2025年10月12日 主日礼拝「信仰、希望、そして愛」
賛 美 新聖歌360「惑いの雲消えて今は」
新聖歌361「栄の王にます主の」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇107篇1〜3節
讃 美 讃美歌79「ほめたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌171「なおしばしの」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 13章8〜13節
説 教 「信仰、希望、そして愛」
讃 美 讃美歌321「わが主イエスよ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 13章13節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 13章8〜13節
説教題
「信仰、希望、そして愛」
今週の聖句
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
コリント人への手紙第一13章13節
「信仰、希望、そして愛」
コリント人への手紙 第一 13章8〜13節
キリストを通して明らかにされた愛——
私たちの救いは、どのようにして与えられたのでしょうか。私たちが主を信じ、主に期待し、そして主を愛したからでしょうか。そんなに私たちの信仰、希望、愛が凄いのでしょうか。
救いとは何でしょう。救いは罪によって神から引き離された人が神と和解させていただくという、それはもう信じられない、天地がひっくり返るような出来事なのです。そう思われないでしょうか。今朝の礼拝もそうです。日々祈ることができるのもそうです。聖い神に近付き、こんなにも神に親しく接して語りかけることができる者とされている。しかもその大半は感謝というよりも「神さま、助けてください。神さま、私はこうしたいのです。あれが欲しいのです」などという、何とも恐れ知らずの大胆な内容でしょう。そして神は私たちのその恐れ多い大胆な祈りをお聞きくださり、むしろそのように祈りなさいと仰ってくださり、助けてくださり、守ってくださり、何よりも良いものを与えてくださる。私たちのこれまでの日々(人生)を思うならば、その連続だったはずです。この先の、天国に至るまで、神の国が完成するに至るまで、恐らくその連続だと思います。私たちにはいつの間にか、それが当たり前だと思ってしまうところがないでしょうか。しかし本来ならば、それはもう信じられない、天地がひっくり返るほどのもの凄い恵みなのです。そのような救いをいただいているのです。そしてその救いは、聖なる偉大な神が、人を救うために、いやしい人のかたちをとられこの世に降られ、イエス(主は救い)という名前をもって人の中に住まわれ、人としてすべての罪による試練や苦難を味わわれ、やがて神ご自身であられるイエス・キリストが人の罪の身代わりとなり、あのむごい十字架につけられ死なれ、しかし3日目によみがえられた、それはもう信じられないほどの天地がひっくり返るような出来事を通して、それほどまでのイエス・キリストを通して明らかにされた神のもの凄い愛によって与えられたのです。
今朝も私たちは、神が賜るみことばを通して、あらためて天地がひっくり返るようなもの凄い迫力のある神の愛を知らされたいと願います。そして少しずつでもその愛を実践する者へと日々変えられて行く者とされたいと願います。
愛は永遠
13章8節 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
パウロは神から与えられているそれぞれの賜物によって争いがあり、分裂があり、混乱があったコリント教会に向けて語ります。「預言の賜物ならすたれます。異言の賜物ならやみます。知識の賜物ならすたれます。しかし愛は決して絶えることがありません」と。どうしてパウロはこのようなことを言い出したのでしょうか。それは「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示そう」だからです。あなたがたそれぞれの賜物をよりすぐれたもの、本当に良いものにし、賜物を活き活きと生かし、あなた自身も教会も活き活きと生かすことができるのは「愛」であるのだと。
