2025年6月15日 主日礼拝「そうせずにはいられないのです」
賛 美 新聖歌426「世には良き友も」
新聖歌382「心から願うのは」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇40篇1〜3節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌249「われつみびとの」
聖書朗読 コリント人への手紙第一 9章13〜18節
説 教 「そうせずにはいられないのです」
讃 美 讃美歌224「勝利の主」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 9章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 9章13~18節
説教題
「そうせずにはいられないのです」
今週の聖句
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
コリント人への手紙第一 9章16節
説教「そうせずにはいられないのです」
コリント人への手紙第一9章13〜18節
- パウロの「そうせずにいられない」と言うのは、何のことでしょうか。
- パウロが「そうせずにはいられない」理由は何でしょうか。また、私たちが「そうせずにはいられない」理由は何でしょうか。
13、あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
14、同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
15、しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて(そうされたくて)、このように書いているのでもありません。
16、私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
17、私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。(しかし)自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
18、では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。
はじめに—あわれみの心
この地上で、世の人々と同じ目線で生きていると、色々と悪い思いが出てきてしまわないでしょうか。例えば車を運転していて(私はいつもこのような話しをして、みにくい自分を晒してしまっているのですが)、前の車が右折しようとしてなかなか曲がれずにいたり、急に割り込んで来たり、のろのろ走ったりしていると、「もう、何やってるんだ」とついイライラしてしまいます。「どうか前の車が、どれだけ時間がかかっても良いですから、安全に曲がることができますように。このままのろのろ走って、安全で無事に家まで帰ることができますように」と、その場で瞬時に祈ることができる方は素晴らしいと思います。私など、特に自分が急いでいる時には心に悪魔が顔を出し、悪い言葉のささやきが聞こえて来てしまいます。そのような時、いつも主はこのような私に「祝福すべきであって、呪ってはいけません」(ロマ1214)のみことばを何度も語りかけてくださるので感謝です。
そのような私ですが、毎朝この地上から少し上に上り、ホテルの14階で仕事をさせていただいているのですが、そこの窓からは長野市街地から須坂市や中野市、豊野町、山ノ内町の方まで見渡すことができます。そこにはたくさんの家が建ち並び、それぞれそこで生活しているんだなぁと思ったり、窓の下を駅に向かって早足で歩く人たちや、車で通勤している人たち、高校生が一生懸命自転車をこいでいる姿、目の前の公園で遊んでいる親子などを上から見下ろして眺めるたりするたびに、心が「キュッ」となるのです。何とも言えない悲しいような、切ないような思いがいつもこみ上げて来るのです。これが「あわれみの心」というものなのでしょうか。地上で他人と色々なかたちで関わっている時は、相手の嫌な所や自分にとって都合の悪いところばかりが目について文句ばかり言っている私も、地上から離れ、他人と距離を置き、上の方からこの世を眺めている時にはまるで聖人のようになり、他人をあわれむ思いがこみ上げてくる。もしかしたら、これが「主がご覧になるようにこの世を見る」ということなのかもしれません。ところが視線を近くに移し、ホテルの14階での仕事中、目の前にいるお客さんたちを見てまた悪魔が顔を出し、悪い言葉のささやきが聞こえて来る。何とも不完全な私だと思わされます。
しかし神は素晴らしいお方です。まことに真実の愛のお方、まことにあわれみ深いお方です。14階どころではない高い天から世のすべての人をご覧になり、またすべての人のすべて、心の内をもすべてご存知の上で、それでも真実に変わることなく愛してくださり、あわれんでくださっているのですから。当然、私たちもその中の1人であることを忘れてはなりません。神の愛とあわれみがこのような私にも注がれ、人を遣わされ、福音を届けてくださいました。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ58)。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」(エペ17)。賜った神の愛とあわれみに対する感謝を忘れずに、神に赦され、神に愛され、神に近付き、神に祈ることまで赦され、神に守られ生かされているその恵みを覚えて、私たちは何をすべきなのでしょうか。このまま恵みにどっぷり浸かり、何もせずにいて良いのでしょうか。そうではなく、私たちは恵みにどっぷり浸かりながら、喜んで主が私たちに命じておられることを自由に成して行くのではないでしょうか。私たちは主に選ばれ、主に召され、主に遣わされているのです。主はこのような私を選んでくださり、信頼してくださり、召してくださり、遣わしてくださっているのです。それぞれに、一人残らず皆に賜物を与え、聖霊を注がれ、力を満たしてくださり、遣わしてくださっているのです。
