2020年6月3日 祈祷会「最後まで主に従う」

Ⅰ列王記20章22〜43節

 〈あの預言者〉(22)は13節の預言者で、主による思いがけない勝利の預言を語った。その目的は〈わたしこそ主であることを知る〉ためだった。そして実際にアハブは思いがけない勝利に与った。預言者はアハブが酔うことのないように、次の年の攻撃に備えるように指示する。
 一方、負けたアラム側では逆襲について話し合われていたようである。指導者であるベン・ハダテは死なずに逃げており、当時ではそういった場合に再度兵力を整えて逆襲しようとすることは珍しいことではなかったらしい。

 アラムの王の家来たちは「神」の名を持ち出す。彼らの思考法は宗教的のようだが、内容を読み進めると決してそうではないようである。負け惜しみといったところか。体制を新しく整えれば勝てると考えた。それはほとんど人間の考え方による策略だった。一回目の戦いでは地区を治める王たちが指揮に当たったが、王たちは自分の地区の繁栄を求めていて、兵を惜しんだから思いっきり戦えなかったのだとか、王たちは軍人ではないからだめだったのだとか、今度は総督をその指揮に当たらせるなら、その人は自分の出世を第一と考えるからきっと活躍するだろうとか考えた。軍勢と馬と戦車を前回と同じ数に補充して、平地で戦うことができたら、〈きっと私たちの方が強いでしょう〉と自信たっぷりに言った。ベン・ハダテはその言葉を聞いて〈そのようにした〉。
 冒頭に「神」を臭わせる会話があったけれども、最終的には神さまの「か」の字も出てきていない。相変わらず自分たちの知恵と力だけを頼る。しかし全知全能の神さまはその場におられ、すべての会話を聞いておられた。→28節。

  神さまが言われた通り〈翌年〉戦いが起こった。このことからも神さまのご計画によることが分かる。その計画とはやはり「わたしこそ主であることを知る」ことである。
 軍の勢力は圧倒的な差があり、それが強調されている。イスラエルの人間的、物質的弱さを目の当たりにしている。それは〈わたしこそ主であることを知る〉機会である事を明らかにしているのではないか。
 それを知るべき人とは、13節ではアハブに対して〈あなたは〉と言われていたものが、〈あなたがた〉(28節)となっており、「あなたがた」とは誰を指しているのか考えさせられる。アハブであり、またベン・ハダテであり、イスラエルの人々であり、アラムの人々ではないか。また、この物語を伝え聞いたすべての人々、聖書を通して伝え聞いているすべての人々であろう。さらに〈わたしこそ主であることを知る〉べき人々は、まだ何となく「神概念」がありながらもはっきりとしていない人々、呼び求めたくても呼び求めるべき名を知らない人々。そのような人々には、すでに知らされている人を通して知らされなければならないのであろう。

 日曜日にはペンテコステを記念したけれども、私たちは預言者とされているのだ。そして預言者に対して神さまは重すぎると思える責任を与えておられる。 アハブは主の力により二度目の奇跡的勝利をおさめた。

【みことばの光から】
 アハブは主の力による二度の勝利で、アラムに対して圧倒的に優位な立場に立った。アラムの家来たちはそれを逆手にとって、どんなに卑屈な手段を用いても命乞いをするように王に助言する(31)。彼らの予想は的確だった。アハブは自ら「彼は私の兄弟台」と言ってのけてベン・ハダテの罪を問うこともなく、温情的な対処でアラムに有利な契約まで結んだのである(33-34)。主がもたらした勝利である事を無視した浅はかな判断であった。聖絶を意味した〈すべてあなたの手に渡す〉(28)という主のことばを軽んじたのである。

 なぜアハブは温情的な対処をしたのか?
 面白い考察がされていたので紹介したい。「劣等感と優越感の間で」というタイトルである。ベン・ハダテへのアハブの態度は彼の心理的な状態が大きな要因となってのことと思われると言うのである。強烈な個性のシドン人の妻イゼベルとの関係でいつも劣等感を強いられていたことはほとんど疑い得ないのではないかと。エリヤへの憎しみもイゼベルへの屈折した思いの裏返しのような面があったのではないか。 それで、20章最初の方のアラムの王からの脅しは彼を屈辱感をもって行き場がないような追い詰められた気持ちにさせたのではないか。そのアラム王に命乞いをされたのである。

 アハブは久しぶりの優越感の素晴らしさに酔うような状態だったのではないか。神はご自分が主であることを改めて知らせるためにアハブに勝利を与えられた。彼の勝利は主の御旨が行われるためであった。それはベン・ハダデの排除、聖絶のためでもあった。アハブのその時の感情が邪魔をしてしまった。感情が敵となり、主の命令よりも自分の判断を優先させてしまった。聖書は明らかにこれを失敗、罪としている。

 35節からは、感情が敵となること、主の御心よりも自分の感情からの判断が罪となることの例として預言者が用いられているのではないか。
 〈預言者のともがらのひとりが、主の命令によって、自分の仲間に「私を打ってくれ」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。〉なぜ拒んだのか。その理由は明らかにされていないが、私たちは拒んだ預言者の仲間の気持ちが想像できるのではないか。そこにも感情の問題があっただろう。
 拒んだ仲間は獅子に殺されてしまった。なんと理不尽なと思わされる。けれども自分の感情に打ち勝って主の御声に従わなければならないのだという、預言者には重すぎる責任が負わされていることを覚える。その命令が主の御声であることが確かである時、そしてその命令に聞き従うことが、神と隣人とを愛する全き愛による動機であることが確かに確認出来た時、私たちはその責任を間違いなく果たせるのであろう。

 人間の良識や判断を優先させてはならない。それは本当に難しいことで、祈りと主の守りが必要である。

 アハブはベン・ハダデに恩を施すことができて意気揚々としていたのか。しかし預言者の宣告の言葉を聞いて激しく怒ってサマリヤの自宅に戻った。そこは自分のなじみのところ。居心地を優先。
 イエス様はヨハネの福音書でこのように言われた。「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分の所に帰り、わたしを一人残します」。自分の所に帰ることについて考えさせられるところである。

 みことばの光の最後にも、〈あなたはあなたの考えではなく、主のことばに従っているだろうか。〉とあり、また祈りでは〈一つ一つの出来事において、最後まで主に従うことができますように〉とある。

  感情というものも目に見えない霊的な問題。決して自分の感情がすべて悪なのではないと思う。そこには悪霊、サタンとの戦いがある。

 もう一つ覚えたいこと。アハブはイスラエルの歴代の王を紹介する中で「最悪」と評されている。そんなアハブに、神さまは何故何度もチャンスを与えたのか。不思議に思ってはならない。なぜなら私もまたアハブに注がれた同じ憐れみを注がれているからである。神さまの目から罪の大小は関係ない。また憐れみの大小もない。

(担当:佐藤伝道師)

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