2021年7月18日 主日礼拝「救いの完成に向かって」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌 8番「きよきみつかいよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 172番「こころして待て」1節と3節
聖 書 ローマ人への手紙8章18〜25節
説 教 「救いの完成に向かって」佐藤伝道師
讃美歌 171番「なおしばしの」1節と4節
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙8章18〜25節
説教題
「救いの完成に向かって」
今週の聖句
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
ローマ人への手紙8章25節
訳してみましょう
2112 People will dwell again in his shade; they will flourish like the grain, they will blossom like the vine.(Hosea14:7)
2113 Loving God and Creator of Life, teach me to trust in Your godness-not just when I’m good, but all the time.
説教「救いの完成に向かって」
ローマ人への手紙8章18〜25節
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今日まで守られ、導かれてまいりましたことを心から感謝致します。この地上に生きる限り、罪との戦い、様々な困難な状況は依然として続いておりますが、永遠に目を向けるならば、すでに私たちはイエス様を通して完全な勝利を得ていることを信じ感謝致します。しかし私たちは、その勝利が永遠であるゆえに、私たちの目には見えず、時には見失い、右往左往してしまう弱さを覚える者たちです。そのような私たちに、今朝もこの礼拝に招いてくださった主が、みことばを祝福してお与えくださいますようにお願いを致します。みことばを心から待ち望み、御霊のお導きによって神さまの御心を存分に知り、この地上で生きるための新たな力をいただけますようにお願いを致します。私たちの内に今、病めるところ、痛むところ、思い煩いがあるならば、すべてから解放してくださり、そして私たちの耳、目、心を開いてくださって、このひととき、神さまの愛を信じて、やわらかな心をもってひたすらにみことばに聞くことができますようお守りください。語るこの者の上にも臨んでくださり、主がお語りくださるままに語ることができますようお守りください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
以前、ルカの福音書15章の放蕩息子のところで、御霊、聖霊について、そして三位一体の神さまについての説明を試みたことを覚えてくださっていますでしょうか。完全な説明ではないのですが、こんなことを申しました。
聖霊、御霊とはどのようなお方なのだろうか。まず「霊」の語源を調べて見ると、これは「風」とか「息」の意味になります。「霊」とはサーッと、フワーッと、時にはゴーゴーと吹く風、またフーッと吹きかける息のように、見えないけれども吹き付けられた相手を動かす力です。また「霊」は「たましい(魂)」とも読める語で、そこは感情とか、心、何か物事を成し遂げようとする心の働きが占める座であると説明されます。そして聖霊は、御霊、聖なる御霊、神の御霊、主の御霊などと呼ばれます。それらを繋げて考えると、難しいですが何となく分かってくるところがあるのではないでしょうか。霊とは感情、心、物事を成し遂げようとする心の働きであり、それはどこからか吹いて来る風や、息のように吹き付けられた相手を動かす力。聖霊、御霊は聖なる御霊、神の御霊、主の御霊です。
そして三位一体の神さまについて、このような喩えをもって説明を試みました。一人の幼い子どもが迷子になっていました。その子は孤独で、不安で泣いていました。その子を見つけた父親は(前回は母親でしたが、父親の方がストレートで分かりやすいかと考え直し、今回は父親にしてみます)、その子の父親が急いで駆け寄って手を伸ばし、その子を抱きしめて、「ほら、お父さんここにいるよ。もうだいじょうぶ、泣かない、泣かない。さあ帰ろうね」。お父さんの腕に抱かれて、すぐに子どもは泣き止みます。お父さんが耳元で何かささやくと、途端に笑顔になりました。「お父さんは本当に心配して、おまえを探していたんだから」。お父さんが自分のことを本当に心配して、必死になって自分を探してくれていた。見つけてくれた。今、自分を抱きしめて喜んでくれている。そんなお父さんの心、親心というものを知って、その子は心から安心して、赤ちゃんのように「お父さん」と呼んで、腕に身を任せて、そして暖かなぬくもりを感じる。この子どもを私たちとするならば、お父さんは天の父なる神さま、伸ばされたお父さんの手と声がキリスト、お父さんから溢れ出て子どもを包む親心が聖霊、御霊です。お父さん自身と、お父さんの手と声、そして親心は一つであって分けることができません。
なぜこのことを振り返ったのかと申しますと、今朝のみことばの箇所、ローマ書8章18節のところで、私自身の身に起こったことでどうしても思い起こすことがあるからです。何度か色々なところでお証しさせていただいていることではあるのですが。
8章18節 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