さて、本朝もコリント人への手紙第一の講解を進めてまいります。今日、私たちに与えられましたみことばは、9章13〜18節です。パウロは前回に続いて、自分が使徒とされていることに疑いを持つ者に対して、確かに自分は主に召された使徒であるという証拠を提示しています。
パウロは自身の自由によって、コリント教会から経済的報酬を受けませんでした。そのことによってコリントの教会の中で、パウロの使徒職が疑われ、偽物の使徒なのではないかと言われていました。パウロは自分が使徒であることにどこか疑いややましさを感じているので、ペテロや他の使徒たち、主の兄弟(ヤコブ)たちのように堂々と経済的報酬を受けるという権利の行使を躊躇しているのではないかと、パウロをさばくグループによって批判されていました。いや、そうではない。自分は経済的報酬を受ける権利があるけれども、それを行使しないだけなのだ。そしてそれはあなたがたのためであり、また自分自身のためなのだと言います。あなたがたのために、自分自身のために、そうせずにはいられないのだと言います。
使徒であることの証拠
9章13節 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
パウロは、自分に経済的報酬を受ける権利があることを、エルサレム神殿に奉仕する祭司やレビ人が神殿のささげ物によって養われる事実から根拠づけます。宮に奉仕している者や祭壇に仕える者たちは、10分の1という生活の支えを受けるように定められていました。そうすることで宮の仕事に専念し、他の仕事をせずとも生計を立てていけるようにするためでした。
ところで、この10分の1を献げるというのは、神が「こうしなさい」と一方的な権威をもって定められたものではありません。これは信仰の父であるアブラハムが、信仰の表れとして自ら神に申し出たものです。アブラハムが、神が与えてくださった恵みを認め、神への感謝と敬意を表し、自らの思い、信仰から出た行為でした。そのアブラハムの信仰は現在、「什一献金」として受け継がれていますね。“密かに”インターネットで「什一献金」と検索したことがあるかもしれませんが、それだけ私たちにとって敏感で繊細な問題だということです。実際にインターネットで検索してみると、「什一は旧約の教えであって新約では勧められていない」と説明しているページがいくつか見られました。(そうでしょうか?)また什一献金が信仰の妨げ(=つまずき)になっているなどというケースも見られます。まずはっきりしておきたいのは、現代において什一は、いわゆる律法ではないということです。律法というのは、これを守れば祝福を受け、守らなければ呪われるという教えです。ですから什一を献げなければ立派なクリスチャンにはなれないとか、まして什一を献げなかったから呪われるなんてことはありません。あくまで私たちの信仰の応答として自由に献げられるものです。喜んで献げられるものです。また信仰によって神によるさらなる祝福を期待して献げられるものです。それも正しい信仰です。主は「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」(詩8110)と約束してくださっています。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになる」(ガラ67)と言われます。「わずかだけ蒔く者はわずかだけ借り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れる」(Ⅱコリ96)と言われます。主の約束を信じて実行するのが信仰です。そして神は、蒔く者に「蒔く種」と「パン」を与えてくださるお方です。そしてそれをさらに増し加え、豊かにしてくださるお方です。私たち献げる者は献げることを通して神の祝福を受け、神との関係が深まり、神がどのようなお方かを体験し、ますます神を知ることができるようになるのです。私たちがどのように献げているかで、神をどのようなお方として捉えているかが明らかになるのです。
しかし主は言われます。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」(マタ2323)。什一を献げていても、正義とあわれみと誠実をおろそかにしていては本末転倒です。神のみこころを実践しつつ、十分の一もおろそかにしてはいけないとイエス様は教えてくださっています。神のみこころの実践。それはつまり、世の終わりに至るまで、主の死を告げ知らせること。イエス・キリストの十字架を証言していくこと。福音宣教です。この福音宣教のためにも十分の一をおろそかにしてはならないのです。福音宣教が託されている教会が立ち続けるために、教会が福音伝道と成長をしていくために、教会の必要は私たちの信仰によって、主への期待をもって、私たちが献げる十分の一、そして正義とあわれみと誠実、つまり私たちの心と体を献げること、一人ひとりの主への献身によって満たされるのです。
主の命令の証拠
9章14節 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