前回、私たちに与えられている賜物、それは自分自身を建て上げる(誇る)ためにではなく、教会を建て上げるために与えられているものであることを見ました。教会を建て上げるための賜物ですから、イエス・キリストが再び来られる日に神の国が完成されるので、その時にはもう教会を建て上げることも、そのために与えられた賜物も、もはや効力がなくなると申しますか、必要がなくなるのです。しかし、だったら教会を建て上げることも、そのために与えられた賜物もどうでも良いではないのです。信じられないくらいの大きな恵みと愛によって救われた者であるならば、イエス様が再び来られるまで目を覚まして励まなければという思いになるのではないでしょうか。皆さんの中には、いつか分からない盗人のようにイエス様が来られた時に、恵みの上にあぐらをかいてだらしなく過ごしている姿を見られてしまったらどうしよう・・・という恐れもきっとあるでしょうし、いただいた大きな恵みに感謝をもって応える生き方をしていなければという思いもあるでしょう。福音のメッセージを伝える預言の賜物も、イエス様が来られてそれがいらなくなってしまう前に一生懸命用いなければ、用いたいと思うことに対して「愛がない」とは決して思わないと思います。
コリント教会の中で偉い賜物ランキング第1位だった異言の賜物はどうでしょう。神のメッセンジャーである天使の舌(ことば)で語る異言は、その解き明かしとセットであるならば教会に祝福や教訓を与えますが、神の国ではどうやらバビロンの塔(人間が神に反抗して天まで届く塔を建てようとした)事件によって神が人々の言葉を混乱させ、各地に散らされていった人類が再び神によって集められ、すべての人々が神の国、天の御国で同じ言葉を話すようですから、異言の賜物も解き明かしの賜物も必要なくなります。知識の賜物も同じです。神を知る知識の賜物、神がなさるすべてのみわざに対する知識。イエス様が来られて神の国が完成し、そこに入れられたならば、神を知る知識、神がなさったすべてのみわざに対する知識に皆が満たされるので、賜物としての知識もなくなるのです。これらもまた、いつか分からない盗人のようにイエス様が来られた時に、与えられた賜物をもってあぐらをかいて、威張って、高慢になっている姿を見られてしまったらどうしようという恐れ。いただいた大きな恵みに感謝をもって応える生き方をしていなければという思い。イエス様が来られてそれがいらなくなってしまう前に、一生懸命正しく教会を建て上げるために用いなければ、用いたい。できれば主の御前に立ち「良くやった、良い忠実なしもべ」とお褒めに与りたい。神の大きな恵みによって救われた者であるならば思うはずでしょう。
そして、自分を高慢にする賜物はすたれ、消え去りますが、愛は決して絶えることがないのです。「絶えることがない」というギリシャ語は、失敗する、落ちる、倒れる、つまずく、失脚する、見捨てることがないという意味です。愛が、愛こそが凄いのです。素晴らしいのです。しかしこの凄くて素晴らしい愛は、「神の愛」です。「キリストの愛」です。私たちの持っている愛ではありません。そもそも私たちは自分で愛ある人間だと思っておられるでしょうか。前回も13章4〜12節の「愛」のところを自分の名前に置き換えて読んでみて、思い知らされたでしょう。「愛」のところを「イエス・キリスト」に変えて読んでみて、イエス・キリストを通して現された神の愛の偉大さ、寛大さ、信じられない恵みを思い知らされたでしょう。もし私たちが自分なりのそれなりの愛を持っているとしても、他の賜物と同じくすたれて、途中で途絶えてしまうでしょう。失敗し、落ちて、倒れて、つまずいて、見捨ててしまうでしょう。しかし神の愛は決して絶えることがないのです。それは「神は愛」だからです。神の愛は失敗しません。落ちません。失脚しません。そして決して人を見捨てることはないのです。なぜそう言えるのか。それは神がこの世界を愛をもって創造されてからこれまで、失敗しなかったし、落ちなかったし、失脚しませんでした。どんなことがあっても決して人を見捨てることはなさらなかったからです。実のわが子として愛して、信じて、期待して、懲らしめられるということはありましたが、かえってそれがどんなことがあっても人を愛し、見捨てることはなさならかった証拠でしょう。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じて求めています。しかし私たちが知っている神の愛は、実はほんの一部分のみなのです。
