2025年3月9日 主日礼拝「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」
賛 美 新聖歌89「神は独り子を」
新聖歌185「来たれ誰も」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇100篇1〜5節
讃 美 讃美歌10「わがたまたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌93「みかみのめぐみを」
聖書朗読 コリント人への手紙第一4章1〜8節
説 教 「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」
讃 美 讃美歌227「みそらたかく」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一4章1節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一4章1~8節
説教題
「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」
今週の聖句
人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
コリント人への手紙第一4章1節
説教「キリストのしもべ、神の奥義の管理者」
コリント人への手紙第一4章1〜8節
- 私たちの信仰はどのようにして与えられたのか、思い起こしてみましょう。
- 私たちは王様【βασιλεύω:支配・統治する者、君臨する者、ルール(規則)】ですか。
はじめに—ある人の思い出
私がまだ20代半ばの頃の話です。お客さんの中にある1人のとても変わった人がいました。見た目はおじいさん。猫背で背が小さくて痩せていて、しわくちゃの面白い顔、変わった声、話し方をしていました。誰に対しても低姿勢で、それでいて結構距離感が近く、私の中に何か問題を感じたからでしょうか、私を気にかけてくれ、いつも「寒くなったね」とか「最近どう?」などと言っては仕事中の私のそばに来ては、仕事以外の話しを長々としてくれました。それもあまり話し上手とは言えませんでした。正直迷惑に感じ、私はその人のことがだいぶ苦手でした。どこか馬鹿にもしていました。ある時、別のお客さんからその人がクリスチャンであることを知らされました。クリスチャンに対する正しいイメージなどまったくなかったので、「あんな顔をして、頭にレースのベールを被って祈っているんだ」などと、影でひどい悪口を言っていました。私はその人のことが苦手で馬鹿にもしていたものですから、時には話しの途中でその人に対して非常に失礼な態度をとることもあったのですが、怒る姿は一度も見たことがありませんでした。一瞬カチンと来ているだろうなと分かる時もありましたが、それでも笑って、私に対する態度を変えることなく、私の近況を気にしてくれて、それでも優しい言葉をかけてくれたり、励ましてくれたりしました。今思うと、その言葉は聖書のみことばに基づくものであったことが分かります。時々聖書のみことばをそのまま伝えてくれたこともあったように思います。そしてまた、その人の態度も、イエス様の弟子の姿勢であることが分かります。それがどれほど難しいことかも分かります。しかし当時の私は、その人に対して思い上がり、自分が王様になったかのような態度をとっていました。それから少し時が経ち、色々ありまして、「おかげさまで」私はクリスチャンになりました。本当に「おかげさまで」です。私が教会に来ることができるために、そして信じることができるために、神と多くの方々が働いてくださいました。私が初めて教会に来たのは伝道集会でしたから、その伝道集会を計画し準備してくれた方々、チラシを配ってくれた方、聖書の話しをしてくれた方、お手紙をくれた方、快く受け入れてくださった方、話しかけてくれた方、人には知られない奉仕をしてくれた方など、本当に私は「おかげさまで」今の私なのだと思わされます。そして私がクリスチャンになったことを知った変なおじさんは、とても喜んでくれました。同時に私は、以前のその人に対する態度をとても思い恥ずかしくなりました。そんな私に対して、今度は信仰の友として色々な話しをしてくれ、また教えてくれました。以前はその人のことを何も知らずに、その人に対する評価を先走り、馬鹿にしていた自分を本当に恥ずかしく思います。今では「もしかしたら大伝道者、パウロはあの人のようであったのかもしれない」とさえ思うほどに、その人に対する評価は爆上がりです。何も知らない人に対してうわべだけを見て、評価を先走ってはいけないのだと思わされると同時に、あてにならない不確実な人の評価など恐れずに、自由に神を愛し、自由に隣人を愛する、そのような人たちによって世界中に、そしてこのような私の所にも福音が宣べ伝えられたのだなぁと思わされます。さらに私の信仰は決して私ひとりで得たものではないこと。「おかげさまで」であることを改めて覚えさせられるのです。
