2017年11月19日 主日礼拝「アブラハムの信仰」

本日の聖書箇所

創世記22章1〜19節

説教題

「アブラハムの信仰」

今週の聖句

アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。

 
 
1937 God dosen’t call the qualified, He qualifies the called.
(神さまは備えられた人を招くのではなく、招かれた人を備えてくださる。)
1938 Empathy = your pain in my heart.
(共感=同情・私の心の中にあるあなたの痛み)
 
 

説教メモ

1.神の命令とアブラハムの従順

日本は第二次世界大戦で多くの犠牲者を出しました。親が子を殺さなければならない状況もありました。サイパン島の玉砕、沖縄戦での犠牲、中国からの引き揚げの時、足手まといとなる子どもは殺してしまうか現地の中国人に預けるということをしました。他にも切羽詰まった状況の中、親が子を殺すという辛い出来事が多くありました。
皆さんは自分の子を殺せと言われたらどう思われますか。
アブラハムは神さまから自分の子を献げるようにと言われました。
アブラハムは凄い人だと思わされます。今朝の記事を読み進めていっても、アブラハムは神さまに全く抵抗していません。

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
(創世記22:1〜2)

それを聞いたアブラハムはまったく神さまに抵抗していません。

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
(創世記22:3)

アブラハムがイサクを与えられたのは彼が100才の時でした。ようやく与えられた子、ようやく成就した神さまの約束。ところが急に神さまはその子イサクをささげるように言われたのです。とんでもない命令に、アブラハムは何故なんですかと問うてもいません。これがアブラハムの信仰なのではないかと思います。
アブラハムに言われた命令は、きわめて特殊なことです。私たちの幸せを心に掛けてくださる聖書の神さまのご性格からして、このような命令が私たちに下されることはない。そう私は確信しています。
神さまはアブラハムに命令を下された。アブラハムはそれに従順に従った。このことをまず覚えておきたいと思います。
 
アブラハムは神さまの命令に直ちに従い、三日間かけてモリヤの地へ行きました。その道中、彼の中には多くの葛藤があったことでしょう。
 

2.従順の結果

イサクはおそらく幼子ではなかったと思います。ある程度成長していました。当時の社会では大人として扱われる14〜15才にはなっていたのではないかと思います。そのイサクもまた従いました。何も書かれてはいませんが、イサクの信仰もまた素晴らしいものです。父に連れられ旅に出てから三日間、ある程度予感しながらも父に従っていきました。実際にたきぎに縛り付けられて祭壇の上に載せられた。そのことをも受け入れたイサク。その信仰と決断を私たちは評価しなければなりません。
イサクはアブラハムにとって大切な子ということだけではなく、神さまに名指しされ約束された子でした。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記21:22)と神さまから言われた子でした。アブラハムとサラは約束のこの誕生を待ち続けていました。その二人に対して神さまは、全焼のいけにえとしてささげるように言われました。それはイサクの死を意味しました。そこに心の葛藤があったと思います。その子を全焼のいけにえとしてささげなければならない。
先ほども申しましたが、この命令に従ったアブラハムの信仰と同時に、私たちはイサクの信仰をもっと考え、評価しなければなりません。そのイサクの信仰は、アブラハムの信仰を目の当たりに見て来たためではないでしょうか。アブラハムは徹底的に信仰教育をしてきたのではないかと思うのです。そしてそれは、私たちが見習うべきイサクの信仰へと成長しました。
しかし、アブラハムにも多くの失敗がありました。不信仰がありました。二度も妻のサラを妹と偽りました。聖書を読んで行きますと、アブラハムの失敗を率直に記しています。
しかし、神さまは備えられた人を召し出すのではなく、神さまは召し出された一人ひとりを訓練し、ご自身が用いられる器にふさわしいものとして整えてくださるのです。
 

3.神の永遠の祝福

アブラハムは動物による通常の全焼のいけにえのささげかたにならって刀を振り上げ、イサクを屠ろうとしたその時、天から声がありました。神はアブラハムの信仰を良しとし、人間のいけにえではなく、神ご自身が備えてくださった動物をお示しになりました。

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
(創世記22:12〜13)

動物のいけにえは罪の刑罰である死を人間の代わりに動物に引き受けさせることによって、人間が神さまに近づくことが可能となるための儀式でした。言うまでもなくそれはやがて来られる救い主であるイエス・キリスト、また十字架を指し示すものでした。神さまはここでアブラハムのひとり子イサクに代わる雄羊を用意してくださったことは、神さまがご自身のひとり子イエス・キリストを世の罪を取り除く神の小羊として私たちに提供してくださった、はるか後のことではありますが、そのことを指し示すことでした。
物語の最後で、すんでの所で神さまからの停止命令がありました。けれども私たちは、「神さまはどうせ途中で止めさせるおつもりだったのでしょう。初めからそのおつもりだったのでしょう」と、神さまのお考えを見透かすかのような態度でいてはなりません。神さまが備えてくださった身代わりとしての動物は、イエス・キリストの贖いを指し示すものでした。これからかなり後、1900年くらい後でしょうか。イエス様は過ぎ越しの最中に、私たちの罪の為に十字架に架かり死んでくださいました。そのひな形が本朝のアブラハムがイサクをささげるといった記事です。
 
「アドナイ・イルエ」について見てみましょう。

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
(創世記22:14)

当時、主人のことをアドナイと言っておりました。モーセがミデヤンの地で神さまに呼び出されたとき、神さまに名前をたずねました。その時「わたしは、あってあるものだ」として、ヘブルの4つの子音「YHVH」を示されました。「主の御名をみだりに唱えてはならない」という律法があったために、ユダヤ人たちはそこのところを抜かして呼んでいました。しかし強いて言うならばアイヤーという発音になります。後のマスラーという学者がそれにアドナイという母音記号をアイヤーの下にふりました。そうすると「エホバ」という発音になりました。日本語聖書には「アドナイ・イルエ」と書かれていますが、ヘブル語の聖書を見ると「ヤーウェ・イルエ」と書かれています。いずれにしても「主の山の上には備えがある」という意味です。
 
今朝は読みませんでしたが、20節からを見てみましょう。

これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。
すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、
次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」
ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。
レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。
(創世記22:20〜24)

ここで23節に「リベカ」が出てきます。彼女はイサクの妻となる女性です。神さまはすでにここでイサクの妻を備えておられました。素晴らしい神さまの導きです。
アブラハムの信仰。神は死者の中から人をよみがえらせることが出来ると考えた。それで彼は死者の中からイサクを取り戻しました(ヘブル11:19)。それは信仰と服従の最上級の行為でした。
 
 

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