2025年3月23日 主日礼拝「神の教会が、神の教会であるために」

賛  美  新聖歌209「慈しみ深き」
      新聖歌275「信仰こそ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇33篇1〜5節
讃  美  讃美歌12「めぐみゆたけき主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌195「いのちの君にます主よ」
聖書朗読  コリント人への手紙第一5章1~13節
説  教  「神の教会が、神の教会であるために」
讃  美  讃美歌224「勝利の主」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一5章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一5章1~13節

説教題

「神の教会が、神の教会であるために」

今週の聖句

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

コリント人への手紙第一5章1~13節

説教「神の教会が、神の教会であるために」

コリント人への手紙第一5章1~13節

  • 神の教会が、神の教会であるためには、何が必要だと思いますか。
  • そのために、私たちは何をすべきで、何ができるでしょうか。

はじめに—「泣いている者たちとともに泣く」ことの幸い

先日は、父小澤彊兄の召天に際し、皆さまから多くの祈りと慰めを頂戴しましたことを、この場をお借りして心から御礼申し上げます。天の御国での再会を楽しみにしつつも、やはり家族、特に母の悲しみはとても深いものがあります。その悲しみに暮れる母の姿を見ると、本当に幸せな結婚生活であったのだと思わされます。母は何度も「お父さんは私に対してはもちろんのこと、誰に対しても本当にいい人だったわね」と言います。娘である妻も、また息子である妻の弟も、心の底からその言葉に同意している。家族からもそのように言われる父の人生、生き方は本物で、本当にすごいと思わされます。神と隣人を愛する、まさに信仰者としてイエス様の生き方、道を歩んで来られたのだと思います。その背中を私たちに見せながら、天の御国への道、神の御元へと進んで行きました。これまでの道は決して平坦なものではなかったでしょう。人に踏み付けられるようなこともあったかもしれない。それでも神と人を愛し、優しいことばをかけ、時には自分の心を律して、奮い立たせて神のみこころに聞き従って来たと思います。そのような父のために、葬儀には予想をはるかに超える多くの方々が参列してくださいました。そして悲しみに暮れる母と一緒に、心の底から悲しみ泣いてくださる多くの方々の姿を拝見し、その幸いを実感しました。母や家族は、ともに悲しみ泣いてくださる神と、ともに悲しみ泣いてくださる方々によって慰められ、そして癒やされていくのだと思わされました。母をはじめ家族の悲しみはまだ続くことでしょう。何度も思い出しては涙するでしょう。それだけ父を愛し、幸せだったということです。また同じように大切な方を亡くされ、悲しみの中にいる方もおられることでしょう。しかしともに悲しみ泣いてくださる神と、ともに悲しみ泣いてくださる神の家族がいるならば、悲しみは少しずつ癒やされ、少しずつ喜び笑うこともできるようになるでしょう。「喜ぶ者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ロマ1215)とのみことばが今年、私たち教会に与えられていることの幸いを、心から感謝します。また私たちがこのみことばの通りに生きることができるのは、私たちとともに喜び、泣いてくださる主を、私たちが本当に知っているからでしょう。知識としてではなく、実際のこととして知っているからではないでしょうか。そして私たち教会は、そのような主のもとで1つとなる神の家族でありたいと願わされます。主もそのように願っておられるでしょう。

さて、本朝もコリント人への手紙第一の講解を進めてまいります。手紙は5章に入ります。これまで1章から4章に至るまで、パウロはコリントの教会からの手紙(質問状)をパウロのもとに携え持って来たクロエの家の者の口から伝え聞いた、コリントの教会の中に起こっていた「分争」の問題を取り扱ってきました。そして5章から、いよいよ手紙の質問に答えるかと思いきや、コリントの教会に関して伝え聞いた2つ目の問題を取り扱います。

淫らな行いについての噂

5章1節        現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

「現に」と訳されている語(ὅλος)には、「どこからでも」という意味があります。つまり、クロエの家の者だけでなく、あちらこちらから噂となって聞こえて来ていたということです。「あの教会の人たちは、淫らなことをしているらしいよ。父の妻を妻にしている人がいるんだってさ」などと噂されていて、その噂は本当だったのです。恐ろしいことですね。とても残念なことです。ある1人の悪い行いによって、神の素晴らしさ、教会の交わりの麗しさが噂されるのではなく、淫らな集団、ろくでもない集団だと噂されてしまっていたなんて。

