2017年1月15日 主日礼拝「荒野の試み」

本日の聖書箇所

マタイの福音書4章1〜11節

説教題

「荒野の試み」

今週の聖句

あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。

マタイの福音書4章10節
 
訳してみましょう
1859 Love is godliness in action.
(愛は働く信仰である。)
1860 We have to face our sins before we can put them behind us.
(私たちの記憶の彼方にそれらを置くことができる前に、私たちは罪と向き合わなければなりません。)
 
説教メモ
皆さんは今までに、悪い友だちから色々と誘われたことなどないでしょうか。
 

1.ブースとクリーブランド

ブースは救世軍の創始者です。少年時代、彼は日曜学校の片隅で静かに祈りました。「神よ。ウイリアム・ブースはここにおります。今、この身も魂も一生涯あなたにお献げいたします。どうかあなたのご用のために私をお使いください。」彼はその祈り通り、神さまと人とに仕え、貧しい者や病める者、大酒飲みや罪人たちの救いのために、救世軍というグループを起こして大きな働きをしましました。若い時にまず神さまに祈り、自分の一生を神さまに委ねることが最も大切なことです。
クリーブランドですが、彼は高校生の頃、学校にもろくに行かないガキ大将のような人でした。高校生の時、学校に行かずに相棒と二人で繁華街に遊びに出掛け、カードゲームなど悪さをする。そんな日常でした。ある日、いつものように友人と繁華街に出かける途中、たまたま通りかかった教会にある標語が書かれていました。そこには「罪の支払う報酬は、死である。」とありました。それを読んだ二人はそのことばを読み、友人にこう告げました。「あのことばを読んだかい? 僕はもう帰るよ。君はどうする? 悪いことばかりしていると、あのことばの通りになるかもしれない。」するともう一人の青年はそのことばを受け入れませんでした。そこで二人は別れました。一人は家路に、一人は繁華街に。何年も後、繁華街に出かけて行ったあの青年は、その後も悪いことを続け、ついに殺人までも犯してしまい刑務所暮らしをしていました。ある日彼は新聞の号外を目にしました。そこにはもう一人の相棒、あのことばを信じ家路についたクリーブランドがアメリカの大統領になったという記事でした。刑務所にいた彼は、「罪の支払う報酬は、死なのだ!」と叫んで息絶えたそうです。
世に生きる人は大変だと思います。若い人には学校による校則があり、国には憲法があります。それらに外れた行いは裁かれてしまいます。
しかし私たちクリスチャンには、それら以上に「聖書」というゆるがない基準があります。聖書は何を言っているか。それを知らなければ、常に変わりゆく国の制度、世の習慣、常識などに振り回されてしまいます。たとえクリスチャン同士であっても、あの立派なクリスチャンがやっていることだから良いのだ、そのような判断は間違っています。あくまで聖書がなんと言っているか。そのことに注意をしていかなければなりません。
特に罪との関わり合いにおいては、私たちは

罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:15)

このことを覚え、罪の誘惑が迫ってきたならば、きっぱりとそれを断っていかなければなりません。
 

2.誘惑

さて、マタイの福音書の著者、つまりマタイはイエス様の試みの場面を見ていなかったでしょう。では、誰が見ていたのか。おそらくイエス様ご自身が後に弟子たちに語ってくださったものだと思います。
サタンは「もしあなたが神の子なら」と何度も迫ってきました。
申命記を見てみましょう。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(申命記6:4〜5)
あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。
あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。
(申命記6:12〜13)
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
(申命記6:16)

申命記ではこのように言われています。
イエス様は御霊に導かれて荒野に出て行かれました。荒野には何もありません。木もほとんどありません。そこでイエス様は40日40夜、断食をされ空腹を覚えられました。すると「試みる者」サタンが近づいてきてイエス様を誘惑しました。
バプテスマがイエス様の公生涯の始まりでしたが、そのすぐ後の出来事がこの荒野での誘惑でした。

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
(マタイ4:3〜4)

悪魔の誘惑に屈することなく、父なる神さまに従い通したイエス様は、誰よりも厳しく苦しい試みの中を通られました。
さて、一つ目の「パンの誘惑」。これは神さまへの信頼に対する試みです。神さまに信頼するのではなく、自分の力で飢えなどの問題を解決することを誘うものです。それに対してイエス様は申命記から答えておられます。

イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。
(マタイ4:4)

「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。」これは申命記8:3のおことばです。このおことばを用いて誘惑を退けられました。
かつてイスラエルは、40年のあの出エジプトの際、荒野の放浪の旅の中で食物を与えてくださる神さまに信頼していました。神さまは毎日「マナ」を降らせてくださいました。そして人々は神さまに信頼し、一日に必要な分だけをその日の朝に集めました。そのうち「肉が食べたい」とつぶやく民に、神さまは「うずら」をくださいました。それでイスラエルの民は40年の間、飢えることはありませんでした。
日本にいる私たちは「きょう、食べるものがない」「あしたの食べ物をどうしたらよいだろう」と食べる物に関して心配する体験をされた方はほとんどいらっしゃらないのではないかと思いますが、家族を抱えている人にとって、それは切実な問題となることでしょう。クリスチャンであるならばそこで真剣に祈ると思います。しかし私たちは食のために真剣に祈ることはありません。でも、現実に難民の方たちに目を向けるならば、それは現実の問題です。これから難民にとってはますます厳しい世の中になると思います。
イエス様が最初に受けられた試みは「パン」でした。
次の試みは「神さまを試みる」誘惑でした。神さまの主権を冒す問題です。神さまはご自身が計画しそれを実行する主権を持っておられます。その神さまの主権に従わず、自分の都合で神さまの助けを要求し、神さまの奇跡を見せつけることを促す誘惑です。ここでは神さまではなく自分が主体となっています。それに対し、また申命記のおことばで答えられました。

