2020年4月19日 主日礼拝「平安があなたがたにあるように」

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書20章19〜31節

説教題

「平安があなたがたにあるように」

今週の聖句

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい…」

ヨハネの福音書20章22節

訳してみましょう。

2187 Jesus laid down His life to show His love for us.

2188 True satisfaction is found in yielding ourselves to the will of God.

礼拝式順序

  • 開 祷
  • 賛美歌  79番「ほめたたえよ」
  • 主の祈り
  • 賛美歌  183番「主のみたまくだりて」
  • 聖 書  ヨハネの福音書20章19〜31節
  • 説 教  「平安があなたがたにあるように」伝道師
  • 賛美歌  270番「信仰こそ旅路を」
  • 献 金  547番「いまささぐる」
  • 頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
  • 祝 祷  牧 師

音声はこちら

動画はこちら

https://youtu.be/OrV-VpVYVLk

説教「平安があなたがたにあるように」

佐藤伝道師

 ある教会では礼拝のはじめに「ユダヤの挨拶をしましょう。シャローム!」と挨拶して始まるそうです。
 イスラエルでは日常の挨拶で「おはよう」もシャローム。「こんにちは」もシャローム。「こんばんは、さようなら」もすべてシャロームです。シャロームはヘブル語ですが、これが新約聖書のギリシャ語になると「エイレーネー」となります。この挨拶は「平安があなたがたにあるように」という挨拶ですが、これも普通に「こんにちは」とか「こんばんは」という挨拶です。
 私は今日の説教の準備のために、金曜日の朝少し早い時間に家を出て、牧師館に向かいました。その道の途中で思いました。もしここでイエス様に「おはよう」「シャローム」と言われたら、どれだけ嬉しいだろう、どれだけ励まされるだろうか。そう思いました。ただの挨拶かもしれませんが、どれだけ元気づけられるだろうか。「イエス様、ここにいらっしゃたんですね!」そんな風に喜ぶと思います。特に今のような新型コロナウイルスの猛威が迫ってくるような中。誰が新型コロナウイルスがこれほどの影響を世の中にもたらすと考えていたでしょうか。そんな未知の恐れや不安、困難に満ちている今のような大変な状況の中でのことになると、ただの挨拶であっても、それは意味深いものとなるのではないでしょうか。「シャローム」「平安があなたがたにあるように」。相手を気遣い、励まされる挨拶にも変わると思います。
 きょう、私たちは実際にお目にかかれない方々もおられますが、主にあって互いに心から「シャローム」「平安があなたがたにあるように」「おはようございます」「こんにちは」と挨拶したいと思います。世の中のこと、自分自身の色々なことに、実際に、それぞれの事情の中で、どうしようもなく恐れて、動揺しておられる方がおります。苦しんでおられる方がいます。私たちは、離れていても、お目にかかれなくとも、主にあって、お互いに愛と励ましをもって心からの挨拶を交わしましょう。

 先週はヨハネの福音書20章1〜18節を見ました。日曜日の朝、空っぽの墓の現実を見て、そこから主の復活を信じ始めた弟子、絶望の中から希望を見出し始めた弟子の姿。すべてを理解したわけではないけれども、弟子たちにとってそれが信じることの始まりでした。
 そしてマグダラのマリヤ。マリヤもまた空っぽの墓を前にして取り扱われ、復活の主と出会うこととなりました。復活されたイエス様はマリヤに言いました。「わたしにすがりついてはいけません」。それはマリヤが行ってイエス様の復活を報告するため、喜びの知らせを他の者にも告げなさいということでした。マリヤは主の御心に従い、言われたとおり、墓から立ち上がり喜びの知らせを携えて出て行く者へと変えられました。

 本朝与えられましたみことばは先週の続きの箇所、ヨハネ20章19節からです。女たちに主の復活の知らせを聞かされたすぐ後の弟子たちが描かれています。

19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20節 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 ここでイエス様が弟子たちの所にこられたのは、同じ週の初めの日、復活があったその日の夕方のことでした。弟子たちはイエス様の復活の知らせを聞いてもなお、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて、身を隠していました。イエス様の次は自分たちが捕らえられて殺されると思っていたのでしょう。イエス様が復活されたという知らせを聞いても、弟子たちの心の不安と恐れは取り除かれていたわけではありませんでした。その真ん中に、イエス様が「平安があなたがたにあるように」と言われてご自分を現してくださいました。

