2026年10月4日 主日礼拝「すべてをご存じの神」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇100篇
讃 美 讃美歌15「我らの御神は」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 イザヤ書53章(新聖歌 交読文50)
讃 美 讃美歌332「主は命を」
「赦すためです」
聖書朗読 民数記16章12〜35節
説 教 「すべてをご存じの神」
応答賛美 讃美歌524「イエス君、イエス君」
聖餐式 讃美歌207「主イエスよ、心」
献 金 「主イエスの十字架の血で」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 テモテへの手紙第二 2章19b節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記16章12〜35節
説教題
「すべてをご存じの神」
今週の聖句
「主はご自分に属する者を知っておられる。」
「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」
テモテへの手紙第二 2章19b節
説教「すべてをご存じの神」
民数記16章12〜35節
はじめに
私たちは、自分の過去を、いつもありのままに覚えているとは限りません。
例えば、何かうまくいかなかった時、「自分はそうするしかなかった」「あの人があんなことを言ったから」「あの人があんなことをしたから」と考えているうちに、自分にも責任があったというところだけが、少しずつ薄くなっていくことがあります。
私たちは出来事そのものを変えることはできません。
しかし、その出来事の意味を、自分に都合の良いように解釈し直すことはできてしまうのです。
私は、それを「自分の物語を書き換える」と言ってもよいのではないかと思います。
今日の民数記16章には、それが非常にはっきりと現れています。
前回は、コラたちがモーセとアロンに逆らったところを見ました。
コラはレビ人でした。主によってイスラエルの会衆から取り分けられ、幕屋の奉仕を任され、会衆の前に立って仕える務めを与えられ、何より主ご自身の近くに置いていただいていました。ところが、その恵みが小さく見えるようになった。
モーセは9節で問いかけました。
「あなたがたは、何か不足があるのか。」
原文の響きを生かせば、「それは、あなたがたにとって小さなことなのか」という問いでした。
「主がこれほどの恵みを与えてくださった。それでも足りないのか。」
ところが今日の13節を見ると、同じような言葉が今度はダタンとアビラムの口から出てきます。しかし、意味は正反対です。
そして彼らは、自分たちの物語を書き換えながら、つまり、これまでの出来事の意味を、自分の欲望のために、自分に都合の良いように解釈し直してしまったことにより、ついには神ご自身の裁きの前に立つことになります。
今日の箇所は非常に厳しく私たちに問いかけるところです。
しかし同時に、神の愛と恵みが強く迫ってくるところでもあります。
人が自分を正当化し続ける時、どこまで道を踏み外してしまうのか。
その私たち一人ひとりをご存じの神が、それでもどのように救いの道を備えてくださったのかを、御言葉から聞いていきたいと思います。
自分を正当化すると、過去まで変わって見える
12節です。モーセは、ダタンとアビラムを呼びにやりました。ところが彼らは言います。
「私たちは行かない。」
私は最初、この言葉に目が留まりました。何となく、ふてくされた子どものようにも聞こえます。「行かない。」「何を言われても行かない。」
モーセは彼らを呼びました。まず出て来て、当事者同士で話をしようとしたのでしょう。
しかし彼らは、その呼びかけそのものを拒否します。「私たちは行かない。」
そして13節で、こう続けます。
16章13節 「あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。」
この「それでも不足があるのか」という言葉には、ぜひ目を留めたいと思います。
前回9節で、モーセはコラたちに、「あなたがたは、何か不足があるのか」と言いました。
「主があなたがたを近づけてくださった。それは、そんなに小さなことなのか。」
与えられた恵みを小さく見る彼らに対する問いでした。
