2021年8月29日 主日礼拝「主の選びと召し」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  24番「父のかみよ」1節と3節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  332番「主はいのちを」1節と3節
聖 書  ルカの福音書5章1〜11節
説 教  「主の選びと召し」佐藤伝道師
讃美歌  502番「いともかしこし」1節と3節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ルカの福音書5章1〜11節

説教題

「主の選びと召し」

今週の聖句

「こわがらなくてもよい、これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

ルカの福音書5章10b節

訳してみましょう

2134 (Josiah)began to seek the God of his father David.

2125 Heavenly Father, I praise You for never changing. Your mercies are “new every morning!” Help me to look forward to what You have for me today.

説教「主の選びと召し」

ルカの福音書5章1〜11節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。新しい日曜日、主の日の朝を迎えられ感謝致します。この朝も、主が愛され、召されている兄弟姉妹ともどもに主のみことばに聞ける幸いを心から感謝致します。今、一切の重荷を主の御前に降ろし、心安らかにみことばに聞くことができますように。そのことを通して、幸いな主との深い交わりの時としてくださいますようにお願いを致します。主が中心におられます。主がそれぞれのすぐ側にいてくださいます。その安心の中、私たちの賛美、思い、願い、祈りを引き上げてくださいますようにお願いを致します。これまでの歩みの中で傷ついている所もありますから、主が癒やし、整えてくださり、新たな力を与えてくださいますようにお願いを致します。整えられて、主によって派遣されて、この会堂を後にして任された場所へと出て行き、そこで主を喜び、主の栄光を現していくことができますように。語るこの者の上にも臨んでくださり、主のみことばを語ることができますようお守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回はローマ書9章6節の「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません」と始まったところから、神さまの約束、その約束という語は「召し」と訳せる語であって、神さまの召し、そして神さまが召されるにあたっての選びの計画、目的というのは完全であり、また私たちの現状がどうであれ、生涯を通して決して変わることがないし、無効にされる、地に落ちることはないのだ。そのようなところを見ました。今朝はその選び、召しというものを、ルカの福音書より少し別の角度から確認してみたいと思います。

 イエス様は故郷ナザレを離れてガリラヤへ行き、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ115)と人々に神の福音を宣言され、いよいよ公に宣教活動を開始されました。ガリラヤの町カペナウムに住まわれ、そこを伝道の根拠地として選ばれました。

 イエス様は神の国の建設にふさわしい人材を探していました。神の国を一緒に建て上げる人たちを探していたのです。そして目に留められて最初に呼びかけられたのがガリラヤ湖(今日の箇所ではゲネサレ湖)の岸辺にいたペテロと兄弟のアンデレ、そしてヤコブと兄弟のヨハネ、二組の兄弟でした。

 何度か申しておりますが、神の国とはどのような所でしょうか。神の国とは「神さまが創造したこの世界の全てが、御心の通り本来の姿に活かされている所」、「皆が活かされて喜んでいる世界」です。当時の世界はローマの圧政に苦しめられ、民衆は重く科せられる税金に泣かされていました。戦争はなかったのですが、ローマに占領されてその支配下に置かれており、夢も希望もなく、現実はあきらめの連続のような毎日でした。神さまの御心の通り本来の姿に活かされている状態とはまるで違う、皆が活き活きと活かされて喜んでいる世界とは正反対。当時の人々はイエス様の教えを聞き、神の国の福音を聞いて憧れ、心燃やされる人が次々と起こされていったことでしょう。このようにしてイエス様は神の国の福音を宣べ伝え、神の国へと、解放、救いへと人々を招いておられました。そして神の国を一緒に建て上げる人材を探しておられました。今の私たちも、罪の満ちたこの世に苦しめられ、あきらめの連続のような中で、宣べ伝えられた神の国の福音、解放、救いの福音を聞いて憧れ、心燃やされ、そのようにして神の国へと招かれ、イエス様の十字架と復活を信じて幸いな神の国の一員とされた者たちです。さらに今、イエス様に目を留められ、選ばれて、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」というイエス様が弟子とされた者に語られる変わらないみことばによって今日も召されています。イエス様とともに、またイエス様の真の弟子とされた兄弟姉妹と協力しあって、「御国を来たらせ給え、御心を地になさせ給え」と共々に切に祈りつつ、この地上に平和と喜びの神の国を建て上げていくために、この地上で幸いな神の国を証ししながら人々をそこに招くよう、一人ひとりが主によって召された者であることを今朝、ルカの福音書を通して覚えたいと思います。