「福音の働きから」というのは、「福音から」「福音によって」という意味です。イエス様は福音を宣べ伝える者、つまり私たち、そして教会が福音によって必要が満たされることを定めてくださっています。【定める・διατάσσω】は「命令する」、また「取り計らう、采配を振る」というものです。主が教会の必要は福音宣教によって満たされるのだと取り計らってくださっている。主が采配を振ってくださる。先頭に立って指揮をし、杖と鞭をもって守り、道を進ませ、すべての門を、堅く閉ざされている門さえも開いてくださる。終わりの日に至るまで、神の国に至るまで導いてくださる。ですから私たちは何も心配せずに、主のわざ、福音宣教に励むことができるのです。
福音宣教。それはイエス・キリストの十字架の福音、みことばを宣べ伝えること。またそれぞれに与えられている賜物を用い、活かし、仕事や学びや生活、生き様を通してイエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えること。何も心配せずに、しかし困った時には主に祈り、助けていただくことができる。私たちは何と幸いな者とされているでしょうか。その感謝と喜びを、私たちはまた信仰によって献げて行くのです。そのようにして、この教会もこれまで守られて来たということ。また日々新たなチャレンジが与えられ信仰によって進んで来られたこと。これからも主に守られ、導かれ前進して行くことができる。それこそ私たちが、私たち教会が主に召された“使徒的”存在であることの証拠ではないでしょうか。
パウロの誇り
9章15節 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。
パウロは神の働き人が教会の支援を受けることができるという権利を、コリント教会に対してはまったく用いなかったと言います。ちなみにパウロは他の教会からは経済的援助を受けていました。コリント教会にとっては、そうしないのが良いというパウロの判断によっていたのです。また、私がそうされたくてこのように書いているのでもないと言います。それを用いるよりは死んだほうがましだとまで言います。パウロはコリントの聖徒のために命がけで、それこそ自分を殺して福音を伝えました。その代償として金銭や生活のための必要を決して受けませんでした。奴隷のする仕事である天幕作りをしながら、命がけで、自分を殺して、自分を低くして福音を伝えて来たのです。パウロはその理由をこのように述べました。「それは、キリストの福音に少しの妨げも(つまずきも)与えまいとしてなのです」(12)。どうして報酬を受けることがコリントにおいて福音の妨げになるかについて、パウロは説明をしていません。しかし他のところでは「私は、人の金銭や衣服を貪ったことはありません」と言っています(使2233)。ですからパウロは、コリントの町に多く存在していた福音を食い物にしている、いわゆる「職業宗教家」と見られることを避けたかったのでしょう。例えば教会が福音を宣べ伝えた見返りに報酬を受け取ってしまうなら、それはもうこの世の宗教、偶像礼拝と何も変わらないではありませんか。それはやはり真の福音の妨げ、つまずきとなるでしょう。救いはお金で買えるものではありません。神の恵みによるのです。神の恵み、あわれみによって、信じるならば無償で与えられるものです。だからこそ福音であり、その福音によって罪人は真っ直ぐに、何にも邪魔されることなく罪を悔い改めて、神のもとに救いを求めて進み出ることができるのです。「お金を払った、じゃあ罪を悔い改めます」とはどう考えてもならないでしょう。それでは本当の悔い改め、救いには決して至らないのです。偶像礼拝に親しみ、神の恵みを知らない世の人は言うかもしれません。「お金がいらないのなら、救われるために私は何をすれば良いのでしょうか」と。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使1631)。そうして救いを求め、道に迷っている世の人々を、イエス・キリストのみもとへと導くことができるのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架にのみ、よりすがることができるようにするのです。十分の一の問題はその後のことです。救われるためのものではなく、救われた者としてどう応答するかの問題です。
福音宣教の働きに対する金銭的な報酬を受けない。それはパウロ自身の誇りのためでもありました。パウロの誇りは、この身も心も主に献げ、つまり犠牲にして、自分を殺して、福音を宣べ伝える働きを忠実に果たして行くということでした。パウロが自分自身を献げる主は、貧しい者、弱い者のつまずきとなることを決してなさらず、自らを低くされ、とことん謙遜になられ、人々に仕えられるのではなく、人々に仕えられたお方。そして神の国の福音、ご自身の十字架による罪の赦しによる救いの福音を宣べ伝えられたお方。十字架の死に至るまで忠実に神と福音に仕えられたお方。パウロは主に倣う者として生きること、生きられることが誇りだったのでしょう。それがパウロの唯一の喜ぶべき自慢だったのでしょう。
しかしパウロの誇りは自分を高慢にはしません。高慢もまた、相手のつまずきとなるからです。自分は謙遜に語っているつもりでも、敵対する相手はそれを高慢ととってしまうかもしれません。そこでパウロは自らのことをこのように言うのです。同時に読者に対しても「あなたがたもそうではないですか?」と、福音宣教に召されている重さのようなものを思い起こさせているようです。
9章16節 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
