2024年9月22日 主日礼拝「ゲツセマネでのイエスの祈り」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌282「見ゆるところによらず」
新聖歌275「信仰こそ旅路を」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇118篇19〜24節
讃 美 讃美歌2「いざやともに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌133「夜はふけわたりぬ」
聖書朗読 マタイの福音書26章36〜46節
説 教 「ゲツセマネでのイエスの祈り」
讃 美 讃美歌324「主イエスはすくいを」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書26章41節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書26章36〜46節
説教題
「ゲツセマネでのイエスの祈り」
今週の聖句
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」
マタイの福音書26章41節
説教「ゲツセマネでのイエスの祈り」
マタイの福音書26章36〜46節
先日、テレビのバラエティ番組を観ていたら、ある若いお父さんが願い事をしているシーンが流れました。図らずも手を組んで、それはもうお祈りの姿勢でした。そのお父さんは「広い家をください。子どもが思いっ切り走って遊べる広い庭のある家をください。パチンコ台(趣味なのでしょう)をいっぱい並べられる家をください」と祈っていました。人は何やかやと神に祈るものなのだと思わされます。皆さんは毎日祈っておられると思います。何を祈っておられるでしょうか。その祈りはイエス様を通して神に祈られる祈りですから、当然神もイエス様も聞いておられるわけです。大丈夫ですか(笑)。例えばある一人のクリスチャンが未信者の方の前で声に出して祈った時に、それを聞いた未信者の方が「どの宗教でも祈っている内容はほとんど同じだ」と言われてしまったとしましょう。キリスト教がそのようなものだと思われてしまったとしたらどう思われますか。良くないですよね。私たちは自分のこととして反省するべきでしょう。
イエス様は前回までのところで、弟子たちに裏切りの予告をされ、つまずきの予告もされました。そして今日のところでは、続けざまにご自分の祈られる姿を弟子たちに示されました。示された・・・?。ところが肝心の弟子たちときたら、皆眠ってしまっていたのです。ここで私たちは「おや?」と思わないでしょうか。弟子たちは眠っていたのに、どうして自分たちが眠っていた時のイエス様の祈られる姿、また祈りの内容を記録することができたのでしょうか。ルカの福音書によると、イエス様は復活されてから40日間にわたって弟子たちの前に現れ、神の国のことについて語り教えられました。その中でイエス様は、このゲツセマネの園での重大な夜をどのように過ごしたかを弟子たちに知らせる機会が十分にあったでしょうし、実際に知らせたのでしょう。イエス様はこの夜、ご自分がどのように過ごしたかを、決して軽々しくは扱えない、並々ならぬ大事なこととして、どうしても弟子たちに教えなければならなかった。そしてそれを聞いたマタイ自身、マタイだけではなくマルコ、ルカ、ヨハネもまたその重大さを悟り、このことを福音書の記録に記し、後代のイエスの弟子たち、つまり私たちキリスト者に教えているのです。いや聖書の本当の著者である主が福音書を通して私たちに教えようとしておられるのです。私たちは本朝、恵みによって神の子とされた者として永遠のいのち、天の御国に至る正しい道を行くために、本当の幸い、神からの祝福をいただくために、イエス様のゲツセマネでの祈りを通して正しい祈りを学び、整えて(破れ口を繕う)いただきたいと願います。
26章36節 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
過越の食事が終わり、イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来ました。このゲツセマネは、ヨハネの福音書によるとキデロンの谷の向こう、オリーブ山の斜面にある園でした。多くの巡礼者たちはオリーブ山の斜面で夜を過ごしたそうです。イエス様と弟子たちもまた、過越の祭りのために普段から集まる場所であったここに行き野宿をされたのでしょう。
イエス様と弟子たちは「その中に入られた」とヨハネは記しており、恐らく垣根で囲われたオリーブの果樹園であったと思われます。果樹園と聞くと、私はうろ覚えなのですが、20年以上前に訪れた「賛美園」というクリスチャンオーナーのりんご園を思い起こします。K姉が良くご存知のようですが。そこにギデオン(クリスチャンの聖書贈呈団体)のメンバーとともに訪れ、色々と信仰の諸先輩方とともにビジョンを語り合い、祈り合ったうるわしい記憶があります。