私たちは神の愛の一部分しか知らない
調べて見ると、9節の「一部分」というギリシャ語がとても興味深いものでした。部分的という意味の他に、「海辺」となっていたのです。私たちは神の偉大な愛、海の向こうに地平線が見えるほど、大きくて広い愛の、ほんの波打ち際しか見ていないということなのでしょうか。顔を上げて見渡せば、広くて深くて、偉大なうねりのような神の愛が目の前にあるのに、私たち人間は自分の足もとの、寄せてはまた返してしまう波のような愛しか見ていないということなのでしょうか。時には自分の海辺と申しますか、自分の領域を侵してくる波のような愛しか見ていないということなのでしょうか。そのような自分なりの神の愛に対する理解によってしか、私たちは与えられている賜物を用いることができないでいるのかもしれません。神の愛の伝道師と周りの人から言われ崇められ、それを自覚している人も、最近はYouTubeでも神の愛をとても上手に話される方もおられますが、そのような素晴らしい預言の賜物が与えられている人でさえ、神の愛のほんの一部分、自分なりの愛理解によってしか人々に伝えることができていないのかもしれません。ですから、人々がうらやむような預言の賜物が与えられているとしても、その人は決して高慢になってはいけないということでしょう。また変にうらやましがったり、「なんだよ、目立っちゃって」などと妬(ねた)んでもいけないのです。コリントの教会では、それが賜物による争い、分裂、混乱の原因だったのではないでしょうか。しかしやがてイエス様が再臨されたなら、神についてすべてが誰にも明らかになるのです。
自己中心的な賜物利用による害悪
13章11節 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
パウロは、今は部分的にしか分からない聖徒の霊的な理解力と、すべてが明らかになる未来の聖徒の姿を、人間の成長にたとえて説明します。
11節は、コリントの聖徒たちが今、話していること、思っていること、考えていることがみな未熟で幼子のようであること。神の御霊(親心)によっていただいている賜物を教会のために用いずに、幼子のように自己中心的で、自分の信じていること、自分が期待しているところによって賜物を用い、教会に分裂と混乱をもたらしたコリントの聖徒の姿を思い起こさせるところです。
また反対に、イエス様は「幼子のようでなければ、神の国を相続することはできません」と言われましたが、コリントの聖徒たちが幼子のように神の愛をただ信じ、依り頼む態度をやめてしまい、思春期のこどものような、また頑なに成長した大人のように、神の愛を疑い、神の愛をただ信じ依り頼み、その神の愛によって生きることができなくなってしまったという、パウロの残念に思う心もあらわれているところだと思います。
そこでパウロは勧めます。励まします。
13章12節 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
今、私たちは神の愛を鏡にぼんやり映っているものしか見ることができていません。神の愛はイエス・キリストを通してはっきりとあらわされました。しかしやはり、救われて神の子として生まれたての頃はただ神の愛を信じ、依り頼み、神の愛によって活き活きと生きられていた私たちであっても、成長する過程において、子どもの成長と同じ過程を歩んでしまう。ピカピカに磨かれていた鏡が放って置かれて曇ってきてしまう。古代の鏡は青銅などの光沢のある金属で作られていましたから、鏡に映るというのは、いつも一生懸命磨いていなければ、ただでさえ今日の鏡よりもはるかにぼんやりしていたのに、さらにぼんやり曇って見えなくなってしまうものでした。しかしイエス・キリストが再びこの世に来られた時には、直接、顔と顔を合わせて見ることになるのです。今は聖書を通してぼんやりとしてしか見ることができないかもしれないイエス様、イエス様にあらわされる神の愛を、顔と顔を合わせて見るように、はっきりとすべて分かる時が来るのです。ですからそれまで、青銅の鏡をいつも磨いていなさいと、パウロは励ますのでしょう。