「父の妻」というのは、自分の実の母ではなく、継母のことでしょう。父は死んでいたのか生きていたのかは分かりませんが、いずれにしても息子は、「俺のこの結婚は合法だ。間違っていない。罪ではない」と声高に主張していたのかもしれません。しかし、近親相姦は律法で厳しく禁じられていましたし(レビ188)、そればかりでなく、ギリシアやローマでも罪に定められていました。ですから「異邦人の間にもないほどの淫らな行い」であると言われるのです。ちなみに「異邦人」というのは、旧約時代はユダヤ人以外の者たちを指していましたが、イエス・キリストの十字架以降の新約時代では、救いはユダヤ人、異邦人という制限がなくなりましたから、キリスト者以外の者たちのことを指しています。その異邦人ですら、それが罪であることを知り、罪を犯さないように避けていたというのに、コリントの教会では堂々とその罪が行われていたのです。

5章2節        それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。

「あなたがたは思い上がっている」とパウロは叱責します。

「イエス・キリストはあなたがたの一切の罪を背負い、死んでくださった。あなたがたは一切の罪が赦されています。あなたがたはそれほどまでに神に愛されています。それは確かなことです。神はイエス・キリストを信じるすべての者のすべての罪を、恵みによって赦し、恵みによって神の子としてくださいました。神は確かにあなたがたに愛と赦しを与えてくださるけれども、それは救われたらその後はどんな罪を犯しても構わないという意味ではありません。神はあなたがたを罪から解放し、自由にしてくださいました。あなたがたには自由が与えられています。しかしあなたがたはキリストにある自由を、自分たちの都合の良いように受けとめ、ねじ曲げて、何をしても良いのだと思い上がっています」。パウロは厳しく叱るのです。

私たちの心にも、パウロの叱責に責められるところはないでしょうか。私は赦されている。愛されている。だから何をしても赦される、これくらいのことは赦されるなどと思い上がっているところは1ミリもないでしょうか。神の真実の愛とあわれみ、赦し、たくさんの恵みに与り、またそれを本当に知っている私たちであるなら、それらの上にあぐらをかくのではなく、神の愛と恵みを前にして畏れを抱き、身を低くして心からへりくだるのではないでしょうか。それが礼拝というものでしょう。

パウロは彼らの思い上がり、そして思い上がりによって異邦人の間にもないほどの淫らな行い、父の妻を妻にしている者がいるという事態を厳しく叱りますが、そればかりでなく、その事態に対するコリントの聖徒たち(教会)の反応もともに厳しく叱ります。その反応というのは、教会の1人が淫らな行いをしていたことに対して、教会が何もせずにいたということです。その行いが罪であると皆が知っていながら、教会が見て見ぬ振りをしていた。もしかしたら、「自分のこの結婚は間違っていない」と声高に主張していた人が、教会のリーダーだったのかもしれません。教会の有力者だったのかもしれません。例えば教会を経済的に支えている人だったのかもしれません。だとしたら、この問題はもっと深刻ではないでしょうか。

私たちはもしも教会の兄弟姉妹が罪を犯した際に、それをどのように扱うのか、考える必要があります。私たちは、もし教会の中に罪を犯している人を見たならどうするでしょうか。見て見ぬ振りをするのでしょうか。罪を指摘することによる色々な影響を考えて、あえて触れずにいたり、教会のイメージが損なわれることを心配して覆い隠そうとしたりすることもあるかもしれません。しかし本当にその人を愛するならば、また神の教会を愛するならば、悲しむのではないでしょうか。悲しむというのは、そのことに関して無関心ではいられないということです。自分のこととして真剣に捉えるということでしょう。