ところが今、ダタンとアビラムは、同じ「小さいなことのか」という言葉を、まるでモーセに投げ返すように使っています。
意味は全く違います。
「私たちをエジプトから連れ出し、こんな荒野で死なせる。それだけでも十分ひどいことではないのか。それだけでは足りず、今度は私たちの上に君臨しようというのか。」
「その罪は、その責任は、そんなに小さなことなのか。」と、そう責めているのです。
「小さいことなのか。」全く同じ言葉なのに、その意味が彼らによって書き換えられ、全く逆の方向を向いています。
そして驚くのは、彼らがエジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼んでいることです。
「乳と蜜の流れる地」。それは本来、どこを表す言葉だったでしょうか。
主がイスラエルに約束されたカナンの地です。
しかも、その土地は、ただそこに住めば自動的に何をしても豊かになる、という土地ではありませんでした。
申命記11章では、主の命令に聞き従うなら、主が「先の雨と後の雨」を時にかなって降らせ、穀物、新しいぶどう酒、油を収穫させてくださると約束されています。
つまり、「乳と蜜の流れる地」は、土地そのものの豊かさだけではなく、主に信頼し、主に従い、主が雨を与えてくださることによって生かされる地でした。神の恵みによって生きる土地です。
ところが彼らは、そのカナンを拒みました。
13章、14章で、土地の実りを自分たちの目で見ました。
それでも、「私たちには無理だ」と言いました。
「エジプトに帰った方がよい」とまで言った。
主が与えると言われた地を拒んだのは、モーセではありません。
自分たちでした。
ところが今は、「あなたは、私たちを乳と蜜の流れる地に導き入れてくれなかった。」と、物語が書き換えられています。
そして、奴隷だったエジプトの方を「乳と蜜の流れる地」と呼んでいる。完全に逆になっています。
エジプトで彼らは、奴隷として苦しんでいました。重い労働にうめき、叫び、その叫びを主が聞いてくださった。主がそこから救い出してくださったのです。
ところが、その救い出された場所が、いつの間にか「あそこは良かった」となっている。
そして、入ることを自分たちで拒んだ約束の地について、「モーセが連れて行ってくれなかった」となっている。
これが、自分の物語を書き換えるということではないでしょうか。
自分を正当化するために、過去を自分に都合よく解釈し直してしまうのです。
私たちにも、似たようなことはないでしょうか。
自分で決めたのに、うまくいかなかったら、「あの人が勧めたから」。
自分が言った言葉によって関係が悪くなったのに、「相手の態度が悪かったから」。
自分の願いや判断を「主が導かれた」と言って始めたのに、思い通りにならなくなると、「神さまがこうされたから」。
もちろん、人生に起こるすべての苦しみを、「あなたが悪かったからです」と言うことはできません。
人から受けた罪もあります。
病気もあります。
事故もあります。
私たちが選んでいない苦しみがあります。
しかし、自分が選んだことについてまで、人や神に責任を移してしまうことはないでしょうか。
「私が選びました。」
「私が言いました。」
「私が従いませんでした。」
それを主の前で認めることから、本当の悔い改めは始まるのです。
ダタンとアビラムは、それをしませんでした。14節の最後でも、もう一度言います。
「私たちは行かない。」
そしてモーセは15節で激しく怒ります。
モーセは、自分が民を搾取してきた支配者であるかのように言われたことに怒りました。
「私はあなたがたから奪っていない。あなたがたを傷つけてもいない。それなのに、自分たちの不信仰の結果まで私の責任にするのか。」
そして、「彼らのささげ物を顧みないでください」と祈ります。
ここは、私たちにも鋭く迫るところだと思います。
この後、彼らは火皿に香を盛って、主の前に出ます。
見た目は宗教的です。
神の前に出る。香を献げる。
しかし、礼拝の形をしていることと、主に従っていることは同じではありません。
礼拝に出ている。祈っている。聖書を読んでいる。献金している。奉仕している。それらはどれも本当に大切です。
しかし、それが本当の悔い改めの代わりにはなりません。
神に逆らっている心を抱えたまま、外側だけ整えて、「私は神に従っています」とすることはできません。
礼拝に来ているから大丈夫なのではない。
祈っているから、自分の頑なさを見なくてもよいのではない。
