2024年10月6日 主日礼拝「主を訴える者よ」

礼拝式順序

賛  美  「御名をかかげて」
      「みもとにひれ伏し」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇95篇1〜8節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌138「ああ主は誰がため」
聖書朗読  マタイの福音書26章57〜68節
説  教  「主を訴える者よ」
讃  美  讃美歌506「たえなる愛かな」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書26章64節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書26章57〜68節

説教題

「主を訴える者よ」

今週の聖句

「しかし、わたしはあなたがたに言います。あなた方は今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともにくるのを見ることになります。」

マタイの福音書26章64節

説教「主を訴える者よ」

マタイの福音書26章57〜68節

前回を振り返りますが、先週はゲツセマネの園におられたイエス様のところに、イスカリオテのユダが祭司長たちや民の長老たち、宮の守衛長たち、一隊の兵士らや下役たちを連れ、その先頭に立ってやって来たところを見ました。そのユダのことを、聖書ははっきりと「イエスを裏切ろうとしていた者」と記しています。ユダはイエス様を捕らえる人たちと合図を決めていました。「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と。そしてユダはイエス様に近づき、口づけをしました。弟子がラビの手とか足に口づけすることは、日常的なあいさつではなく、特別な尊敬のしるしでした。しかし、弟子の方から勝手に率先して口づけすることはなく、そうするならばそれは、ラビに対する故意の侮辱となったのです。そしてこの「口づけする」と訳されたギリシヤ語は、有名な「フィレオー」が用いられています。聖書には3種類の愛が記されています。アガペの愛(無償の愛)、エロスの愛(性的な愛)、そしてフィレオーの愛(友情の愛)。そしてイエス様はユダに「友よ」と呼びかけられました。普通の場合、友と呼ばれることはとても素晴らしい感謝なことです。しかもこの「フィレオー」は英語で「コンパニオン」のこと。その語源は「パン(食事)を共にする人」であり、また「ある行動を共にし、親密な関係にある仲間」という意味もあるからです。明らかに「最後の過越の食事、またその中で制定された聖餐に与った者」を思い起こさせるものでしょう。しかしマタイの福音書の中で「友」という語は、ほとんどの場面で逆説的な意味で「残念な友」のような使われ方をしているのです。ユダはイエス様の真の友になるべきでしたが、裏切り者としてイエス様のところにやって来たのでした。

イエス様はこの私のことをも、アガペ(無償の愛、無条件の愛、決して見返りを求めない一方的で激しさをも覚えるほどの愛、私のためにご自分のいのちを捨てられる愛)をもって「友よ」と呼びかけてくださっているのに、私はイエス様にとって本当に「残念な友」なのだと思わされるのです。私は石ころにつまずいただけで「何なんだよ」と即座に文句をつぶやく私がいるのです。誰に文句をつぶやいているのかというと、何とイエス様に対してです。イエス様は何も悪くないのに。いつもイエス様を信じています。愛していますと言っているのに、何かほんの小さな自分にとって不都合なことが起こると、瞬間的に「何なんだよ」とイエス様に文句を言っている自分に気づくのです。皆さんはそんなことありませんか? 例えば石ころではなくても何かに自分の行く手を阻まれたと感じる時などどうでしょう。自分にとって都合の悪いことが起こった時、イエス様に、神に文句を言ったりしていませんか。自分は違うと言い切れるでしょうか。それはやめた方が良いと思います。イエス様が様々なかたちで警告されても、自分の望むことを優先させてしまうのが私たち人間なのですから。ユダのように。そしてペテロのように。自分の状態が良いと思われる時はイエス様を愛し従い、しかし悪いと思われるときは文句を言いそっぽを向く。背を向ける。背を向けて自分勝手な方向に出て行き、自ら主との関係を断ち切ってしまう。滅びに向かって一直線。これこそ人間の罪です。そして石ころにつまずいただけでイエス様に文句を言ってしまう私に、聖書はいつも警告するのです。「その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい」(ルカ2134)と。

さて、マタイの福音書はさらにイエス様の十字架と復活というクライマックスに向かって進んで行きます。ちなみにクライマックスの語源は「はしご、階段」を意味するギリシャ語(κλῖμαξ)だということはご存知でしょうか。それはある経過における頂点のことです。まさに今日の箇所もクライマックスを前にして、そしてすでに分かっている大逆転、ハッピーエンドを前にして私たちに様々な思いを抱かせる箇所であると思います。

