2018年1月7日 主日礼拝「ギデオン」

本日の聖書箇所

士師記6章、7章

説教題

「ギデオン」

今週の聖句

勇士よ。主があなたといしょにおられる。

士師記6章2節
 
 
訳してみましょう。
1949 God provides the strength we need to persevere and grow.
(神は私たちに必要な忍耐と成長のための力を与える。)
1950 God alone is worthy of our worship.
(神はただおひとり、私たちの礼拝の価値がある。)
 
 

説教メモ

1.選ばれたギデオン

士師記には多くの勇士が出てきます。サムソンなど皆さん良くご存知でしょう。そのサムソンと並んで聖書箇所を多く割いて記されているのが今日のギデオンです。6〜8章にわたっています。
ギデオンとは「伐採者」あるいは「切る者」という意味です。私たちは勇士としてギデオンを知っていますが、その性質は元来臆病でした。

ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
(士師6:11)

ギデオンは自分たちを襲いに来たミデヤン人を恐れて隠れていました。どちらかと言えば内向的な人でした。
ミデヤン人と聞いて何か思い出すことはないでしょうか。モーセがエジプトから逃れたのがミデヤンの地です。そこでイテロというミデヤン人に仕え、40年間彼の羊を飼いました。イテロの娘チッポラを妻としました。ですからミデヤン人はモーセと非常に関わり合いの深い人たちです。またミデヤン人はイスラエル人と遠い親戚にあたります。ミデヤン人は、アブラハムがサラの他にケトラと言う女性と結婚しましたが、そのケトラとの間に生まれた4番目の息子に由来します。そして、後にミデヤン人が自分たちの宗教、バアル信仰を持ち込みました。
イスラエル人はミデヤン人を恐れていました。そんなミデヤン人が襲ってきつつある。その時、ギデオンは恐れて隠れていました。敵の攻撃を避けて一人身を隠す姿は、臆病であり、卑怯であるようにも見えます。
そんなギデオンの前に御使いが現れて言いました。

主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
(士師6:12)

それを聞いたギデオンは、自分に対する皮肉にしか聞こえなかったのではないでしょうか。そしてギデオンは御使いに現状を嘆きました。主の民である自分たちの不幸のわけを問うたのです。しかし御使いは言いました。

すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
(士師6:14)

このように命じられました。それはモーセの召しと少し似ています。ギデオンは必死に「自分には出来ない」と訴えました。無理だと。彼は自分の家系が部族の中では小さく弱い事を主張します。しかし神さまはしばしば、「弱く無に等しい者」を選ばれるのです。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(Ⅰコリント1:26〜29)

このように書かれています。
自分もそうだ、と皆さんお思いでしょう。こんな弱く、無に等しい私を神さまは選んでキリスト者としてくださった。そのような思いは皆さんの中にあるのではないかと思います。
神さまの選びとはそのようなものなのです。
ギデオンの家系は部族の中でもとても小さくて弱いものでした。ギデオン自身も、誰からも勇士だとは思われないような普通の人間でした。かえって弱い者だと自覚していた者でした。一番小さな部族、その末っ子に等しいようなギデオンを神さまは選ばれました。そしていきなり「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と言われたのです。
驚いたのはギデオン自身でした。
それでギデオンは、何回か主にしるしを求めています。

  • ギデオンが持ってきた料理を、火が岩から燃え上がって焼き尽くす(6:21)

このことによってギデオンは、主の使いであることが分かりました。そして小さな宗教改革をしました。バアルの祭壇を取りこわし、そのそばにあったアシェラ像を切り倒し、新しく祭壇を築いてその上で雄牛をささげました。すると町の人々が騒ぎ出しました。

そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ。」と言った。
ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」
すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」
こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。
(士師6:29〜32)

こういうことがありましたが、ギデオンは完全に納得しませんでした。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら」と、なおもしるしを求めました。

  • 羊の毛の上にだけに露を降ろす(6:36〜37)

まだ納得しません。

  • 今度は羊の毛だけがかわいていて、土全体に露が降りるようにする(6:39〜40)

それらのしるしがギデオンに与えられました。
つまり神さまは三つのしるしをギデオンに見せ、彼を励ましてくださいました。
ギデオンはこれらのしるしを見て、段々と神さまが自分を用いてミデヤン人と戦わせるのだということが分かってきました。そして自分に賛同して出てくる者は集まりなさいと、号令をかけました。その時集まってきた人たちは3万2千人でした。
そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
(士師7:2〜3)
神さまは人が多すぎるので、恐れおののく者を帰らせろと言われました。すると2万2千人が帰り、1万人が残りました。すると神さまは「まだ多すぎる」と言われ、水の飲み方で、「犬がなめるように、舌で水をなめる者」また、「ひざをついて飲む者」も残らず帰らせるようにと命じられました。
すると、300人だけが残されました。神さまは残された300人のみでミデヤン人と戦わせようとされました。
さて、この場面において、ギデオンは神さまに何の疑いも抱いていません。

ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。
(士師8:10)

ミデヤンの勢力は13万5千人でした。ですから最初の3万2千人でさえ少ないと感じます。不利です。しかしギデオンは段々とこの戦いは神さまが戦ってくださるものなのだという確信を得ていきました。神さまは、ギデオンが自分の力ではなく、神さまが戦ってくださるのだというように、ギデオンの心を整えてくださいました。
ギデオンはしっかりと神さまを信じました。ギデオンは主の約束を受け取ることができました。
 
 

2.選ばれた300人

その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
(士師7:9〜11)

神さまはギデオンを助けるためにプラという人物をお与えになりました。二人で陣営に下っていくと、ある会話が聞こえてきました。

ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまではいり、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」
(士師7:13〜15)