聖書を知っているから、自分は正しいのでもない。
むしろ礼拝の中で、御言葉の前で、
「主よ、私のどこが間違っているでしょうか。」
「私が悔い改めるべきことは何でしょうか。」
そう問えるでしょうか。
神さまは、私たちが何を持って御前に来たかだけではなく、どのような心で御前に立っているのかをご覧になります。
自分の物語を書き換えると、警告さえ聞こえなくなる
そして16節から、コラの側の反逆と、ダタン、アビラムの反逆が一つの大きな反乱として広がっていきます。
ここで、なぜこの人たちが結びついたのかについて、聖書は理由を説明していません。
ただ、一つ興味深いことがあります。
コラの属していたケハテ族は幕屋の南側に宿営していました。そしてダタンとアビラムの属していたルベン族も、同じ南側に宿営していました。
同じ南側にいたから反乱が起きた、と断定することはできません。
しかし、日常的に接触しやすかったことは確かでしょう。
不満というものは、一人の胸の中にある時と、それを誰かに話し始めた時とでは違ってきます。
「実は、私もそう思っていた。」「やっぱりそうだよね。」そういう言葉が重なるうちに、一人の不満が二人の不満になり、二人の不満が集団の不満になっていく。
しかも相手が、自分もあまり好きではない人だったらどうでしょう。
誰かがその人の悪口を言っている。
口では、「そんなことを言ってはいけない」と言う。
しかし心のどこかでは、少し気持ちよく聞いてしまう。「やっぱり、私だけではなかった。」「やっぱり、あの人には問題があるんだ。」
人の不平不満を嫌がりながら、その不満に自分の思いが重なると、どこかで同調してしまう。
罪というものは、そのようにして広がることがあります。
一人なら言わなかったことを、二人なら言う。
二人ならしなかったことを、大勢ならする。
やがて、「私はそう思う。」が、「みんなそう思っている。」に変わっていきます。
そして16節から、250人の人たちが火皿を持って主の前に立とうとします。
この250人は、ただの見物人ではありませんでした。
2節では、「会衆の上に立つ者」「会合で選ばれた者」「名のある者」と言われています。
イスラエルの中で認められていた有力者たちです。その人たちが、自分の火皿を持って出てきたのです。
しかも、彼らには知っているはずの出来事がありました。レビ記10章1〜2節です。
アロンの子ナダブとアビフは、自分たちの火皿を取り、火を入れ、香を盛って、主が命じておられない火を主の前に献げました。すると主の前から火が出て、二人は死にました。
それほど、聖なる神の前に近づくことは軽いことではありませんでした。
その出来事を知らなかったはずはない。それなのに250人は、自分たちの火皿を持って出てきます。
なぜでしょうか。
本文は彼らの心の中を説明していません。
しかし少なくとも、彼らは、
「自分たちはナダブとアビフとは違う。」
「自分たちの主張は正しい。」
「今回は、自分たちの正しさが証明される。」
そう考えていたのでしょう。
ここにも、「自分の物語を書き換える」ことの危険があります。
自分は正しい。そう信じ込むようになると、過去の警告まで、「あれは自分には関係ない。」と思うようになる。
御言葉を聞いても、「これはあの人に必要な言葉だ。」と思ってしまう。
説教を聞きながら、あるいは説教を語りながら、「あの人が今日ここにいればよかったのに。」と思う。しかし、自分に向けられた御言葉としては聞かない。
自分の物語の中では、いつでも悪いのは相手だからです。
そして19節です。
コラは、会見の天幕の入口に全会衆を集めます。250人だけではありません。イスラエルの会衆が広く集められました。
その一人ひとりが、同じ程度に積極的に反逆していたとは言えないでしょう。
熱心にコラを支持していた人もいたでしょう。
「モーセにも問題がある」と思っていた人もいたかもしれません。
何が起こるのか見に来ただけの人もいたかもしれません。
しかし、いずれにしても、数人の胸の中にあった不満が、今や会衆を巻き込むほどの大きな波(ムーブメント)になっていました。
そして、その時です。
16章19節 そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。
人間同士の争いの中に、主ご自身が入って来られました。
誰が一番声が大きいかではありません。どちらに多くの人が集まったかでもありません。「みんながそう言っている」でもありません。