 すでに先ほどお読みいただきましたルカの福音書5章1節から11節ですが、この時点で彼ら4人は、すでにイエス様の弟子になっていたようです。イエス様に知られていました。今朝の箇所よりも前の出来事として、今日の登場人物であるゼベダイの子ヨハネが記しているヨハネの福音書1章では、彼らがイエス様の弟子となった経緯が記されています。シモンがペテロと呼ばれることとなった経緯もそこに記されていますので是非ご一読ください。このヨハネ1章の後の出来事として、彼らがすでにイエス様によって目を留められ、招かれて弟子となっていたことは「読者の皆さんが、すでにご存知の通りです」として、このルカの福音書5章1節からは記されています。

5章1節        群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺にたっておられたが、
5章2節        岸辺に小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 イエス様の名声はガリラヤだけでなく、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう岸にまで及んでいました。この世に苦しめられ、神の福音に憧れて、一目でもイエス様の姿を見て、その教えを聞きたいとゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に押し迫るようにして集まってきた大勢の群衆に向かって、イエス様は神の国の福音を語っておられました。

 その岸辺に小舟が二そうありました。一つはペテロとアンデレの舟、もう一つはマタイの福音書を合わせて見ると分かりますが、恐らくゼベダイの子ヤコブとヨハネの舟でした。先ほども見ましたが、彼らはすでにイエス様の弟子でした。それなのに、彼らは群衆とともにイエス様のお話に耳を傾けるのではなく、イエス様に背を向けて網を洗っていました。

 中でもペテロと言えば、情熱あふれる人で、この時の群衆と同じように、イエス様の教えを聞き、神の国のビジョンを聞いて、それはもう理想に燃えていたのではないかと思います。そして師と仰ぐイエス様に自分の家を差し出して解放するなど、誠実な人でもありました。そうかと思うと、後々分かってくることですが、移り気で気の早いところもあったり、時には臆病にもなったペテロでした。少し前の4章のところでは、イエス様はペテロのしゅうとめがひどい熱で苦しんでいた時、人々に頼まれてその熱を癒やされたことがありました。けれどもこの時、ペテロ自身がお願いをしたのではなかったのです。ということは、ペテロはイエス様を根っから信じておらず、また病人が祈ったら治るなんて、そんなことがあるかという考え方を持っていたのかもしれません。そして今日の5章でのペテロは、イエス様が群衆に向かって語っている横で、イエス様に背中を向けて網を洗っていました。この時のペテロのこうした行動には、信仰の領域と仕事の領域は別であるという何か割り切った考えが現れているようにも思えます。

5章3節        イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

 群衆におしつぶされずに、なるべく遠くまで声を届かせるために、イエス様は舟の上から説教をするという工夫をされました。静かなゲネサレ湖、ガリラヤ湖の湖畔にはなだらかな斜面があって、湖の上からのイエス様の声は良く響いたことでしょう。しかし、その理由だけならどの舟に乗っても良いわけですが、イエス様は明らかな意図を持ってペテロの舟を指名して乗り込みました。どうしてもペテロでなければならない理由があったのでしょう。そしてそこから群衆に向かって神の国の福音を語ったのです。

 イエス様はご自身に背を向けるペテロに目を留められ、ペテロを選ばれ、ペテロの舟に乗り群衆に向かって語られました。神の国の福音を語られました。「天の父はあなたを愛している」。「囚われ人には解放、虐げられている人々には自由、主の恵みの年が実現した」。「あなたがたは幸いだ、神の国はもうここに来ている」。少し前に、イエス様はご自分の育ったナザレに行って、いつものとおり安息日に会堂に入って福音を宣言されたとルカの福音書4章には記されておりますけれども、このときも舟の上でそのような福音を宣言していたのでしょう。それは群衆に語っていると同時に、誰よりもまず、すぐ隣りに座っているペテロにこそ語っていたのではないでしょうか。さらには、そうして福音を語ることで大勢の人が救われていく現実を、舟の上からイエス様と同じ目線で見させて、そして間近に体験させようとしたのではないでしょうか。ペテロもまた、信仰を持ちながらも様々な苦悩を抱えていたことでしょう。生きる道を求め、真理を探していたことでしょう。夜通しの漁で一匹も獲れなかった、一晩中暗闇の中、ペテロは舟の上で何を考えていたのでしょうか。そのような長い一夜を過ごした朝でした。イエス様はご自身に背を向けているそんなペテロの心をすべて知っておられたからこそ、その思いへの答えとして福音を宣言されたのです。まさに特等席で聞くイエス様の宣言の一つ一つは、ペテロの心の闇を照らしたのではないでしょうか。そして闇に差し込む光となったのではないでしょうか。まさに「みことばの戸が開くと、光が差し込む」(詩119130)のです。イエス様のみことばが心の闇を照らして、ペテロの心の闇の中の様々な思いが露わにされました。