今から6年ほど前のことだったでしょうか、私が主に召していただいて献身の思いが与えられるより少し前、私の身に次々と苦難が襲って来ました。振り返るとそれは主からの試練だったと思いますが、どうしてこんな酷いことがこの身に起こるのか、神さまなんているのだろうかと、私は信仰が試され、結果どうしようもなく不信仰に陥ったことがありました。聖書をゴミ箱に捨てたことがありました。神さまは私がそのような状態になることをずっと前からご存じたっだのでしょう。一緒に礼拝に行く家族をお与えくださっていたので、私は何とかわずかばかりの信仰が守られ(と言いますか、怒られるのが嫌で仕方なく)、礼拝には休まず出席していました。ある日曜日の朝、御霊のお導きでしょうか、世の光ラジオ放送を聞いてみようと思って聞いたその中で、先ほどのローマ書8章18節が語られました。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」。何と私は、感謝なはずのこのみことばを聞いて頭にきました。自分の苦しみを馬鹿にされたというか、過小評価されているというか軽く見られているように聞こえて、頭にきてラジオ代わりのiPadを布団に叩き付けたのです。そんな私の顔を心配そうに見つめる子どもたちの顔を見て、これではだめだと、私は力が抜けたというか、神さまに完全降伏しました。その時から、神さまはみことばを通して、礼拝の説教や見るもの聞くものを通してたくさん語りかけてくださいました。私は段々と神さまの愛、親心に目が開かれて行きました。私は神さまの愛、親心が見えずに、見失って迷い出ていました。そして目の前のことしか見えず、次々襲ってくる信じられない出来事を前に、私は獣のように取り乱していました。けれども御霊によって、神さまの愛、どこまでも私を探し、私を見つけ、私を真の悔い改めへと導いて元のあるべき道へと戻そうとされる父の心を知って、私は再び信仰、信じる力が与えられて、神さまの愛を信じることができる者とされました。あの時の取り乱して獣のようであった私に、今の私を教えてあげたいです。父なる神さまは決して見放されなかったし、見放されない。すべての必要を備えて、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、イエス様が羊飼いとなってくださって、あらゆる危険、災いから守り導いてくださるのだと。神さまの親心が片時も離れることなく、お前をどこまでも包んでいるのだよと。
【ヘブル人への手紙】
12章5節 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない
12章6節 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12章7節 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12章8節 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
私たちは神さまの本当の子とされています。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。私たちは御霊によって、「アバ、父」「父なる神さま」と助けを求めてすがるように叫び求めます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
今、苦しみのただ中におられる方がおられるならば、父なる神さまの伸ばされた御手であるイエス様にすがりつかれますように。父なるかみさまの声であるイエス様のみことばが語られますように。そして父なる神さまの心、感情、溢れ出て子どもを包む親心である聖霊、御霊がすべてを覆い包んで、御霊の力、慰め、励ましによってそこから立ち上がることができますようにと祈ります。
パウロは「今の時のいろいろの苦しみ」と言います。「今の時」というのは、別のところでは「しばらくの間」です。必ず終わりがあるということです。苦しみの中にいる時にはそのことに気づけませんが、必ず終わりがあって、その時に苦しみは栄光となるのです。終わりの時には神さまの素晴らしさを、神さまの私たちに対する愛やご配慮を、神さまご自身が完全に現し示してくださいます。将来私たちに啓示されるその栄光に比べれば、しばらくの間のいろいろの苦しみは取るに足りないもの。しかし決して私たちの苦しみを軽く見ておられるのではありません。御霊に守られ導かれ、何か一つの苦しみが終わる時、神さまの素晴らしさが知らされるのです。そしてさらには、イエス様が再び来られ、私たちの救いが完成し、神の国が現れる時、まことの終わりの日にはもっとさらに完全に、神さまの本当の素晴らしさが分かるのです。人知では分からないような事を、神さまご自身が現し示してくださるのです。それが啓示です。パウロはそう確信しています。
実はパウロは、聖書の一箇所以外では決して語ろうとしない、ある経験をしているのです。ローマ書を書いた約14〜15年前に経験したパウロ自身の証しです。今日は開きませんが、コリント人への手紙第二の12章に記されています。パウロは14〜15年前に、第三の天、すなわちパラダイス・天の御国に引き上げられて、そこであまりにもすばらしい啓示を受けました。パウロはそのことによって自分が誇ることのないようにと、決して口にしない、そのすばらしい啓示を受けたからこそ、確信して「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ロマ818)と言うことができるのです。その啓示とは、単に目の前の苦難が取り去られるとか、それだけに留まらないのです。もっとはるかに豊かで、偉大な将来のご計画であることをパウロは啓示されたのです。