2026年10月1日 木曜日祈祷会「強くなった、その時に」

聖書箇所

歴代誌第二 26章

「強くなった、その時に」

今日は、歴代誌第二26章を見ていきます。
前の25章では、アマツヤ王について学びました。
アマツヤは、主によってエドムとの戦いに勝利することができました。ところが、その勝利の後、エドムの神々を持ち帰り、それを自分の神々として拝んでしまいました。
主に助けられて勝利した。その勝利の後で、主から離れてしまったのです。

そして今日の26章に登場するウジヤにも、どこか似たところがあります。
ウジヤは、アマツヤの子です。わずか16歳で王となり、52年間エルサレムで王として治めました。

まず4節を見ると、

彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。

とあります。
そして5節には、

神を認めることを教えたザカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。

とあります。
ウジヤの歩みは、非常に良いところから始まっています。
彼は主を求めました。そして、主を求めている間、神が彼を栄えさせてくださいました。
6節から先を見ると、その繁栄の様子が具体的に記されています。
ウジヤはペリシテ人と戦って勝利しました。町々を建てました。アンモン人もウジヤに貢ぎ物を納めるようになりました。
そして8節には、

こうして、彼の名はエジプトの境にまで届いた。その勢力がこの上なく強くなったからである。

とあります。
さらにウジヤは、エルサレムに塔を建て、それを強固にしました。荒野にも塔を建て、多くの井戸を掘りました。
10節を見ると、彼は農業にも力を入れていたことが分かります。家畜も多く持っていました。畑やぶどう畑を持っていました。
そして軍事面でも、非常に大きな力を持つようになります。
11節からは、組織された軍隊のことが記されています。
盾、槍、かぶと、よろい、弓、石投げの石。さらに15節には、エルサレムの塔や城壁の角に、矢や大きな石を射るための装置まで備えたことが書かれています。
政治も、軍事も、農業も、国造りも成功している。
ウジヤは非常に有能な王だったのでしょう。
そして、その名声は遠くまで広がりました。

ここまで読むと、ウジヤの人生は順風満帆です。
しかし、この箇所を読む時、見落としてはいけない言葉があります。
7節です。

神は彼を助けて

短い言葉です。
けれども、これがウジヤの繁栄を理解する鍵です。

ウジヤが強かったから、すべてがうまくいったのではありません。
主が助けてくださった。その結果として、ウジヤは強くなっていったのです。
そして、そのことが最もはっきり表されているのが15節です。
ウジヤの名声が遠くまで広がったことが記された後に、

彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである。

とあります。

ここまでが、ウジヤの前半です。
主を求めた。主が助けてくださった。そして、強くなった。
ところが、続く16節です。

しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

15節と16節を続けて読むと、非常に重いものがあります。
「彼は驚くべき助けを得て、強くなった。」そして、「しかし、彼は強くなると、その心は高ぶった。」

ウジヤが一番危険だったのは、弱かった時ではなかったのです。
16歳で王になった時でもなかった。
敵に囲まれていた時でもなかった。
国がまだ十分に整っていなかった時でもなかった。
一番危険だったのは、強くなった、その時でした。

弱かった時には、主を求めました。
助けが必要だった時には、主に頼りました。
けれども主が助けてくださり、物事がうまくいき、国が強くなり、自分の名声が広がっていった時に、ウジヤの心もまた大きくなってしまったのです。
本当は、「主が助けてくださったから、ここまで来ることができた。」のはずでした。
ところが、いつの間にか、「自分はここまでできるようになった。」という思いに変わっていったのかもしれません。

ここに、私たちにも非常に身近な危険があります。
苦しい時には、私たちは祈ります。「主よ、助けてください。」
先が見えない時には、御言葉を求めます。「主よ、どうしたらよいでしょうか。」
自分ではどうにもならない時には、主にすがります。
ところが主が助けてくださって、その問題を乗り越える。
できなかったことが、できるようになる。
分からなかったことが、分かるようになる。
慣れていなかった仕事にも慣れる。
奉仕にも慣れる。教会生活にも慣れる。
そうすると、以前ほど祈らなくてもできるような気がしてきます。
以前ほど御言葉に聞かなくても、判断できるような気がしてきます。
以前ほど主に頼らなくても、やっていけるような気がしてくる。
しかし、それこそが危険なのです。
「私は強くなった。」けれど本当は、「主に助けられて、強くされた。」のです。