 重ねてイエス様は、さらに不思議な大漁という決定的なしるしを現されました。そのしるしはペテロに罪を示しました。

5章8節        これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

 どのような罪が示されたのでしょうか。「私のような者」と自分のことを言ったペテロは、どんな自分という姿が示されたのでしょうか。もし私たちがこの時のペテロだったとしたら、どのようなこの私の姿が示されると思われるでしょうか。

 けれどもイエス様は罪を示されるだけではありません。

5章10節      シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

 イエス様はペテロに、絶対に魚などとれないという状況でも、イエス様のみことばを信じるならば大漁となるのだというそのしるしによって、わたしが選び、わたしが命じるのだから、あなたもわたしと同じように福音によって人々を救えるのだよと、だってあなたはわたしが責任をもって召したわたしの愛する弟子だからだよと、ペテロを励まされたのです。そして改めてご自身のわざへと、「わたしとともに神の国を建て上げよう」と召されたのです。

 「あなたは人間をとるようになるのです」。マタイの福音書では「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタ419)と言われています。「してあげよう」。これがイエス様の招きです。選びです。才能があるからとか、人間的な資格があるからとか、そういった理由で人間をとる漁師になれるのではありません。「してあげよう」とあるように、ただイエス様によってしていただかなければ、だれもなれないのです。これがイエス様の選びです。イエス様の約束であり、イエス様の召しのみことばです。ですから決して微塵の間違いなどありません。

5章11節      彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 「何もかも捨てて」。これは生活とか環境とか、家族、仕事、すべてを捨てて従ったという意味ではありません。彼らは変わらずに舟も漕ぎましたし、漁もしました。世捨て人のように、仙人のようになって俗世間から全く離れ、人々と関係なく生きたわけではありません。何もかも捨ててというのは、生活の優先権がどこに移ったかを示すものです。この世の人々の間で営む生活における優先権がイエス様に従う事に移されたということです。しかし実際にこの世の人から見れば、網を捨て、舟も父もそこに残して従うというように見えるのでしょう。

 果たしてイエス様は、そのようにただ何もかも捨ててわたしについて来いと言われるのでしょうか。

 ペテロが仕事や家族の優先順位を後にして、イエス様を最優先にして従っていこうという決心は、決して軽い気持ちでできるものではなかったはずです。にもかかわらず決断できたのは、それがイエス様の正に命がけの招きであったからではないでしょうか。イエス様の権威を帯びたお言葉に、あなたを選んだからには責任は選んだ側にあると、あなたの生涯を通してわたしが責任を持つのだという、命がけの招きであることが感じられたからこそ決心できたのではないでしょうか。イエス様はペテロの家に入り、しゅうとめを見られ、ペテロがその家で、家族の中でどのような責任を負って、何に対して心配しているのかを、実際にその目でご覧になってご存知でした。ヤコブ、ヨハネにしても、彼らには雇い人がいたとマルコの福音書には記されていますが、いわゆる会社組織でしょう。彼らがその会社組織の中でどのような位置にあり、どのような責任があるのか、イエス様はご存じだったはずです。その上でイエス様は招かれる、召されるのです。ですから、弟子を選んで招くのは、決して簡単な決断ではないのです。召される当人ばかりでなく、家族、仕事、とりまくすべての人たちの責任をも負わなければならないからです。そしてイエス様はその責任を負って下さいます。

 また、弟子として召される人はだれでも良いというわけにもいきません。誰かを選ぶには、選ぶ者にも責任が問われます。

 本来ならば、昨日は中学の吹奏楽の東海大会でした。息子の所属する吹奏楽部は、その東海大会に長野県代表として推薦されました。新型コロナの感染拡大によって残念ながら現地での演奏は中止になり、録音審査という形になってしまいました。私は音楽に長けているわけではないので、その審査基準に対しては何も分かりません。吹奏楽コンクールの審査はブラックボックスとも言われているらしいですが、数学のように確実な答えが決まっていない、芸術的な審査という面からしても、本当に難しく、理解や納得できないところもあると思います。何か忖度があるのではないかと疑われてしまうこともありますが、しかし選ぶ審査員にしてみれば、やはり審査する者としての責任があります。変な団体を代表として推薦してしまうならば、審査員自身に向けられる批判や非難は避けられないでしょう。大げさに言ってしまえば、審査員人生をかけた命がけの審査です。また長野県という大きなくくりの代表として、恥とならないような団体を送り出さなければならないでしょう。そして審査する人には相応の規準や評価、判断があって、審査員はそれらにすべて責任を持たなければなりません。

