2016年4月10日 主日礼拝「十字架に死ぬ」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙6章3〜14節
説教題
「十字架に死ぬ」
今週の聖句
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
ヨハネの福音書12:24
訳してみましょう
1787 It’s difficult to stand on a pedestal and wash the feet of those below. —colson
(台座<高い所>に立って、まわりにいる人々の足を洗うことは難しい。)
1788 The happiness of your life depends on the quality of your thoughts.
(あなたの人生の幸福は、あなたの考え方の品質に依存する。)
説教メモ
以前、1月24日の礼拝の中で、「主の弟子にふさわしく歩むとはどのようなことか」をお話ししました。「弟子道」という言葉を用いました。それは3つありました。
- 主イエスを最大限に愛すること
- 自分の十字架をおってキリストに従うこと
- 生涯キリストに従うこと
今日は二番目の「自分の十字架を負って」を学んでまいりたいと思います。
イエス様は、自分が架けられる十字架を背負い、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を登っていかれました。イエス様は二日ほど前から眠っておられませんでした。体力の限界でした。途中、何度も何度も倒れられました。そしてクレネ人シモンが代わりに十字架を背負いました。そんな記事がありました。
イエス様はどこに向かって歩いて行ったのでしょうか。それはゴルゴタの丘、つまり十字架の死刑が執行される刑場に向かってです。主を待っていたのは、そこで十字架に架けられ死ぬことでした。自分の十字架、自分が架けられる十字架を負って歩きました。イエス様を待っていたのは死刑でした。十字架という死刑、死ぬためです。自分が架けられて死ぬその十字架を担いで坂を登っていくとは、本当にむごい話しです。
ガラテヤ書を暗唱されている方はおられるでしょうか?
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)
このみことばは、是非暗唱してください。
もう一度思い起こしてください。イエス様は自分が架けられる死刑の道具である十字架を背負って、刑場まで歩いて行かれたことを。そしてゴルゴタの丘で十字架に架けられ死なれました。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、また他の書簡の中でも、自分がキリストとともに十字架に架けられたのだと何度も何度も語っています。私たちはそのことをもう一度見てみたいと思います。
ローマ書6章をご覧ください。ここは洗礼を受けるとき、また洗礼を受ける準備の時によく用いられるみことばです。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)
キリストの死にあずかるバプテスマ。私たちが受ける洗礼式はキリストの死と自分を同一化するものです。イエス様が十字架に架けられた。私は今、主とともに十字架に架けられるのだということを象徴するものです。それはキリストの御父の栄光によって死者の中からよみがえったように、私たちも命にあって新しい歩みをするためです。ですから、十字架を負ってイエス様のあとを歩むということは、キリストとともに死ぬということです。そして死者の中からよみがえるということです。
洗礼式を思い起こしてください。頭まですっぽり水の中に沈められます。一度死ぬのです。そして水から上がった時、新しい命にあって歩み出すということです。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
と、パウロは言っています。過去の自分はもう葬ってしまった。そして今は、キリスト・イエスにあって新しく生かされているのだ、新しい歩みをするのだ、ということです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:5)
イエス様は他の箇所で、ぶどうの木のたとえをなさいました。それは、
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
私たちはイエス様と繋がっていなければなりません。パウロは「キリストにつぎ合わされた」と言っています。キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる。キリストが三日目によみがえらされたように、私たちがよみがえらされることはずっと先の事です。しかし、私たちがイエス様を救い主として信じた瞬間に、私たちの天の父なる神さまは、キリストとともに復活させられた者として見ていてくださっているのです。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4〜6)
