祈祷会まとめ(2020年8月12日㈬)ルカ17章20〜37節「終末を知る者として」

ルカ17章20〜37節「終末を知る者として」

イエスは弟子たちに対して教えておかなければならないことがあったのであろう。そのきっかけとなったのがパリサイ人たちの質問だった。ルカは使徒行伝では「イエスを救い主と告白するすべての人々、すなわちクリスチャン」のことを「弟子」と言っている。なのでルカはすべてのクリスチャンに、イエスのお言葉を伝えているのであろう。

ルカの福音書の文脈から見ると、この時、イエスは弟子たちと共にエルサレムに向かっている時であった。エルサレムに行けば、その数日後に十字架につけられることになっていた。そのような時にパリサイ人から質問を受けられた。「神の国はいつ来るのか」。

イエスは答えられた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」

「人の目で認められる」という語は、ギリシャ語で「敵意をもって見る」とか「疑いをもって見る」という意味がある。まさにパリサイ人たちは、このような姿勢でイエスに向かっていたのであろう。また「人の目で認められる」のもう一つの意味として、「儀式や祭日を遵守する」という意味もある。パリサイ人たちはそのように自分たちの行いによって神の国を近づけようとしていた。

「神の国はいつ来るのか」との問いは、正直で素直な疑問なのだろうか。期待のこもった問いだったのか。人の心の内を見られるイエスには、疑いと非難の思いを見抜かれたではないであろうか。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

そう言われて始まったイエスの公生涯であった。それからおよそ3年半もの間、ずっとパリサイ人たちの否定的な目が注がれてきた。「神の国が到来するような兆しが何も見られないけれども」「神の国ははまだ来ていないではないか」。そんな疑いと非難の言葉なのではないか。

その批判に対してイエスが答えられた。

(20-21節)「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

パリサイ人たちは、神の国というのは「人の目で認められるようにして来る」政治的な王国、または「そら、ここにある」「あそこにある」といったような、特別な人や場所にしか認められないものであるかのように思っていた。しかし神の国はすでに来ている。主イエス・キリストと共に来て、主に従う者たちのうちに神の支配としてすでに実現しているのである。そしてこの神の支配が究極的に完成して姿を現すのは、終わりの日である。

イエスは、この時、また今現在「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言われた。
「ただ中にある」というのは「間にいる」と訳せる語で、パリサイ人たちは「神の国はいつ来るのか」と言っていたが、神の国は目の前に来ていたのである。イエス・キリストが目の前にいたのである。けれども敵意、疑い、非難があって、認めることができなかった。

神の国の王、イエス・キリストがおられるそこが神の国であろう。
そして今、「キリストの霊」聖霊が私たちの内に住まわれている。
さらにこうも言われる。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18章20節)
こうして祈祷会に集まる私たちの中心に、イエス・キリストがおられる。
私たちが集まる教会の真ん中に、イエス・キリストがおられる。

【教会論から抜粋】

  • 神の国は不可見教会であり、教会は可見教会である。
  • 可見教会は神の国(不可見教会)の必然的結果出来るものであり、神の国の一形態である。
  • 神の国は教会の本質であって、可見教会そのものではない。
  • 教会とは御国、すなわち神の統治の表れであり、今の時代における地上でとる形式である。
  • 教会の役目は、目に見えない神の国を目に見えるものとすることである。

神の国の王に敵対していて、どうして神の国を求めることができるであろうか。神の国の王が気に入らないのに、どうして神の国を受け入れることができるであろうか。そのような人たちに神の国のこと、「人の子の日」について告げようとしても無理である。

それからイエスは、パリサイ人たちへの警告を一緒に聞いていたであろう弟子たちに向かって語り始めた。弟子たちは不十分ながらも神の国を識別し始めていた。その弟子たちに向かってイエスは「その日」について教え始めた。

ちなみに、「弟子」とは、福音書においては、ユダヤ人の間でイエスに好意を寄せ、彼の一行に参加した人々をさしていたり、イエスの直接の弟子であった十二弟子を指していたりするが、ルカは使徒行伝では「イエスを救い主と告白するすべての人々、すなわちクリスチャン」のことを「弟子」と言っている。なのでここからは私たちクリスチャンに対して教えるものであろう。

ここからは「日」という語が何度も出てくるが、原文では単数と複数が使い分けられている。「日々」あるいは特定の「その日」である。終わりの時と呼ばれる日々がある中で、突然「その日」終わりの日、イエスの再臨があるのだということを表している。日常生活を営んでいる時に突然さばきがある。このことをふまえて、私たち「弟子」が、どのように生きていかなければならないかがイエスによって教えられる。

① 22-23節

人の子の日を一日でも見たいと願っても、見ることのできない時代が来る。救い主イエスが天から再び下って来る再臨の時まで、長い時間が過ぎなければならないことが予め告げられている。だから特定の人にだけキリストの再臨の期日が明らかにされているとか、キリストはすでに再臨してどこそこの国にいるという言葉、異端、偽キリストに欺かれてはならない。

② 24節

キリストの再臨は、誰の目にも認められる形で起こるということ。

③ 25節

イエスは十字架の死を通して、まずメシヤとしての使命を成し遂げられた。それから今度は審判者として再び来られる。それはキリストを待ち望んでいる人々に救いを与えられるためである。

