2017年10月1日 主日礼拝「カインとアベル」

本日の聖書箇所

創世記4章1〜16節

説教題

「カインとアベル」

今週の聖句

あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それをおさめるべきである。

創世記4章7節
 
 
訳してみましょう。
1929 God’s Word — handle with care.
(神のみことば  —  取扱注意)
1930 The created world is but a small parenthesis in eternity. — Sir Thomas Browne
(創造された世界は、ちょうど永遠の中での小さな括弧<ちょっとしたこと>です。—トーマス・ブラウン<作家>)
 
 
説教メモ

1.カインの罪

みなさんは失敗したことがありますか? もちろんおありでしょう。
その時、どのような態度を取りますか。失敗を認めますか。もし相手がいるなら素直に謝りますか。それとも自分を正しいとしますか。
今週の聖句にもあります「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それをおさめるべきである。」(創世記4:7)今日はそのことをしっかりと読み取り、理解していただきたいと思います。
 
アダムとエバが罪を犯し、エデンの園を追い出されました。二人の子どもが生まれました。そして人類最初の殺人事件が起こりました。

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
(創世記4:1〜8)

ある時、二人は神さまにささげものをしました。カインは畑の作物を。アベルは羊の初子の中でも最上の羊をささげました。神さまはアベルのささげものには目を留められましたが、カインのささげものには目を留められませんでした。なぜでしょう。原因はどこにあったのでしょうか。ささげものが悪かったのでしょうか。
 
 

2.最初の殺人

ささげもの自身、つまり畑の作物、羊に対する価値のようなものは全く同じでした。優劣などありませんでした。

そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
(創世記4:6〜7)

ここに「受け入れられる」と出てきていますが、これは聖書の注釈を見ますと、「まっすぐに立っておればよい」となっています。その方が分かりやすいのではないでしょうか。あなたが正しく行ったのであれば、まっすぐに立っておればよい。そのままでよい。だし正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。罪があなたを恋い慕っている。罪に恋い慕われてしまったらどうしたらよいのでしょう。だが、あなたは、それを治めるべきである。解決すべきである。
神さまはささげものをする者の姿勢や心をご覧になります。カインは神さまの前に正しくない心があったようです。アベルは神さまに対して最上のささげものを用意したのに対し、カインはただ義務感からささげものをしたのかもしれません。神さまはささげものが受け入れられないのはカインの側に問題があることを指摘されました。そして自分の過ちを認め、怒りをしずめ罪に走らないようにとカインに警告されました。
ささげ物に優劣はありません。何をささげるのかには問題はありません。しかし、どのような思いで、態度で献げるのかが問題になります。

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(Ⅰサムエル16:7)

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
(ヘブル11:4)

ここに解説があります。アベルの心の思いは、神さまに最上のものをおささげするのだ、ということでした。心をご覧になる神さまに、持っている最も良いものをおささげしたい、そう思うことは正しいことです。
ある方は、献金する際には持っているお金の中で一番きれいなものをお献げすると決めておられます。そのようなささげものに対する態度は正しいと思います。普通のことだと思います。
信仰によって、アベルはそのようにしました。しかしカインはそうではありませんでした。
アベルは信仰によってささげものをしました。その信仰はささげものによってはっきりと表れていました。神さまはアベルとそのささげものに目を留められ、カインのささげものには目を留められませんでした。どうしてそうされたのでしょうか。何によってそうされたのか。目に見える形、耳に聞こえる形は何もなかったと思われます。
「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。あなたはまっすぐに立っておればよい。」
このおことばからすると、彼らの間の違いは、ささげた後の二人の姿勢に表れてきたことがわかります。アベルは信仰によってささげたので、ささげものが主の目に留まったと確信できました。彼の顔は平安と喜びに満ちていたことでしょう。まっすぐに立って晴れ晴れとしていたわけです。カインはどうだったでしょうか。彼の顔には平安も喜びもありませんでした。それどころか、アベルの態度、喜びの笑顔が本当に腹立たしく思えました。ひどく怒り顔を伏せました。
ささげものには優劣はありませんでした。態度、心の思いが問われました。皆さんも持っている中で一番良いものをささげる。そう心掛けることは全く正しいことです。礼拝にしても、献金にしても、私たちの心の思い、心の状態を神さまはご覧になります。正しい思い、態度でささげる時、私たちには平安と喜びがあります。
 
