2023年2月12日 主日礼拝「断食をするときには」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  11番「あめつちにまさる」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  23番「くるあさごとに」
聖 書  マタイの福音書6章16〜18節
     イザヤ書58章1〜14節
説 教  「断食するときには」佐藤伝道師
讃美歌  339番「君なるイエスよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章16〜18節
イザヤ書58章1〜14節

説教題

「断食するときには」

今週の聖句

そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。

イザヤ書58章8a節

今週の祈り

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」……私はその罪人のかしらです。
(Ⅰテモテ1:15)

神よ、あなたの「恵み」を人々に広げるとはどういうことか、それについて、もっと深く理解できるように助けてください。

説教「断食をするときには」

マタイの福音書6章11〜15節
イザヤ書58章1〜14節

皆さんは偉くなりたいですか。人々の間で一目置かれたいと思っておられるでしょうか。これは聖霊が注がれる以前のイエス様の弟子たちの間でもホットな話題でした。最近では「マウントを取る」などと良く言いますが、聞いたことがあると思います。人々の間で、会社やご近所さん、ママ友など親しい人たちの間、家族の中でさえもこのマウント合戦、自分が一番偉く有利な立場に置かれたいという、大小様々な見えない戦いがあるように感じることがあります。何回か前に「自己顕示欲求」についてお話ししましたが覚えておられるでしょうか。アメリカのマズローという有名な心理学者が、すべての人間が持つ基本的な欲求として5つの欲求を挙げた中の1つです。より耳馴染みのある承認欲求というのは、この自己顕示欲求の中の1つです。それは誰の中にも存在するのです。自分をはっきりと分かるように他人に示したい。そうすることで周りの人から注目されたり、褒められたり、そのようにして自分の欲求が満たされ安心するというものです。

しかし、聖書を通して見てみると、神さまは人々に尊ばれる人がお嫌いなようです。そう言ってしまうと誤解を招いてしまいますが、自然と人々に尊敬されるのであるならば、それはとても素晴らしいことで、神さまが喜ばれる(神さまが心地よいと感じ受け入れてくださる)ことでしょう。そうではなく、自分が尊ばれたいと願い、自分で自分の地位とか立場を高めようとする、マウントを取る、そのような人を神さまは嫌われるのです。この世はリーダーシップを取る人に対して権力とか力を強調し尊びますが、神さまは霊的リーダーシップを取る者に対して弱さを尊ばれ、用いてくださるお方なのではないでしょうか。

そもそも、神さまは弱い者の叫びを聞かれ救いの御手を伸べられるお方です。神さまご自身が身を低くされ、私たちの中へと来てくださるお方です。このお方よりも私たちはさらに身を低くするべきなのではないでしょうか。私たちは、私たちの弱さの中での叫びを神さまが聞かれ、救いの御手、イエス様、聖霊をお送りくださり、信仰を与え、ただ信仰によって、ただ恵みによって救われた者でしょう。日々救われている者のはずです。そして家族や身近な人たちの間で、すべての人を救いへと導く霊的なリーダーとされているのです。ペテロの手紙第一2章9節には何と記されているでしょうか。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」。そうであるのに、もし私たちがどこかで自分自身を高ぶらせていたとしたらどうでしょう。神さまのあわれみによって救われた私たちが、その受けたあわれみを忘れ、自ら進んで献げる礼拝、献げもの、奉仕などをしながら自らの信仰や敬虔さをかざし、周囲の人々に対してあわれみの心を持たず高ぶっていたとしたらどうでしょう。彼らは私たちに一目置くどころか、怒りや恨みの感情を持つのではないでしょうか。ですからイエス様は言われました。少し前のマタイの福音書5章22節からのところです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟(もっと広くすべての隣人と捉えて良いでしょう)に対して怒る者(怒りではないかもしれませんが、相手の信仰、敬虔の足りなさを感じることに対する非難、そこに怒りの感情も含まれているでしょう。しかしそれは、本当に神さまのための怒りでしょうか、もしかしたら自分のための怒りではないしょうか)は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」(マタ522-24)。

