2024年7月14日 主日礼拝「再臨に備える」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌281「うたがいうれいに」
      讃美歌217「あまつましみず」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇51篇10〜17節
讃  美  讃美歌24「ちちのかみよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌171「なおしばしの」
聖書朗読  マタイの福音書24章36〜51節
説  教  「再臨に備える」
讃  美  讃美歌380「たてよ、いざたて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書24章44節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章36〜51節

説教題

「再臨に備える」

今週の聖句

ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

マタイの福音書24章44節

説教「再臨に備える」

マタイの福音書24章36〜51節

わが家の息子は、昨日から2泊3日で東京に行っております。私は何月何日に行くのかとか、何があるのかとか、行くのか行かないのかも、はっきりと何も聞いていませんでした。金曜日の夜9時頃になってはじめて「明日行く」と聞き大慌てしているものですから、私も慌ててしまうとともに怒り心頭。彼自身の将来にかかわる重要なイベントなのに、きちんとスケジュールも決めていない、バスの予約、宿の手配など何もしていない。費用はどうする。それは何とかなるにしても、夜9時になって着ていく服がないなどと言われてもどうしようもありません。前もって決まっていたことなのに、どうしてこんな間際になるまではっきり言わなかったのか。どうして何も準備してこなかったのかと。しまいには「もう嫌だ、行かない」と言い出し、私も「もう行くのやめてしまえ」「でもやっぱり行かなくちゃ」とそれはもう大騒ぎでした。何とか送り出せたので良かったのですが。

「備えあれば憂いなし」という言葉がありますが、「前もって準備しておけば、何か起こったとしても心配ない」「万一のことが起きても対応できるように備えておくことが大切」という教訓として用いられることが多いです。私も幾度となくこの教訓を、身をもって思い知ったことがあります。例えば、車のガソリンの給油ランプが点いているのに、すぐに給油せずに、急に急いで行かなくてはならない用事ができてしまい、急いで車で出たのは良いけれど、給油する時間もなく、ガソリンスタンドも通りになく、ガス欠で大きな交差点の真ん中で止まってしまったらどうしようかとヒヤヒヤしてしまうとか。今、わが家の車のブレーキパッドに異音がしていて、パッドの交換時期だな、そういえば前に乗っていた車も同じような音がしていて、しばらく放っておいたせいで修理代が何倍も高くついてしまったな、早く交換しないといけないなと思いながら、どこかでまだ大丈夫、そんなことは起こらないと信じている自分がいる。それで時間ばかりが過ぎ、ブレーキパッドはすり減って行く。備えられず、憂いてしまう馬鹿な私。皆さんはそのようなことなどないと思いますが。

ところで「備えあれば憂いなし」は中国の書物に由来する言葉で、全文があることをご存知でしょうか。「安きにありて危うきを思う。思えば即ち備えあり。備えあればうれいなし」です。普段(平時、何も起こっていない時)から危ない(危うい)ところを知ると、そこを何とかしようと思うから、それに備えるので何があっても大丈夫ということです。「備えあれば憂いなし」だけが有名になってしまったのですが、その前の「知る」ということがとても重要なのです。それはそうです。何がどれほど本当に危険であるかを知らなければ、実際に備えようとしないし、その危険を避けるためにはどういった備えが必要かを正しく知らなければ、的外れな備えになってしまいます。その備えには何の意味もないからです。何かを何となく備えていれば良いわけではなく、適った備えが必要なのです。また、普段からきちんと備える人にとっては、危険がいつ起こるかということはさして重要とはならないのではないでしょうか。いつでも「オッケー」なのです。「安きにありて危うきを思う。思えば即ち備えあり。備えあればうれいなし」です。

前回の最後のところでイエス様は、「前兆が起こることにより、終末が近いことを知らなければならない」と教えられました。そして、主のみことば(約束、御心、ご計画)は必ず成就すること、終末は必ず来ることを信じなければならないと教えられました。そして今日の箇所へと続きます。次にイエス様が教えられることは、終末の時はいつ来るのか分からないので、油断しないで再臨を待ち望むように、ということです。

24章36節    ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

使徒の働き1章で、復活のイエス様が天に昇られるときに、弟子たちに対して「わたしはもう一度来る」と約束されました。弟子たちはそれがいつなのか聞いたのですが、イエス様はその時は父だけが知っておられ、父が権威をもって定めておられることなので、知る必要がないと言われました。時を知る必要はないと言われましたが、「わたしが前もって教えた再臨があること、それに備えることは忘れるなよ」。イエス様が再臨する「その日、その時」がいつであるかは父なる神だけが知っておられる。神のみことばを伝える天の御使いたちもその日、その時がいつであるか知らない。知らされていない。ですから当然私たちには知る由もないのです。

