2020年12月27日 主日礼拝「ヤコブからイスラエルへ」
本日の聖書箇所
創世記32章22〜32節
説教題
「ヤコブからイスラエルへ」
今週の聖句
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
創世記32章27節
訳してみましょう
2057 Jesus answered, “I am the way and the truth and the life.”
2058 Dear God, I want to trust You for eternity. Thank you for the salvation found in Jesus alone.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 58番「かみよみまえに」(※今週の讃美歌)
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 409番「おやみもあらぬ」(※今週の讃美歌)
聖 書 創世記32章22〜32節
説 教 「ヤコブからイスラエルへ」佐藤伝道師
讃美歌 399番「なやむものよ」(※今週の讃美歌)
献 金 547番「いまささぐる」(※今週の讃美歌)
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」(※今週の讃美歌)
祝 祷
動画はこちら
説教「ヤコブからイスラエルへ」
佐藤伝道師
アドヴェントを過ごし、クリスマス礼拝が終わって、燭火礼拝が終わってと、感謝のうちに一連のクリスマス行事が守られて、正直、少しだけほっと一息と言ったところではないでしょうか。クリスチャンこそクリスマスにじっくり向き合って、静かに、喜んで過ごしたいところだと思うのですが、日本に暮らすクリスチャンはクリスマスの時期、何かと忙しいですよね。聖夜、聖なる夜などと言いますけれども、一番聖夜を満喫しているのは世の恋人たちかもしれません。何かおかしいですよね。しかし今年はコロナの影響で、例年よりは少し落ち着いた雰囲気の中でクリスマスを過ごせたといった部分もあったのではないかと思います。「闇は光の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」。主はどんな状況であっても勝利されるのだと思わされます。
伝統的な教会のカレンダーでは、アドヴェントの第一主日から新しい一年が始まるとされていますけれども、日本で暮らす私たちにとって、やはりどこかカレンダーの終わり、12月31日が一つの区切りかなぁと、私なんかは感じてしまいますが、皆さんはどうでしょうか。日本ではクリスマス休暇というものはありませんし、普通に年末の忙しさ、慌ただしさの中でクリスマスの準備、礼拝、普段の年でしたら祝会とか特別なクリスマス集会の準備や開催でてんやわんやと言ったところでしょう。クリスマスの一連の行事が終わると、どこかホッとしてしまう自分がいます。
この世的と言いますか、一般的に、例年であればテレビ等ではクリスマスの特別番組が終わって、次は年末の特別番組が始まります。この一年を振り返ってなどといったような報道番組も多く見かけるようになるのではないでしょうか。一年を振り返るとなると、不信仰だと言われてしまうかもしれませんが、やはりクリスマスが終わって一段落した今の時期ではないかと思います。
本朝は2020年最後の主日礼拝となります。まだまだ仕事納めとか、大掃除とか、年末のご挨拶だとか、色々と忙しさの中にある今日ではあると思いますが、ひととき、慌ただしさの中からこの時間を聖別していただいて、心静かに、神さまに思いを向けて、これまでの振り返りの時、そして祝福をいただく時となれば幸いと思います。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今年は特に、コロナ禍における多くの試練、また試みがあり、色々と揺さぶられる一年でありました。しかし今年もここまで、主が変わらずに私たち一人ひとりと共にいてくださり、一歩一歩守り、導いてくださいましたことを覚えて心から感謝致します。2020年最後の主日礼拝となりますが、この朝、一年の歩みを振り返りつつ、自分自身を見つめ直し、そして主からの新たな祝福を賜りますようにお願いをいたします。みことばを祝福してお与えください。聖霊様が臨んでくださり、みことばの前にへりくだる私たちとしてください。そして注がれる祝福を信仰と従順をもって受け取る者としてください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
