2018年2月11日 主日礼拝「ホセア」

本日の聖書箇所

ホセア書1章

説教題

「ホセア」

今週の聖句

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。

ホセア6章3a節
 
 
訳してみましょう
1959 Purity in the heart produces power in the life.
(心の中の純粋さは人生の中で力を生む。)
1960 Prayer is the child’s helpless cry to the father’s attentive ear.
(祈りは、父親の注意深い耳に対する子どもの無力な叫びです。)
 
 

説教メモ

いきなりクイズです。2月14日は何の日でしょうか。バレンタインデーですか?
2018年2月14日は「レント」、日本語では「四旬節」の始まりである「灰の水曜日」です。イースターまでの、日曜日を除いた40日間がレントの期間です。それが終わると「イースター」となります。今年は4月1日となります。
 

1.ホセア

ホセア書を読んだことがないという人がおられても不思議ではないかもしれません。先週はアモスのお話をしました。年代的にいえばホセアよりもアモスの方が10年くらい早いのです。大体の旧約の流れを頭に入れておいて下さい。ダビデが死んでソロモンが王となり、ソロモンが死んだ後にイスラエル王国は南北に分裂してしまいました。北イスラエルはやがてアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。紀元前721年です。南ユダはしばらく継続しますけれど、やがてバビロンによって滅ぼされてしまいました。紀元前586年でした。
ホセアについてイントロダクション的に見てまいりましょう。

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。
(ホセア1:1)

ユダの王とは南ユダの王のことです。イスラエルの王とは北イスラエルの王のこと。この時、北イスラエルではヤロブアム二世が王でした。ホセアは北イスラエルに遣わされた預言者でしたが、いきなり南ユダの王の名が出て来るのは、ホセア自身は北イスラエルで活躍したにもかかわらず、南ユダの王が列挙されているのは、ユダ王朝こそダビデ家の正統な継承者であるとの考えに基づいているからです。
ホセアについては「ベエリの子」であることしか紹介されていません。
 
 

2.ホセアの結婚

主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
(ホセア1:2)

何とも驚くべきことが主から語られました。3節を見ますとその女の名はゴメルであると書かれています。ショッキングなことです。皆さんがこれから結婚しようとしている時に、神さまから「姦淫の女をめとりなさい」と命じられたらどうするでしょうか。冗談じゃないと思うのではないでしょうか。あまりにも常識から外れていることです。これは事実だと考える人もいれば、これは事実ではなく、ただお話しとして書かれているのだと考える人もいます。私は聖書がこのようにいっている限り事実として受け止めたいと思っています。事実説の中にも次のような考えがあります。

  1. ゴメルは結婚後に姦淫の女となった
  2. 結婚前から姦淫の女であった
  3. 神殿娼婦であった
  4. 宗教的姦淫(異教礼拝)の女を指している

等の説がありますが、おそらく事実説の(2)と解するのが自然であると思われます。
主が言われることだから。それだけのことでホセアには納得がいったのだと思います。彼は何の反発もせずに神さまの命令に従いました。それでイズレエルという男の子が生まれました。次の子はロ・ルハマという女の子、次がロ・アミという男の子が生まれました。
 
ホセア書のメッセージを一言で言うと「イスラエルは回復する」という、神さまからの愛のメッセージです。
姦淫の女ゴメルというのは、イスラエルが真の神さまがおられるのに、他の神々(つまり偶像)にうつつを抜かしていた時代、特に北イスラエルはそのような時代でした。そういう意味でイスラエルは姦淫の罪を犯していました。そこから真の神さまに立ち返る時が来るのだというホセアのメッセージです。そのことをホセアは地で行っているのです。
 
 

3.アモスとホセア

先週はアモスを見ました。アモスとホセアを対比してみたいと思います。
アモスが神の正義の預言者であるとしたら、ホセアは神の愛の預言者でした。さらに、神からのメッセージを受け取る仕方も二人それぞれに異なっていました。アモスに対しては、神は直接語りかけました。「行って、わたしの民イスラエルに預言せよ」(アモス7:159。しかしホセアに対しては、彼の結婚生活が破綻する痛みを通して、神はメッセージを伝えました。
ホセアの預言の鍵となることばは、おそらく

主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
(アモス3:1)