さて、コリント人への手紙第一の講解を進めてまいりますが、本朝は4章1節からです。章は変わりますが、パウロが語っている内容は依然として教会内の分争に対するものです。
そのコリントの教会の最大の問題点でる分争の原因の1つは、教会指導者や働き人をさばいたこと、評価したことにありました。そしてある人たちは「私はパウロにつく」と言い、別のある人たちは「私はアポロにつく」と言っていました。コリントの聖徒はそれぞれ勝手に教会指導者や働き人を立てて党派を形成し、他の党派の者たちをお互いにさばき合っていました。それも、自分たちの基準や考え方に合う、合わないという理由でそうしたのです。それでコリントの教会は分裂の危機にあったのです。
キリストのしもべ
4章1節 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
新改訳聖書の欄外注にもありますが、1節のギリシャ語本文の文頭には「こういうわけで」という接続詞があります。「こういうわけで人(あなたがたは)、私たちを(パウロを、アポロを、ケファを)キリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです」。考えるべきですという命令を通して、コリントの聖徒に働き人に対して持つべき正しい考え方を教えます。
パウロはコリントの聖徒がアポロやケファや自分を党派の指導者ではなく、「キリストのしもべ」と思ってくれることを望んでいます。この「しもべ」というギリシャ語は、大きな船の一番下、底辺で、必至にオールを漕いで船を走らせる奴隷を指しています。例えば、キリストが水先案内人(船の運航を安全に導く人)だとすれば、パウロやアポロたちはキリストの指図どおりに働くしもべにあたります。
続けてパウロは、コリントの聖徒が自分も含めた伝道者たちを「神の奥義の管理者」と思ってくれることを望んでいます。この「管理者」というギリシャ語は、「家」を意味するギリシャ語「オイコス」を含む合成語です。主人に代わって家のしもべがその家や財産、あるいは事業を管理することを意味しています。しかしそれでも、その家の主人から見れば彼らもただの使用人に過ぎないのです。
ですからパウロは言うのです。自分も含む教会の指導者的立場の人や働き人が、教会でどんな地位に就いていようと、たとえどんな特権を持っていたとしても、誰一人としてそれを誇ってはいないでしょう。皆キリストのしもべ、主を信じ、主に従う者たちにすぎないと考えているでしょう。教会指導者や働き人も、神によって、イエス・キリストによって、恵みによって赦され、愛され、選ばれ、召されたただの1人の信仰者にすぎないと思っているでしょう。いやあなたがた以上に、自分はたくさんの罪が赦された、誰よりも大きな恵みによって赦され、愛され、選ばれ、召された、その返しきれない感謝をもってただキリストのしもべ、神の奥義の管理者、神のみことば、福音、そして教会、つまりあなたがたのための働き人として仕えているのでしょう。指導者や働き人として立てられている者はそうであるべきだし、そうではないですか。パウロもアポロも王様のようにあなたがたの上に君臨しているでしょうか、それを望んでいるでしょうかと言うのです。
4章2節 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。
そしてパウロは、神の奥義の管理者、家の主人、教会の主人である神に代わって教会とキリストの福音を正しく管理し、またそれを主人から任された者として正しく運用しなければならないしもべに要求されることは、「忠実だと認められること」であると付け加えます。
「認められる」とありますが、誰に認められるのでしょうか。言うまでもなく主人にです。家の主人、教会の主、神にです。神が認める。この認めるというのは、特に検索した後に発見するというものです。私たちもインターネットで色々検索しますが、神は「忠実」を検索ワードに入れて、働き人の内に忠実があるかどうかをご覧になるのです。働き人がどれだけご自身に信頼し、どれだけご自身に誠実であるかをお調べになるのです。神がお調べになって、神が評価し、それで神によって最終的に認められるならばそれで良いのです。それが良いのです。
働き人の責任とさばき
4章3節 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