私たちは主の祈りを挟みましたけれども、ユダヤ人の宗教生活において非常に重視されていた3つの善行というものがあり、その中の「施し、祈り」について教えられてまいりました。今朝の箇所では3つ目の「断食」について教えられています。イエス様が言われていることは一貫しており、施し、祈り、断食などしなくて良いというのではなく、どれも真実に熱心に行いなさいということです。そしてイエス様は「偽善者」という言葉を用い、私たち聴衆に向かって「あなたがたは偽善者にならないように」と警告を発しておられるのです。偽善者と呼ばれる人たちは、自分がどれほど信仰深く、敬虔な生活をしているかを誇示し、見せびらかし、人々からの賞賛を得たい、褒められたいとして、他人の見ている所で施しや祈り、そして他人に分かるように断食を行っていました。偽善者とは「仮面をかぶって芝居をする者」という意味の言葉です。仮面をかぶって芝居をし、観衆から拍手喝采を浴びたいと願う。ところがどうでしょうか。偽善者と呼ばれる人たちが得たものは、人々からの賞賛ではなく、怒りや反感だったのではないかと思うのです。敬虔、善人の仮面を被って、しかしその仮面の内側には、他の人々に対する非難であったり、蔑み、馬鹿にした思い、さばく思いが隠されていたのではないでしょうか。今日のところでは善行の一つである断食について言及されています。

6章16節      あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

断食というのは、食事の全部もしくは一部を特定の期間、故意に断つことを言います。断食は敬虔な行いの代表選手に挙げられていましたが、実は聖書にはその断食の習慣の起源について何も記されていません。しかし断食とは宗教的に何たるかについては教えています。モーセはイスラエルの民が犯した罪のために40日40夜、主の前に断食しました(申918)。ある一族の罪のために、イスラエルの民は泣いて断食しました(士2026)。サムエルもミツパという所でイスラエルが犯した罪のために断食をしています(Ⅰサム76)。ダビデは子どもの病気のために断食しました(Ⅱサム1216)。断食というのは、断食することによって味わう肉体的苦痛を通して、自らの深い罪、また民族の深い罪を自覚し、恐れをもって神さまに近づく者の熱心な祈り、隣人に対するあわれみ、自らの罪の悔い改め、隣人の罪のとりなしを表現・体現するものです。これは神さまによって定められたものではなく、人間の自発的な信仰表現なのです。ちなみに聖書には、自らを戒める自発的行為として断食の他に、地面に眠る、体を洗わない、油を塗らない、衣服を着替えないなども記されています(Ⅱサム1216-20)。それらのことを真実にではなく、どこか形式的に、偽善的に行っていたユダヤ人たちに対して、イエス様は6章17節でこのように言われるのです。

6章17節      断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

イエス様は人間の自発的な信仰表現である断食は否定しておられません。退けてはおられないのです。イエス様ご自身も荒野で40日40夜断食されました。さらに18節で言われている通り、父なる神さまは断食、人間の自発的な信仰表現に対して報いてくださるお方であることを明言しておられます。