13万5千人の陣営の心は萎えてきていた。そのことが分かりギデオンは確信しました。
ところで、「プラ」とは「堂々たる」という意味です。残った300人のうちの一人でした。神さまは残された300人の名前さえも覚えておられました。
ギデオンとプラは陣営の中で一人の男の夢の話しを聞きました。それを聞いた敵の仲間は、自分たちはギデオンとイスラエルの神によって打ち負かされるのだ、言いました。ギデオンは神さまの御声と敵の証言によって勝利を確信しました。恐れを払拭できました。
その時、ギデオンは敵の陣地の中で神さまを礼拝しました。これは驚くべきことです。敵の陣営のまっただ中ではありましたが、主を心から褒め称えるべき光景を目の前にして、そこは主を褒め称える礼拝の場となりました。これはなかなか出来ないことです。
真夜中になってギデオン率いる300人は角笛とからつぼとたいまつをもってミデヤン人を威嚇しました。その奇襲が功を奏し、ミデヤン人たちは同士討ちを始め、主のお言葉どおりイスラエルは大勝利を収めました。
 
 

3.ギデオンの戦い

ギデオンはこの戦いにおいて何をしたでしょうか。
彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。
(士師7:16)
ただこれだけのことです。自分が槍などの武器を持っていたなどとは書かれていません。からつぼを叩き割ったその音がミデヤンの敵の陣地に響き渡りました。それでミデヤン人は恐れて同士討ちを初めて自滅してしまいました。
 
 
私たちにはどのような適用ができるでしょうか。このお話しは私たちにとってどのように適用されるのか。
一つは、神さまは臆病なギデオンを召し出された時のように、私たちの内に勇士の姿を見られます。私たちは周囲の人たちの評価や過去の成績で自分自身を値積もりしてしまいますが、神さまは私たちの能力、経済、環境、年齢などを度外視して、全く異なる私たちを見ておられます。私たちは自分が自分を一番良く知っていると思いがちですが、神さまの方が私という人間を良く知っておられます。自分では気付いていないことを神さまは見ておられます。それを掘り出して頂くには、卑屈な思いを捨てて自分を差し出すことが必要です。そうすれば私たちではなく、イエス様が私たちの内に生きていてくださる。私たちは「主があなたがたとともにおられる」という約束を信じ、主の呼びかけに応答し従うからこそ、ギデオンのような結果が伴うのです。
そしてまた、

すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
(士師6:14)

「あなたの力で行け」と命じられます。自分の力だけで何とかしなさい、ということではなく、自分の無力さ、弱さ、小ささを恐れず進み行けば、主がともに行って戦ってくださるということです。あるがままで何もしなくて良いというわけではありません。「主と共に行動しなさい」ということです。
神さまは私たちをそのままの姿で召し出してくださいます。自分では弱いと思っていても、神さまは弱さの中の本当の私たちの姿を見ておられます。自分は弱い、無力だ、まだ若い、年を取り過ぎている、時間がない、などと行って尻込みしている限り、主が私たちに願っておられるような私たちにはなれません。
今のままの状況のままでも主に仕えるなら、あるがままの姿で主に仕えるなら、私たちに主が用意された勇士への道が始まっていきます。
「勇士よ。弱さを抱えたままで仕えなさい。わたしがあなたを遣わす」と言われる主に応答していきましょう。そうすれば段々と信仰がはっきりとさせられて行きます。
ギデオンと共に出てきた3万2千人。神さまは「この数を減らせ。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」と主は言われました。そして最終的に注意深く慎重な300人だけが残されました。この300人でギデオンはミデヤンに大勝利しました。100人の内一人でも本気で信仰を働かせるなら、驚くべきことを起こさせるはずです。アブラハムはかつて、創世記18章において、神さまに「ソドムを滅ぼす」と言われました。その時、「もしこの町に、最終的に10人の正しい人がいたとしたら、神さまはどうされますか」と神さまを試しました。しかし神さまは「その10人のためにこの町を滅ぼさない」と言われました。10人でも正しい人がいれば神さまは町は滅びから守られるのです。皆さんは主が私たち一人ひとりをその10人に数えられることを願うでしょうか。

その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
(士師7:9)

このギデオンの戦いは主のための戦いでした。私たちクリスチャンにとって、主の民の戦いは、主への礼拝行為です。
主のことばにすべて従ったギデオンに、神さまは「この敵の陣営をあなたの手に渡した」と言われました。約束され、勝利の印も与えられました。ギデオンはそれに応えて実際に戦場で礼拝を捧げました。こうして戦いの準備が整うと、あとは角笛を吹き鳴らして壺を打ち砕くだけで主が勝利を与えてくださいました。
見てまいりましたとおり、主は忍耐強くギデオンの弱さに関わってくださいました。ギデオンは何もないところから主のことばに従うだけでスタートしました。失う者がなければ安心して主の業のために自分を投じることができます。無力なときほど主の力を見る機会となり得ます。
私にはまだ力がある。まだ財力がある、人々の信頼がある、私はまだ大丈夫だと、そう考えている内は、神さまは私たちをお用いになりません。本当にどん底に陥り、自分は無力だと思い知らされたとき、神さまは私たちを用いられるのではないでしょうか。ギデオンはそうでした。ギデオンは神さまに頼るほかない、そんな状況でした。仕方なく頼ったのではありません。神さまは段々とギデオンの心を主の御心と近いものとしてくださいました。そしてわずか300人でミデヤン人と戦うことができました。私たちもこの世にあって、適用していかなければならないのではないでしょうか。

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