妻ゴメルに対するホセアの愛と花嫁イスラエルに対するヤハウェの愛とを並べてみせるこの描写は、ホセア書を理解するためには必要不可欠な箇所です。ホセアはなんとも辛い生活を送っていたことでしょう。
ゴメルがどのようにして過ちを犯したのかは必ずしも明確ではありませんが、イスラエルがヤハウェを捨てたように彼女がホセアを捨てたこと、そしてヤハウェがイスラエルを再び家に帰らせようとしたように、ホセアが妻を引き戻そうとしたことは明らかです。
イスラエルの不誠実さは、ヘブル語「ヘセド」がなかったというふうに描写されています。ヘセドという語は「あわれみ」とか「愛情溢れる優しさ」といった意味で訳されることが多いのですが、基本的には契約に対する誠実さを意味しています。ですから「揺るがない愛」と訳すのが一番良いと思われます。これはイスラエルに対するヤハウェの思いをあらわいている「わたしは誠実(ヘセド)を喜ぶ」(ホセア6:6)。ヤハウェの嘆きをも表している「この地には真実(ヘセド)がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ」(ホセア4:1)。では、代わりにあるのは何でしょうか。「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと盗みと、姦通がはびこり」(ホセア4:2)。言い換えれば、契約の命令への違反ばかりがあるのです。そのために「この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっている」(ホセア1:2)状態にありました。そのような状態から悔い改めて、真の神さまに立ち返るようにとの呼びかけがされています。神さまはイスラエルを求め続け、「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ」(ホセア2:19)と約束しておられるのです。
この神さまの同じ嘆きと呼びかけとは、今日でも私たちに対してなされているのだ、とジョン・ストットという人は言っています。
イエス様はエペソの教会に語られました。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう
(黙示録2:4〜5)

これはエペソの教会だけでなく、今の私たちにも語られていることです。私たちは神さまのただ憐れみによって主を知らされて、十字架の血潮が私たち一人ひとりの罪の解決のためであったということを知らされ、それを信じて受け入れ、神の子、クリスチャンとなりました。クリスチャンになったからそれで良いというわけではありません。なおも罪を犯し続けてしまう自分がいるということを、皆さんお気づきになっておられると思います。なぜ罪を犯し続けてしまうのでしょうか。
私は半分百姓をしています。それを通して実物教育をさせていただきました。それが私が何度も講壇から語っている「長芋の福音」です。長芋の種芋は、自分の養分がすべて新しい長芋に吸収されて、自分はと言うと、干からびて、縮んで、何の価値もなく死んだような姿に変わってしまいます。罪に死ぬということは、罪にとっては何ら価値のない私たちです。罪は罪に対して死んだ私たちに対して何も求めることもできません。罪に死んだ者は、もう罪を犯すことができないのです。罪を犯す力も能力も何もないのです。死んでしまったのですから。
ではなぜ、クリスチャンはイエス様の十字架によって罪の解決をしていただいた、私たちの身代わりとなってイエス様が十字架で血潮を流し死んでくださった、それによって私たちは救われた。それなのに、なぜ罪を犯し続けてしまうのでしょうか。それが一つの大きな問題です。一度罪に対して死んだ者が、なおも罪の中にとどまって生きていられるのでしょうか。

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
(ローマ6:1〜2)

罪に死ぬとはどういうことか。実物教育を通して現実を知っていただけたのではないかと思います。そうしたら、私たちは日々、パウロの勧めを覚えなければなりません。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

私たちには罪を犯さない自由が与えられています。そのことを毎日毎日、言い聞かせて行かなければなりません。これがクリスチャンになってから罪を犯さなくて済む秘訣です。罪を犯してしまうのは、それは気のたるみがあるからです。罪を犯そうと思った時に、このみことばを思い起こしてください。そのようにして、毎日毎日を神さまの前に積み重ねていってください。
 
 
 

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6〜7)

クリスチャンにとって偶然などありません。このことを覚えておいてください。すべてのことは自分の考えや意思によって動いているのだと私たちは思いがちですが、実はその中に、神さまの驚くべき摂理とご計画が隠されているのです。しかしある人にはそのことが分かっていません。分かっている人もいます。しかしそのことを知っていようと知っていまいと、神さまが愛される私たちに対しては、神さまの驚くべきご計画がいつも共にあるということです。イエス様を心から知るようになれば、何故神さまは私たちをこの現実の中におかれたのかを悟ることになります。そうして初めて、私たちの周りの環境が私たちを幸せにするのではなく、キリストが私たちを幸せにするのだということに気付いていくのです。何もかもご存知の神さまが、この今、問題がありそうな境遇の中に働いてくださっている。神さまは私たちの心を守ってくださる。私たちの心をしっかりと掴んでいてくださる。その祝福は計り知れません。嵐の中でも神さまは私たちと共におられるゆえに、恐れるものは何一つありません。

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