断食はあくまでも神に対する信仰ゆえの自発的行為でした。しかし断食に限らず、自発的な信仰表現の危険性は、それ自体が形式化してしまうことです。人に見せびらかすためのものとなってしまう危険性が常にあるということです。新約聖書を見ると、パリサイ人は自発的に木曜日と金曜日の週2回の断食を厳格に実践していました。それは習慣のようになり、形式化し、本来の断食の意義を見失ってしまっていたのです。人々の賞賛を得るためのもの、断食をしない人への非難や蔑みとなっていってしまったのです。彼らは自分が断食していることを人が見て分かるように、わざわざ暗い顔をし、陰気な顔つきをし、顔をやつれさせました。「顔をやつれさせる」と訳されているギリシヤ語は「顔を見苦しくする」という意味もあります。さらには「顔を隠すしぐさをする」という意味もあります。ある人が自分の顔を見たと感じた瞬間、陰気な表情を作り、断食のせいで見苦しくなった顔など見せられないと偽善的な思いでわざと大げさに顔を隠すしぐさをし、自分の敬虔さ、信仰的素晴らしさを見せびらかすようにアピールしたのです。そのような人が実際目の前にいたとしたら、私たちはどのように思うでしょうか。素晴らしい、信仰的な人だと本当に思うでしょうか。やはり「偽善者だ」とつぶやいてしまうかもしれません。パリサイ人たちが受けた報いというのは、彼らが望んだ人々からの賞賛という報いではありませんでした。私たちも自分とは無関係だと思わずに、「気をつけなさい」と言われるイエス様の御声に今一度しっかりと信仰をもって応答しなければならないでしょう。私たちがもし断食するとしたら、隠れたところにおられる私たちの父なる神さまに見えるようにするのです。そうすれば、隠れたところで見ておられる父なる神さまが私たちの熱心な祈りと悔い改めを聞いてくださり、素晴らしい報いをもってしっかりと報いてくださいます。断食ばかりでなく、自発的な信仰表現、施し、祈り、献金、奉仕など、そういったものはすべて人々に賞賛されないように、賞賛ではなく実は人々からの怒りや蔑みを報いとして受け取ってしまうことのないように、私たちは隠れたところで自発的な信仰表現をするのです。その時には頭に油を塗るのです。この油を塗るというギリシヤ語は「油を注ぐ、祭りのように」という意味があります。油、それは聖霊でしょう。聖霊が注がれ、聖霊に満たされて祭りのように、心から神さまに向かって喜んで行うのです。顔を洗って、人にではなく神さまに向かって顔を輝かせて行うのです。聖霊に満たされて、神さまの愛に満たされて、隣人にもその愛が溢れ出るように断食をするのです。自発的な信仰表現を行うのです。

ところで、断食について、今朝はマタイの福音書6章16〜18節が与えられていますが、もう一つの聖書箇所を書き加えてください。それはイザヤ書58章1〜14節です。

断食は私たちにはあまり馴染みがないものかもしれません。断食はしない、したことがないという方がほとんどではないかと思います。これからお読みするイザヤ書には、断食にはあまり馴染みのない私たちにとって、本当の断食とは何か、神さまが喜ばれる本当の断食とは何か、そしてその報いとは何かということが良く教えられるところです。

【イザヤ書】
58章1節      「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。

前章のイザヤ書57章では、イスラエルの姦淫と結びついた偶像礼拝の罪が語られました。58章に入ると、ここでは偽善の祈りと断食について述べられて行きます。まず神さまは預言者に向かって、現実のイスラエル、すなわち「ヤコブの家」にその罪を告げよと命じられます。

58章2節      このわたしを、彼らは日ごとに求め、わたしの道を知ることを望んでいる。儀を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。
58章3節      『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。

ヤコブの家(教会?)の罪はその偽善にありました。信仰は形式化し、人々に見せるためのショーと化してしまっていました。彼らの偽善は無意識になされていたのかもしれません。表面的に取り繕っているだけでなく、実際に自分たちは正しい、敬虔だと思い込んでいたのかもしれないのです。

58章4節      見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。
58章5節      わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。

民は外面的にはイスラエルの神への礼拝を続けていました。要求されるいけにえを献げ、特別な祝祭の日には断食をし、罪を嘆くときには粗布を敷いて灰をかぶったのです。しかし先ほども申し上げた通り、断食を代表とする人々に見せびらかす自発的な信仰表現は、人々からの賞賛を期待するものでありながら、しかし実は争いとけんかの元となってしまうものです。私たちはどうでしょうか。日曜日の礼拝も、やはり自ら進んで自発的に守っているのではないでしょうか。私たちの信仰や敬虔がいつのまにか無意識のうちに偽善的となってしまっており、教会と教会の外の人々の間で、あるいは教会の兄弟姉妹の間で争いとけんかの元となり、不当に相手を攻撃し、マウントを取るための道具となっていないでしょうか。自分たちは日曜日を犠牲にして礼拝を守っていて偉いだろうと、私たちの敬虔がそのように自分を高めるためのものであっては、神さまに私たちの声、祈りや願い(皆に救われて欲しい)は届かないのです。