人知では分からないようなことを、人知では計り知れない神さまの愛のご計画を神さまが現し示されたのでしょう。そのご計画の一つとして、壮大な被造物の回復計画がありました。神さまの啓示を受けたパウロの視点は自己中心主義を越えています。ユダヤという民族を越えて異邦人、さらには人類すらも越えて、被造物までも含んだ回復計画、救い、贖いの計画です。回復というのは、神さまが初めに創造されたあの素晴らしい世界の状態の回復。神さまが創造されたすべての被造物は、神の国の完成に向かって、神さまと心一つなって進んで行くはずでした。ところがアダムを通して罪が世界に入ってしまいました。進むべき方向を見失ってしまいました。神さまから迷い出て、迷子になり、人は被造物を巻き込んで神の国とは真逆の方向、いのちではなく滅びへと進んで行ってしまったのです。進んで行ってしまっているのです。
今のこの世界、神さまの被造物全体はどのような状態でしょうか。傷ついていて、破壊されていて、病気で。目に見えない霊的な世界もそうでしょう。目に見える世界も正にそうではないでしょうか。傷ついて、破壊されていて、病気で。公害、環境破壊、対立や戦争、疫病。これらはすべて、人間の罪、神さまに背いて自分の欲のままに、もっともっとと貪るように繁栄を求めた結果、求めている結果ではないでしょうか。決して神さまの御手による直接的な厳しい裁きではありません。なぜなら、神さまの裁きというものは、ローマ書1章24節にある通り、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」というもの、人間のなすがままに任せる、それが神さまの裁きだからです。そのような裁きの目的は何なのでしょうか。ローマ書2章4節「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くこともしらないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。神さまは御心を痛めながら、真の、心の底からの悔い改め、方向転換を待ち望まれておられるのです。人間を信じて、忍耐して、熱心に待ち望んでおられるのです。
8章19節 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
被造物、ここでは人間を除く神さまに造られたすべてのものを指しますが、神さまに世界の管理を任された人間が罪によって堕落して、良き管理者であるはずの人間によって傷つけられ痛めつけられたこの世界全体も、切実な思いで神の子どもたちの現れ、つまりイエス様が再臨されて、救われた者、神の子とされた者がイエス様とともに復活して、この世界に現れるのを待ち望んでいるのです。
8章20節 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物、人間が住むこの世界全体は、すべてが虚しくなってしまいました。被造物は神さまに素晴らしい状態に造られて、人間とともに神さまがご支配なさる完全な神の国の完成を目指して進み出したはずなのに、ひとりの人アダムが罪を犯し、被造物はその望みが断たれてしまった。喜びを失い、力を失い、期待を失い、すべてが虚しいものとなってしまいました。それは明らかに被造物自身の意志ではありませんでした。人間の罪の結果です。人間が神さまに背き欲望のままに歩き出した、そのことに対する神さまの裁き、なすがままに任せられる。その裁きの結果でした。しかし神さまは、ご自分が創造された被造物に対して、完全な愛をお持ちの方です。その裁きの先にこそ、完全な救いが用意されているのです。そこに望みがあるのです。
8章21節 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
滅びの束縛から解放される。虚無に服し、力が抜け、元気を失い、喜びを失い、衰えてついに死ぬ。このような一連の過程は、悲しいけれども私たち人間を含むすべての被造物に見られるものではないでしょうか。霊的にも、肉体的にも。けれども被造物は、神さまに造られたこの世界は、やがてしばらくの間の後の神の子どもたちの現れの時、滅びの束縛、罪と死の法則から解放されて、栄光の自由の中に、すばらしい、活き活きとした、伸び伸びとした、そんな素晴らしい自由の中に入れられるのです。被造物はこのことを待ち望んでいるのです。前回もご紹介しましたが、神の国とはどのような所でしょうか。神の国は、神さまが創造したこの世界の全てが、御心の通り本来の姿に活かされている所。神さまの御心とは、神さまと心一つとなって、完全な神の国の実現を目指して歩んで行くこと。その中で皆が活かされて、喜んでいる世界。誰かが押しのけられてしまうような、誰かが喜ぶために他の誰かが悲しむ所ではない。誰かが活かされるために他の誰かが殺されるところではない。誰かが勝つために誰かが排除される所ではない。神さまの御心通りに活かされていなければ、見た目は立派でも実は死んでいるというのが聖書の視点です。御心通りに活かされていいなかれば、死んだ人生です。死んだ家庭、死んだビジネス、死んだ教育、死んだ政治。それが聖書が見るこの世界の大問題なのです。
今のこの世界の状態とは真逆の、素晴らしい神の国の実現はいつなのかは誰も分かりません。イエス様もご存じないと言われました。けれども父である神さまだけがご存じだと。ですから必ず実現するのです。苦難は永遠に続くのではない。そこに望みがあるのです。