垣根で囲われた。それはもしかしたら、他の者たちから守られた、イエス様一行だけが入ることが許された場所であったのかもしれません。そしてそこは、イエス様と弟子たちが普段から集まる場所でした。そこにあのイエスを裏切るイスカリオテのユダがまもなく軍隊を引き連れて入って来るのですから、色々と思わされるところがあります。しかもイエス様はその夜、いつも集まっていたゲツセマネの園ではなく、ユダの知らない別の場所を選ぶことによって、簡単にユダの計画を失敗させることができたはずでした。しかしそうはなさらなかった。どうしてですか? 神のご計画、神の御心、神のご意志に従うためです。そしてそれは私たち罪人を救うためでした。
そのイエス様がゲツセマネの園に入られた目的は、祈るためでした。いつものように祈るためにここに来られたのです。そして、ご自分の十字架の死を前にした最後の時間を、祈りのために費やされるのです。受難を前にしたイエス様は、それに備えるためにいつもの場所でいつものように祈ることにされたのです。もし私たちが死を前にした最後の時間を迎えたら、霊的な死を予感するような、そのような時を迎えたら、私たちは何をするでしょう。祈りますか。恐らく祈るでしょう。いつもの場所でいつものように祈れるでしょうか。「信仰生活に秘密兵器はない、秘密兵器は必要ない」と聞いたことがあります。私たちの信仰は、イエス様のように常日頃の信仰です。常日頃からの信頼、そして従順です。また、危機的状況に陥った時に、私たちは平安に祈れるでしょうか。私自身のことを考えるなら、恐らく神の御前で獣のようになってしまうのではないかと思います。
神であるイエス様ではありますが、この時はとことんへりくだり、弱い人間にまでへりくだられ、人間イエスの姿を弟子たちに見せようとされたのです。ルカの福音書によると、弟子たちは「石を投げて届くほどのところ」に座っているように言われました。それほど遠く離れた所に座らされたわけではありませんでした。ちなみにギリシャ語の「投げる」というのは、キャッチボールのように弧を描いて投げたボールをキャッチするというイメージの語です。投げればキャッチできる距離。色々とキャッチできる距離。そこに座っていなさいと弟子たちに言われたのです。また「座る」というギリシャ語は、「とどまる、任命する」とも訳せる語です。「これからわたしの姿をあなたがたに示すから、あなたがたはここにとどまっていなさい」、そして「改めて弟子として任命する」、それはつまり整えて(網の破れ口を繕う)ここから遣わそう、そのような霊的な意味にもとれるところです。
26章37節 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
どうしてこの3人を一緒に連れて行かれたのでしょうか。どこに連れて行かれたのでしょうか。私はこれはどこか象徴的な意味が込められているように思うのです。イエス様はこの3人を他の弟子たちよりほんの少し進み出させた。つまり前に出して他の弟子たち、後代のイエス様の弟子である私たちに何かを示すためにでしょう。
実はこの3人、イエス様と運命を共にする準備ができているとはっきり宣言した3人でした。ヤコブとヨハネの場合、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」とイエス様が問われると、彼らははっきりと「できます」と言いました(2022)。ペテロの場合はつい先ほどです。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(2635)と自信満々に答えました。そして「そうだ、そうだ」と意見に賛同した他の弟子たちの前に少し進み出させるのです。目立たせる。やはりここにもイエス様の意図があるのです。
するとイエス様は、間もなく3人の目の前で悲しみもだえ始められました。この「悲しみもだえる」というギリシャ語は、日本語では訳し得ないほどの悲惨な苦悩を表す語です。日本語でも良く分からない言葉があります。「塗炭の苦しみ」。なかなか聞かない語ですが、意味は「泥にまみれ火に焼かれる」というひどい苦痛、極めて辛い境遇を表す語です。まさに「死ぬほど」のものです。
26章38節 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
「ここ」とはどこでしょうか。神さまはあのエデンの園を歩かれて、神さまが愛された、しかし神さまに背き神さまの目から隠れていたアダムとエバに呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか」と。主が私たちに「ここ、どこ」と問われる時、それは単なる場所だけにとどまらず、信仰の位置、立ち位置のことをも言われるのでしょう。この時の3人はまだイエス様を信じ、まだイエス様にそれでも従っていました。ここにいて、ここにとどまって、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。