26章57節    人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた。

「人々」と言われるのは、ゲツセマネにおられ、そこで血の汗を流すほどにストレスを感じつつも神のみこころを求め、みこころに従うことができるように祈りご自分と戦われ、ついに勝利を得られたイエス様のところに、ユダとともにやって来た人たちのことです。彼らはイエス様を捕らえました。「捕らえる」という語は他に、「力をもって支配する、勝利する、獲得する、うまくいく、勝ち取る」という意味の語です。そして大祭司カヤパの家に連れて行き、そこには律法学者たち、長老たちが集まっていました。この「集まる」と訳された語もいやらしい意味があって、それは「楽しませる」というものです。彼らはついに「あの忌々しいイエス」に勝利したと喜んだことでしょう。そして彼らが勝利を楽しむような光景が始まります。

最高法院(サンヘドリン)は大祭司の家では開かれず、また夜間に開かれることもありませんでした。そして石打ちの刑の疑いのある裁判は昼間に行わなければならないという律法による決まりもありました。ですからこれはいわゆる「予備公判、予備審問(正式の裁判に先立って、起訴するに足りる証拠があるか否かを判断する手続き)」に近いものでした。祭司長と律法学者たち、長老たちは、過越の祭りが終わってイエス様がまたどこかに出て行ってしまう前に、また過越の祭り期間の最後の安息日よりも前にイエス様の死刑を早く確定し、執行したかったために、夜中に一堂に会したというわけです。

ユダヤの公判においては律法の解釈と適用がとても重要なので、律法の専門家である律法学者たちの発言は判決を左右しました。しかし律法学者たちはイエス様に敵対していました。死刑にしたいほどの感情に支配されていた。その彼らが律法の「解釈」をする。「適用」をする。どのような結果になるでしょう。すでに結論が定められた公判でした。結論が定められた形式的な裁判へと進められて行く。今の時代にもつい先日もありましたが、冤罪(無実の罪)によって裁かれてしまうことがあります。しかし歴史上最も過った裁判が、最も罪深い裁判がイエス様に十字架刑が下された裁判ではないでしょうか。イエス様は人に訴えられ、そして処刑されるのです。神への冒瀆罪、反乱罪などで処刑されるのです。

26章58節    ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った。そして中に入り、成り行きを見ようと下役たちと一緒に座った。

イエス様が捕らえられる時にイエス様を見捨てて暗闇の中に逃げて行ったペテロは、戻って来て大祭司の家の中庭にいました。そこは家を囲むようになっており、下役(役人)と公判の見学者などがいたようです。彼らには発言権や議決権はありませんでした。ただ「成り行きを見ようと」集まっていたのです。先ほども申しましたが「集まる」とは「楽しませる」というものです。公判の見学者はこのことの決着がどうつくか、どちらに軍配が上がるか、その終わりを見ようと心配ではなく好奇心をもって中庭に座っていました。その中にペテロも一緒に座った。聖書はただそこに座っただけだと記すのでしょうか。ペテロはそこに座したのです。同じ座に、彼らと同じステージ、同じ舞台に立ったのです。ペテロは遠くからイエス様の後についてきました。この「後について」という語も、付き添うことではなく、つけ回すことです。

この時のペテロもまたユダと同じ、イエス様にとって残念な友でした。数時間前までの威勢のよさ、イエス様に対する告白はどこに行ってしまったのでしょうか。自分にとって都合の悪い状況を前にして、それがまるでなかったかのような姿です。しかしこの姿もまた、私たち自身と重なるものがあるでしょう。

ペテロのイエス様への愛がアガペ(無償の愛、無条件の愛、決して見返りを求めない愛)ではなかったことがすぐに明らかになろうとしていました。アガペでなければ、ペテロの愛はユダの愛と同じくフィレオー(友情の愛、それは条件付の愛)だったのでしょうか。ペテロはイエス様を信じて従って来ましたが、イエス様を本当に真実の愛をもって愛することには至っていなかったのでしょうか。しかしフィレオー(友情の愛)も本来は素晴らしいものです。自分の友のためにいのちを捨てるまでに高められるものでしょう。そして愛は自分を差し出すことです。イエス様がご生涯を通してそれを示されました。しかしそれを間近で見て、また自身もその愛を注がれた経験のあるペテロではありましたが、彼はただ傍観し、自分の命を守るために最も重要なことには関わろうとせず、ついには保身のための嘘をつき、イエス様を訴え死刑に定める者と同じ座に着いてしまったのでした。

26章59節    さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。

予備公判、予備審問が始まり、祭司長たちと最高法院全体は法的にイエス様に死刑宣告を下すために、それに当たる罪を犯したのを見たとか聞いたなどの目撃証言を得ようとしました。集めようとした、都合の良い証言、偽証を望んだのです。でっち上げの証言を希望し、求め、集めようとした。しかし結果得られませんでした。

