2026年8月9日 主日礼拝「神を計算に入れていますか」

讃  美  新聖歌141「イエス君は」
      新聖歌334「朝 静かに」
前  奏  黙祷
招  詞  詩篇27篇4節
讃  美  讃美歌56「七日の旅路」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇27篇(新聖歌 交読文9)
讃  美  讃美歌267「神はわがやぐら」
      新聖歌170「マジェスティ」
聖書朗読  民数記14章1〜10節
説  教  「神を計算に入れていますか」
応答賛美  讃美歌284「主の尊き御言葉は」
      「主は今 生きておられる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷  
報  告  
今週の聖句 民数記14章9b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記14章1〜10節

説教題

「神を計算に入れていますか」

今週の聖句

「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

民数記14章9b節

説教「神を計算に入れていますか」

民数記14章1〜10節

はじめに

先週、私たちは詩篇34篇8節の、「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。」というみことばとともに礼拝を終えました。過ぐる一週間、皆さんは、主がいつくしみ深い方であることを、味わい見つめてこられたでしょうか。
また民数記13章では、12人の偵察隊が約束の地を調べ、その報告を持ち帰った出来事から学びました。彼らは皆、同じ地を歩きました。同じぶどうを見ました。同じ町を見ました。同じ巨人を見ました。しかし、最後に語った言葉は全く違いました。10人は恐れを語りました。カレブは信仰を語りました。その違いは何だったのでしょうか。
それは、心の中に何を蓄えていたかでした。
主がこれまでどれほど良くしてくださったか。主がどれほど真実なお方であるか。その恵みを心に蓄えていた人は、同じ現実を見ても、主の約束の確かさを見ることができました。しかし、その恵みを忘れた人は、同じ現実を見ても、恐れしか見ることができませんでした。

そして今日の箇所は、その続きです。
前回は、「何を見つめるか」がテーマでした。今日は、その見たものが言葉となってあふれ出します。心に蓄えたものは、やがて言葉となります。そして、その言葉は人を生かすことも、人を絶望へ導くこともあるのです。

私たちは毎日、たくさんの言葉を話しています。研究によって違いはありますが、私たち日本人が知っている言葉の数は3〜5万語と言われています。そしてその中から、1日に何百、何千もの言葉を交わしながら生活していると言われています。「ありがとう。」「大丈夫ですよ。」「助かりました。」そんな言葉もあれば、「どうして私ばかり。」「もう無理だ。」「最悪だ。」そんな言葉もあります。
言葉は目には見えません。しかし、その力は決して小さくありません。風も目には見えません。しかし木々の葉が揺れるのを見れば、風が吹いていることが分かります。同じように、言葉も目には見えませんが、人の心を動かします。励ますこともできます。傷つけることもできます。聖書は、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(箴言18章21節)と真理を語っています。

さて、今日の聖書には、たった10人の言葉がイスラエル全体を絶望へ導き、たった2人の言葉が神への信頼を語った出来事が記されています。
同じ現実を見ても、どうしてこれほど違う言葉になったのでしょうか。
その違いは一つでした。「神を計算に入れていたかどうか」です。

神を計算から外すと、不平が生まれる(1〜4節)

14章1節      すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

10人の報告を聞いて、イスラエルの民は恐れました。絶望しました。一晩中泣き続けました。
もちろん、涙を流すこと自体が罪ではありません。恐れることも、人間として当然あります。問題は、その恐れをどこへ向けたかです。
彼らは、その恐れを抱えて主のもとへ行きませんでした。祈りませんでした。主の約束を思い返しませんでした。彼らが向かった先は、指導者モーセと大祭司アロンの所でした。そして彼らへの不平を口にしたのです。

14章2a節    イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。

ここで「不平を言った」と訳されているヘブル語は、【לוּן・ルーン】という言葉です。

この【לוּן・ルーン】不平は、単なる愚痴ではありません。「ぶつぶつ文句を言う」という程度の意味ではないのです。この言葉には、「頑として動こうとしない。」「相手の言葉を受け入れようとしない。」「自分の考えに居座り続ける。」という意味があります。