子も知らない。イエス様も知らない。しかしこれはイエス様の知識の限界ということではありません。イエス様が神であることを否定するものではありません。イエス様が父なる神に一切をお委ねしている。深く信頼し、一切をお任せしている。父なる神もご自分に深く信頼している子なるイエス様を深く信頼している。そのような様子が目に浮かぶようではありませんか。イエス様は父なる神と完全に一体であるということです。私たちもイエス・キリストを通して父なる神との平和をいただき、完全に一体である者とされていますね。この父なる神とイエス様とのあたたかな麗しい関係と同じくされているのです。それなのに、私たちは父なる神を心から信頼しているでしょうか。まったく疑っていないでしょうか。神の私たちに対する信頼を裏切り、神を悲しませていないでしょうか。今一度、イエス・キリストを通して父なる神と一体とされている幸いを覚えたいところです。

24章37節    人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24章38節    洪水前の日々には、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24章39節    洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

ちなみに、24章3節から「来る、到来」という語が登場します。この「到来」という語は、特にキリストの再臨に用いられる語です。ですから、24章から明らかにイエス様は「再臨」について語っておられることが分かります。「安きにありて危うきを思う。思えば即ち備えあり。備えあればうれいなし」を語っておられます。

ノアの当時の人々は、「洪水など起こらない、起こるはずがないだろう」と考え、信じ込み、日常生活を続けていました。「洪水が来る」とは聞いていたはずです。ノアが伝えたでしょうし、ノアの箱舟建設を通して知られたはずです。それなに、「洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分からなかった」のです。分かる前に、分かった瞬間に死んでしまった。なんという悲劇、悲惨でしょう。彼らは情報が不足していたのではありませんでした。情報があったのにそれを信じなかったのです。神の洪水の警告を信じてその日が来ることを知り、いつかは分からないその日に備えたノアと彼の家族。洪水を信じず、備えなかったノアたちを除くすべての人々。なんと対照的でしょう。

そして、人の子の到来も「そのように実現する」とイエス様は言われるのです。イエス様の再臨の時にも、ノアの洪水の時と同様のことが起こるのです。つまり、人々は再臨があるという情報を知らないのではなく、知っているのに、再臨が実際に起こると信じずに日常生活を続けるのです。イエス様が再臨されてからそれに気づく者たちは、洪水が来てそれを知った者たちのように、さばきを免れることができないのです。悲劇、悲惨を味わうのです。そのようなことがあって良いのでしょうか。

何度かここからお証ししておりますが、私は友人に恐る恐る終末のことについて話した時に、「クリスチャンはどうしてそのことを教えてくれないのか」と叱られたことがありました。皆さんも家族や友人、大切な人に、その日、その時になって「どうして教えてくれなかったの!?」と言われてしまったらどうしますか。自分だけが天国に行って、その声がいつまでも耳についていたとしたら、私たちは永遠に幸せに生きて行けるでしょうか。確かに神は「目から涙をことごとくぬぐい取ってくださり、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものは過ぎ去ったからである」と約束されていますから、そのとおりになるでしょう。しかし、今、私たちはそれで良いと本当に思われるでしょうか。そして私たちは天の御国の前に、神のさばきの座に立つことも約束されているのです。私たちはそれに備えなければなりません。

私たちは、ことばで人々に主イエス・キリストの再臨とさばきを伝えるべきですし、「再臨なんて本当はないんだな」と隣人に思わせてしまうような、怠惰で、緊張感もなく、享楽にふける生活を続けていてはならないのではないでしょうか。まず、自分自身が「主のみことばは必ず成就する。それだけは忘れるなよ」ということを心に深く刻み、信じ、再臨に備えて普段の生活をしなければならないでしょう。

24章40節    そのとき男が二人畑にいると、一人は取られ一人は残されます。
24章41節    女が二人臼をひいていると、一人は取られ一人は残されます。

再臨に備えることは、日常生活をやめることではありません。「男が二人畑にいる」も、「女が二人臼をひいている」も、日常の状況です。しかし、彼らのうち「一人は取られ一人は残され」ます。その差とは一体何なのでしょうか。それは、備えができているか、できていないかの違いです。

まず何よりも一番重要な備えは、イエス・キリストを信じているか、信じていないかです。父なる神が子なる神イエス・キリストをこの世に与えてくださってから、救われる、救われないの基準がとても明確になりました。それは神の恵みによって、憐れみによってです。人は自らの行いによっては決して救われることはできない罪深い存在です。それで神は救い主イエス・キリストをこの世に送られ、この救い主を信じる者には罪の赦しと救い、永遠のいのちを与えると約束してくださいました。そして主を信じる者は、主のみことばを信じるようになり、そして主のみことばに従うようになるのです。畑にいる彼ら、臼をひいている彼女らは全く同じ日常生活を送っていますが、一人はイエス・キリストを信じ、主のみことばを信じ、イエス・キリストの再臨に備えていたのでさばきを免れ、もう一人は備えていないのでさばきを受けるのです。