最後に正しいことをお決めになるのは、主です。
一人ひとりをご存じの神
16章20節 主はモーセとアロンに告げられた。
16章21節 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」
非常に重い言葉です。
ここで私は、モーセの姿に目を留めたいと思います。
少し前、15節でモーセは激しく怒っていました。自分に対する、事実とは違う非難です。
しかも彼らは、神がしてくださった救いまで書き換え、自分たちの不信仰の責任までモーセに負わせていました。
モーセは怒りました。
しかし、主が「彼らを滅ぼす」と言われた時、モーセとアロンはひれ伏します。
16章22節 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを降されるのですか。」
「そうしてください」とは言わなかった。
「当然です」とも言わなかった。
自分に逆らった人たちのために、ひれ伏しました。
誰かに対して怒ることと、その人の滅びを願うことは、同じではないのです。
私にも子どもがいます。正直、子どもの態度に腹が立って、本気で憎たらしいと思う時さえあります。
しかし昨日、娘が少し具合が悪いようで、「鉄分の入った飲み物を買ってきてほしい」と頼まれました。
私は仕事の帰りでした。そのまま教会へ帰ることもできました。けれども、何ともけなげにも、わざわざ自転車で薬局に寄って、その飲み物を買い、教会には戻らず、わざわざ遠回りをして自宅まで届けました。
考えてみれば、不思議です。
腹を立てることもある。
「もう知らない」と思うようなこともある。
それでも具合が悪いと聞けば、心配になる。
必要なものがあると言われれば、何とかしてやりたいと思う。
親だからでしょう。愛しているからです。
もちろん、人間の親の愛と神さまの愛をそのまま同じものとして語ることはできません。
しかし、モーセの姿を見る時、少なくとも一つ分かります。
モーセは怒っていた。けれども、彼らに滅びてほしかったのではありません。
そしてモーセは、「すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。」と呼びかけ、「一人の者が罪を犯したからといって、全会衆に御怒りを下されるのですか。」と祈ります。
人間には、一つの群衆にしか見えないかもしれません。「あの人たち。」「あのグループ。」「反対した人たち。」
しかし、主には一人ひとりが見えています。
誰が始めたのか。誰が強く賛同したのか。誰が何となくついて行ったのか。誰が不満を聞きながら心の中で同調したのか。
そして、その人がなぜそうしてしまったのか。主はご存じです。
もしかしたら、傷ついていたのかもしれない。恐れていたのかもしれない。誰かを赦せない思いがあったのかもしれない。「この人の言うことなら何でも反対したい」と思うほど、苦い思いが積もっていたのかもしれない。
罪に何らかの形で同調してしまった、その原因も、理由も、主は深くご存じです。
だから罪ではない、と言うのではありません。
主は、私たち以上に、その罪が罪であることをご存じです。
しかし同時に、「なぜ、あなたはそうなってしまったのか。」そこまでご存じです。
これは恐ろしいことでもあります。隠せないからです。
しかし私は、それ以上に慰めだと思います。
人には分かってもらえなくても、主は知っておられる。
誰にも説明できない思いも、主は知っておられる。
自分でもうまく言葉にできない心の奥も、主は知っておられる。
私たちを群衆の中の一人としてではなく、「あなた」として見ていてくださる。
すべてをご存じなのです。「それはあなたにとって小さいことなのでしょうか。」
「そこから離れなさい」
そして、モーセの祈りに対する主のお答えが、23節から始まります。
16章23節 主はモーセに告げられた。
16章24節 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」
主は言われました。「コラとダタンとアビラムの住まいの周りから離れよ。」と。
「離れなさい。」
ここで流れが変わります。
これは裁きの前触れです。
しかし同時に、会衆にとっては、逃れるために与えられた言葉でもあります。
19節では、コラが全会衆を集めていました。
そこにいた人たちが、全員同じ程度に反逆していたとは言えません。