それにしても偽りの証言を根拠にする裁判とはどうなのでしょう。イエス様は何も悪くないのに訴えられている状況。十戒には「偽りの証言をしてはならない」とあります。それに反するということは、神に逆らうことでしょう。神への冒瀆罪、反乱罪としてイエス様を訴える彼らこそ、神への冒瀆罪、反乱罪で裁かれてしまう者たちです。

26章60節    多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、
26章61節    こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」

律法によると、同じ証言が2つ以上なければ証言としては認められません。皆の証言のつじつまが合わなかった、皆バラバラの証言をしたのです。それはそうです。イエス様は罪を犯したことのないお方ですから。私が道で小石につまずいたのはイエス様のせいだと証言しても、恐らく皆さんは誰一人同意してくださらないでしょう。偽証を禁じられていることを気にするなら、やはり「そうだ」とは証言できないでしょう。そのようにバラバラの証言しか出てこなかったのです。

しかし、ついに「最後に二人の者が進み出て」証言したのです。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」と。最初は1人がそう言ったのでしょう。それを聞いた他の人が「そう言えば私もそれを聞いた覚えがある」などと言って進み出たのでしょうか。しかし、これもまた偽証でした。なぜなら、イエス様は神殿が壊されると預言し(241-2)、「この神殿を壊してみなさい」と言われたのであって(ヨハ219)、ご自分がそれを壊すと言われたことはありませんでした。また、「三日でそれをよみがえらせる」と言われたのも(ヨハ219)、ご自分が3日でよみがえられることについてでした。しかも「よみがえる」というギリシャ語は明らかに「目覚める、起きる」という語で、「建て直す」ではありませんでした。彼らのみことばを聞く姿勢、間違った勝手な解釈。その罪の大きさ、悲惨さ。なぜならそれによって神のひとり子であるイエス様は重罪人に定められ、十字架に架けられてしまうのですから。ですから私たちも日々みことばをいただく中で、決して他人事ではありません。

26章62節    そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」

不当な訴えによって捕らえられ、ひざまずかされるイエス様の前にどっかりと偉そうに座っていた大祭司は、2人の証言を聞いてこれぞとばかりに立ち上がり、公判上法的に必要だったのでしょう、イエス様に弁護(言い開き)するように告げました。しかし、すでに答えを決めている人に何を言っても無駄なのです。ああ言えばこう言う。イエス様の思いはルカの福音書に記されています。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう」(ルカ2267)。

26章63節    しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」

これでは埒が明かないと思ったか、大祭司は「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と命じます。「私は生ける神によってお前に命じる」とは、問いただしたことについていい加減に答えてはならず、その答えが真実であると神に誓って答えなさいという意味です。つまり、偽りを言う場合は神の呪いを受けるという誓いをしてから答えなさいと言っているのです。あなたが言うか?と思ってしまいますが。しかも誓いを強要することもまた、律法に基づくユダヤの司法手続きに反することでした。

「おまえは神の子キリストなのか、おまえは神の子メシアなのか、救い主なのか」。

26章64節    イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

それまで、どんな訴えにも沈黙されてきたイエス様が、この質問に対しては「あなたが言ったとおりです」と答えられます。イエス様はご自身に疑いを持ち、「本当におまえは神の子キリスト、メシア、救い主なのか」と問う者に、ご自身が神の子キリスト、メシア、救い主であることを認められるのです。救い主を待ち望む彼らであったなら、その答えに喜ぶべきですが、何と心の中でイエスを殺す口実を得たと喜んだのです。彼らの心に欲望が満ちていたからです。

また「あなたが言ったとおりです」は、他の訳し方をすると「それは、あなたが言ったことである」ともなります。そうなると、イエス様は「神に誓って答えろ」という大祭司の要求を拒むためにそう言われた。またご自身が「誓ってはならない」と戒められたその戒めを守られたことにもなるでしょうし、さらにご自身のアイデンティティについて大祭司の言ったこと、考えとか、認識などが正確ではないことをも言われていることになります。

そこでイエス様は言われます。「しかし、だから、それはそうとして」、「わたしはあなたがたに言います、言っておきます」と。「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」イエス様は、このわたしこそがキリストであり、救い主であり、死んでよみがえり、あなたがたに殺されてもよみがえり、再臨する、再び世を救うために、わたしを待ち望んでいる人を救うために来るのを見ることになります」と。

イエス様はご自分を不法に訴え、間もなく十字架につけ殺す者たちに対して、またそれをただ傍観している者たちに対しても、彼らが悔い改め、心から救いを求めるならば必ず救おうと約束されるのです。

しかし、前回も同じことを申しましたが、自分に負い目があったり欲望に満ちているなら、敵対しているならば、たとえ良いことを言われてもそれが責められていると感じたり、信じることができなかったりするのです。大祭司と最高法院たちの反応はこのようなものでした。