24章42節    ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。

イエス様の再臨に備え、さばきを免れるために目を覚ましているようにということです。この「目を覚ましている」というのは、敵を見張る兵隊のように、眠らずに用心深く、油断せずに見張りをすることを意味します。そして聖書で「眠り」とは、肉体的な眠りのことだけではなく、「霊的な眠り」のことをも指しています。

ところで、イエス様の十字架を前に、ゲッセマネの園で弟子たちは疲れ切って寝てしまったではありませんか。私たちが信仰に疲れて寝てしまうことがないように、すべきことは何でしょう。それはこの後45節あたりから語られるところです。

どうして眠らずに目を覚まし、用心深く、油断せずに見張りをしているようにと言われるのでしょうか。それは「あなたがたの主が来られることは知っていても、来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らない」からです。

イエス様は、目を覚ましていることの意味を説明するために、泥棒のたとえを語られます。

24章43節    次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。

当時の家は土壁の家でした。土壁に穴を開けるには、恐らく大きな音がするはずですが、その音に気づかない人などいるのでしょうか。しかし、私たちにも身に覚えがあると思いますが、「そんなこと起こるはずがない」と思い込んでいる人にはまったく聞こえない、気付けないこともあるのです。

このたとえのポイントは、関心を持ち続けることと、集中を切らさないことです。泥棒に侵入されることがないようにするために、目を覚まして、用心深く、油断せずに、気を緩めずにいるように、私たちもイエス様がいつ来られてもきちんと迎えられるように、気づかなかったなどということがないように、備えていたいものです。

24章44節    ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

私たちの家に、泥棒が来るか来ないかは分かりませんが、イエス様の再臨は必ず来ます。ですから私たちは常に用心していなければなりません。イエス様に集中して、脇目も振らず、イエス様が来られることを願う心を保ち続けるのです。「脇目も振らず」。世の楽しみ、富、偶像に目を奪われることなく。脇目を振っている時にイエス様が来られたらどうしましょうか。礼拝そっちのけで遊びに出かけている時とか、心ここにあらずの時とかにイエス様が来られたらどうしますか。主への礼拝は日曜日だけではなく、日常のことです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい」(Ⅰテサ516-22)。

イエス様は「思いがけない時に来る」のです。再臨の時はまったく予測できないのです。だからと言って、再臨の時を予測してみたりするのは間違いです。それでは異端です。いつも、いつでも、常にイエス様に関心を向けていなければなりません。そうすれば、イエス様がいつ来られても喜んでお迎えすることができます。「しまった!!」と絶望することはないのです。

さて、並行箇所であるルカの福音書12章では、この後、いつものように弟子たちを代表してペテロがこのように質問しています。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか」(ルカ1241)。すると主は言われました。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか」(ルカ1242)。次にイエス様が教えられたことは、私たちは再臨の時が来るまで、忠実に働いて待っていなければならないということです。

イエス様は、忠実なしもべと悪いしもべのたとえを、弟子たち自身に考えさせるように質問で始められます。

当時、奴隷(召使い)は、その家で大きな影響力と責任を持つ地位に出世することが良くありました。旧約聖書に登場するヨセフのようにです。このことを覚えつつ忠実なしもべ、悪いしもべは誰をさしてたとえられているのか、考えてみてください。

24章45節 それでは、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
24章46節    主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。

「食事時に彼らに食事を与える」。この「時」という語は、種を蒔く時や収穫の時のように、「そのふさわしい時」を意味します。そして「食事」の語も、一般的な食事よりも、「栄養を与える食事、いのちに必要な栄養分」という意味が強い語です。つまり、イエス様が言わんとしていることは考えれば分かるでしょう。ふさわしい時に、栄養を与える、いのちに必要な栄養分を与える。つまり、その人が必要としている時に、いのちのみことばの糧を分け与える者は幸いであるということです。このしもべの使命は、主人の「家のしもべたち」、教会で主に仕える兄弟姉妹に、食事時に食事を与えること、ふさわしい時に、いのちのみことばの糧を分け与えること。主を待ち望む中で、肉体的にも、霊的にも疲れ切って眠ってしまっている人がいるならば、その時、その人に必要ないのちのみことばの糧、エネルギーとなる糧を分け与えるのです。そのために、私たち一人ひとりが主に選ばれ、互いのために任命されているのです。主が任命された者に、主が聖霊の油を注ぎ、力を与え、みことばを与え、語るべき言葉も与えてくださり、そのようにして互いのために仕え合うのです。主に任命されたしもべのやるべきことは、静かに座って待っていることではなく、「その家のしもべたち」を養うことです。たとえ自分が無知や無力や弱さを覚えても、過去の罪や失敗があっても、そのような証しさえも主が聖別し、ご自身のみことばとともにご自身の栄光のために用いてくださいます。主の栄光は、ひとりの人が本当に救われる時に現されるものです。