3節からは主語が「私たち」から「私」に変わります。
パウロが主のしもべ、キリストの福音に仕える働き人としての働きを行う中で直面したさばきは、どうやら2つあったようです。 1つは「人間からさばかれること」。そうしてもう1つは「自分で自分をさばくこと」。
コリント教会でパウロ派に反対する人たちは、しばしばパウロを責めてさばいたのでしょう。アポロ派の人たちはアポロを引き合いに出して、パウロの説教とか管理能力など、色々と批判したのでしょう。しかしパウロは、どのような人間のさばき、それが非難批判であっても、またたとえ良い評価であっても、そんなことは一切気にしない、意に介さない、相手にしないと言います。なぜなら、他の誰であっても、本当の私など分からない。私を本当に理解するのには限界がある。そのような人たちによる評価は、人間のもの、人間の知恵、人間の価値や基準によるものであるため、不完全であるし、あてにならないからです。主人に、神に認められなければならないし、心の内もすべてご存知の神に認めていただければ良いからです。
しかし、自分のことならある程度は知っているはずです。自分で自分を褒めることもできるでしょうし、自分で自分を非難することもできるでしょう。自分はだめだ、自分はなっていないと責めることもできるでしょう。しかし、そのような自分の自分に対するさばきもやはり人間の知恵、人間の価値基準によるものであり、正確ではなく、意味がないもの。なのでパウロは自分で自分をさばくことさえしないと決めていたのです。
4章4節 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
パウロは、自分が世でどんなふうに裁かれようとも、自分で自分をどんなふうに裁いてみようとも、最終的なさばきを下されるのは主であると言います。パウロ自身、人間による判定を受けても、自分は落ち度のない管理者であると言う自信があったようです。私たちもパウロは素晴らしい偉大な伝道者だと思うでしょう。だからと言って、それで無罪とされるのではないのです。たとえ人間的に無罪であっても、神の目から見たときに、パウロの神の奥義の管理には落ち度があったり、怠慢があったりするかもしれないのです。パウロにも、当然私たちにもそれは分かりません。神のみぞ知る、です。
他人によるさばき、自分によるさばき、そして神によるさばき。私たちはこの3つのさばきに直面していると言えるでしょう。しかし、究極的には神のさばきだけが唯一の真のさばきです。真に人を正しく評価することができるのは神だけです。ですから私たちは誰をも、自分自身さえも裁くべきではありません。誰に対しても、自分自身に対しても、悪い判決、良い判決を下してはならないのです。誰かの失敗、自分の失敗。誰かの成功、自分の成功。それが神の目から見て良いのか悪いのかは、神のみぞ知るのです。
4章5節 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
正しいさばきをするのは主です。それは主の日、主がふたたび来られる日、世の終わりの日になされます。だからパウロは「私をさばく方は主です」と言い、さらに「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけない」と警告するのです。
主のさばきは実に恐るべきものです。さばきの日に、主によって働き人の闇、心の中のはかりごとが明らかにされるのです。働き人の闇、心の中のはかりごと。私は主のためを思い、主のために忠実に働いてきた。本当にそうかと、主は終わりの日に問われるのです。そして調べて明るみに出される。私たちの内にある「これは主のためである、主のための働きである」という思いの中に、何か闇、悪いはかりごとがないか。私たちの内に、主の他に偶像が立てられていないか真剣に顧みる必要がありそうです。
しかし神のさばきは恐るべきものだけではありません。神は正しいさばきによって称賛をも与えてくださるお方です。主のしもべ、キリストの福音に仕える者として主に忠実に、主を信頼し誠実に、主を信じて行くならば、神はそのすべての労苦を見ておられ、お調べになり、すべてを認め、称賛を与えてくださいます。
そのように、人間を真にさばくことのできるお方は神だけであるという悟りは、一方では神の御前での責任感を持たせ、終末(主の再臨、世の終わりの時)を待ち望むことができるようにするでしょう。もう一方で、うかつに先走って他人や自分をさばこうとしたり、人からの評価を気にして神経をすり減らしたりすることがないように、私たちを自由にしてくれるのではないでしょうか。その結果、私たちはもっと自由に、活き活きと生きることができるようになるのではないでしょうか。自由に神を愛し、自由に、大胆に神を第一とすることができるようになるのではないでしょうか。もっと自由に隣人を愛し、赦すことができるようになるのではないでしょうか。もっと自由に、たとえ自分に敵対する人に対しても優しい言葉をかけることができるようになるし、もっと自由に相手のすべてを認めることができるようになるのではないでしょうか。もっと自由にすべての人を救いへと導くイエス・キリストの十字架の福音を大胆に、真っ直ぐに宣べ伝えることができるようになるのではないでしょうか。