恐らく厳しい忠告は、一時的に相手を悲しませることになるでしょう。忠告する側も忠告したことを後悔することになるかもしれません。しかし私たちは泣く者とともに泣くのです。罪を悲しみ、一緒になって苦しむのです。相手を思い、相手を愛してともに泣くならば、相手はその涙によって、愛によって悔い改めへと導かれるでしょう。そして癒やされるでしょう。相手が悲しんで悔い改めるなら、悲しみは必ず大きな喜びに変わります。ともに喜ぶ者へと変えられます。

ある先生は言いました。「私たちは一時的な間に合わせ、その場のがれ的な愛に陥る危険に十分気をつけるべきである」と。義(正しさ)があって愛がない教会は冷酷です。しかし愛だけがあって義(正しさ)がない教会というのも、真の教会ではありません。愛するがゆえにともに泣く覚悟をもって厳しい忠告をする。相手をかわいそうに思って忠告しないとかは、その人に真の死をもたらすこと、もっとかわいそうなことになってしまいます。しかし真の愛によって、罪を悲しむ心の底から流す涙によって厳しい忠告をするならば、その人に真のいのちの回復をもたらすのです。その人ばかりではなく、教会全体にも真のいのちの回復がもたらされるのです。私たちが互いに、それぞれが神に愛され、イエス・キリストのいのちをもって贖われた大切ないのち、存在であることを認めるならば、知っているならば、罪を犯した人の罪を心から悲しむことができるでしょう。心から涙を流すことができるでしょう。つまり決して無関心ではいられないでしょう。自分の都合の悪い様々な影響を考えて、自分が悪者にされるのではないかと恐れたり、助けてもらえなくなるかもしれないと打算的になったりなどして、何もせずにはいられないはずです。私たちは心から神を愛し、神の教会を愛し、また自分自身を愛するように隣人を愛するのです。

淫らな行いをした者に対するさばき

5章3節        私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。
5章4節        すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、
5章5節        そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

パウロの体はエペソの町にありましたが、パウロの心はコリントの教会とともにありました。パウロは罪を犯した者に対する悲しみの涙とともに、彼をさばいたと言います。そのさばきとは、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡」したことでした。

「その肉が滅ぼされるように」。これはその人がさばきによって滅びに至らされるようにという意味ではなく、「罪に死ぬために」という意味です。罪に死ぬために「サタンに引き渡した」、つまり教会から追い出した、追い出しなさいということです。今の教会戒規で言うところの、除名や交わりの禁止(陪餐停止)などのことです。しかしそれはあくまでも、その人の悔い改めと救いのためであることをパウロは付け加えていますし、教会戒規でも付け加えられています。

聖書は言います。「あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる」(箴2314)と。また詩篇の記者は歌います。「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」(詩234)と。あなたのむちとあなたの杖。これはその人を打ちたたいて痛めつけるものではなく、羊飼いなる主イエス様が、弱くて頑固な羊である私たちを最終的に緑の牧場、憩いのみぎわまで安全に守り導くための道具です。神の御国で、新しいいのち、完全な復活に与るまで守り導くためのもの。パウロのさばき、教会のさばきはこの意味での「むち」であるのです。そして神のさばきというのはどのようなものでしたか。「なすがままに任せる」というものでした。その人の行くに任せるというもの。しかしそれは神がその人を永遠に見放すのではなく、その人の霊が主の日に救われるために、断腸の思いで送り出し、そして断腸の思いでその人を見つめ続けることです。

その人は神に背を向け出て行き、自ら歩み出したその先で、神から離れたところで、神の恵みから遠ざかったところで、間違いなく苦難に遭うでしょう。苦しみ、悲しみ、ひもじさ、孤独、虚しさなどを覚えるでしょう。魂に飢え渇きを覚えるでしょう。そしてあの放蕩息子のように、その人は気づくのです。「父なる神のもとに帰ろう。父のもとにはたくさんの恵みがあったではないか」と。そしてこう言おうと決心するのです。「私は罪を犯しました。赦してください。私の罪は赦されるものではありません。それでも帰りたいのです」と。神はその人の気付き、悔い改めを待ちわびているのです。心を痛めて、涙とともに、まだか、まだかと待ちわびているのです。そして遠くに帰って来る人を見つけるならば、神はその人に駆け寄って、両手を力いっぱい広げて迎え入れるのです。赦しと恵みを施そうと、涙を喜びに変えて迎え入れるのです。教会もまた、主の日、主の時が来たならば、神とともに涙を喜びに変え、その人を迎え入れるのです。そのためのさばきです。そのためのさばきでなければならないのです。