この二つは似ているようで、まったく違います。
「私はできる」と思えば、自分を見るようになります。
「主が助けてくださった」と知っているなら、主を見上げます。
ウジヤは、そのことを忘れてしまいました。
そして彼は、主の神殿に入り、香の壇で香をたこうとしました。
香をたくことは祭司に与えられた務めでした。
ウジヤには王として、大きな務めが与えられていました。
国を治めることができた。軍隊を率いることができた。町を建てることができた。国を豊かにすることもできた。それだけ多くのものを主から与えられていました。
ところが、それでは足りなくなった。自分に与えられていないところにまで、手を伸ばしてしまいました。「私は王なのだから、これくらいしてもよいだろう。」そのような思いがあったのかどうか、聖書はそこまでは語っていません。
しかし確かなことは、ウジヤが、主の定められた境界線を越えてしまったということです。

そこで祭司アザルヤと80人の祭司たちが、ウジヤの後について入り、王を止めました。これは勇気の必要なことだったでしょう。
目の前にいるのは、国を繁栄させた王です。軍隊を持っています。名声もあります。大きな実績もあります。
しかし彼らは、「王様だから仕方がない。」とは考えませんでした。
主が定められたことに反しているなら、王に対しても、「これはあなたのすることではありません。」と告げました。

ところが19節を見ると、ウジヤは怒りました。
ここにも、高慢というものの姿が現れているように思います。

高慢というと、「私は偉い。」「私は人より優れている。」と思うことだけを考えがちです。
しかし、自分が高慢になっているかどうかは、誰かから間違いを指摘された時に、よく表れるのではないでしょうか。
御言葉によって示された時。誰かから注意された時。「それは違うのではないでしょうか。」と言われた時。
その時に、「確かにそうかもしれない。」と立ち止まることができるか。
それとも、「どうしてあなたにそんなことを言われなければならないのか。」と腹を立ててしまうのか。

ウジヤは、そこで立ち止まることができませんでした。
そして祭司たちに怒っているその時、彼の額にツァラアトが現れます。
祭司たちは急いで彼を神殿から連れ出しました。
そしてウジヤ自身も、急いで出て行きます。
21節には、その後のことが記されています。
ウジヤは死ぬ日までツァラアトに冒され、隔離された家に住みました。そして、「主の宮から断たれていた。」とあります。
何とも悲しい言葉です。
主の宮の中で、自分に許されていないところまで進もうとしたウジヤが、最後には主の宮に入ることさえできなくなってしまいました。
あれほど強かった王。名声が遠くまで広がった王。52年間も国を治めた王。その晩年について聖書が記しているのは、「主の宮から断たれた。」ということでした。
そして23節でウジヤは死にます。

ところで、この26章の最後には、一人の人物の名前が出てきます。
22節です。
ウジヤのその他の事績を記した人物として、「預言者イザヤ」の名前が出てきます。
そして、預言者イザヤの書を開くと、6章は、こう始まります。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。

とても印象的な言葉です。
ウジヤは強くなりました。名声も高く上がりました。そして心まで高くなってしまいました。
しかし、そのウジヤは死にました。地上の王座から、ウジヤはいなくなりました。
ところがイザヤが見た時、主は御座に着いておられました。
しかも、高く上げられた御座に。
本当に高く上げられるべきお方は、ウジヤではありませんでした。私たちでもありません。
ただ主だけです。

人は強くなっても、やがて弱くなります。
人の名声は広がっても、やがて消えていきます。
人の働きには終わりがあります。
しかし主は変わりません。
王が代わっても、主は御座に着いておられます。
時代が変わっても、主は御座に着いておられます。
私たちが弱い時にも、主は主です。
そして、私たちが強くされた時にも、主は主です。
だから大切なのは、弱い時にだけ主を求めることではありません。主に助けられて強くされた後も、主を求め続けることです。
「主よ、助けてください。」と祈っていた時の心を忘れないことです。
ここまで来ることができたのは、自分の力だけではなかった。主が守ってくださった。主が支えてくださった。主が必要な人を与えてくださった。主が道を開いてくださった。主が何度も助けてくださった。そのことを忘れない。
順調な時ほど、主を求める。うまくいっている時ほど、へりくだる。強くされた時ほど、「これは主の助けによるのだ。」と告白する。
それが、ウジヤの生涯から私たちが学ばなければならないことではないでしょうか。

今日の「みことばの光」の最後には、このような祈りがあります。

人は物事が思うように進んでいるときや繁栄しているときに、神を求めることを軽んじやすくなる。私自身にもそのような弱さがあることを自覚し、主と人の前に謙遜に歩む者とさせてください。

これは、今日の箇所を学んだ私たち自身の祈りにしたいと思います。
苦しい時だけ主を求めるのではなく、物事がうまくいっている時にも主を求める。
助けを必要としている時だけでなく、助けられた後にも主を求める。
そして自分が高くなるのではなく、高く上げられた御座に着いておられる主を見上げる。
「主よ、今日まであなたに助けられてきたことを、忘れさせないでください。」
そのように祈りながら、主と人との前に、謙遜に歩ませていただきたいと思います。

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