王様になったコリントの聖徒
4章6節 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。
パウロはこれまで、自分とパウロを例にあげて、神のしもべとはどのような者か、またどのような者であるべきかについて述べてきました。パウロはここで「兄弟たち」と呼びかけます。「私はあなたがたのために」と言います。つまり、神のしもべ、働き人とは、私やアポロだけではない、あなたがたなのだと言うのです。キリスト・イエスにあって神に聖なる者とされ、聖徒として召されたあなたがたではないかと言うのです。そして教会全体が自分たちから学び取ることができるように願う心で、これまでのことを述べてきたと言うのです。
「書かれていること」とは、当時の聖書、つまり旧約聖書を指します。その対象となる箇所が具体的に述べられていないので、聖書に記されている全体の教えや定めという意味で言っているのでしょう。そしてそれは律法です。要約するなら、神と隣人とを愛しなさいという、人間が互いに本当に幸せに生きるための神のルールです。パウロは旧約聖書に記されている神のルール、そしてそれを知恵によって定められた神以上に高ぶることがないように、高慢にならないように、自分たちには知恵があると思い込んで高慢になっていたコリントの聖徒らをさとしているのです。
そしてこの場合の「高慢」というのは、ある人をあがめ、他の人を見下げることです。パウロやアポロの長所を認めてその人を尊敬するくらいでとどまるならば、それは決して悪いことではありません。しかしコリントの教会のように、パウロやアポロを引き合いに出して相手を下に見て、ののしることは人をさばくことであり、それは高慢から来ることです。そしてまた、その人の長所を認めて褒め称えながら、実はその人をそこまで評価できる自分自身の素晴らしさを誇っているという場合もあるので実に厄介です。相手よりも自分の方が優れているという自惚れや自己満足が潜んでいる場合もあるのです。
4章7節 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
7節の3つの質問は全部、コリントの聖徒が思い上がることのないようにするために投げかけた質問です。私たちはどう答えるでしょうか。
私たちが持っているもの、それは全部自分で造り出したものでしょうか。鉛筆1本にしても、それは誰かが作ったものです。その誰かのおかげで益に与っているのです。まさに「おかげさまで」です。私たちは何と多くに人たちに依存して生きていることでしょう。さらにその鉛筆の原料はどうでしょう。鉛筆を作った人が鉛筆となる原料を作ったのでしょうか。創造主である神です。人間は何もないところから何かを造り出すことはできないのです。すべては神から出ているということです。
鉛筆ばかりではない、キリストの十字架の福音も、私たちの信仰も、すべて神から出ており、神が恵みによって私たち人間に与えてくださり、また神が人を通して私たちに与えられたものです。すべて神と誰かの「おかげさま」なのです。
パウロは皮肉を込めて言います。
4章8節 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。
すべてが神と、また誰かの「おかげさま」であるのに、コリントの聖徒には高慢がありました。自分たちの力で福音を理解し、福音を信じ、自分たちこそがこのような立派な教会を建てたと思い込み、自分たちの信仰がとても優れていると満足していました。そのような彼らに対して、パウロは「すでに満ち足りて豊かになった王のようにしている」と指摘します。
「王様」というギリシャ語は、「私は統治する、私は支配する、私は君臨する、私はルール(規則)となる」という意味の語です。コリントの聖徒は自分には知恵があると自負し、高慢になり、自分が王様となり、自分が君臨し、自分がルールとなって人を、教会の指導者を、働き人を、パウロやアポロ説教者を評価し、非難し、あるいは高めていました。代表的な具体例として、神のみことばの説教を、神のことばとして聞くのではなく、批評家として聞き、それを裁いていました。「教会あるある」ではないでしょうか。