 信仰はあっても、恐れや不安といった、私たちにはどうにも乗り越えられない隔ての壁を、イエス様の方から乗り越えて来て下さったのです。

 イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われてから、十字架の傷跡を残すご自身の手とわき腹を示されました。十字架のみわざによって神さまと私たちとの平和な関係を実現してくださったイエス様ご自身が。最後の敵である死をも打ち破られたイエス様が「わたしはすでに世に勝利した。だからあなたがたは勇敢でありなさい」。それは「しっかりしなさい、勇気を出しなさい、心配しないで良い」と訳されることばです。シャローム、平和そのものである方が自ら、越えられない恐れや不安の中にいる私たちの中に「シャローム」「こんにちは」と言って来て下さり「わたしは生きている」「平安あれ」と言われる。この平安こそ、シャロームこそ、恐れや不安に満ちるこの世に打ち勝つ秘訣なのです。そしてこの平安を、イエス様は「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハ1427)と、私たちに与えると約束しておられます。

 弟子たちはイエス様が救世主、メシヤであることを信じ従ってきました。そのイエス様が十字架に架けられ死んでしまった。でもその同じ主が、傷をそのまま残した姿で、間違いなく同じ主が復活されて目の前におられる。弟子たちのそれまでの悲しみが喜びへと変えられることは当然のことでしょう。しかし、平安が与えられたとは記されていません。
 先週の箇所では、ペテロとヨハネは「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」と記されています。またこの後の26節でも、主の復活から8日後の日曜日にも、「弟子たちは『また』室内におり、戸が閉じられていた」と記されています。弟子たちには本当の平安はなく、イエス様の復活についても、この時はまだ本当に理解していなかったのでしょう。ご自身を見て喜んでいる弟子たちに、イエス様はもう一度言われました。

21節 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように」。

 イエス様は、喜びに沸いている弟子たちにもう一度「シャローム」「平安があなたがたにあるように」と言わました。それは、興奮を静めるための「まぁまぁ」「分かった分かった」といった感じなのでしょうか。私は何か微笑ましい光景が思い浮かびましたが、皆さんはどうでしょう。
 しかしその後、すぐに気が引き締まるような、厳しい命令が与えられました。
21節 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 それは、イエス様の復活を目撃した者に、その証人として与えられる一貫した使命のように思われます。マグダラのマリヤもそうでした。「わたしにすがりついていてはいけません。あなたは喜びの知らせを知らせなさい」と遣わされたではないですか。主の復活を目撃した者は、その喜びを独り占めすることなく、この世の多くの人々に、その証人として知らせなければならないのでしょう。
 弟子たちは主のおことばに従いました。そこに留まっていないで、世に遣わされて出て行きました。しかし、その先には困難や迫害が待っていました。イエス様もあらかじめこう警告されていました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。」
 私たちに平安を与えてくださると約束してくださったはずなのに、なぜ困難や迫害のただ中に私たちを送り込もうとされるのでしょう。

22節 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 こんな話しがあります。ある町で長年牧会して来られた老牧師がおられました。その教会に長いこと続けて通っていた一人の男性がいました。でもその男性は、決してイエス様を信じようとせず、いつも老牧師に対してつっかかり、福音を否定することばかり言っていました。その老牧師が引退し、電車に乗ってその町を去ろうという時、電車のホームにその男性が現れました。男性は老牧師が座っている電車の窓を叩き、しつこく大声で言い続けました。「誰も聖霊によるのでなければ、イエスは主であると言うことはできないだって? イエスは主である、イエスは主である、イエスは主である。どうだ。言えるじゃないか!」。老牧師は怒ることなく静かに言いました。「分かりました。では、回れ右をして、このホームにいる大勢の人に向かって同じ事を言ってみてください」。男性は何も言えなかったのです。人々に向かって「あ」とも「う」とも言えなかった。怖かったのでしょう。

