2017年12月3日 主日礼拝「救い主降誕の預言」
本日の聖書箇所
イザヤ書9章1〜7節、ミカ書5章2節
説教題
「救い主降誕の預言」
今週の聖句
ひとりごのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
イザヤ書9章6節
訳してみましょう。
1941 You can always give without loving, but you can never love without giving. — AMY CARMICHAEL 1867〜1951
(あなたはいつも愛情なしで与えることができますが、与えることなく愛することはできません。)
説教メモ
「アドベント」は日本語で「待降節」と言います。アドベントは4週間あります。日曜日を4回迎えます。
本朝拝読しましたイザヤとミカの預言がありますが、イスラエルの危機的時代に語られたみことばです。それはアッシリヤに占領された北王国イスラエルに対して最高の希望を語り伝え、さらに侵略の危機にさらされている南王国ユダに対して警告を与える要素を持った者でした。しかし彼らの預言には、当時の人々に語られた直接的なメッセージだけでなく、後の時代の人々に対する究極的なメッセージが含まれていました。つまりメシヤの誕生を伝えるという二重の内容がその預言にはありました。
今日私たちはこれらの旧約聖書の預言がイエス・キリストの誕生が成就した確認出来る幸いを得ています。神さまのおことばの真実さを覚え、さらにまだ成就していない未来の約束を思い、希望にあふれる時としてクリスマスを過ごしたいと思います。
1.イザヤの預言とその時代
イザヤの時代には、さらにみらいのことが預言されて「やがてあなたがたのために救い主がお生まれになる」とのメッセージが届けられました。2017年を生きる私たちは、それが成就したことを見ています。しかし今の私たちにとって、まだ成就していない神さまのご計画は何でしょうか。それはイエス様の再臨です。当時のユダヤ人のような心境になってください。北イスラエル王国は占領されてしまった。南王国は侵略の危機にさらされている。神さまのさばきが預言者エレミヤを通して語られました。「70年間あなたがたは捕囚となる」と。そのようなくらい時代の中で、非常に明るいメッセージが届けられました。
私たちはイエス様の再臨を大きな声で宣言していかなければなりません。しかし人々はまともに受け取らないでしょう。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
(イザヤ9:6)
先ほど申しました通り、北イスラエルはすでに滅んでいるわけです。アッシリヤという大きな国が興り、滅ぼされてしまいました。南ユダも後にバビロンという大きな国に捕囚されてしまった。そんな暗いくらい時代、イザヤ、エレミヤ、ミカは神さまのおことばを民たちに伝えました。それが預言です。
預言とは「神さまがこう言われる」というものです。信仰をもって彼らは確信をもって語りました。それを聞いた当時の人は、誰のことを指して言っているのか分かりませんでした。今の私たちはイエス・キリストのことであると知っています。その内容からして、この預言はイエス・キリスト以外のいかなる存在にも結びつきようがない、絶望的な苦しみから私たちを解放して救うことができる神さまが私たちのために生まれる。クリスマスはその成就として、励ましと恵みを覚える時です。
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
(イザヤ9:1〜5)
イザヤという預言者はBC760年頃にエルサレムに生まれたと言われています。ウジヤ王が死んだ年がBC742年でした。その年にイザヤは預言者としての活動を始めました。ウジヤ王の後にヨタム、アハズ、ヒゼキヤといった王様が出ましたが、その三人の王様に仕えた約40年間、預言者として活動しました。
アッシリヤ、エジプトという大きな国が覇権を争っていました。その二つの国に挟まれた北イスラエル、南ユダは、小さな国でした。北を向けばアッシリヤ、南を向けばエジプト。そこで彼らはどちらかにつこうと考え、そのことで失敗しました。預言者が語ったのは、小さな国であったイスラエルがとるべき道として、真の神さまのみ信頼を置いて独立の道を歩むということでした。
ヨタムの時に、BC742〜735年まででしたが、中立政策を守ろうとしましたが、ヨタムが死んでアハズが王様になったBC735〜715年、シリヤとイスラエルは連合してエルサレムを攻撃しました。アハズを退位させてタベアルの子を王にしようとしました。それを恐れたアハズは、警告を無視してアッシリヤからの援軍を頼みとしました。アハズの援助要請に応じたピレセルという人物は、BC734年〜732年、イスラエルに攻め入り、レバノンの麓からガリラヤ湖、北ヨルダンにおよぶナフタリの地、さらにその南西からシャロンの平野の中央部に至るゼブルンを攻め取りました。
北王国に残された領土は、わずかサマリヤを中心とした山間部の地域だけとなりました。イスラエルの民はまさに暗黒の中に投げ込まれた、そんな時代でした。しかしここでイザヤは預言したのです。イスラエルの捕囚の民はやがて回復される。アッシリヤの圧政から解放されるのだと。
神さまの力によってなされる捕囚からの解放であり、勝利です。軍の力によってではなく、完全に平和が実現する。イザヤ9章4〜5節はそう語っています。
イザヤが生きていた時代はこのような暗黒の時代でした。イザヤはこの暗やみの中を歩いていた人々に、「大きな光を見る」と預言しました。そしてその光は、民たちの努力によってではなく、神さまによってもたらされるものだと宣言しました。
2.真の救い主の誕生
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
(イザヤ9:6〜7)
イザヤが預言した大きな光は、一人の赤ん坊によってもたらされるのだと言っています。また、イザヤはその四つの特徴を伝えています。
- 不思議な助言者