58章6節      わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
58章7節      飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。

断食の偽善性を明らかにして後、神さまが本当に喜ばれ、心地よいと感じられ受け入れてくださる断食の意味を明らかにします。相手の罪、負い目を赦し、また自分も赦されること。なぜなら罪の赦しは神さまのものだからです。そして具体的に愛の行動を起こすことです。空腹の人がいたら「祈っていますからね」と言うのではなく、具体的にパンを分け与えるのです。人をもてなすことによって慰め励まし、不足があるならばその必要に応える。「あなたの肉親を顧みることではないか」とありますが、直訳すると「あなたの肉親から身を隠さないことではないか」となります。また新約聖書では「身内の者」とは肉親ばかりでなく「あなたの周りにいつもいる人」という意味で用いられており、信仰の偽善と真実を見分ける試験となるものが、常日頃一番近くにいる人に対する態度であることが示されています。本当にひざまづかされる思いがします。

しかし神さまの約束がここから示されます。偽善ではなく、高ぶりではなく、自らへりくだり、真実に具体的に心から隣人を愛し、肉親を愛し、心から赦し赦されるならば、そこから神さまはすぐに新しい回復を与えてくださると言われのです。神さまに赦された者は、心から人を赦すはずなのです。神さまに愛された者は、心から人を愛することができるはずなのです。心から人を大切に思い、心から救われて欲しいと願うのです。マタイの福音書の今日の箇所の直前ではこのようにイエス様は言われています。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタ615)。前回この「赦してくださる」というのは、「ここから行かせる」ことであることを学びました。神さまは私たちを赦し、“ここから”前進させてくださるのです。

58章8節      そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。
58章9節      そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、
58章10節    飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。

預言者イザヤは、偽善の罪がイスラエルの民、神の民、ヤコブの家、教会また私たちの内から取り除かれる“そのとき”に、速やかに神さまの祝福が豊に与えられ、神さまの臨在のうちを歩むことさえ可能となるのだと預言しています。神さまはインマヌエルとなり、私たちといつもともにいてくださり、そこからまた私たちとともに歩んでくださるのです。エジプト脱出後のイスラエルの民が荒野を旅したときに、雲の柱、日の柱によって主が導き守られたように、主が前に進み、しんがりとなられ、主が絶えず導いてくださるのです。

58章11節    主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。
58章12節    あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。

主の導きと豊かな祝福について述べられます。神さまとともに歩み行く道は主が導かれる道、そして御霊に導かれる道となります。すべての災いは喜びに変わり、真の平和が回復されるのです。偽善の罪が取り除かれるそのとき、神の民は再び繁栄を見ることができるのだと、希望のメッセージを告げているのです。廃墟を建て直し、礎を築き直し、破れを繕う者、通りを住めるように回復する者になる、本当の霊的リーダーとなるのだと言われます。

さらにイザヤは神の民にとって重要に考えられていながら、日常生活で形骸化して無視されやすいもう一つの宗教的なものとして「安息日」をここに持ち出します。当時、安息日がどれほど無視されていたのでしょうか。少なくとも安息日は守られていながら、ただ何もしない日のような、消極的というか、否定的に扱われていたのかもしれません。それは新約時代に入って偽善者たちがイエス様に、安息日には病人やけが人を癒やしてはいけないと責めていた姿からも分かるような気がします。

58章13節    もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、
58章14節    そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──主の御口がそう語られる。」