 考えさせられる話しではないでしょうか。私たちは聖霊を注がれ、力を与えられなければ、主のおことばに従う事はできないのです。自分の力だけでは人々の間に遣わされて行き「イエスは主である、救い主である」と喜びの知らせ、福音を宣べ伝えることはできないのです。なぜなら、イエス様ご自身が言われていますが、そこに患難、つまり悩みや苦しみがあるからです。そこに人々の反対があるからです。そこに迫害が起こるからです。迫害はまた、外から受けるものばかりではありません。信仰があるゆえの生き難さ、これもまた迫害を受けるということなのです。
 「しかし、勇敢でありなさい(=しっかりしなさい、勇気を出しなさい、心配しないで良い)。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ1633)
 イエス様に遣わされ、悩みや苦しみに満ちた世に出て行くとき、どのようにしたら勇敢であり続けられるのか。しっかり立ち続けることができるのか。勇気を出し、何も心配しないでいられるのか。
 これらに打ち勝つ力、それが聖霊であり、また聖霊によりもたらされる真の平安です。そして平安が与えられる方法の一つが、主のおことばに従い、遣わされて行き、その先々で福音を宣べ伝えることによると言うのです。

23節 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの対をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。

 罪を赦されるのは神さまの権威によるものです。私たちは神さまの罪の赦しの権威を宣言する権威が与えられている。その権威とはどれほどの力強さを持っているのか。その力とは、「父がわたしを遣わしたように」。
 イエス様はご自分を無にして仕える者の姿をとられ、実に十字架の死にまで従われた方。私たちに与えられている権威、力とはそのようなものです。私たちが考える権威のイメージとは真逆の権威。その力をもって、私たちはこの世の人々に罪の赦しの宣言を、十字架の福音を語っていくのです。その時、イエス様は私たちに真の平安を与えてくださると言われます。何故でしょうか。どうしてそれが私たちに賜物、プレゼントとして平安が与えられることになるのでしょうか。

 ここから有名なトマスが登場します。続く24、25節から、疑い深いトマスの姿が描かれています。「私は、イエス様の手に釘の跡を見て、私の指を釘の穴とわき腹に差し入れてみなければ、全体に信じない」。
 疑い深いのはトマスだけでしょうか。他の弟子たちも、女たちがイエス様の復活を知らせた時、疑って取り合わなかったではないですか。それがイエス様が来られて、手とわき腹を彼らに示されて、彼らはそれを見て喜んだではないですか。何か証拠を見るまでは、決して信じられない。平安になんてなれない。ここで私たちは、トマスの姿に、他の弟子たちの姿に自分自身の姿を重ねて見るのです。
 しかし、聖書はトマスの別の姿も伝えています。トマスは正直で、誠実で勇気がある人物としても描かれています。知らないことは知らないと言い、分からないことは分からないと正直に言い、また「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言って、イエス様に対する誠実さと勇気を表し、聖書はそれをきちんと記録して私たちに伝えています。
 ですから、この時のトマスの発言や態度は、決して彼を不信仰に導くものではなくて、信じたいのに信じられない。信じられないけれど、信じたいのだという切実な思い、苦しい思い、その表れではなかったのでしょうか。信じたくなかったのではない、信じたかったのです。このトマスの姿もまた、恐れや不安の中にある私たち自身の姿かもしれません。
 そのようなトマス一人のために、イエス様は再び現れてくださいました。そして「シャローム。平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

27節 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 トマスが実際に指を差し入れなかったのだということは、これまで何度も語られてきました。トマスがイエス様の十字架の傷跡を見て、そこに何を感じ、何を思ってこう言ったのでしょうか。

28節 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

 トマスは差し出されたイエス様の手、そしてわき腹を見て思ったのです。心に感じたのです。心が感じて、動かされて、感動して心から信じたのです。魂で信じたと言っても良い。何を信じたのか。それは「イエス様の十字架は、私の罪のためであったのだ」。
 トマスはイエス様の傷跡を目の前に示されて、それによって自分の罪がイエス様を十字架に釘付けしたこと、主の十字架が自分の罪の赦しである事を示された時、「私の主、私の神」と告白する以外になかったのでしょう。そしてそのイエス様が復活され、今自分の目の前に立っておられる。イエス様の十字架の死と復活。そして弟子たちの前に現れる。これこそ聖書が語る、コリント人への手紙15章で語られている、一番大切、一番重要なこととして伝えた「福音」です。