9章17節 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。(しかし)自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
実はパウロは、福音宣教をしなければ、神のさばきを招く職務に就いているのです。
「そうせずにはいられないのです」。ここを直訳すると「なぜなら強制(義務、必然性)が私の上に置かれているからです」となります。上に置かれている。重くのしかかっている。だから福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである。私にとってそれは悲惨となるでしょう。つまり私は神に裁かれるでしょうとパウロは言うのです。
パウロにとって自給自足による伝道は誇りではありましたが、福音宣教自体はパウロの誇りにはならないのです。なぜなら、パウロは強要されて宣教しているからです。パウロはダマスコ途上で迫害者から使徒へと召された時、神により福音宣教の職務を強制されたのであって、自発的にはなかったのではありませんか。自分の意志に反して福音宣教を負わされたのです。パウロはもし自発的に宣教したのなら、神から報酬を期待できるだろうけれども、私はそうではないと言います。自分の意志に反して福音宣教を負わされた。これはパウロだけの思いではないでしょう。ある面で私たちも同じです。
「そうせずにはいられないのです」。パウロがそう告白するのは、神により福音宣教の職務を強制されたから。果たして本当にそれだけでしょうか。
パウロは別のところでは「私には義務がある」と言っています。「私は債務者であり、返すべき負債がある」「私は神に返しきれない借りがある」と言っています。それは救われた喜び、救われたことによる感謝のことを言っているのです。パウロの「そうせずにはいられないのです」という告白は、神の権威に対する恐れであると同時に、神への感謝の応答でもあるのです。「そうせずにはいられないのです」。
またパウロにはこんな思いも与えられていました。「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(ロマ114-16)。
パウロの世の人々に対する負い目とは何でしょうか。以前キリストの教会を迫害したことでしょうか。何も知らなかったことによって、神に対して大きな罪を犯した自分が、ただイエス・キリストの十字架による赦しの恵みをいただいてしまったことでしょうか。そんな自分だけが神の恵み、あわれみによって赦され、神との平安をいただいてしまっていることでしょうか。こんな私だけが神の子とされてしまったことでしょうか。こんな私だけに神の国が約束されてしまっていることでしょうか。
パウロは告白するのです。「そうせずにはいられないのです」と。「だから、私は自分が見たことや聞いたことを話さないわけにはいかないのです」(使420)と。
ホテルの14階の窓からこの世を見渡して、何とも言えない気持ちになった。神が世のすべての人を憐れまれるような、そのような思いが与えられた。私は今、こんなことをしていて良いのだろうかと、申し訳ないような思いになる。「だから、私は自分が見たことや聞いたことを話さないわけにはいかないのです」。神を知らず、知らなかった故にたくさんの罪を犯してしまったどんな悲惨な罪人であっても、信じるならば救いをもたらす神の力である福音を、宣べ伝えないわけにはいかない。「そうせずにはいられないのです」。
皆さんはどうでしょうか。世の人々、家族や友人知人、家の隣人、仕事関係、学校関係の人。彼らと接する中で悪魔が顔を出し、悪い思いがこみ上げてくることがあると思いますが、一旦世から離れ、上から(高慢、上から目線ではなく)、つまり神の目線で世の人々を見渡してみてください。「そうせずにはいられない」という応答が出てこないでしょうか。
9章18節 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。
「そうせずにはいられないのです」。主はこの私たちの応答、神が与えてくださった恵みを認め、神への感謝、献身、主と福音宣教に喜んで自分自身を献げる思いを喜んでくださり、受け入れてくださり、それをさらに祝福し、さらに増し加えてくださるでしょう。私たちは自分を主に献げることを通して主の祝福を受け、主との関係が深まり、主がどれほど素晴らしいお方であるかを体験し、ますます知って行くことでしょう。そのための道も主は備えてくださっています。すべての門を主が開いてくださいます。福音を宣べ伝える教会が、福音の働きによってすべての必要が満たされること、そして成長して行くことを定めておられます。そのようにすべて主が取り計らってくださっています。采配を振っておられます。神の恵みと祝福を受ける者とされ、受けることができる。これこそ神からの報い、報酬なのではないでしょうか。私たちはすでにたくさんの報いをいただいているのです。ですから私たちはこの世の偶像礼拝のように、神がどのような報いを与えてくださるのかなど心配せずに、そちらにばかり関心を寄せるのではなく、主を信じ、主を愛し、隣人を愛し、主と福音に仕えてまいりましょう。主に選ばれ、主に召された弟子として、そして聖霊に満たされた使徒として、その共同体である教会として、同じ思いで、互いに謙遜に、またどのような形であろうとも、世の人々のつまずきとならないように気をつけて、目を覚ましてその務めを果たして行きたい、そう願う者とされたいと思います。
今日、主が皆さんに示された「そうせずにはいられない」こととは何でしょうか。