ローマ書の前回からの続きを、とも考えたのですが、今年最後の主日礼拝ですので、少しこれまでの私たちそれぞれの歩みを振り返るということを覚えたいという思いが与えられ、ローマ書の続きは来年から仕切り直しというのことにさせていただき、本朝は旧約聖書の中でも結構有名なところ、ヤコブが神さまと格闘して、イスラエルへと名前が変えられたところから見てまいりたいと思います。
ところで、先日ある方のお話しを聞いていた中で、「神の民のことをユダヤ、ヘブル、イスラエル、このような呼び方があるのですが、ちょっと混乱しないでしょうか」というものがありました。結局のところ、これらすべて同じ意味だと説明されていました。厳密に言うと、神学とか歴史とか、色々とあるのですが、ここではその言葉の意味と、社会学的にはっきりと使い分けられているということなのですが、どういった時にどの名称が使われるのかを簡単にご紹介したいと思います。
まず「ユダヤ」の意味ですが、「イェフディー:感謝・賛美」という意味から来ているということです。使用場面としては、民族を表すときに使われます。私たちはユダヤ民族と良く用います。次に「ヘブル・ヘブライ」ですが、その意味は「川を越えてやって来た人、よそ者」という意味です。使用場面としては、ユダヤ人が他の民族に対して自己紹介をするシーンで使われます。そして文化、言語について指す場合に使われます。ヘブル語とか、ヘブライ文学とか言います。ユダヤ語とかイスラエル語とは言わないと思います。最後に「イスラエル」ですが、意味としては「イスラ:戦う」「エル:神」つまり「神と戦う人」という意味です。使用法としては、国家、国、国籍を表す時に使われます。イスラエル国籍のユダヤ人、イスラエル国籍のアラブ人などと使います。興味深いことに、パウロはユダヤ人も異邦人もすべてのクリスチャンのことを「霊的イスラエル」、「キリストを信じる者が真のイスラエル、霊によって生まれたイスラエル」と言っています。クリスチャンは霊的神と戦う人。キリストを信じる者が真の神と戦う人、霊によって生まれた神と戦う人と言うのです。意味的に妙に納得と言いますか、考えさせられるところではないでしょうか。
さて、今日の箇所の背景ですが、ご存じの通り、ヤコブが兄のエサウと再会しようという場面です。ヤコブは兄を騙し、長子の権利、そして年老いた父を騙した上に、父がエサウを祝福しようとしたその祝福を奪いました。エサウは憤り、ヤコブを殺してうっぷんを晴らそうとしました(創2742)。その計画を知った母リベカは、エサウの憤りがおさまるまでヤコブをリベカの兄、ラバンのもとへ逃がしました。ヤコブはその地で結婚し、子どもをもうけ、多くの財産を持つようになり、そしてある日、神さまがヤコブに言われました。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい」(創313)。それは神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの約束を果たされるため、神さまが約束通りヤコブを祝福してくださるためでした。
32章に入って、ヤコブはエサウに前もって使者を送りました。すると不吉な知らせが届いたのです。エサウが400人を引き連れてやって来ると言うのです。そこでヤコブは非常に恐れ、心配しました。それで色々と策を講じました。もしエサウが来て一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営は逃れられるようにと、自分がこれまで得た財産である家畜を二つに分けました。それからヤコブは神さまに必死になって祈りました。しかしその後も、知恵を絞って色々と策を講じました。
それから一度は安心したのでしょうか。ヤコブは眠りについたようです。しかし、やっぱり心配で、どうにも恐ろしくて、また夜中に起き、他の家族も起こして行動に出ました。行動せずにはいられなかったのでしょう。
32章22節 しかし、彼はその夜のうちに掟、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32章23節 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