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
(マタイ4:7)

かつてイスラエルは、飲み水がないとモーセにつぶやきました。モーセは神さまに祈って水が与えられました。イスラエルの民は神さまを試みました。

それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。
(出エジプト17:7)

サタンのようにみことばを自分に都合良く利用して神さまを試すのではなく、適切な時に最善をなしてくださる神さまに信頼することが大切です。私たちは気をつけないと、みことばを自分にとって都合良く考え、そして受け取り、行動してしまうことがあります。ものみの塔は福音的な教会に集っていたクリスチャンであった人が、牧師が語るさばきについて自分なりに解釈して変えてしまったために出来た異端です。
私たちもそのように、自分の都合の良いようにみことばを読み、都合の良いようにみことばを応用することは避けなければなりません。
さらに次の試みは「富と権力の誘惑」でした。悪魔との妥協。それは間違った方法です。悪魔に妥協して地上の富と権力によって地上に神の国を打ち立てるようにという誘惑でした。イエス様はまたも申命記6:13のおことばをもって退けられました。

イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
(マタイ4:10)

悪魔のやり方では神さまのされることは達成できません。たとえもっともらしく見えたとしても、神のみを礼拝する者にとっては受け入れられないもの。それを受け入れ妥協してはいけません。
 

3.勝利

イエス様は、聖書のみことばをもってサタンの誘惑に勝利しています。それは私たちがならうべきことです。
しかしサタンもまた聖書にみことばをもって誘惑していることに注目してください。みことばをもって迫ってくるのです。私たちはそれを本当に気をつけなければなりません。私たちは「みことばにはこう書いてある」と言います。しかしサタンもまた「みことばにはこう書いてある」と言います。
「誘惑」と訳されている語は「試験する」「試す」「実証する」といったような意味を持つギリシャ語が使われています。ギリシャ語では「πειραζω(ペイラゾー)」です。
イエス様はサタンの誘惑に勝利されました。そしてサタンは退いて行きました。
そのサタンですが、私たちよりも聖書に精通しており、そして利口です。巧みに聖書のみことばをもって誘惑してくることがあります。
聖書のみことばを知るということは、そのみことばの一部分だけ知るということであってはなりません。聖書のみことばは、その一部分だけをとって判断してはいけません。サタンはみことばの一部分をもって試みました。私たちは聖書を熟読し、そのみことばが本来何を言っているのか。それを知ってサタンを撃退していかなければなりません。

しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
(マタイ16:23)

これはペテロを叱っているというよりも、ペテロについているサタンを叱っているのです。イエス様がやがて十字架に架かられる。ペテロにとってはそれはとんでもないことでした。サタンはそれを利用しました。
イエス様が十字架に架かられ死んだ時、一番喜んだのはサタンでした。イエス様は苦しい立場にありました。罪の支払う報酬は死。死は十字架でイエス様が味わってくださったことです。イエス様は罪を犯されなかったのに洗礼を受け、ついに私たちの罪をすべて背負われて十字架に架かられて死にました。罪を知らなかった方でしたが、罪の支払う報酬を受けられたのです。それは私たちの身代わりでした。本来ならば罪人である私たちが、その罪の支払う報酬を受けて死ななければならないのに、イエス様が身代わりとなって死んでくださった。それがイエス様の十字架の死です。その時、サタンは喜びました。しかし三日目にイエス様がよみがえられたとき、サタンは敗北したことを知りました。罪の解決は十字架である。ここで私たちクリスチャンは終わってしまってはいけません。イエス様は三日目に復活された。それによってイエス様の十字架の意味がより一層光るものなのです。よみがえられたことによって罪の解決がなされました。十字架で死ぬということは、罪の支払う報酬である死を受け入れることであり、つまりそれは罪に対しての敗北です。しかしイエス様はよみがえられることによって、その罪に対して勝利をされたのです。サタンは完全に敗北しました。そして今は、そのイエス様が再び来られる「再臨」を待つ時代です。サタンはあの時敗北しましたが、完全に滅ぼされたわけではありません。そのサタンが今も私たちを攻撃してきます。ですから私たちは様々な試練に遭うのです。悪への誘いがあるのです。しかし、「脱出の道」も備えられているのです。サタンを退けることができるのです。やがてイエス様が再臨し、千年王国が始まります。その時サタンは完全に滅ぼされ、私たちはイエス様とともにサタンに対し完全な勝利をおさめるのです。その素晴らしい約束が与えられ、その中で私たちは生きています。そのことをいつも喜び、信頼し、気をつけて神さまの道を歩んでいきましょう。
悪魔はいつも私たちをそそのかそうとして迫ってくる存在です。私たちのまわりにライオンがいたら恐ろしいでしょう。それがいつ襲ってくるか警戒するでしょう。しかし、それが親しみのある可愛い動物だったら、私たちは警戒するでしょうか? 自ら近寄って行って戯れるのではないでしょうか。しかしライオン、可愛い動物、両方に同じ罪が宿っているとしたら。

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
(Ⅱコリント11:14)

私たちは本当に気をつけて歩んで行かなければならないことがお分かりになると思います。普段からみことばに接して、みことばを暗唱し、いつでもサタンの誘惑に対処していかなければなりません。

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