8章22節 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8章23節 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちはこの傷ついた世界、争いや対立、疫病が蔓延するこの世界を見る時に、本当に激しく苦しんでいる世界の姿を知るのではないでしょうか。そんな被造物が創造主であられる神さまによって苦しみから解放していただくことを切実に願っていることも想像できるでしょう。まさにこの世界の苦しむ姿、神さまの御手による完全な救い、苦しみからの解放を願う姿は、そのまま私たち自身の姿ともぴったり重なることを知るのではないでしょうか。
私たちはすでに神の子どもとされています。しかしここでは「子としていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われること」と言われています。私たちキリスト者は、この地上においては絶えず罪の奴隷状態に陥る危険にさらされています。そして神の子であるゆえに、罪と戦い、時に敗北し、嘆いています。力を落として活き活きと生きられない時があります。そのようなことから完全に解放されて、本当に活き活きと生きることができるようになるのは、からだが贖われること。地上の体から解放されて、同時に復活の体が与えられる時に完成する、実現するのです。私たちは「御霊の初穂」をいただいている故にそのことを激しく渇望しているのです。「初穂」とは、他の箇所では「保証、手付金」と言われています。私たちは救いが完成される保証がされています。しかし完全に贖われるのはしばらくの間の後。それがいつかは分からない。それで心の中でうめくようにして待ち望んでいるのです。私たちは日々の様々な出来事や経験を通して、御霊に満たされ、御霊に導かれながらますます神の子とされていっている者たちです。なおもこの地上に生かされて、「神の国とその義とをまず第一に求める」(マタ633)ようにとのイエス様の声を聞いている者たちです。イエス様の苦しみを共にして、私たちも切実な思いでイエス様の再臨、神の子どもたちの現れ、救いの完成を待ち望んでいる者たちです。
8章24節 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
私たちはこの望みによって救われている。目に見えない望み、うめくようにして待ち望んでいる、その望みが私たちが救われている保証です。
そして神の国はすでに世に臨みました。神の国は完成へと向かっているのです。イエス様がこの世に来られ、公生涯を始められる最初に言われたおことば。「時が満ち、神の国は近くなった」。この望みによって救われているのです。
また、イエス様がこの世界に来られ、この世界に対する神さまの本当の御心を人間に示してくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ316-17)。今、この望みによって救われているのです。
神さまの素晴らしい信じられないくらいの啓示を受けたパウロが別の所でこうも言っています。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったのです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」(Ⅰテサ59-10)。「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(テト33-7)。私たちは今、この望みによって救われているのです。この望みとは、神さまの私たちに対する慈しみの心、愛。救い主であられ、神さまの手、神さまの声であるイエス様を通して注いでくださった聖霊、御霊。私たちを包み込む父なる神さまの愛、親心。それは目に見える望みではありません。目に見えない望みです。
8章25節 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
まだみていないものを望む。目にみえないものを望む。忍耐をもって、耐え忍んで熱心にひたすらに待ち望む。これこそ信仰というものではないでしょうか。信仰者の姿です。信仰というのは神さまを信じることです。神さまの何を信じることなのでしょうか。どこまでもこの私に対する神さまの愛を信じることではないでしょうか。どんな時でも、この私に対する決して変わることのない完全な親心を信じ切ることなのではないでしょうか。それがなかなか信じ切ることができずに、私たちは不信仰に陥り、苦しむのではないでしょうか。
私たちには聖霊、御霊が注がれています。聖なる御霊、神の御霊、主の御霊が注がれています。神さまの霊、愛、心、救いを成し遂げようとする心、私たちを動かす力が私たちの内に住まわれています。しばらくの間の後に、必ず私たちの完全な贖い、罪や苦しみからの解放を保証する御霊の初穂、保証、手付金が与えられています。この神さまの御霊に、御霊なる神さまに依り頼んですべてを待ち望みましょう。御霊に導かれて、神さまの愛を信じ切り、依り頼んで、今しばらくの間の苦難の伴う地上での歩みを、神の子らしく、光の子にふさわしく歩ませていただきましょう。もし道に迷っているならば、神さまに祈り、深く交わり、御霊に満たされて神さまの愛の確信へと導いていただきましょう。そして信仰によって、神さまの私たちに対する愛を信じ切るその信仰によって一歩踏み出してみましょう。御霊によって導かれて行くその道であるならば、神の国の完成に向かって行くはずです。向かって行っているはずです。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。今日から歩み始めた歩みもまた、ますます御霊に満たされ、導かれて行く歩みとなりますようにお守りください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。