子どもが叱られた時、腕を組み、顔を横に向け、返事もしない。絶対に謝らない。そんな姿を想像してみてください。あるいは大人でも、「私は悪くない。」「どう考えても相手が悪い。」そう言って、相手が何を言っても心を閉ざしてしまうことがあります。それが【לוּן・ルーン】の姿です。
さらに民数記では、この言葉は、神が立てられた指導者に反抗し、その背後におられる主ご自身に反抗することを意味します。つまり、主の前で頑なになることです。やがて、「悪いのは私ではない。」「神の方がおかしい。」そこまで行ってしまう。それが【לוּן・ルーン】なのです。
それで、民数記16章11節でモーセは、「あなたがたがつぶやいている相手はアロンではない。主なのだ。」と言っています。今日のところでも、モーセとアロンに向かって言っているようで、本当は主に向かって言っていたのです。【לוּן・ルーン】していたのです。

私たちも同じではないでしょうか。私たちは、「主よ、あなたが悪い。」とは、なかなか口にはしないでしょう。しかし、祈らなくなる。御言葉を聞こうとしなくなる。腕を組み、顔を横に向け、返事もしない。何でも自分だけで決めようとする。主に尋ねなくなる。そういう態度を取り続ける時、言葉ではなく態度で、「主よ、もう結構です。」と言ってしまっていることはないでしょうか。

このように、不平とは、単なる口の問題だけではありません。神との関係の問題なのです。

そして、その不平は突然生まれるものではありません。
先週も学びましたように、心に蓄えたものが、やがて口からあふれ出します。恐れを蓄えれば、恐れの言葉が出てきます。不安を蓄えれば、不安の言葉が出てきます。しかし、主の真実を蓄えていれば、困難の中でも主の真実を語ることができます。あふれ出てくるのです。

では、イスラエルの民の心から、なぜこれほど激しい不平があふれ出したのでしょうか。
彼らは、人生の計算から神を外してしまったのです。

そして、ここにはもう一つ、非常に深刻な問題があります。
民は、ただ「怖い」「行きたくない」と言っただけではありません。3節でこう言っています。「なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。」
つまり彼らは、なんと、主が自分たちを幸いな約束の地へと導いてくださっていることを、「主は私たちを殺すために、ここまで連れて来たのだ。」と解釈してしまったのです。
後にモーセがこの出来事を振り返った申命記1章27節では、民の心の中にあった思いが、さらに露わにされています。

「主は私たちを憎んでいる。」

皆さん、本当に主は彼らを憎んでおられたのでしょうか。
いいえ。全く逆です。主は彼らの苦しむ声を聞いてくださいました。奴隷状態から救い出してくださいました。ご自分の民として受け入れ、約束の地まで導いてこられました。主がなさってきたことは、最初から最後まで恵みでした。
それなのに民は、神の愛を悪意へと書き換えてしまったのです。真実な神を、信頼できない神であるかのように扱った。恵み深い神を、自分たちを滅ぼそうとする神であるかのように扱った。ここまで来ると、問題は単なる不平ではありません。神がどのようなお方であるかを否定することです。これこそ、神を冒瀆することではないでしょうか。

そして、私たちの心のうちに、本当に神への冒瀆はないでしょうか。
私たちが神を冒瀆してはならない根拠は、ただ「神について悪いことを言ってはいけないから」ではありません。神は真実なお方だからです。私たちが理解できなくても、神は真実です。私たちが不安でも、神は真実です。私たちが神の御手を見ることができなくても、神は真実です。だから私たちは、自分の感情によって神の人格(ご性質)を書き換えてはならないのです。

恵み深い神を計算に入れていますか

そこで、皆さんに一つお尋ねしたいのです。
皆さんは人生を考える時、この真実な神、恵み深い神を計算に入れておられるでしょうか。
仕事を考える時。健康を考える時。家庭を考える時。将来を考える時。私たちは様々な計算をします。それ自体は必要なことです。しかし、その計算の中に、恵み深い神はおられるでしょうか。
神は今日まで何度も私たちを導いてくださったではありませんか。あの時も。あの苦しみの中でも。あの絶望の涙の中でも。振り返れば、「あの時も主がおられた。」と言える出来事が、私たちそれぞれ、1つや2つではないでしょう。それなのに、目の前の問題が大きくなると、その恵みを忘れてしまいます。

イスラエルの民もそうでした。彼らは、「私たちは、エジプトの地で死んでいた方がよかった。」と言いました。
エジプトとは、どんな場所だったでしょうか。彼らは自由ではありませんでした。命令されるままに働き、命令されるままに生きていました。その状態があまりにも長かったために、自分たちが奴隷であることさえ、当たり前になってしまっていました。