死へと近づいているという悲しみ。十字架の苦難を前に陥られたイエス様の深い悩み。何度も繰り返し言われていることですが、イエス・キリストは神であられるので人間とは異なり、十字架も苦ではないだろうと考えることは間違っています。イエス・キリストは完全な神であると同時に、完全な人間であられました。空腹に悩まされたり、なかなか寝付けないほどの疲れを感じられたりしました。それゆえに、十字架を前にしてイエス様も悩まれたのです。そしてこの激しい感情的混乱の中で、イエス様は仲間を求められました。神の御子が3人の漁師たちの精神的支援を求められるのです。イエス様は弟子たちを、また私たちを頼りにしてくださっているということです。支えて欲しい、助けて欲しいと、弟子ではあっても一介の取るに足りない漁師を、しかし人間を獲る漁師として召された者を、この世に生きる弱い私たちを、ご自分の働きに召されるのです。私たちの罪の身代わりとなり、これほどまでの苦難に遭われた方の叫び求めを、どうして私たちは「いやいや、無理です」と断ることができるでしょうか。しかもイエス様が求めておられるのですから、私たちにはそれができるという確信や期待がイエス様にはあるのです。
26章39節 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
ここでイエス様は3人の弟子から離れ、少し進んで行かれました。前に出られた、先立たれた、つまりご自分の姿、姿勢を見せられたのです。見せようとされた。ところが冒頭でも申しました通り、弟子たちは皆眠っていたために見ることができなかった。しかしとても重要なことなので復活されてから改めて教えられたのです。これから見事にイエス様の期待を裏切り、失敗をし、罪を犯してしまった弟子たち。それはこの時眠ってしまっていたせいでした。それで復活の後に改めてイエス様はこの時のご自分のお姿を示され、祈りを教えられたのです。
イエス様ご自身がひれ伏したと言われているのはここだけです。それほど切実な祈りであったということです。私たちにも身に覚えがあるでしょう。ひれ伏すほどの祈りに導かれる時というのがどのような時か。
イエス様に迫る十字架の死は、イエス様を激しく苦しめ悩ませました。それはいよいよ十字架を目前にして、その苦しみを受けるための内面的な葛藤(心の中に相反する欲求が存在し、それが互いに譲らずに対立し、いがみあい、そのいずれをとるかとても迷っている状況)でした。そのことは、この時のイエス様の祈りにも表されているではありませんか。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と。
相反する欲求、互いに譲らずに対立し、いがみあっている欲求や感情。その第1の願いは、イエス様が「十字架の苦しみを受けなくても良いようにして欲しい」という願いです。「杯」は聖書において普通の場合、罪に対する神の怒りと憤りの象徴でした。イエス様は罪人のために身代わりとして十字架にかからなければなりませんでした。イエス様はできることなら、このような罪の刑罰を受けなくても済むように、父なる神に求めたのです。
そして第2の願いは、第1の願いが自分中心のものであることとは反対に、父なる神の御心のままにして欲しいという願いです。イエス様はご自分の使命、またご自分の責任を考えるなら、父なる神の意志、父なる神の願い、ご計画に服従すべきであると、十分知っておられたのです。
この相反した2つの願いの間の板挟みになって、イエス様は悲しみもだえられた。塗炭の苦しみ、泥にまみれ火に焼かれるというひどい苦痛、極めて辛い感情を、心の内に覚えられたのです。このような板挟みの祈り、塗炭の苦しみは、そのまま私たちの祈りに通じることでしょう。どうして私が望まないことをしなければならないのか。どうして神は苦しい状況からすぐに救い出してくださらないのか、放っておかれるのか。私たちはどこかでそれが神の御心である、神の意志である、ご計画である、だからそれが最善なのだ、服従すべきだと、どこかで知っていながらも、また期待しなければ、信頼しなければと思いながらも、それを認めたくない、そうであって欲しくない、どうかこの杯を私から過ぎ去らせてくださいと祈る者たちなのではないでしょうか。
26章40節 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26章41節 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