文法的に過去形で書かれています。私たちがよみがえらされて、天の栄光のところに座るなんて、まだまだ先のことのように思っていますが、神さまは私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間に、私たちをキリスト・イエスとともによみがえらされ、天のところにすわらせられた者として見ていてくださいます。これほど大きな恵みはないと思います。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ6:6〜7)
この箇所も、私たちは何となく読んでしまいがちですが、洗礼を受けてクリスチャンとなったのに、何故私たちは罪を犯し続けるのでしょうか? 「自分は完全な人間になった」と言える人はいないでしょう。洗礼を受けた方でも罪を犯してしまいます。悪口を言ったり、盗み、姦淫の罪を犯したり・・・。たとえ牧師であっても同じです。パウロの言葉を借りますと、「死んでしまった者は罪から解放されている」はずです。ですから、罪を犯してしまうということは「罪から解放されていない」ということです。その人は「死んでしまっていない」ということです。体よく私たちは「キリストとともに死んだのだ」と言います。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けて、私の古い人はキリストとともに死んだのだ」と考えます。それは大切なことです。しかし、頭の中では分かっているのに、実際はそうでない自分がそこにいます。なぜ私はクリスチャンになったのに罪を犯してしまったのだろうか・・・。そんな時考えて下さい。「自分は罪に死にきれていないのだ」と。古い自分が頭をもたげてくるということは、罪に死にきれていないということなのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。(ローマ6:8〜9)
キリストが三日目によみがえらされたように、私たちも古い自分が死に、キリストがよみがえられたように新しいいのちによってキリストとともに生きるのだ、と信じています。イエス様は死に勝利されました。もはや死はイエス様を支配できません。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。(ローマ6:10)
キリストは罪の解決のためにこの世に降(くだ)ってこられ、十字架に架かり死んでくださいました。一切の罪の解決を十字架でしてくださいました。そのことを信じる私たちの罪の解決は与えられているはずなのですが、現実にはそうではない。罪に死にきれていない、古い自分を十字架につけきっていないという自分がそこにいるのです。たとえ立派なことを言ったとしても、次の瞬間には罪を犯してしまうかもしれない。私たちはそんな弱さを持っている存在なのです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6:11)
私たちもキリストの十字架を信じる者は、罪から解放されている、罪とは関係ないのだと言っています。この世にあっても、これからは神さまだけに向かって生きていくのです。目標が違うのです。パウロは「思いなさい」と言っています。ですから、11節にあるように「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」つまり、自分に言い聞かせなさいと言っています。自分はそのように変えられているのだと言い聞かせなさいと言っているのです。
このローマ書6章の中で大切な動詞が三つ出てきます。
- 十字架の事実を知る(6節)イエス様が十字架で死んだということは、私の古い自分もキリストとともに葬り去ってしまったのだという事実を知るのです。
- キリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。(11節)
- 神に献げなさい。(13節) ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を上義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(12〜13節)
教会には様々な奉仕があります。クリスチャンの歩み方があります。それも神さまに献げて生きる一つです。ここには段階があります。まず十字架の事実を知る。イエス様の十字架はすでに知っていることでしょう。自分の十字架、自分もイエス様とともに十字架に架けて死んでしまったのだという事実を知ることです。次に自分は罪から解放されているのだから、神さまに向かって生きているのだ、生きている自分というものを認めていく、思い知らせていくのです。そしてはじめて教会の奉仕ができる。つまり、自分の手足を義の器として神さまにお献げすることができるのです。
私は何回、このローマ書からメッセージを語ったでしょうか。これは大切なことですから是非おぼえていただきたいと思います。
そこで問題になるのは、「古い自分に死にきれていない自分がいる」ということです。
皆さんはテレビを観ると多くのタレントが出てきます。その中でとても上手な役者が出てきます。演技です。上手だなと思う役者は、その役に徹する、その役になりきることができる役者ではないでしょうか。元の自分を表に出しません。素の自分を殺しているのではないでしょうか。