しかし少なくとも、その反乱の周囲にいた。見ていた。聞いていた。中には同調した人もいたでしょう。
その会衆に、主は言われたのです。
「引き下がりなさい。」「離れなさい。」
そして人々は離れました。ここは非常に大切だと思います。
主は、全員を一括りにして、その場で滅ぼされたのではありません。
「今、そこから離れなさい。」と語られた。
これまでどのような気持ちでそこにいたとしても。何を聞いていたとしても。少し同調していたとしても。今、主の声を聞いたならば、離れることができる。主は、一人ひとりに応答を求められたのです。
そして27節を見ると、ダタンとアビラムは、自分たちの天幕の入口に、妻や子どもたちとともに立っています。
彼らは最後までそこに残りました。
一方、会衆は周りから離れた。
そして後に民数記26章を見ると、「コラの子たちは死ななかった」と記されています。
父が反逆したからといって、子どもたちまで必ず同じ道を選ばなければならなかったのではありません。
誰の家族か。誰の仲間か。昨日まで誰と一緒にいたか。それだけで最後が決まるのではありません。
主が語られる時、「今、私はどちらへ行くのか」それが問われます。
「みんながそうしていたから。」
「みんながそう言っていたから。」
神さまの前では、それだけでは最後の答えにはなりません。
主は一人ひとりをご覧になります。
そして一人ひとりに、「そこから引き下がりなさい。」「そこから離れなさい。」と語られます。
悔い改めとは、一度も間違わないことではありません。
主の御声を聞いた時に、向きを変えることです。
「ここまで言ってしまったから、もう引き返せない。」ではない。
「ここまで一緒に来たから、今さら離れられない。」ではない。
主が、「離れなさい。」と言われるなら、離れる。
「主よ、私が間違っていました。」と認める。
それが、悔い改めの始まりです。
私たちにも、主は語られることがあります。
「そこから引き下がりなさい。」「そこから離れなさい。」
人を責め続けることから離れなさい。
自分を正当化し続けることから離れなさい。
人の不平不満を喜んで聞くことから離れなさい。
赦さない心から離れなさい。
罪を罪ではないと言い続けることから離れなさい。
そして、わたしの方へ来なさい。
神さまがそう言ってくださるうちは、恵みです。
すべてをご存じの神が、キリストを与えてくださった
しかし、31節からの出来事は、本当に恐ろしいものです
モーセが言葉を語り終えると、彼らの下の地面が裂けました。地が口を開きます。
ダタン、アビラム、そしてそこに残った者たちは、生きたままよみに下っていきます。
さらに35節では、主のところから火が出て、香を献げていた250人を焼き尽くします。
恐ろしい裁きです。
聖書は、神さまが罪を本当に裁かれるお方であることを隠しません。
罪は、いつまでもそのままにはされません。裁きはあります。必ずあります。
そして恐ろしいのは、彼らが裁かれるその時まで、自分たちは正しいと思っていたことです。
ダタンとアビラムは、「私たちは行かない。」と言いました。
250人は、自分たちの火皿を持って主の前に立ちました。
恐らく、「今日、自分たちが正しいことが証明される。」と思っていたのでしょう。
ところが神の裁きの時、地が裂けた。火が出た。
自分が正しいと思っていることと、神の前で正しいことは、同じではありません。
これは、本当に恐ろしいことです。
私たちも、「私は大丈夫です。」と言うことはできます。
教会に来ている。洗礼も受けた。聖書も知っている。奉仕もしている。
しかし、私たちを救うのは、「私は大丈夫だ。」という自分の判断ではありません。
神は、私たち一人ひとりをご存じです。誰が、この裁きを免れることができるでしょうか。
人には隠せても、神には隠せません。
自分で忘れても、神はご存じです。
責任を人に移しても、神は本当のことをご存じです。
自分に都合よく物語を書き換えても、神は、実際に何があったのかをご存じです。
では、私たちはどうしたらよいのでしょう。この神の前に、誰が立つことができるのでしょう。
だからこそ、私たちにはキリストが必要だったのです。
どうしても必要だった。
そして神さまは、そのキリストを与えてくださいました。
神さまが、私たちの罪を知らなかったからではありません。全部ご存じでした。
私たちが人を責めたことも。自分の罪を小さくしたことも。人の罪を心の中で喜んだことも。主の御声を聞きながら従わなかったことも。全部ご存じです。