イエス様は弟子たちに「ここに座っていなさい」、「ここにとどまっていなさい」と言われました。しかしイエス様が最初の祈りを終えて戻って来ると、弟子たちは眠っていました。寝込んでしまっていました。3人の弟子は夜通し魚を獲ることに慣れていた漁師でした。ところがイエス様の十字架の死を前にした時には眠気に勝てなかったのです。「眠る」というのは、体と心、両方の動きが一時的に低下し、目を閉じて無意識の状態になることです。体の疲れがありました。心の疲れがありました。イエス様につまずいてしまいそうな程に、嫌になる、疑ってしまいそうになる程に、この時心が疲れていたのでしょうか。イエス様は最も苦しい時間を前にして弟子たちに「一緒に祈って欲しい」「同じ祈りを祈りなさい、祈って欲しい」と願ったのですが、弟子たちは弱い肉の誘惑に打ち勝てませんでした。
これからイエス様は十字架に架けられて死なれ、しかし復活して天に昇られます。距離的に弟子たちから遠く離れます。この時、ほんの数メートルイエス様が弟子たちから離れただけでこの有様。
イエス様は言われます。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」。「目を覚まして」というのは、起きている、見張っている、油断せずに用心深くしているということです。「霊は燃えていても、肉体は弱い」。肉体の弱さは、クリスチャンの弟子たちにとって永久に変わらない、不変の問題でしょう。ですからあなたがたは、絶えず用心しなさい、祈りなさいと、その必要を教えられるのです。この時眠ってしまった弟子たちに、また私たちに、復活されたイエス様が本当に重要なこととして教えられるのです。「あの時、お前たちは眠り込んでしまっていたけれども、わたしはこのように祈っていたのだよ」と、叱るのではなく、裁くのではなく、教えられるのです。「必ず御名が崇められますように。必ず御心がなりますように。私たちを試みにあわせないで(試みの時にも私たちを1人にしないでともにいてください)、悪から必ず、絶対お救いください」。あの山の上で「あなたがたはこのように祈りなさい、臆することなく大胆に祈りなさい、絶えず祈りなさい」とイエス様ご自身が私たちに愛をもって教えられたことを、ここでも改めて教えられるのです。そしてイエス様はそのお手本を弟子たちに示されました。
26章42節 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
39節の祈りと同じようですが、最後の部分が異なります。
イエス様はご自分の本心を偽らずに、心の願いをありのままに述べられました。しかし、父なる神の意志を無視して、自分の意志を無理矢理に押し通そうとはなさいませんでした。板挟みの苦しみ、激しい戦いがありました。その戦いの末に、結局はご自分の意志ではなく、父なる神の意志に従うべきだという結論に達したのです。簡単に達したのではありませんでした。イエス様であっても、血の汗が流れるほどの苦しい戦いがあったのです。ちなみに、医学的にも実際に血の汗が流れるということがあるのだそうです。それはもの凄い死の危機などの極度のストレスを感じた時に起こる現象だとか。ヘブル書の著者は言います。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(しかし)あなたがたは、罪(自己中心)と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません」と。
イエス様の祈りにはもはや自己中心な、自己主張による願いはありません。
26章43節 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
弟子たちのまぶたは重くなっていました。「霊は燃えていても、肉体は弱い」体は疲れ、そして肉体の弱さゆえに燃えていたはずの弟子たちの心、霊も影響を免れず、疲れてしまっていたからです。
26章44節 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26章45節 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
イエス様は弟子たちを残して再び離れて行かれました。「残して」という語は、許可する、許すという意味の語です。ここにイエス様の赦し、あわれみがありました。当然弟子たちは眠っていたので知りません。ですが45節のイエス様のことばは聞きました。「まだ眠って休んでいるのですか」と。どこか負い目を感じていた弟子たちには、イエス様の叱責に聞こえたのかもしれません。人は自分に負い目があると、たとえ相手が良いことを言ったとしても悪く捉えてしまう時があるのではないでしょうか。ここは訳し方によるとこのようにも訳せるところなのです。「もう眠って休みなさい」。