キリストの再臨は、この世を滅ぼすため。サタンと罪を一掃するためにキリストは来られる。その時、この世にいる人々を共に滅ぼされることなく救い出すために、イエスは十字架の死を通してメシヤとしての使命を成し遂げられたのである。

26節からは「ノアとロトの時代にあったことと同様である」とあるけれども、そのどちらとも、神さまは世が滅ぼされる前に救いの御手を差しのばされた。ノアには箱舟を、ロトには御使いを遣わして脱出の道を与えてくださった。

キリストは確かに王として統治するが、その前にこの時代から捨てられなければならない。それはご自分のいのちを捨てて、罪の代価を支払い、罪とは無関係な者とされて、罪とともに一掃されてしなうことのないために、裁かれないためにである。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣われたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

④ 26〜30節

先の救いの御手が伸べられることと別の側面として、ノアとロトが体験した出来事が裏付けるように、「その日」は日常生活の中で、突然起こることが述べられる。このことをふまえて、私たちがどのように生きていかなければならないかが、31節から教えられている。

⑤ 31〜33節

人の子の日が来たら、信者は決してその心をこの世の物の上に置いてはならないとの警告である。

先週の祈祷会で、私たちはルカ14章から「信仰者の覚悟」について学んだ。「愛する」「憎む」ことについて学んだ。「憎む」とは、憎しみをもって憎むことではない。ユダヤ、イスラエル人は昔から「AよりもBを選ぶ」とか「AよりもBを優先する」という時に、「私はAを憎む」という言い方をするのであるということを学んだ。家族さえも、神より優先させてはならないという、とても厳しい警告、覚悟を求めるものであった。

ここでも同じことが言われているのではないであろうか。「人は神と富と、両方に仕えることはできない」という戒めが、「人の子の日」ほど明白になる時はない。

しかし日常生活を営んでいる時に突然さばきがあるということを通して、「この世に未練を持って生きてはいけない」と警告されつつも、同時に「日常生活から離れないで、しっかり生きなければならない」ことも言われているのではないであろうか。

ルカの福音書が書かれた時代の教会には文字通り主の日は近いと信じて、日常の勤労も怠り、怠惰な生活をする者、あるいは主の日はすでに来てしまったと考えてしまう者、復活はすでに起こったという者がいた。詩篇には「地に住み、誠実を養え」(詩篇37)と奨められているが、私たちは主の弟子としてこの地に住み、日常生活を営み、日頃から備えていなければならない。

仕事とか日常生活から離れて生きろとは言っていない。日常生活を営みつつも、主を思って、神の国と義とを最優先して生きていくのである。その中で色々な出来事を通して訓練されていかなければならないのかもしれない。

マルコの福音書9章49-50節(新改訳2017)。「人はみな、火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味を付けるでしょうか。」

地の塩として役目を果たさなければならないのではないであろうか。そこで34節からは、その役目を果たすための動機となるものが提示されているように思う。

⑥ 34〜35節

ここでは救われる者とさばきを受ける者とが「その日」には分離されるという、容赦ない厳しい出来事が現実に起こる事として語られる。

ヨハネ3:16-17に続く18節にはこのようにある。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の皆を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)

御子を信じるか、信じないかのみで、永遠の運命は決定してしまう。しかも生かされているうちの決断にかかっている。

「人の子の日」には、夜、寝ている者も、昼、仕事をしている者も、つまり地球の半分にあたる夜の部分にいる人も、昼の部分にいる人も、寝たり仕事をしたり、日常生活をしているすべての者は、その日、その時、一瞬にして同時に主の再臨の影響を受けるのである。

37節 弟子たちは質問した。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」チェーン式を辿って行くと、黙示録19章(17〜18節)に導かれる。終わりの日、イエスが 戻って来られる時に、神とキリストに反抗する国々の軍隊がイエスによって滅ぼされて、その積 み上がった死体を猛禽類がついばむという場面である。明らかに主の再臨の時、この地上での出来事であることが分かる。

その再臨はいつ来るのか分からない。私たちはいつも目を覚ましていなければならないであろう。

【みことばの光】勧め
 あなたが警告を与えないなら、家族も同僚も滅ぼされてしまう。この時代のノアとして、アブラハムとして立ち上がり、とりなしをしよう」

はたして「とりなし」が「終末を知る者として」すべきことなのであろうか。
すべきことである。
でもまず自分が整えられていないと、救われていないと、他人をとりなすことはできない。

「見よ。神の国はあなたがたのただ中にある」と主は言われた。神の国の王である主は、私たちの間、中におられる。パリサイ人のように、王に対する敵意や、疑いや、非難や、そういったものによって私たちの中にある神の国を見失わないようにしたいものである。

ルカは言っている。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

まず、自分自身なのである。救われた後も、救いの完成を目指してますます聖められていく、主に近づいて行くのであろう。

私は、主は14章から一貫として、終末を知る者として、主の弟子として、主を第一とすることを教えておられるように思えてならない。また主の弟子としての覚悟を求められているように思えるのである。皆さんはどのように受け取られたであろうか。

<T.S>

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