ヤコブは主に必死になって祈っていますから、確かにヤコブの心の中には主への信仰がありました。しかし同時に人への恐れ、兄イサクに対する恐れもありました。32章1節にありますが、たとえ旅の途中で神さまの憐れみによって霊の目が開かれて、神の陣営、神の使いたちの大群衆を見て、「あぁ私は守られているのだ」と励まされても、それでも再び湧いてくる恐怖が拭えませんでした。そして、さらにヤコブは自分の知恵と力、持ち物に頼る思いを捨てきれませんでした。ヤコブの心の中にはまだ「自我」というもの、「自分」「我」「私」が王座を占めていたのでしょう。そのために、ヤコブは主に祈りつつも、励まされつつも、主に完全に委ねきることができず、不安と恐れに勝利することができなかったのです。私たちの多くがこのような状態にあるのではないでしょうか。
人というのは、と言いますが、私などは、祈って後に、自分自身のために計画を立てやすいものです。しかしそれよりもはるかに優れているのは、祈った後に、神さまがご自分の計画を明らかにして私の考えも及ばない道に導かれるまで、じっと待つ態度なのかもしれません。自分の計画を立てるのではなく、神さまの計画、御心に従うのが一番良い道なのだと、それが分かっていてもなかなか出来ない。待っていられない。自分の計画を立ててしまう。いや、やはりそれでは駄目だ、と。そこに激しい戦い、格闘が起こるものです。その格闘の相手とは、やはり神さまでしょう。神さまと私、神さまと自我との取っ組み合いです。
32章24節 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ヤコブは一人、引き返して来ました。自分一人だけが助かりたかったのでしょうか。そうではありません。ヤコブは本当の不安の中、一人だけになりたかったのでしょう。誰にも話しかけられたくない。誰にも邪魔されたくない。家族であっても、親しい人であっても、自分自身の不安と戦う邪魔をされたくない。喧噪から遠ざかって、何とかただ一人になって、神さまと交わり、神さまからの解決を得たい。そう考えるヤコブの思いにも同情できるのではないでしょうか。私なんかは説教の準備をする時には、やはり一人になりたいのです。最近は数日前から私の様子が変わりまして、部屋に閉じこもって、さらに耳栓もして準備しています。
私たちは、神さまによって深く取り扱われるために、ただ一人になる必要があるのではないでしょうか。私たちの主であるイエス様も、しばしば重要な決断をされる時などはひとりになって、また十字架を前に深い悲しみ、恐れの中では弟子たちから少し離れて、ひとり父なる神さまとの交わりに専念されたではないですか。
ヤコブは一人になりました。すると、ここからある人との夜明けまでという長い長い格闘が始まりました。不思議な出来事です。夢か現実か。霊的体験なのか、肉体的体験なのか。本当に不思議な体験です。しかし30節でヤコブ自身、この格闘は神さまとの格闘であったことを認めています。また聖書は魂、霊と肉体は一体であると言っています。この不思議な体験は神さまを知り、神さまとの交わりを持つ信仰者にとってはちっとも不思議な体験ではないのかもしれません。しかも、みことばによって探られるとか、心に刺さって痛みを覚えるとか、誰もがそういった経験をしているのではないでしょうか。
32章25節 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
最初はエサウに対する恐れや不安の解決のための格闘でした。その解決のために神さまとの格闘の中で、もものつがいが打たれてはずれました。もものつがいは、人が自分の足を使って歩くために必要な器官です。歩くのに一番力が加わるところです。そこを打つということは、ヤコブの中の「私が」というもの、自我を打ち砕いたということです。もはや自分の足で、自分の力で歩くことができない。
ヤコブは自分で自分の自我を砕くことはできませんでした。神さまだけがヤコブの自我を打ち砕くことができました。神さまの方から砕いてくださいました。
ヤコブのもものつがいが打たれてはずれた時、つまり神さまによって自我が打ち砕かれた時、ヤコブは神さまの祝福なしに生きて行くことができない自分に気付いたのでしょう。そして祝福を祈り求めたのです。
私たちの祈りでも同じことが起こるのではないでしょうか。様々な問題の解決を求めつつ、最終的に心から口にする祈りというのは「主よ、祝福してください」なのではないでしょうか。
神さまは私たちを祝福するために、その邪魔になるものを打たれます。ヤコブの場合は自我でした。自分の知恵と力、捨てきれない自分の持ち物に頼る思いでした。それらが神さまの祝福を邪魔していたのです。