主はこの日を「喜びの日」、「栄えある日」として、自分のための日ではなく、主への愛を表す日として用いるように勧めます。安息日をこのように、聖なる日、神のために特別に取り分けられた日、自分を喜ばせるのではなく、主を喜ぶ日とし、主との親しい交わり、自分を愛するのではなく主を愛する日として正しく用いるならば、主の契約、イエス・キリストの血による新しい契約、神の子として神の御国をイエス・キリストとともに相続させていただくというその契約が確かに実現される。それまで主のものとして、神の子として父なる神が父の愛をもって養い育てられるのだと、「主の御口がそう語られる」、主が断言しておられるのです。私たちは安心して行けるのです。もう自分を守るために自分を高めようとしたり、マウントを取ろうとする必要はないのではないでしょうか。

【マタイの福音書】
6章18節      それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

神さまが真に喜ばれる、心地よいと感じられ受け入れてくださる私たちの生き方。神さまが私たちの求められる霊的リーダーシップとは、見せかけ、偽善的、人々に自らの敬虔さをみせびらかすものによるのではありません。偽善的な生き方は、自らの顔をわざと暗くし、陰気な表情を作るもの。しかし神さまが真に喜ばれる、心地よいと感じられ受け入れてくださる私たちの生き方、霊的リーダーシップとは、もっと積極的と言いますか、躍動感に満ちたと言いますか、喜びに満ちた生き方です。主を喜びとし、主に喜ばれる生き方です。偽善を捨て、真実に生きる時、そこから即座に神に祝福された幸いな歩みが始まります。躍動感に満たされ、喜びに満たされます。そこから身近の人たちの間で霊的リーダーとされている私たち、私たち教会は回復し、成長します。繁栄が元通りにされます。主の栄光が輝き出ます。偽善を捨て、真実に生きる時、私たちの本当の歩み、教会の本当の歩み、罪赦され、神との平和な関係が回復され、主がいつもともにおられ、主の栄光を輝かせる私たちの歩みがそこから始まるのです。偽善ではなく、真実に互いに愛し合い、赦し合う。しかし冒頭でも申し上げましたが、自己顕示欲求というものは誰の中にも必ずあるのです。ですから私たちがいつも御霊に満たされ、御霊によって導いていただかれなければならないのです。「聖霊を注いでください。御霊で満たしてください」と、偽善ではなく、形式的ではなく熱心に真実に祈り求めましょう。心一つにして祈り求め始めたいと思います。ここからともに歩んで行く。いやいやながらではなく、喜んで。たとえ人に報われなくとも、必ず父なる神さまが報いてくださることを忘れないようにしましょう。父なる神さまは隠れたところにおられるようでも、ちゃんと私たちを愛し、父の目をもって私たちをご覧になっており、常に関心を持っていてくださるお方です。父の愛によって、どんな小さなことでも、それが神さまの愛に応える真実な行動や思いであるならば、私たちが恐縮してしまうほどのたくさんの報い、恵みを注いでくださることでしょう。私たちはこの神さまに喜ばれ、この神さまを喜ぶ生き方を、今ここから始めたいと思います。今年の教会の年間聖句が与えられました。「見よ。わたしは新しいことを行う。今、それが芽ばえている」(イザ4319)。そう言われる主に心から信頼し、そして期待し、熱心な祈りと悔い改めをもって、私たちは神さまに立てられた霊的リーダーとして、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせてまいりましょう。神さまの好まれる断食をもって、神さまの好まれる自発的な信仰表現をもって、偽善を捨て、真実に互いに愛し合い、神さまと隣人とを愛してまいりましょう。そのとき、私たちの光が暁のように輝き出て、私たちの回復は速やかに起こります。私たちの義は私たちの前を進み、主の栄光が私たちのしんがりとなります。そのとき、私たちが呼ぶと主は答え、私たちが叫び求めると、「わたしはここにいる」と主は言われます。御霊に満たされて、御霊による一致をもって、ここから歩み出しましょう。

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