2026年9月30日 水曜日祈祷会「聞き続ける心」
聖書箇所
歴代誌第二 25章
聞き続ける心
今日は、歴代誌第二25章を学びます。
ここに登場するのは、ユダの王アマツヤです。前の24章では、アマツヤの父ヨアシュについて学びました。
ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は主に従い、神殿を修復するという大きな働きもしました。ところが、エホヤダが死ぬと、ユダの首長たちの言葉に耳を傾けるようになり、主から離れてしまいました。
そのヨアシュの後を継いで王となったのが、息子アマツヤです。
25章2節には、彼についてこう記されています。
彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。
この一言が、今日の25章全体を読む鍵になるように思います。
アマツヤは、最初から主を捨てていた王ではありません。むしろ、主の御言葉に従ったこともあります。信仰をもって決断したこともあります。
けれども、その心は最後まで主だけに向けられてはいませんでした。
今日はまず、25章全体を簡単に見ていきたいと思います。
1.主の目にかなうことを行った。しかし全き心ではなかった 1〜4節
アマツヤは25歳で王となりました。
王権が確立すると、父ヨアシュを殺した家来たちを処刑します。しかし、その子どもたちまでは殺しませんでした。
当時であれば、将来の復讐を防ぐために、家族まで処刑することも珍しくなかったでしょう。
しかしアマツヤは、モーセの律法に従いました。申命記24章16節に記されている、「子が父のゆえに殺されてはならない。人が死ぬのは、自分の罪過のゆえでなければならない。」という主の命令に従ったのです。
ですから、アマツヤには確かに御言葉に従う姿がありました。
ところが聖書は、その前に、「全き心をもってではなかった」と記しています。
つまり、外側には従順がある。しかし、心のすべてが主に向かっているわけではない。
この小さく見える問題が、やがて大きく現れてきます。
2.百タラントを手放して従ったアマツヤ 5〜10節
続いてアマツヤは、エドムとの戦いに備えます。
ユダとベニヤミンから兵士を集めると30万人いました。しかし、それでも足りないと考えたのでしょう。北イスラエルからさらに10万人の兵士を雇いました。
そのために支払ったのが、銀百タラントです。
ところが、そこへ神の人がやって来て言います。
北イスラエルの兵を一緒に連れて行ってはならない。主は彼らとともにはおられない。たとえ大軍をそろえたとしても、主はあなたを倒すこともおできになる。
それを聞いたアマツヤは尋ねます。
「では、すでに払ってしまった百タラントはどうなるのですか。」
とても現実的な質問です。
もう払ってしまった。今さら取り戻せない。彼らを帰したら大きな損失になる。
しかし神の人は答えます。
主は、それよりも多くのものをあなたにお与えになることができます。
そしてアマツヤは、イスラエルから雇った兵士たちを帰しました。
これは立派な従順だったと思います。
損をしてでも御言葉に従ったのです。
「ここまでお金をかけたのだから。」
「ここまで準備してきたのだから。」
「今さら変えることはできない。」
そう言わずに、御言葉を聞いて、自分の計画を変更しました。
3.勝利した後、敗れた国の神々を拝む 11〜16節
そしてアマツヤはエドムとの戦いに向かい、勝利します。
ところが、ここから突然、理解しがたいことが起こります。
アマツヤはエドムの神々を持ち帰り、それを自分の神々として拝み、香をたき始めたのです。
これは本当に不思議です。
そこで主は預言者を遣わされます。
預言者が言っていることは実にもっともです。
なぜあなたは、あなたの手から自分の民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。
確かにその通りです。
エドムの神々は、エドムを救うことができませんでした。アマツヤ自身が、それを経験しています。
しかもアマツヤが勝利できたのは、主の御言葉を聞き、北イスラエルの兵を帰した後でした。
それなのに彼は、勝利を与えてくださった主ではなく、敗れた者たちの神々を拝み始めたのです。
なぜアマツヤがそのようなことをしたのか、聖書はその心理まで説明してはいません。
しかし、2節に記されていたことが、ここで表面に現れてきたように思います。
全き心をもってではなかった。
主に従ったことはあった。しかし、心全部が主のものになっていたわけではなかった。
そして預言者がその罪を指摘すると、アマツヤは言います。
「もう黙れ。お前を王の助言者にした覚えはない。」
かつて神の人の言葉を聞いた人が、今度は神から遣わされた預言者を黙らせようとしています。
ここに大きな変化があります。
4.勝利によって心が高ぶる 17〜24節
さらにアマツヤは、北イスラエルに戦いを挑みます。
するとイスラエル王ヨアシュは、たとえを使って警告しました。
そして19節では、アマツヤについて、「エドムを打ち破ったことで、あなたの心が高ぶっている。」と指摘します。
問題は、エドムに勝ったことではありません。勝利した後の心でした。
アマツヤは、主が勝利を与えてくださったとは考えず、自分が強くなったかのように思い始めたのでしょう。
しかも20節には、「しかし、アマツヤは聞き入れなかった。」と記されています。
ここでも「聞かない」のです。
その結果、ユダはイスラエルに敗れました。アマツヤ自身も捕らえられ、エルサレムの城壁は壊され、神殿と王宮の宝物まで奪われてしまいます。
5.主に従うことから離れたアマツヤ 25〜28節
そして最後には、アマツヤに対する謀反が起こります。
彼はラキシュまで逃げますが、そこで殺されました。
こうしてアマツヤの生涯は終わります。
最初は御言葉に従っていた人でした。損をしてでも従った人でした。主から勝利をいただいた人でした。
しかし最後には、主から離れてしまいました。
ここまでが25章全体の流れです。