 

3.罪のさばき

神さまはいきなり怒られるのではなく、問いかけられました。神さまは問題の所在がどこにあるのかを気付かせようとされます。

主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
(創世記4:9)

そう答えると、神さまは改めてカインの罪を指摘されました。さばきを宣告されました。
カインの後の生涯は、自然界との関係が歪み、人生の目的を失ってさすらうことになりました。
カインはそれでも悔い改めませんでした。与えられたひとつのしるしが何であるかは不明ですが、あたかも神さまと交渉して成果を得たように、自ら神さまの前から去って行きました。私たちはこの「カインの末裔(まつえい)」です。
カインの悲劇。それは「妬み」でした。妬みという点において、私たちは皆「カインの末裔」です。末裔というからには血のつながりがある子孫を指しますが、私たち日本人は彼の末裔ではないと思うかも知れません。しかし誰もが妬みや怒りによってカインと同じ殺人の罪を犯し得る者たちです。ですからカインの末裔ということになります。
イエス様が十字架に架けられたのは、祭司たちの妬みによるものでした。妬みは誰かが褒められるとともに喜ぶことができないことです。自分が軽んじられ辱められたと感じ、憎み憤ります。カインはそんな妬みによってアベルに襲いかかって殺してしまいました。
 
私はここで、皆さんにクイズを出します。ある人の証し文です。皆さんは一度聞いておられます。全部は読みませんがすぐにお分かりになると思います。

私は生まれたときから教会に来ています。小さい頃から教会学校や家で神さまやイエス様のことを聞いてきました。なので小さい頃から神さまはいつも近くにいると思っていました。
私は忘れていましたが、保育園の頃に友だちから意地悪をされたときに、母が「少し言い返してみたら」と言ったそうです。でも私は「友だちが傷つくことは言わない。神さまが守ってくれるから。」と言ったそうです。
それでも悪口を言ったり嘘をつくことや神さまを神さまと認めないことをあまり悪いことだとは思っていませんでした。でもそのことが罪だと知りました。その罪はイエス様にしか赦してもらえないことを知りました。そしてそのイエス様は、私のために十字架に架かり死んで罪を赦してくれました。
この聖句は教会学校で好きになったものです。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)。
私はイエス様を救い主として信じます。イエス様を知らない人に教えて行きたいです。

誰だかお分かりになりましたか。最初の一行目にはこうあります。

佐藤笑です。今日で13才になりました。

これは彼女が洗礼を受けた時の証し文です。素晴らしいではないですか。友だちから意地悪をされて、お母さんからは「少しやり返してみれば」と言われたのにそうしなかった。悪口を言うことは良くないことだと教会学校や家で教えられていたのでしょう。ですから自分はあえてそうしなかった。しかも悪口を言うことは罪であることを後で知った。本当に素晴らしいと思います。
 
冒頭にも申しましたとおり、自分が失敗した時、あるいは罪を犯してしまったと気がついた時には、即座に私たちは認めなければなりません。もし相手がいたなら、相手に許してもらわなければなりません。そうでなければ「戸口で待ち伏せしている罪」につかまってしまいます。私たちは気をつけなければなりません。
 
最後になりますが、「二つの叫ぶ血」。
一つは「弟アベルの血」が叫んでいる。もう一つは新約聖書を読んでまいりますと、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」が出てきます。

さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
(ヘブル12:24)

イエス様もアベルと同じく、人々の「妬み」によって十字架に架けられました。流されたキリストの血が叫んでいます。その叫びはアベルの血よりもすぐれたことを語っています。
アベルの血は呪いを、復讐を、裁きを叫びますが、キリストの血は赦し、聖め、神との和解、人との和解を叫んでいます。
今日、私たちはカインの末裔。同じ性質を受け継いでいます。しかしそんな私たちのためにイエス・キリストは十字架に架けられ死んでくださいました。十字架で流してくださった血は、赦し、聖め、神との和解を受け取って欲しいと叫んでいるとは、何という驚き、何という感謝なことでしょう。なんと優れた血の叫びでしょうか。
私たちはイエス様の血の叫びをそのように受け取っているでしょうか。
この後、私たちは聖餐式に招かれています。この時、いま一度、イエス様が流された血がどれほど尊いものであったかということを受け止めて欲しいと思います。

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