実は、罪も同じです。聖書は、人は罪の奴隷であると言います。怒りや欲望に支配され、怒りや欲望のままに生き、それなのに人の評価や恐れに縛られながら生きます。しかし、その支配の中に長くいると、「これが普通だ。」と思うようになります。けれども心の奥では、「助けてほしい。」「このままでは嫌だ。」そんな声にならない叫びを上げているのです。神は、その叫びを聞いてくださいました。
ですから神は、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
イエス様は十字架で私たちの罪を負い、罪の奴隷であった私たちを解放し、自由の中へ招いてくださいました。

ところが、イスラエルがエジプトへ帰ろうとしたように、私たちも時に、古い生き方へ戻ろうとしてしまいます。怒りや欲望に支配され、主に頼るよりも、自分で何とかしようとする。御言葉よりも、自分の感情や経験だけを頼りにする。それは、形を変えた「エジプトへ帰ろう」なのかもしれません。

4節で彼らは言います。

14章4節      そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」

ここまで来ると、もう不平ではありません。反逆です。
彼らはモーセを退けようとしました。しかし、本当に退けようとしていたのはモーセではありません。モーセを立てられた神ご自身です。「神が決めるのではなく、自分たちで決めよう。」「神の導きではなく、自分たちの判断で歩もう。」それはまるで、主への宣戦布告のようでした。

私たちは、「もう神様はいりません。」と口で言うことはないでしょう。しかし、祈らずに決める。御言葉を求めずに決める。主に尋ねずに決める。それは態度によって、「今回は私が決めます。」と言っていることにならないでしょうか。その時、私たちは神を人生の計算から外してしまっているのです。

神を計算に入れる人は、信仰の言葉を語る(5〜9節)

その時でした。モーセとアロンは、会衆の前でひれ伏します。彼らは弁解しません。言い返しません。まず主の前に身を低くします。本当に主を知る人は、人に勝とうとはしません。まず主の前にひれ伏すのです。
そこへ、もう2人の人物が進み出ます。ヨシュアとカレブです。彼らは衣を裂きました。それは敵を見て悲しんだからではありません。神の民が、神を信じなくなってしまったことを悲しんだからです。
13章では、前面に立って語ったのはカレブでした。しかし14章では、ヨシュアもカレブと共に立っています。そしてこのヨシュアが、後にモーセの後継者として民を約束の地へ導くことになります。主はこの時にも、ヨシュアを信仰の指導者として整えておられたのでしょう。

ヨシュアとカレブは言いました。

14章7節      イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。

いいですね。彼らは最初に敵の話をしません。最初に主の約束を語ります。最初に恵みを思い出させます。彼らは現実から目を背けさせようとしているのではなりません。神の約束から現実を見るように促しているのです。本当の信仰とは、現実から目を背けることではありません。神の約束から現実を見ることです。
10人の偵察者も、ヨシュアとカレブも、同じものを見ました。しかし、その後が違いました。10人は恐れに支配され、神を計算から外しました。その結果、「私たちはバッタだ。」という言葉になり、最後には、「帰ろう。」という行動になりました。
しかしヨシュアは、主の約束と真実を心に蓄え、神を計算に入れました。その違いが、やがて全く違う言葉となって現れます。

神との関係を第一にするとき、信仰の言葉が生まれる(9〜10節)

ヨシュアとカレブは続けてこう語ります。

14章9節      ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

私は、この言葉の順番に大きな意味があると思います。
ヘブル語では冒頭に、【אַךְ・アク】という言葉があります。「ただ」「ただ一つ」という意味です。つまりヨシュアは、「何よりも、ただ一つ、主に対して反逆してはならない。」と言っているのです。
興味深いことに、ヨシュアは最初から、「恐れるな。」とは言いません。「勇気を出そう。」とも言いません。まず、主との関係を語ります。

なぜでしょうか。
ヨシュアは知っていたからです。人生で一番大切なのは、敵との関係ではありません。状況との関係でもありません。神との関係です。神との関係が正しいなら、敵の見え方も変わります。将来の見え方も変わります。そして人生を計算するとき、自然と神を計算に入れるようになるのです。

今回の説教のタイトルは、「神を計算に入れていますか」ですが、それは単に考え方の問題ではありません。もっと深い問題です。神との関係の問題なのです。

そしてヨシュアは言います。

「主が私たちとともにおられるのだ。」

この一言を、少し立ち止まって味わってみたいと思います。

考えてみれば、何も変わっていません。敵は一人も減っていません。巨人は相変わらずそこにいます。堅固な城壁も崩れてはいません。イスラエルの武器が突然増えたわけでもありません。10人の偵察者が見た現実と、ヨシュアが見ている現実は同じです。それなのに、そこから出てきた言葉は全く違いました。
10人は、「私たちはバッタのようだ。」と言いました。
ヨシュアは、「主が私たちとともにおられる。」と言いました。
何が違ったのでしょうか。