29節 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

 トマスは他の弟子たちの言葉によるだけでは復活の主を信じることが出来ませんでした。しかし、見ずに信じる者の幸いがここでイエス様によって語られます。この幸いは、使徒たち、またその後の私たちより先に信じて救われた聖徒たちの宣教、伝道によって私たちにもたらされました。私たちにもたらされたその幸いを、今度は私たちが人々に知らせるのです。それが主の御心です。主のみことばに従い遣わされて行くことです。
 そこには困難があります。迫害があります。反対があります。なかなか信じてくれないものです。でも「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪を残すなら、それはそのまま残ります」と、私たちは相手が信じ、罪を告白し神さまに赦されるまで、諦めずに福音を語っていく。すべてを教え思い起こさせ、力を与えてくれる聖霊に依り頼みながら、反対されながらも、自分を無にして、実に十字架にまで従うという与えられた権威をもって、何とか福音を語っていく中で。イエス様の十字架の傷跡を人々に示していく中で、実は福音を語る、福音を示す私たち自身が気付くのです。「あぁ、イエス様の十字架は、私の罪のためであったのだ」と。そして告白せずにいられなくなるのです。「私の主、私の神」と。
 そして神さまとの平和、罪の赦しを確信し、真の平安が益々増し加わっていくのです。福音を語っていく中で、自分の過去の歩みを振り返り「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる」(出152)との告白へと導かれて、賜物として、真の平安が与えられるのです。

31節 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト・イエスであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 「信じるため」とは、本来の訳では「信じ続けるため」「信じるようになるため」です。信じ続け、イエス様の御名によっていのちを、永遠のいのちを得るため。御父と御子を知る、人格的な交わりを通して神さまを知り、永遠のいのちを得るためです。そのためにも、私たちはイエス様のおことばに従うのです。患難に満ちた世に出て行くのです。そして聖霊をいただくのです。

ペテロの手紙第一1章5〜9節

5節 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
6節 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
7節 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、賞賛と栄光と誉れをもたらします。
8節 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9節 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 今のような世の中の恐れや不安、困難、また自分自身の中にある恐れや不安、困難の中で、自分自身の弱さを覚える中で、そして迫害や人々の反対の中で「イエスは主である」と告白し、宣べ伝えることはとても難しいことです。不安定な世の中で、目に見えない、先が見えない恐怖や不安の中で平安を得ていくことは難しいかもしれません。でも私たちは信仰が与えられています。たましいの救いを得ています。そして約束の聖霊がすでに与えられています。でも満たされていなければなりません。聖霊は聖書の他の箇所ではイエスの御霊(使徒16:7)とも、主の御霊(ルカ4:18)とも言われています。また助け主、文語訳では慰め主とも言われています。その聖霊が私たちに与えられている。主はいつも私たちと共にいてくださる。遣わされる先々で、私たちに必要なすべてのことを教え、思い起こさせてくださる。イエス様の手とわき腹の傷を見せてくださる。「私の主、私の神」との告白へと導いて、真の平安をくださる。
 勇気が必要な宣教や伝道に遣わされる時、弱さを認め、無力さを認めて聖霊に依り頼むとき、イエス様は私たちのところに、越えられない壁を越えて来てくださいます。そして「シャローム。平安があなたがたにあるように」「わたしは、平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハ14:27)と励ましてくださいます。
 
 「シャローム」。これはイエス様の時代、400年もの間神さまのことばも与えられず、いくつかの帝国に支配されて抑圧され、本当に辛く苦しい中で、ユダヤの民が神さまを待ち望み、救い主を待ち望みながら「シャローム」「シャローム」と合い言葉のように励まし合いながら交わしていた挨拶です。私たちも、この終わりの時に主の再臨を待ち望む者として、主に呼び集められた者たちとして、主にあってお互いに愛し合い、弱さを認めつつ、「シャローム」「平安があるように」と励まし合いましょう。おわりの時まで、主を待ち望み、守られながら、主の業に励み、ますます平安をいただきながら、永遠のいのちの道を歩んでまいりましょう。主によって聖霊が与えられている私たちにはそれが出来るのですから。

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