストを信じる信仰によって注がれる恵みによってです。それが自分自身の行いではなく、恵みだからこそ信じられるのです。確かな約束だからこそより頼めるのです。感謝なのです。ですから私たちは、喜んであきらめずに勝利の主に依り頼むことができるのです。何度転んでも立ち上がり、何度でも何度でも主の御名を呼び求め、慰めと助けをいただきながら、最後まで喜んで主に従い続けることができるのです。神は日々ともにいてくださり、まさに今、私たちをキリストに似た者に変えながら、天の御国への歩みを支え、すべての道でご配慮くださっています。そしてその時が来たら、イエス・キリストが再び来られ、恵みによってすべての労に素晴らしい報いをもって報いてくださいます。

イエス・キリストは必ず再び来られます。その時が来たら、私たちは神の御前に恐れなく、このからだをもって立てるようにしましょう。前回学んだとおり、からだは栄光のからだに一瞬にして変えられますが、私たちのからだ(実体)はそのまま残るのです。復活を待ち望んでいるなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力するのです(Ⅱペテ314)。神に分け与えられた賜物を惜しまずに用いて、神から委ねられた使命を果たして行くのです。神を愛し、隣人を愛して仕えて行くのです。聖い生活と自分たちが置かれ任されている場所場所での誠実な奉仕と正しい行い、愛の実践によって、さらに主の業に励んで行くのです。失望せずに善を行うのです。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになるからです(ガラ69)。主のための私たちの労苦を、主は決してむなしいものとはなさいません。必ず報いを与えてくださる。必ず実を結ぶようにしてくださる。復活の希望に満たされて、喜んで主に熱心に仕えて行く。その中で、栄光から栄光へと新しく造り変えられ、より良い、多くの実を結んでいけるようにされていきましょう。そのようにしながら、私たちは主の再臨の時に備えてまいりましょう。

パウロは、彼らのすべての労苦が無駄でないことを確信させて、勧めを終えます。

15章58節    ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

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