 そのように、イエス様にしてみれば、すべての人の救いのために、神の国の福音を宣言するのは命がけの行動ですし、その神の国の証し人としての弟子たちの重要性というものを深く理解していたはずです。長所もあり短所もある者のすべてをご存じの上で、証し人となるべく弟子を選ぶ。それこそ命がけの決断でしょう。そのようにして私たちは、イエス様の命がけの選びによって選ばれ、弟子とされ、そしてさらに召されているのです。召される者ばかりでなく、召される者を取り巻くすべてに責任を負われることを覚悟して、そのようにして私たちは召されているのです。そこには、私たちが今どのような者であるのかをすべてご存知の上で、どうしてもあなたでなければならないという理由があるはずなのです。

 イエス様の約束、召しを信じて、どうしてもあなたでなければならないのだというイエス様を信じて、イエス様の覚悟を信じて応えて、私たちはこれからもイエス様の招きに従ってまいりましょう。もしかしたら今、私たちはこの時のペテロのようであるかもしれません。一晩中なにも成果が見られなくて、長い夜の間中あれこれ思い巡らして、心には色々な思いが交錯する、そんな朝を迎えているかもしれません。イエス様に対して初めの燃えるような思いがどこか薄れてしまって、変に割り切ってしまっている部分があったりして、それでイエス様がイエス様を求める大勢の人たちに語っておられるみことばに背を向けている私たちかもしれません。イエス様はそんな私たちに目を留められ、そんな私たちだからこそ選び、舟を漕ぎ出すように言われます。特等席に座る私たちにこそイエス様は神の国の福音を宣言されます。

 黙示録では一つの教会にこのように言われています。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(黙23−5)。イエス様は私たちに本物の信仰がなければ、私たちの中で、私たちを通して力あるわざが行えません。それが聖書の中で唯一イエス様ができないこととして記されています。私たちは改めて、変わらないイエス様の約束、召し、選びの計画の確かさ、継続性を心に覚え、信仰に立ち返りたいと思います。

 イエス様は今、私たちと同じ舟に乗られ、私たちのすぐ側で、誰に向かってどのような福音を語られているでしょうか。それを特等席で聞いている私たちは、そのみことばの光に照らされて何が示され、またどれだけ自分自身が燃やされるでしょうか。

 弟子として私たちを選んでくださり、召してくださり、私たちを愛し、信頼し、全ての責任を負われ、私たちのために命をかけるイエス様。そんな師を持った私たち、弟子とされている私たちは本当に幸いです。このイエス様とともに、イエス様を心から信じて信頼し、神の国を立て上げてまいりましょう。この地上で、素晴らしい神の国を建て上げて、表現してまいりましょう。神の国はこんなにも素晴らしい所なのだと、イエス様とともに舟を岸につけ、イエス様に従って人々の中を歩んでまいりましょう。イエス様は私たちといつもともにおられ、生活をともにしながら私たちを教え、守り、導いてくださいます。家庭や仕事、生活のすべての中でイエス様を心から信じて従ってまいりましょう。そしてイエス様がともに神の国を建て上げたいと願っておられる人々を招いてまいりましょう。イエス様を心から信じて、私たちを通して力あるわざを現していただきましょう。

 これから後、あなたは人間をとるようになるのです。わたしについて来なさい。あなたを、人間をとる漁師にしてあげよう。この約束、召しに込められたイエス様の大きな愛、覚悟を今、しっかりと確認し、受け止めたいと思います。

 お祈りを致します。
 「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。このような私が主に選ばれ、主に召されている。主が全ての責任を命がけで負ってくださっている。これほどまでの感謝、そして安心を賜り、心から感謝いたします。今、私たちのそれぞれの生活の中で、主が招いておられ、みことばを宣べられている方々がおられることを覚えます。主を全面的に信じて、信頼して、主とともに神の国を宣べ伝える者としてください。主が力あるわざを成すことができるように、語られるみことばを私たちは一番近くで聞き、日々そのみことばによって私たち自身もまた赦されて、救われて、喜びに満たされて、そして再び心燃やされて、主が召される所へと主とともに出て行くことができますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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