今日は「芋」を持ってきました。この芋を通して「死ぬ」とはどういうことかを見てみたいと思います。
ジャガイモがあります。ジャガイモは今の時期に植えます。収穫は7月くらいです。割と短期間に収穫できます。収穫をされた方ならご存知かと思いますが、種芋となった芋はどうなるか知っていますか? 養分をすべて吸い取られ、掘り起こした瞬間はしっかりしているのですが、翌日にはクシャッと腐ったようになってしまいます。死んでいます。
サツマイモがあります。サツマイモは通常、苗を植えます。私が子供の頃、私の父は売るためにサツマイモの苗を作っていました。サツマイモを牛の堆肥の中に置いておくと芽が出てきます。その先を摘んで苗にするのです。
長芋があります。長芋の種は、皆さん良くご存知の長い長芋の一部を使います。長い長芋の一部分を小さく切り出して日に当てます。日に当てるとひび割れが起こり、それで植え時であることが分かります。そしてそれを植えると、見慣れた長い長芋が出来上がるのです。
先日はジョン・ウエスレーの「できるだけ節約しなさい」と紹介しました 私は節約が好きですので、長芋を食べた後の先端の部分、細くて食べられないような部分を種芋として使います。そうすると細い小さな長芋しか収穫できませんでした。私は試験的に、その細い長芋を二年間そのまま畑で育ててみました。すると立派な長芋に成長しました。
しかし、植えた長芋がそのまま成長して大きな長芋になるわけではありません。種芋となった長芋は養分を吸われ細く哀れな姿になってしまうのです。種芋は死んで「新しい命」がそこから出て来るのです。これが死んだ姿です。死に体です。これが新しい命です(写真参照)。この死んだ姿を覚えておいてください。
養分を吸われ、細く哀れな姿に変わってしまった種芋、死んだ種芋には、何か価値があるでしょうか。それには何も価値がないのです。「死んだ」とはそういうことです。何の役にも立たないのです。私は植物とは本当に忠実だと思います。種芋は死にます。しかし新しい子孫を残します。
死んだ体には価値がないのです。私たちも同じです。キリストとともに死んだということは、今までの自分には何の価値もありません。実際に死にきれていないので問題があるのです。悩みがあり、罪があるのです。
「死んだ」とはどういうことか。今日は実物を見ていただき理解できたのではないでしょうか。
自分の罪がむくむくと起き上がってきたとき、是非、今日のこのことを思い起こして下さい。私はこのように死んでいるのだと。イエス様が十字架でただ死んだわけではない。私たちはこのようにキリスト・イエスにあって新しく生きるためにイエス様が十字架に架けられ、私たちのためによみがえってくださった。そのことをぜひ思い起こしてください。
「自分を捨てれば奇跡を起こす。」
これは以前ご紹介した、ハ・ヨンジュ先生の言葉です。その道を歩もうとする人が覚えておくみことばがあります。1月24日の礼拝でご紹介したと思います。
一日を振り返って、主の弟子にふさわしい歩みをしたかどうかを良く考えてみなさい、と申し上げました。イエス様に従う生き方をして弟子の道を歩む。その道を歩もうとする人が覚えておくみことばがある。それは、
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)
イエス様が語られたいことばに、弟子の道を歩むための奥義があります。
- 自分を捨てること。自我が生きている時は主に従えません。主に従おうとするたびに個人の考え、習慣、価値観、文化がつまずきとなります。これらを捨ててイエス様に従うのが弟子の道である。
- 自分の十字架を負うこと。主が委ねられた使命、主が遣わされた人、さらに自分に与えられた苦難さえも負って歩む。これもまた弟子たちの歩むべき姿である。
私たちは、古い自分は死んでしまった。イエス様の十字架とともに葬り去ってしまったのだ。さきほどお見せしました種芋のように、しぼんで死んでしまったのだ。そして、キリスト・イエスにあって新しい命が与えられ、その中で素晴らしい実を結ぶ者とさせられている。そのように徹底的におぼえましょう。私たちはすでにそのように変えられているのだとおぼえましょう。
最後に申し上げますが、今日のように、皆さんが教会に来て互いに励まし合うことはとても大切なことです。交わりが必要です。一人だけで聖書を読み、一人だけで祈る。それでは独りよがりの信仰となってしまい、正しい信仰の成長はありません。失敗だらけの自分ではあるけれど、もう一度「自分は十字架につけられたのだ。自分はひからびたあの長芋の種芋の姿なのだ。」と思い起こして下さい。そして、自分はキリスト・イエスにあって「新しい命に歩む者なのだ。」ということを覚えて下さい。
老人人口が増えてきています。そうすると地域社会に「老人会」のような団体が出来てきます。そこで良く言われることは、老人会に入ったなら自分が元々社長であったとか、そのようなものは通用しないのだそうです。過去の栄光、過去の自分を捨てなければその集まり、老人会の集まりの中ではやっていけないのだそうです。これもまた死ぬことの良い例ではないでしょうか。
この後、どうぞみなさん、変わり果てた種芋の姿をご覧ください。