さばきのもう一つの目的

6節からは、パウロが淫らな行いをした人をサタンに引き渡した、つまり追い出しなさいという命令のもう一つの目的を、パン種にたとえて説明します。

5章6節        あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。
5章7節        新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

パン種というのは、皆さんご承知のとおり、聖書では「罪」のことを言います。罪があるのに、罪は赦されているから何をしても良いのだとしているのは良くないこと。たとえ小さな罪であったとしても、それを放っておいたら全体に影響が及んでしまうのです。ここで言うところの「パン種を取り除く」というのは、淫らな行いをした者を教会から完全に排除しなさいというのではなく、その行い自体を、つまりその罪を教会から取り除くということです。そのようにして、罪が広がらないようにするのです。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるように、小さな悪が教会全体を汚すことのないように、古いパン種を取り除きなさい。私たち教会は、イエス・キリストが一切の罪を身代わりに背負ってくださり、罪とともに死んでくださったことによって、一切の罪が取り除かれた者たちとされています。種なしパンとされています。そして種なしパンのままでいるようにと、この世で召されているのです。この世でパン種は空気中に存在します。この世で罪は、あたりまえのようにそこここに存在します。それが一度、種なしパンの中に入ってしまったなら、もう種なしパンには戻れない。それほどまでに注意しなければならないということです。

黒星病というのをご存知でしょうか。私はバラを育てているのですが、雨が多かったり、風通しが悪かったりすると、突然1枚の葉っぱの上に黒い点が出現するのです。これが黒星病で、実に厄介なのです。どんどん細胞の奥深くに入り込んで、やがて木全体に病気が蔓延し、すべての葉っぱに黒い点が出現し、やがてすべての葉っぱが枯れ落ちて、木は光合成ができずに枯れてしまうという病気です。薬剤によってはなかなか防げるものではなく、対処法と言えば、1枚の葉っぱに黒い点が出現したならば、直ちにその葉っぱをちぎって焼いてしまわなければなりません。光合成に必要な葉っぱを少しでも残しておきたいと思って少しでも躊躇してしまうならば、あっという間に木が枯れてしまう。同じようにコリント教会が1人の人を温存するために、1人の人の【罪を】放っておくならば、やがてコリント教会全体は罪に犯され、滅んでしまう。ですからコリント教会は古いパン種(回心前に持っていた異邦人時代の悪習慣、イエス・キリストを信じ救われる以前に持っていた罪)をまず取り除かなければならなかったのです。

またもう一つ、イエス様は「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と言われました。それは「偽善」でした。偽善。見せかけだけの誠実、見せかけだけの愛、本物ではないあわれみには注意しなければなりません。偽善によって自らを誇り、偽善によって人を裁いてしまうことのないように、用心していなければなりません。偽善もまた罪ですから、偽善によって教会が滅んでしまうこともあるのです。悲しむ者とともに悲しみ、泣く者とともに泣きながらのさばきとは違い、偽善によるさばきは、コリントの教会にも見られたように、そこに醜い対立や分争を生んでしまうことになってしまうでしょう。

4章8節        ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

「祭りをしようではありませんか」。これは直訳すると「私たちは祭りに参加し、祝宴を続けましょう」となります。祝宴にたとえられるように、私たち教会は、罪のない幸いな交わりを続けていこう、イエス・キリストにある交わりをキープしていく者たちであり続けようという、パウロの勧めです。

教会外の者たちとの交流

4章9節        私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。
4章10節      それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。

続く4章9節から分かることは、パウロはこの手紙より以前に、不品行な者への対処法をまとめた手紙をコリント教会に送っていたようであるということです。しかし、コリントの聖徒たちはこのことを誤解していました。その誤解を解くために、改めてここで触れています。「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。しかしそれは、世の中の不品行な者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、全く交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう」と言って、彼らの誤解を解こうとしています。