パウロは、教会の指導者、働き人はあなたがた人間に評価されるべき者ではないこと、また人による評価によって、その地位が高められることなどまるで望んでなどいないと言うのです。実際に、指導者や働き人は、王様を気取るどころではなく、評価によって愚かにされ、弱くされ、人々から卑しめられていたのです。パウロがそうでした。冒頭の変なおじさんがそうでした。人々から下に見られ、馬鹿にされ、影で笑われていた。しかしコリントの教会の人たちの信仰は、また私たちの信仰は、そのような働き人の「おかげさま」によって与えられたものでしょう。彼らが、また私たちがここまで信仰生活を続けてこられたのは、これまで非難されようが、弱くされようが、彼らのために、私たちのために、自分を無にして、あえて愚かになって仕えて来た働き人がいたからなのではないでしょうか。誰の助けも受けずに1人で信仰を持ち、1人で信仰が成長して行く者はいません。すべて「おかげさまで」です。私たちはすべての働き人の労苦に感謝し、また働き人から謙遜さを学びたいものです。
さらにパウロは、あなたがた1人ひとりもまた、神によって、イエス・キリストによって、恵みによって赦され、愛され、選ばれ、召された働き人なのだ。その身分にふさわしく生きなさいと教えるのです。
パウロはこの手紙でも、他の手紙でも、それぞれが謙遜になり、恵みの下にへりくだり、そしてキリストにある真の一致を心から願っています。ピリピ人に宛てた手紙にはこのように記されています。「ですから、キリストにあって励ましがあり、キリストにあって愛の慰めがあり、キリストにあって御霊の交わりがあり、キリストにあって愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私(パウロ)の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ21−8)。
本当ならば、信仰は人を神に対して、また人に対しても謙虚にするはずのものです。この私のために自らを低くして、十字架の死にまで従われたお方よりも、さらにへりくだる者とするはずです。しかしコリントの教会には高慢がありました。信仰が自分の自信となり、自尊心となり、高慢に変わって行ってしまいました。自分が王様となり、自分がルールとなり、指導者を、働き人を、お互いを評価しさばきあっていました。そこに一致がありませんでした。本当にキリストにある愛によるお互いの非難、お互いに仕えるしもべとしての非難であったなら、コリントの教会は真に一致した素晴らしい教会となっていたことでしょう。しかしそうではなかったのです。
すべての聖徒がキリストのしもべ、神の奥義の管理者、働き人
パウロは働き人の役割を、キリストのしもべ、そして神の奥義の管理者だと言います。働き人とはパウロやアポロ、伝道者、教会の指導者的立場の人たちのことであると同時に、すべてのキリストのしもべ、クリスチャンだと言います。ですから私たちは、お互いが働き人、キリストのしもべ、神の奥義の管理者だということを認め合い、お互いを先走ってさばくのではなく、ともにキリストの福音に仕える者として、また、終わりの日にそれぞれの働きに対する主のさばきがあること、また、そのさばきには神による称賛もあるのだということに期待しつつ、お互いを支え励まし歩んでまいりたいと願います。教会の中には様々な形で仕える多くの働き人がいます。そのどれもが神の目に尊いものです。また、働き人の中には、欠点のない人はいないでしょう。神は完璧な人を探して選び、その働きを委ねられたのではないのです。そうだとしたら、この私はどうなのでしょう。それなのに、コリントの教会のように、お互いに批判的な視線を送り、その働きに協力するどころか、ただ悩ませていてはいけないのです。そのような態度は、主に仕える働き人を落胆させ、最悪の場合は働きから、さらには信仰から去らせてしまうかもしれません。働き人が献身したのは、パウロが1章で語ったように彼らが他の誰よりも優れていたからではありません。主が弱さもある彼らを選び、その働きに召されたからです。イエス・キリストが十字架でその人のために死なれた、まさにいのちをかけて命を救い、そして働きに召された。それほどに大切な尊い存在です。お互いにそうなのです。弱さも欠点もあるそれぞれを、お互いが支えていかなければなりません。主が様々な形で立てられた働き人を尊重し、それぞれがそれぞれの働きを忠実に行って、それぞれの労苦を通して主の栄光が現されるように支え、共に力を合わせて行くのです。コリントの教会のようにさばき合うのではなく、お互いが支え合い、励まし合い、お互いが組み合わされて教会は成長し、そこに神の国が現れるのです。そして人を救うキリストの福音は、ますます世に宣べ伝えられて行くのです。