また、パウロはこのようにも励ましています。私たちは、その時になれば、私たちが完全に神に知られているのと同じように、私たちも神を完全に知ることになると。神は愛なりです。つまり私たちはその時になれば、私たちは神の愛を完全に知ることになると言うのです。私たちが世界の果てに逃げた時も、そのように神に反抗して背いた時にも、神の愛を裏切った時も、そこにも神はおられた。そこにも神の愛があったこと。私たちの髪の毛の数さえも数えられていた。それほどまでに私たちは神に愛されていたのだということが、その時になれば分かりますよ、明らかにされますよと。今の私たちの神と神の愛に対する知識は部分的(広い海にに対して海辺のよう)だけれども、終末には、私が今、神に完全に知られているような完全さで、神ご自身こと、人と世界についての真理、「あぁ、そういうことだったのか」と、点と点が結ばれるように完全に知ることができるのですよと、パウロは励ますのです。聖書を通して神が私たちに与えてくださるこの励ましを、希望を、今日、是非私たちはいただきたいと思います。そしてここからまた新たに神の愛によって立ち上がり、神を信じ心から期待して歩んで行きたいと、そう願いましょう。
顔と顔を合わせて神を見た人
ところで、「顔と顔を合わせて神を見る」と聞いて、私は創世記32章のヤコブのことを思い起こすのです。ヤコブは罪深く生きて来た生涯の中で、最大の恐れを感じていた時に、神に必死にすがりついた人でした。罪の赦しと赦しの確信、神の祝福を得るために神と死に物狂いで戦いました。主はそのようなヤコブを祝福されました。そのように私たちは、神にすがりつき、神の愛を信じて、神の愛を、そして神を愛する愛を心から求めていなければならないでしょう。そのような私たちと教会を神は赦してくださり、さらに祝福してくださるのです。
一番「すぐれている」のは愛
13章13節 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
賜物はイエス様の再臨なさる時までの一時的なものであることが確認され、それに比べて、信仰と希望と愛とは永遠であると聖書は教えます。神の国が完成するその時に、すべての賜物はその意味を失うけれども、信仰と希望と愛は永遠にあるのだと教えるのです。つまりパウロはコリントの教会の中の自分の賜物を誇り、自慢し、威張って分裂と混乱を引き起こしている聖徒に対して、自分の賜物を誇り、高慢になるなということを言っているのです。神が与えてくださった賜物はもちろん重要で、正しく働かせるものではあるけれども、何よりも信仰と希望と愛こそが重要で、あなたがたの内で正しく働かせるべきものであることを教えるのです。誰の信仰ですか。誰の希望ですか。誰の愛ですか。私は最初から誰の愛かをお話ししてきましたが。
「残る」というギリシャ語は、留まる、耐え忍ぶ、期待する、待つ、我慢するといった意味を持つ語です。つまり13章7節でパウロが語った「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを臨み、すべてを忍ぶ」ことができるのは、信仰と希望と愛であるということです。そしてその中で一番すぐれているのは愛です。なぜならば、神が愛であるからです。また、信仰と希望は、神の国、天の御国へ入るためには絶対に必要なものですが、愛がその信仰と希望を可能にするからです。しかし、自分には一番肝心なその愛がないのではないか、足りないのではないか。信仰も希望も本当に自分にあるのかと不安になってしまうのが私たちでしょう。ではどうしたら良いのでしょうか。
神の信仰、希望、愛
ここの信仰(真実、誠実とも訳される)、希望、愛ですが、ここの名詞はすべて1人称多数、つまり「わたしの信仰(真実、誠実)、わたしの希望、わたしの愛」ということです。「あなたの」でも、「彼、彼女の」でもありません。「わたしの信仰、わたしの希望、わたしの愛」なのです。そして「わたしの」と言っても、「私の」ではありません。聖書は神が私たちに語っておられることですから、「わたしの」というのは「私の」でも「パウロの」でもなく、「神ご自身の」ということです。13章4〜7節で思い知らされたでしょう。そして13章7節は「『神(キリスト)はすべてを耐え、神はすべてを信じ、神はすべてを望み、神はすべてを忍』ばれる」のです。世の中のすべては失敗し、落ち、倒れ、つまずき、失脚し、見捨てても、神の信仰(真実、誠実)、希望、愛は永遠に残り、神の私たちに対する信仰(真実、誠実)、希望、愛によって、私たちは最後まで守られるのです。そして救われるのです。私たちが高慢にならずに依り頼むならば。