私たちもこの世を見渡すならば、確かに世に罪は当たり前のようにまん延し、世には淫らな者たちがたくさんいますが、そのような世で、聖徒たちはいましばらく生きていかなければなりません。それは避けられないこと。いや、むしろ生きて行くことが神に求められていると言っても良いでしょう。神はイエス・キリストの十字架によって聖くされた私たちが世に出て行って、そこで福音を宣べ伝え、神の栄光をあらわしていくことを望んでおられるのです。ご近所さんとの関係で、相手がキリスト者ではないからといって全く交際しないてんでできませんし、すべきではないでしょう。私たちはそこでイエス・キリストの十字架によって幸いな神のものとされていることを証しして行くのです。このような私でさえも神は愛してくださった、赦してくださった。その素晴らしい神の恵みを言葉や生き方を通して証しし、神の恵みへと招いて行くのです。

5章11節      私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

5章11節で、パウロが言いたかった本当の意図が分かります。それは「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」ということでした。世の人々ではなく、教会の兄弟姉妹でそれらの罪を犯す者と付き合ってはならないことを言いたかったのです。

またこの「付き合う」という語は、混ざる、交わるという意味の語です。「朱に交われば赤くなる」ということわざをご存知でしょう。本来このことわざは、人を取り巻く環境や交わる人によって、善と悪、どちらにも感化されるという意味のことわざですが、ここでパウロが言うのは「悪に感化される」という危険性を述べているところです。透明の水に赤いインクを1滴垂らす様子を想像してみてください。垂らした1滴がどんどん広がって行く様子が想像できるのではないでしょうか。そしてもとの透明の水に戻すためには、大変な技術と労力が必要となってきます。ちなみに、絵の具の3原色(赤、黄、青)をどんどん混ぜて行くと真っ黒になってしまいます。

悪に染まっていてはならない。罪を犯している人を、その人が影響力のある人だからだとか、自分を助けてくれる可能性がある人だからだとか、あるいは人情に負けて罪をそのままに交わりを深めて行くならば、自らの聖さを台無しにするようなことになってしまう。イエス・キリストの十字架の犠牲を、それほどまでに罪人を愛し、罪から救い出されたその愛を、無価値なものに、台無しにしてしまって良いものでしょうか。

5章12節      外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5章13節      外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」というパウロのこの厳しい命令は、生まれたばかりの教会をこの世の汚れから守りたいという、パウロの牧会的な愛の配慮から出たことばです。同時に、神はご自分の聖徒らを特別に扱われるという、神の選びの民を思う神の愛に基づくものです。さらには教会という囲いの外にいる魂をも愛し救おうとされる神の愛に基づくものでもあります。

すでに述べられたとおり、教会の中では、聖徒が正しくさばき、またさばかれることを通して、その人たちが本当に悔い改めるように導くべきです。私たちは皆が、罪赦された罪人です。皆が救われた罪人です。そして教会は、赦された罪人の群れです。そのため、大きな罪を犯してしまった人をさばくこと、懲戒を加えること、具体的には今の教会戒規で言うところの、除名や交わりの禁止(陪餐停止)などのことです。そういったことにお互いに慎重になるのは当然でしょう。しかし、罪を放っておけば状況は悪くなるばかりです。ただやり過ごすようなことがあってはならない。罪を犯した兄弟姉妹に対するあわれみと、教会のために、その兄弟姉妹が悔い改めるようそのさばきを執行すべき時にはしっかりとしなければなりません。また教会には主からその責任と権威が与えられています。

さばきの執行は、懲らしめを受ける人にも、与える人にも、本当に辛いことです。だからこそ、私たちは一緒に悲しむのです。泣くのです。その人を心から愛するからこそ、罪に無関心でいるのではなく、見て見ぬ振りをするのではなく、ともに悲しみ、ともに心から涙を流し、ともに悔い改めへと導かれなければなりません。その先に、見せかけだけではない、本物の喜び、本物の幸いがあります。本物の永遠のいのちがあります。そこに見せかけだけではない、本物の神の国が現れ、神の教会が神の教会として置かれたところで神の栄光をあらわして行くのです。神の教会が神の聖さを守ってこそ、福音を本物の福音として、力あるものとして伝えることができるのです。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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