では、このアマツヤの歩みから、私たちは何を教えられるでしょうか。
私は今日、一つのことに心を留めたいと思います。
それは、「主の御声を、聞き続ける心」ということです。
聞き続ける心
この25章には、同じ一人の人とは思えないほど違うアマツヤの姿が出てきます。
前半のアマツヤは、聞く人です。
神の人が、「北イスラエルの兵を連れて行ってはならない」と言いました。
それは、アマツヤにとって都合の悪い御言葉でした。
百タラントをすでに支払っています。もったいない。しかも兵士は多い方が安心です。
常識的に考えれば、連れて行った方が戦いには有利に思えます。
しかしアマツヤは聞きました。自分の計画を変えました。自分の損失を受け入れました。そして兵士たちを帰しました。
ところが後半ではどうでしょう。
預言者が、「どうして、あなたを救うことのできない神々を求めるのですか」と語ると、アマツヤは言います。
「もう黙れ。」
さらにイスラエル王から、「あなたの心は高ぶっている。その戦いはやめた方がよい」と警告されても聞きません。
しかし、アマツヤは聞き入れなかった。
前半では聞くことができた。後半では聞けなくなった。
何が変わったのでしょうか。
その間にあったものは、勝利です。
アマツヤはエドムに勝ったのです。
苦しい時には聞けた。助けが必要な時には聞けた。しかし成功した後、聞けなくなってしまいました。
これは、私たちにもとても身近な問題ではないでしょうか。
困っている時には祈ります。「主よ、助けてください。」
どうしたらよいか分からない時には、御言葉を求めます。「主よ、教えてください。」
しかし物事がうまくいき始めると、いつの間にか祈らなくなる。
御言葉を聞くよりも、自分の経験で判断するようになる。
主に、「どうしたらよいでしょうか」と尋ねていた人が、「私は分かっている」と思うようになる。
アマツヤが経験した危険は、失敗の中にあったのではありません。むしろ、成功の中にありました。
もちろん成功すること、祝福されることが悪いわけではありません。主が助けてくださることは感謝なことです。祈りが答えられることも感謝です。働きが祝福されることも感謝です。
しかし問題は、その後です。
主が助けてくださったことを、「主がしてくださった」と受け止めるのか。それともいつの間にか、「自分ができるようになった」と思うのか。
その違いはとても大きいのです。
アマツヤに対してイスラエル王は、「エドムを打ったことで、あなたの心は高ぶっている」と指摘しました。
エドムに勝ったこと自体が彼を滅ぼしたのではありません。
勝利したことで高ぶった心が、御言葉を聞けなくしていきました。
そして今日、もう一つ考えたいことがあります。
アマツヤは前半で、百タラントを手放すことができました。
これは決して小さなことではなかったと思います。
せっかく支払ったお金です。しかし、「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます。」という言葉を信じて、それを手放しました。
ところが後半のアマツヤには、手放せないものがありました。
何でしょう。
自分自身だったのではないかと思います。
自分の成功。自分の考え。自分のプライド。「私は間違っているかもしれない」と認めること。
百タラントは手放せた。しかし、自分の高ぶりを手放すことができなかった。
これは私たちにとっても、かなり鋭い問いではないでしょうか。
お金を献げることができる。時間を献げることができる。何かを我慢することもできる。奉仕することもできる。
けれども、誰かから、「そこは少し違うのではありませんか」と言われた時に、「そうかもしれません」と聞けるでしょうか。
御言葉を読んで、自分の考えが間違っていたと示された時、自分を変えることができるでしょうか。
自分がうまくいっている時に、「それでも私は主の御声を聞かなければならない」と思えるでしょうか。
信仰とは、一度聞いたら終わりではありません。
昨日、主に従ったから、今日も大丈夫だということではありません。
アマツヤは一度、立派に従いました。
しかし昨日の従順が、今日の従順を保証してくれるわけではありませんでした。
だから私たちは、今日も聞かなければなりません。
明日も聞かなければなりません。
うまくいかない時だけではありません。うまくいっている時にも聞く。
困っている時だけではありません。何の問題もないように思える時にも聞く。
自分を励ましてくれる御言葉だけではありません。自分を正す御言葉にも聞く。
それが、主に心を向け続けるということなのだと思います。
25章の最初に、
「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった」
とありました。
行動だけを見れば、正しいこともたくさんしていました。
けれども主がご覧になっていたのは、もっと深いところでした。
心がどこを向いているのか。
主だけに向いているのか。
御言葉を聞き続ける心があるのか。
そこを主は見ておられました。
私たちも今日、主の前で自分自身を振り返りたいと思います。
私は今、主の御声を聞くことができているだろうか。
特に、自分にとって都合の悪い御言葉を聞くことができているだろうか。
「ここを変えなさい。」
「それを手放しなさい。」
「あなたの考えの方が間違っています。」
そのように主から示された時にも、「はい、主よ」と答えることができるだろうか。
そしてもう一つ。
最近うまくいっていることがあるなら、そのことについても感謝しながら自分に問いかけたいと思います。
この祝福によって、私は以前より主に近づいているだろうか。
それとも、以前より主の御声を聞かなくなってはいないだろうか。
主に従うとは、一度御言葉を聞くことではありません。
今日も、明日も、成功した後も、主の御声を聞き続けることです。
「主よ、私は聞いています。」
その心を、今日も主に与えていただきたいと思います。
【「みことばの光」祈り】
生涯に渡り主の道を歩み通し、主と人の前で謙虚であり続ける者でありますように。