24章47節    まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。

忠実で、賢いしもべは、主人が不在でも主人がいるかのように、この務めを変わりなく、裏表なく、偽善者のようではなく、正しく行うのです。イエス様の再臨を待つとは、その時まで委ねられた使命を、主のしもべとして忠実に果たすことです。そのようなしもべが、イエス様の再臨の時、主とともに天の御国を受け継ぐ者とされるのです。

24章48節    しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
24章49節    仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
24章50節    そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
24章51節    彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

反対に「悪いしもべ」は、「主人の帰りは遅くなる(直訳すると、時間がかかる)」と心の中で思い、しもべではないかのように生活する。主人がいないからと自分の仕事を放り投げ、自分も仕える者でありながらしもべ仲間に仕えさせる。そればかりか、しもべ仲間を打ちたたき始め、酒を飲み呆ける。自分勝手に他人を利用し、享楽にふける。再臨はまだずいぶん先のことだから、しばらくはしもべの職務をなまけても大丈夫だと言って油断することは危険です。このような者たちは再び来られるイエス様に、神の前で見た目を繕う「偽善者」として厳しく罰せられます。厳しく罰するとは、ことばの通りに訳すなら「ばらばらに切り裂く」ことです。それほど厳しいさばきが待っていることを知らなければなりません。そして心して用心しなければならないでしょう。

常に用心していなければなりません。目を覚まして見張っていなければなりません。いつか分からないと言われるイエス様のみことばを信じずに、再臨の時期を予測したりなどして、その時が近づくまでは好き勝手をしよう、というのはイエス様に対する不忠実であり、イエス様のしもべどころか反逆者として生きることになります。イエス様の再臨の時を予測し、それを信じる人を惑わす、そのような異端、偽キリスト、偽預言者が、これまでの教会の歴史を見るとたびたび出現してきました。今も、そしてこれからも、そのような者たちは現れます。再臨の時についてイエス様が語られたことを信じ、目を覚まして、このような惑わしにだまされることがないようにしましょう。

いつも主に信頼し、主のみことばを信じ、主のみことばに忠実に従う信仰者にとっては、主の再臨がいつかということは大した問題ではありません。今日のところから、常に私たちは主の再臨を意識し、集中を切らさずに生活していくという、知恵深い者にさせていただきたいと願います。再臨とさばきの時に備えるというのは、特別な行いを指すのではなく、日常の生活を主の前に正しく行う事を意味します。再臨がいつであるかについて心配したり悩んだりするのではなく、この世での日々を主のために生き、世の惑わしに打ち勝つ敬虔な生き方に努めていくのです。愛をもって、互いに主の再臨とさばきがあることを知らせることによって、互いに慰め、励まし合って備えて行くのです。主の再臨とさばきは、主を信じ救われた私たちにとっては、ノアの時のように長い間待ち望んだすべての労苦が報われる時、主の契約の成就となる喜びの日だからです。しかしノアたち以外の人々にとっては悲惨の日となりました。私たちは再臨に備え、多くのたましいに福音を伝え、ともに再臨のイエス・キリストを喜んで迎えられるようにしたいと思います。

私たちの代わりにすべての罪を負うほどに愛してくださったイエス様が望まれる人生とは、ご自分が私たちを愛されたように、私たちが神を愛し、互いに愛し合い、隣人を愛することです。その実践として、霊的に飢えた者、渇いた者、捕らえられた者たちの世話(ケア)をするのです。かつての神を失っていた私たちのような人々に、神の愛とあわれみを受けた私たちが、霊的な糧をたくさんいただき、死んでいたような者にいのちが吹き入れられた私たちが、神の愛とあわれみを、いのちを人々に注いで行くことを神は望んでおられます。

神がイエス・キリストを信じて救われるようにしてくださったのは、私たちの欲望を満たすためではありません。偽善者のようにただ楽しんで、自分の欲望を満たして生きて行くのではなく、再臨の時までみことばを忠実に伝え、人々に霊的食物を与えて、人々を元気づけているのを主人に見られる働き人は幸いです。この知恵を持ち、終わりの日に主が来られた時に、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と仰っていただく時を楽しみに生きて行きたいものです。

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