ヨシュアは、現実から目を背けたのではありません。敵の強さも、城壁の高さも、自分たちの弱さも知っています。けれども、そこで計算を終わらせなかったのです。敵を計算しました。自分たちの弱さも計算しました。そして最後に、神を計算に入れました。今日まで導いてくださった主。約束を決して破られない主。今も生きておられる主。そのお方を計算に入れた時、目の前の現実そのものは変わらなくても、現実の見え方が変わったのです。そして、その心から一つの言葉が生まれました。あふれ出ました。

「主が私たちとともにおられるのだ。」

これは、無理に自分を奮い立たせて語った言葉ではありません。「大丈夫。きっと何とかなる。」と自分に言い聞かせた言葉でもありません。神を見つめ、神を計算に入れたところから生まれてきた、信仰の告白です。

私はここで、詩篇の祈りを思い起こします。
詩篇には、「主よ、なぜですか。」「いつまでですか。」という叫びから始まるものがあります。詩編の記者は、苦しいのです。悲しいのです。何も先が見えません。ところが、その苦しみを抱えたまま主に祈り続けていると、祈りの途中から言葉が変わっていくことがあります。
「しかし、私はあなたに信頼します。」
そして最後には、「私は主をほめたたえます。」という賛美へ変わっていきます。
不思議なのは、状況がまだ変わっていないのに、祈りの言葉が変わることです。なぜでしょうか。
祈りの中で、もう一度神を見つめたからです。
苦しみだけを見ていた目が、その苦しみのただ中にもおられる神を見るようになった。人生の計算の中に、もう一度神を入れたのです。すると、絶望の言葉が、信仰の言葉へと変えられていきます。
ヨシュアの告白も、そこに通じるものがあります。「主が私たちとともにおられるのだ。」

そして皆さん。私たちはヨシュアたち以上に、この言葉、「主が私たちとともにおられるのだ。」を確かなものとして告白することができます。なぜなら私たちは、神が私たちとともにいてくださることの、さらに確かな証拠を与えられているからです
それが、イエス・キリストです。

ヨシュアとカレブは、「もし主が私たちを喜んでくださるなら。」別訳では「もし、私たちが主の御心に敵うなら。」と語りました。イスラエルは、主の御声に聞き従い、主の契約に生きるよう招かれていました。神が与えられた契約そのものは良いものであり、神の約束も真実でした。問題は神の側にあったのではありません。人間の側にありました。

イスラエルは主に完全に従うことができませんでした。主の御心に適っていないということです。そして、それは私たちも同じです。
私たちは、「主に従います。」と言いながら従えません。「あなたを第一にします。」と告白しながら、いつの間にか自分を第一にしてしまいます。聖なる神の前に立つならば、「私は完全に従いました。」と言える者は一人もいません。
そして神は聖なるお方ですから、罪を「仕方がない」と見過ごすことはなさいません。神は義なるお方だからです。
しかし同時に、神は私たちをどこまでも愛し、あわれんでくださるお方です。そこで神がなさったことが、十字架でした。

御子イエス・キリストは、私たちができなかった完全な従順を、父なる神に最後までささげてくださいました。そして、私たちが受けるべき裁きを、ご自分の身に引き受けてくださいました。十字架には、罪を決して軽く扱われない神の聖さがあります。罪を正しく裁かれる神の義があります。そして、罪人である私たちを見捨てず、御子を与えてくださった神の愛とあわれみがあります。そのすべてが、十字架において一つになっているのです。
ですから私たちは今、「従ったから、神に愛していただこう。」とするのではありません。キリストにあって愛された者として、神に従うのです。神の子とされた者として、父なる神を信頼して歩むのです。ここに福音があります。

私たちはこの福音に生きています。恵によって生かされています。ですから、目の前の状況だけを見て、「神は私を見捨てたのではないか。」と決めつける必要はありません。十字架を計算に入れてください。そこを見れば、神がどれほど私たちを愛してくださったかが分かります。そして復活を計算に入れてください。どれほど絶望的に見えるところにも、神は新しい道を開くことのできるお方です。