- 力ある神
- 永遠の父
- 平和の君
ここを読んだだけで、これはある人物だけのことを言っているのではなくて、神さまのことを言っていることが分かります。
不思議な助言者。当時王様には助言者と言われる人がいました。王様に序言をする担当者です。ここに登場する人は、当時の助言者を必要としない。なぜなら自らが助言者であるから。ご自分について他の誰のアドバイスも必要としない、完璧な知恵と判断力を持っている、私たちにとっても不思議な驚くほどの助言者であるということです。
力ある神。この方は神さまですから、すべての力を帯びておられる。
永遠の父。どんな権力者にもやがて終わりが来る。しかし神であられるこの方に終わりはない。時間的な限界がない。永遠に子どもを見守る父親のように私たちを守ってくださる永遠の神さまがそこにおられる。
平和の君。昔も今も戦争が止むことは無い。力に対抗してより強い力を行使して実現したかのように見える平和も一時的な者しかしこの方は真の平和をもたらす。それは十字架によって。十字架によって人類にまことの平和をもたらす。
3.希望の預言
ミカも預言しました。ミカはイザヤとほぼ同じ時代に活動した預言者です。ミカは救い主がどこでお生まれになるかを預言しました。ベツレヘム、エフラテはダビデ王の故郷です。つまりこの預言は、単に救い主がベツレヘムで生まれることだけでなく、ダビデ王の子孫としてお生まれになる。そしてこの預言の通り、救い主イエス・キリストはダビデの子孫として両親の住むナザレから100㎞以上も離れたベツレヘムでお生まれになりました。イエス様がお生まれになったとき、ヘロデ王は学者たちに命じて救い主誕生の場所を突き止めました。東方の博士たちが「私たちは救い主がお生まれになったという不思議な明るい星を見たので拝みに来た」と言い、それを聞いたヘロデ王は驚きました。それで学者たちにその場所を突き止めるように命じました。学者たちは聖書のミカの預言に書かれていることを見つけて「救い主はベツレヘムでお生まれになるのだ」と報告しました。ベツレヘムへ博士たちは行きましたが、帰りは違う道を通ってヘロデ王には会わずに自分の国に帰りました。
果たして、旧約で預言されたことがその通りになりました。聖書はイエス様について旧約聖書からずっと証しが続いてきているわけです。新約聖書だけでは不十分です。今日はイザヤとミカの預言、2ヵ所を見ましたが、このように旧約聖書で断片的に救い主誕生があちらこちらで預言されています。
イエス様自身もこのように言われています。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
(ヨハネ5:39)
当時のユダヤ人は聖書の中に記されている神さまの命令をあれこれと実践することをもって、神さまに良しとされ、永遠のいのちが与えられるという観点から聖書に接していましたが、それはそうなのです。聖書に記されている神さまの命令を完全に守っていれば問題ありませんでした。しかし誰一人として完全に守れる人などいませんでした。神さまはその掟を、神さまが望んでおられるようなレベルで実践することができれば、そもそも人には罪などありません。けれどもだれもそのように実践できる人などいません。人間には神さまの憐れみ、神さまが用意してくださる救いが必要なのです。
聖書は旧約が将来おいでになる救い主を指し示し、新約聖書ではおいでくださった救い主を証しする。イエス・キリストご自身について記述されているのが聖書です。聖書を通してキリストに出会うことを神さまは一人ひとりに望んでおられます。
このように聖書の救い主がやがて生まれるのだという預言は、聖書の初めから終わりまで順序立てて語られているのではなく、断片的に啓示があるわけです。アダムとエバが罪を犯した瞬間から、神さまは人類を救う計画を言われ、創世記3章15節には「原福音」と呼ばれるサタンとイエス様のやり取りのことが書かれています。そのうち聖書が段々進み、旧約聖書各書の完成とともに、実際の出来事を通して、あるいは人物を通して様々な形で多種多様に断片的に語られてきました。そして救い主について、どのようなお方がいつ、どこからおいでになり、どのような救いの御業をなされるのかを予告してきました。それが神さまの啓示でした。
イザヤ、ミカは紀元前8世紀の預言者たちでした。そうした旧約聖書の救い主、メシヤ預言の最高峰と呼ばれるものが、今日学んだイザヤやミカの預言でした。彼らが活動したBC700年、ここで旧約聖書が終わっているわけではありません。旧約聖書の記述はBC400年くらいまで記されています。そして旧約聖書と新約聖書の間のおよそ400年間を「中間時代」と呼びます。けれども救い主の預言に関しては、ひとつの頂点とさえ呼べる時代。これがイザヤやミカが預言した時代、紀元前8世紀でした。イスラエルにとって極めて不安定な時代でした。人々は動揺しつつ神さまからのメッセージを期待していた。そのような時代でした。イザヤやミカは当時の人々に希望を与える直接的な意味を持ちつつ、時代を超えて遠く救い主の到来、それも赤ん坊の誕生として、そのことを予告する深い意味を持った神のことばを託されて人々に語ったのがこの二人の預言者でした。
ですから私たちは、クリスマスを祝う前にまず旧約にこのようなお膳立てがあったのだということ、神さまが預言者イザヤやミカを通してこの世に救い主がお生まれになると予告なさいました。そのように旧約聖書を読んで下さい。この今読んでいる旧約聖書は新約聖書にどういう位置づけにあるのかということを頭に置いて読んで下さい。ですから当然、今日のイザヤ9章、あるいはミカのところを見れば、やがてベツレヘムに救い主がお生まれになるのだという約束がそこでされているのだと分かります。
聖書は旧約聖書、新約聖書、どちらかに重きを置いておられる方がいます。どちらかだけを語っている説教者もいますが、両方、特に旧約聖書は新約聖書の光の中にあってどういう位置づけにあるのかを探りながら読んでいく必要があります。両方が大切なのです。私たちはバランスを持って読んでいきたいと思います。