そして神さまは、罪を、「まあ、それくらいならいいでしょう。」と見過ごされたのでもありません。
今日の民数記16章を読めば、それは分かります。
神は、罪を裁かれるお方です。
では、どうして私たちは赦されるのでしょう。
【イザヤ書】
53章5節 しかし、彼(キリスト)は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。
私たちが受けるべき裁きを、キリストが負ってくださったのです。
罪が軽かったからではありません。
神さまが見なかったことにされたのでもありません。
罪は、本当に裁かれました。
十字架で。御子の上に。
だから、キリストが必要だったのです。そして神さまは、そのキリストを与えてくださった。
そこまでして神は、このような罪ある私をも愛し、私を救ってくださったのです。
おわりに
今日は、この後、聖餐式があります。私たちはパンをいただきます。杯をいただきます。
パンを見る時、「私の罪は軽かったのではない。」と思いたいのです。
杯を見る時、「神さまが、まあいいだろうと見逃してくださったのではない。」と思いたいのです。
私の罪のために、主のからだが裂かれた。
私の罪のために、主の血が流された。
そこまでして神は私を愛し、私を救ってくださった。
聖餐は、「私は立派なクリスチャンです。」と示すためのものではありません。
むしろ、「私は、キリストなしには神の前に立つことのできない罪人です。しかし、その私のために主が死んでくださった。」
その恵みを覚える時です。
今日、私たちは民数記16章の恐ろしい裁きを見ました。
地が裂けました。火が出ました。罪は、本当に裁かれました。
そして思います。
「主よ、もしあなたが私の罪をすべてご存じなら、私はどうしたらよいのでしょう。」
その問いを持って、十字架を見上げます。
そこに、私たちが受けるべき裁きを負ってくださった主がおられます。
先週、私たちは、主が私たちをご自分の近くに置いてくださった恵みを見ました。
今日、さらに分かることがあります。
主は、私たちがどんな者なのか知らなかったから、近づけてくださったのではありません。
全部ご存じだった。
弱さも。高慢も。頑なさも。責任転嫁も。人には知られたくない罪も。自分でさえ正当化している罪も。
全部ご存じの上で、「わたしのもとへ来なさい。」と呼んでくださった。
そして、そのために御子を与えてくださったのです。
ですから、もう自分の物語を書き換えて、自分を守り続けなくてもよいのです。
「あの人が悪かった。」と言い続けなくてもよい。
主は全部ご存じです。
「主よ、私が間違っていました。」そう言うことができます。
そして、そこから離れることができます。
なぜなら、離れた先にキリストがおられるからです。
この後、パンと杯をいただく時、心の中で申し上げたいと思います。
「主よ、あなたは私のことを全部ご存じだったのですね。それなのに、私のために死んでくださったのですね。主よ、本当にありがとうございます。」
涙が出るかどうかではありません。キリストの救いの物語の事実によるのです。
しかし、涙を流すほどに、心の底から感謝したいのです。
あなたのすべてをご存じの神が、それでもあなたをキリストにあって赦してくださっている。
そのことを、私たちは本当に喜んでいるでしょうか。
今日、聖なる神を恐れつつ、同時に、その聖なる神が私たちのために御子を与えてくださった愛を覚えましょう。
そして、私たちの罪をその身に負ってくださった主イエス・キリストを仰ぎながら、心から感謝して、主の食卓にあずかりたいと思います。
【祈り】
天の父なる神さま。
あなたは、私たちのすべてをご存じです。人には隠していることも、自分を正当化している心も、あなたの前には何一つ隠すことができません。
それでも私たちを見捨てず、御子イエス・キリストを与え、私たちの罪を負わせ、赦しの道を開いてくださったことを感謝いたします。
主よ、御声を聞いた時、「そこから離れなさい」と言われるところから離れ、あなたのもとへ帰る者としてください。
この後の聖餐を通して、私たちのために裂かれた主のからだと、流された血を覚え、「主よ、ありがとうございます」と、心からあなたの恵みを受け取ることができますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