イエス・キリストの故に、私たちも告白することができます。「主が私たちとともにおられるのだ。」

ところが、イスラエルの会衆は、このヨシュアが言った、「主が私たちとともにおられるのだ。」という言葉を受け入れませんでした。
10節には、「しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。」とあります。ここまで来てしまいました。最初は恐れでした。恐れが不平になりました。不平が反逆になりました。そしてついには、神を信頼するよう呼びかける者を、自分たちの前から取り除こうとしたのです。

その時でした。「すると、主の栄光が会見の天幕から、すべてのイスラエルの子らに現れた。」主が現れました。
皆さん。主はずっと見ておられたのです。民が泣き叫んでいた時も。モーセとアロンに不平をぶつけていた時も。「エジプトへ帰ろう」と言った時も。モーセとアロンがひれ伏していた時も。ヨシュアとカレブが、「主がともにおられる。」と叫んだ時も。主は、すべてをご覧になっていました。
そしてヨシュアとカレブが石で打ち殺されようとした、その時、主ご自身が介入されたのです。
もちろん、ここに現れた主の栄光は、これから始まる神の裁きと結びついています。しかし同時に、ヨシュアとカレブにとって、それは救いでもありました。なぜなら彼らが、「主が私たちとともにおられる。」と告白したその主が、本当にそこにおられたからです。彼らの信仰は、思い込みではありませんでした。主は、本当にともにおられました。主は、生きておられました。

そして今も、主は生きておられます。イエス・キリストにあって私たちとともにおられる、インマヌエルの主です。
ですから私たちは、どのような現実を見る時にも、人生の計算から、このお方を外してはならないのです。

おわりに

皆さん。今日の説教の最後に、もう一度だけ、あの流れを思い出してください。
10人の偵察者は、見ました。恐れを心に蓄えました。神を計算に入れませんでした。だから、「私たちはバッタだ。」と語りました。そして、「帰ろう。」という行動になりました。
ヨシュアも見ました。しかし、神の約束を心に蓄えていました。神を計算に入れました。だから、「主が私たちとともにおられる。」と語りました。そして約束の地へ進もうとしました。

私たちも毎日、何かを見ています。ニュースを見ます。預金残高を見ます。病院の検査結果を見ることもあります。家庭の現実を見ます。教会の現実も見ます。現実から目をそらしてはいけません。十分に見てください。十分に考えてください。十分に計算してください。
しかし、最後まで計算してください。
どうか、神を計算から外さないでください。
今日まで導いてくださった神。今日もともにいてくださる神。明日も約束を守られる神。十字架によって愛を示してくださった神。復活によって希望を与えてくださった神。
その神を計算に入れる時、私たちの口からも、ヨシュアと同じ言葉が生まれるでしょう。不平ではなく、感謝が。恐れではなく、平安が。絶望ではなく、希望が。そして、この教会からも、家庭からも、私たち一人ひとりのこの一週間の歩みの中からも、あの信仰告白が聞こえてくるのです。

「主が私たちとともにおられる。」

このみことばが、今週を歩む私たち一人ひとりの告白となりますように。

【祈り】
天の父なる神様
今日も、あなたのみことばを与えてくださり、心から感謝いたします。
私たちはイスラエルの民と同じように、目の前の現実だけを見てしまい、恐れ、不平を口にし、あなたを計算から外してしまうことがあります。
あなたは今日まで、数え切れないほどの恵みをもって私たちを導いてくださいました。
それにもかかわらず、その恵みを忘れ、自分の力や目に見える現実だけで人生を判断してしまう弱さをお赦しください。
主よ、どうか私たちの心を新しくしてください。
あなたがこれまで良くしてくださったことを何一つ忘れない者としてください。
「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。」今週もこのみことばを、私たち一人ひとりが日々の歩みの中で経験し続ける者としてください。
私たちの心に、あなたの真実と約束、恵みの証しを豊かに蓄えさせてください。そして人生のあらゆる場面で、あなたを計算に入れて歩む者としてください。
不平ではなく感謝を。恐れではなく平安を。絶望ではなく希望を。あなたが私たちの口に置いてくださる言葉を語ることができますように。
私たちの家庭で、職場で、この教会で、不安を広げる者ではなく、あなたの真実を語る者としてください。
ヨシュアとカレブのように、「主が私たちとともにおられる。」と告白し、その信仰をもって歩ませてください。
そしてこの教会を通して、多くの人があなたの素晴らしさを知り、あなたの救いへと導かれますように。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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