私はここに、前回見ました「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」と言われた、そのお言葉に通じるものを感じるのです。さあ、あなたがたはこれからも生きて行くために、これからの働きのために、休んで、リフレッシュして、息を吹き返して元気を取り戻しなさい、霊も肉体も備えなさいと言われているように聞こえるのです。
26章46節 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
立ちなさい。あなたがたはそこから立ち上がりなさい。さあ、行こう。あなたがたは1人で行くのではない、わたしがともに行く。さあ、行こう。
「さあ、行こう」、この同時は、むしろ行動に移ることを意味しており、後退よりも前進を意味するのです。敗北ではなく勝利です。苦難や悲しみを前にして祈り、祈りの中で神のご意志と自分の願いとの間で板挟みとなり、ついには自分を捨てる。自分を捨てることは敗北ではなく、勝利であることをイエス様は示してくださいました。そしてイエス様自ら、神のご意志である十字架へと進んで行かれました。
今日のイエス様のゲツセマネでの祈りは、この時眠ってしまい、その大切さを知ることができず、やがて失敗し主に対して罪を犯してしまった弟子たちに、わざわざ復活のイエス様が教えられたほどに、私たちに様々な教訓を与えています。神の御子イエス・キリストは、ご自分の人間としての弱さに祈りで勝利された。これは祈りの大切さを示されたのです。漁師だった弟子たちも、肉の弱さまではどうすることもできませんでした。イエス・キリストだけがこの誘惑に耐え抜き、死に打ち勝たれたのです。しかし容易く勝利されたわけではありませんでした。必至に祈り、葛藤し、ついに従ったのです。自分を飾らずに、自分の思いを神の御前に注ぎ出し、偽善ではなく真実に神に祈られた。そのように祈りながらも、ご自分の願いに固執されたのではなく、父の御心が何かを必至に聞き、そのとおりになることを祈られました。ご自分の判断や感情、意志よりも、神の御心がなることが最も善であり正しく、祝福であることを信じられたからです。イエス様はそのようにして弟子たちにご自身に従って勝利する道を示されたのです。イエス様がご自分の祈りを通して従順を学ばれたことを示されたのは、私たちも祈りを通してさらに神のご意志、御心に聞き従うことを学ぶためです。
私たちは、祈りというのは自分の心の願いを一方的に父なる神に語ることだと思っています。確かにそのような面もあるでしょう。そうでないとしても、注意していないとそのような祈りに傾きがちです。「どの宗教でも祈っている内容はほとんど同じだ」となってしまう。しかし私たちは、ゲツセマネの祈りから、祈るということは自分の欲を満たすことが目的ではないことを知るのです。祈るのは、祈りを通して神の御心を悟り、父子聖霊なる神に助け導かれながら悟らせていただき、その神の御心へと従順するために祈るのです。天と地のすべてを創造され、今もご支配なさる、愛をもって支え配慮される全知全能なる父なる神の御心が、間違いなく最も善であり、益であり、得であり、祝福なのです。ですから苦しい状況ばかりを見て、それを取り去って欲しいと祈るだけではいけません。それを通して神が成し遂げようとしておられる御心がある、祝福がある、救いがある。イエス様が示されたそれを信じて、それが成されるように私たちは祈りましょう。
しかし、本当に苦しんでいる人、とても辛い苦難の中におられる方に簡単に言えることではありません。私は言えません。ただこれだけは言えるのです。ゲツセマネの祈りは、十字架の死がいかに苦しいものかを表し、そのような苦しみを受けてまで神が御子を差し出されるほど私たちを愛されたことをも教えていること。神がこれほどまでにこの私を愛しておられること。それを忘れてしまっていると、神の愛の語りかけも叱責に聞こえてしまうでしょう。私たちは神が御子を与えるほどに私たちを愛しておられることをいつも信じていましょう。
そしてまた、イエス様でさえともに祈る人を必要とされました。であるならば、私たちにはもっと必要であることは言うまでもありません。板挟みの苦悩を味わわれ、その必要を誰よりもご存知で、唯一私たちを救うことがお出来になるイエス様がともに祈ってくださっています。また共にそれぞれ異なりはしますが重荷を負っている兄弟姉妹がともに互いのために祈らなければなりません。しかし本当に助けてくださるのは主です。重荷を負ってあえいでいる人にさらに自分の重荷を負わせることはできませんから。
私たちはこれからも様々なことで、例えば自分の思い通りにならないことによって主につまずいてしまうことのないように、目を覚まし、信仰にとどまり、主の御心を求めて祈ってまいりましょう。御心を求める者とされて行きましょう。苦しい作業かもしれません。しかし私たちは1人ではありません。主がともにおられ、兄弟姉妹の影でのとりなしの祈りがあります。