「その中で一番すぐれているのは愛である」。この「すぐれている」というギリシャ語も、実はとても凄い語です。その意味は、「偉大な、非常に」という意味の他に、「凄まじい、激しい、しつこい、むごい」とまで訳される語です。神の私たちに対する信仰、希望、愛はそれほどまでのものなのです。獅子のように噛みついたら絶対にそれを離さないのです。一番凄まじく、激しく、しつこく、むごいほどのものは「愛」です。これによって私たちは最後まで守られるのです。そして救われるのです。自分に自信がなくても、です。
私たちが信仰と希望を持つことができるのは、神が罪人であるこの私を信じ、望み、忍ばれ、そして愛して救ってくださったからです。実際に私たちは、イエス・キリストを通して現された神の「すぐれた(偉大な、凄まじい、激しい、しつこい、むごいまでの)」愛を知り、その「すぐれた」愛によって天の御国に入るために必要な信仰と希望を持つことができた、救われたのではないでしょうか。その神の愛を、私たちは知っていなくてはならないのです。いつも私たちは覚えていなければなりません。鏡にぼんやりとしてしか見ることができない、信じられない神の私たちに対する信仰、希望、愛。私たちはいつも鏡を磨いて、神の私たちに対する信仰、希望、愛を見つめ、何よりも神の愛を覚えて心から悔い改めて、そしてまた鏡に映すようにして自分も神への信仰、希望、愛を、皆の益のために、教会のために実践して行くのです。それが救われた者に対する、神が望まれる、喜ばれる、受け入れられる私たちの生き方、教会のあり方です。
パウロがコリントの教会に教えたかったこと
このように、パウロが預言と異言、知識の限界を語ったのは、前の本文から続いてないが何にもまさって大切であることを教えるためでした。
コリントの教会は、パウロが手紙の冒頭で「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです」(15-6)と述べたように、ことばと知識をはじめとする、すべての御霊の賜物が豊かに現れ、キリストの証しが確かなものとなった素晴らしい教会でした。しかし、聖徒の中には分裂があり、この世の文化とか慣習が無分別に当たり前のようにいつの間にか教会の中に入り込んでいました。パウロはそのような教会に対して、「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました」(31)と言い、キリストにあるけれども、まるで幼子のようだと厳しく批判したのです。
そのようなコリントの教会に、パウロは神の愛を通して成熟した大人、つまりただの大人として成長するのではなく、神からの愛を一杯に受けて成長し、成熟した大人になり、そして自分の賜物を自己中心に、わがままに用いるのではなく、愛をもってさらにすぐれたものにし、教会を完全に建て上げて行くように勧めます。パウロは12章の流れからこのように語りましたが、それはコリントの聖徒が賜物をもって争っていた理由が、愛がなかったためであり、愛によらなければ根本的にその争いを解決して、教会が1つになることができないからです。
パウロはコリントの聖徒に、愛を通して自分自身を成熟させるだけでなく、愛を実践して互いに成長し合い、そして世に教会を通して神の栄光をあらわして行くこと、また福音伝道に励むことを求めます。どのようにしてでしょうか。まず、自分自身がどれほど愛のない者であるかを知り、悔い改めることからでしょう。そして、主がどれほどの愛のお方であるか、またその愛がどれほど「すぐれている」かをますます知って行くことでしょう。いつも鏡をピカピカに磨いて。
救いは、罪によって神から切り離された人が神と和解するという、信じられないくらいの天変地異のような出来事です。大きな大きな恵みです。その救いは、キリストを通して明らかにされた、神の「すぐれた(偉大な、凄まじい、激しい、しつこい、むごいまでの)」愛によって与えられたものなのです。「信仰、希望、愛の中で一番すぐれているのは愛」である。いつまでも残る信仰、希望、愛の中で、愛が一番すぐれている理由を今日のところから悟らせていただき、その愛を今日から私たちも実践してまいりましょう。神の愛によって、すぐれた愛によってそれぞれの賜物を用い、神の愛を世に証しし、人々に永遠のいのちを得させる福音を伝えてまいりましょう。