26章65節    すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒瀆した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒瀆することばを聞いたのだ。

恵みの約束であり、それが神の御心であるのに、イエス様のそのおことばがどうしたら神への冒瀆となるのでしょう。

26章66節    どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。

大祭司だけでなく、最高法院全体が、イエス様の発言が神に対する冒瀆罪に当たり、それゆえ死に値すると同意しました。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから」(ヨハ197)。あなたが訴えているこの方は、あなたの目の前にいるこの方は、間違いなく神が世を救うために降らされた神の子であるのに。

26章67節    それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、
26章68節    「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

「拳で殴る」という語は、単に打つことではなく、「相手を押さえ付けるために激しい痛みを加えながら、容赦なくひっぱたく、体が不自由になるほどに拷問を加える」を意味します。また「平手で打つ」というのも、力いっぱい暴力を加えるという意味であると同時に、相手に恥を加える行為でもありました。「当てて見ろ、預言しろ、キリスト。おまえを打ちのめしたのはだれだ」。そうです。イエス様を不法に訴えるあなたです。

自分の思う所によって、自分の欲望を押し通すために、自分の行く手を邪魔し、阻むイエス様に対して。「なぜ」「どうして」「何なんだよ」と、何も悪くないイエス様に対して不法に訴える者に沈黙を守られるイエス様。自分の中で答えが決まっている者に対して何を言っても無駄であるから。一方的な訴え、沈黙されるイエス様。何も答えられなかったのは主のみこころ、つまり彼らの救いのためでもあったのです。私たちの救いのためであるのです。一向に埒が明かないとイライラし、「それでは、あなたは本当に救い主なのか」という、暗闇にスポットライトがギュッと絞られていくようにして、導かれるようにして出て来るその問いにだけ答えられる。主はここに導かれるのです。「それでは、あなたは本当に救い主なのか」。そして「そうだ」と答えられる。本当に「本当の救い」を待ち望む者であるならば、そこで喜びに満たされるべきです。

「どう思うか」と問われた者は、そこに喜びがなければ、自分の思う所によって救い主イエス・キリストを押さえ付けるために激しい痛みを加えながら、容赦なくひっぱたく、体が不自由になるほどに拷問を加えるのです。恥を加えるのです。恥をかかせ、もう出しゃばるなとばかりに。主を疑い、主を不法に訴える者は、主の顔に唾をかけ、拳で殴り、平手で打ち「誰が打ったか当てて見ろ」と言う者たちです。イエス・キリストを罪に定め、十字架にかけて殺そうとする者たちです。

しかしイエス・キリストは、そのような者たちのためにも、アガペ(無償の愛、無条件の愛、決して見返りを求めない一方的で激しさをも覚えるほどの愛、自分のいのちを捨てられる愛)をもって愛された。フィレオー(友情の愛、それは条件付の愛、状況によって変わってしまう愛)をもってしか愛せない弱い私たちのためにも、真のフィレオーの愛(友のために命を捨てる最高の愛)をもって愛され、自ら十字架に架かられ死なれたのです。

愛される資格のないこんな私が神に、主に愛されている。救われる価値のないこの私が救われた。ここにこそ私たちの信仰の礎があるのではないでしょうか。もう一度、最初に救われた日のことを思い出してください。あの喜びを思い出してください。そしてその喜びをもう一度取り戻し、信仰を取り戻し、いつも目を覚ましていたいものです。天におられる主を仰ぎ、主を愛し、主に愛されていることを喜び今日からも、すでに神によって定められているハッピーエンドに向かって信じて歩んで行くのです。そうすれば、たとえ道で小さな石につまずいたとしても、主を罪に定め訴えることはないでしょう。実は取り返しのつかないほどの大きな罪を犯してしまい、自ら滅んでしまうことはないでしょう。小さな石につまずいたことさえも感謝できるのかもしれない。そのような素晴らしい、生き生きとした信仰、喜びと希望に満ちた今日からを歩んで行きたいものです。私たちはこれほどまでにアガペで愛されているのですから。これほどまでに日々罪が赦されているのですから。

私たちはこれから聖餐式の恵みに与ります。フィレオー、英語でコンパニオン、その語源は「パン(食事)を共にする人」であり、また「ある行動を共にし、親密な関係にある仲間」という意味です。明らかに聖餐式でしょう。その聖餐式を通してイエス様を覚え、私たちはイエス様の真実の友とさせていただきましょう。主のアガペを覚えつつ、信仰を新たにさせていただきましょう。リフレッシュです。憩いです。死んだ者が息を吹き返すのです。心から感謝して、また心から求めて期待して、聖餐の恵みに与りましょう。

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