32章26節 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
ヤコブは祝福を求めて神さまと格闘しています。掴んで離さないのです。神さまに望みを置いて、からみついてからみついて離さないのです。必死です。必死に去らすまいと、祝福してくれるまで絶対に離すまいと、相手のどこかを力一杯しっかりと掴んでいるようです。もものつがいが打たれてはずれたヤコブ。もう這うしかありません。その場から去ろうとする神さま。這いつくばったヤコブが必死になってどこを掴むかと言ったら、神さまのかかとあたりだったのかもしれません。その時です。
32章27節 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
もしかしたら神さまのかかとあたりを何とか必死に掴んで離さないヤコブが、その時、自分の名前を問われました。そして自分の名前を答えた時にハッとしたのではないでしょうか。
「私はヤコブ。兄のかかとを掴んで、押しのけて生まれてきた。それでその通りの『かかと』という名前がつけられた。その名が示す通り、かかとを掴む者。人を押しのける者。騙す者として生きてきた。兄の弱みにつけこんで長子の特権を得た。父を騙し、母の愛を利用した。騙した自分が逆に騙された。それでも巧みに、ずる賢く、抜け目なく財産を増やして来た」。
ヤコブはこの時、これまでの自分というものに振り返らされたことと思います。そして気付いたのでしょう。
「これまで、私の不安や恐れ、そのような神さまからの祝福を遮っているのは、自分ではない他のものだと思っていた。両親や兄、義理の父、子どもが欲しいとせがみ、争いの絶えない嫁たち。自分を取り巻く環境、状況。しかし本当は自分の中に原因があったのだ。自己中心、自我、私というものが心の王座を占めていたことによるのではなかったか」。
そして答えるのです。「私の名前はヤコブです」。「私の名前は罪人です」。ヤコブの心からの告白ではないでしょうか。
32章28節 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ。」
この格闘によって、「ヤコブ」は裁きではなく恵みによって「イスラエル」になりました。これは単なる名前の変化ではありません。ヤコブ自身が、ヤコブの生き方が、神さまのお取り扱いによって、恵みによって根本的に変えられたということです。
イスラエルとは、冒頭でも申しました通り、「イスラ=戦う」、「エル=神」、「神と戦う人」という意味です。そして「神と戦い」とある「戦い」とは、口語訳聖書では「組み打ち」と訳されている語なのです。一対一でぶつかり合う、神さまに真っ向から向かって行って取り組むのです。ヤコブは神と戦いました。神さまとのがっぷり四つで、人、己、自分に勝った。神さまが勝利をもたらしてくださった。それで自我を打ち負かした。ヤコブは霊的な勝利を得たのです。もはや自分自身に頼まず、ただ神さまに頼むことによって、抱えていた問題、祝福を妨げていることの真の解決を得たのです。
32章29節 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
神さまは、神さまと格闘し、神さまに打ち負かされ、自我に勝利した者、「私の名前はヤコブ、私の名前は罪人です」と認める者には、その場で、即座に祝福してくださいます。罰ではなく、祝福です。そしてその祝福をもって、その先ずっと変わらずに導いてくださいます。
その祝福とは、神さまがご自身の膝を折ってくださることです。以前祈祷会でホセア書を学んだ時に教えられたところですが、主は、牛にくつこをはめて鞭打って従わせるのではなく、牛に餌を食べさせるためにくつこを外してやって、優しく、身をかがめて食べさせてくださる。みことばを与え、そこから歩き、生きる力を与えてくださる。そして綱を持って、優しく導くように共に歩いてくださる。それが神さまの祝福のかたちです。様々な働きの場がありますが、時には思いぬかるみの土を耕す時もあるでしょう。硬くて耕すのに苦労する所もあるでしょう。しかし神さまがともにおられ、導いてくださるので安心です。
また、29節のところからある注解書では、「この時ヤコブと戦った相手は受肉前のイエス様である」と説明しているものがありました。私は正直あまりピンと来なくて、まぁそうなのかなぁと思ってしまったのですが、しかし、主は私の名を問うてくださるのだ。自分を省みることへと招いてくださるのだ。そして格闘を通して、本当の自分に気付かせ、祝福を遮っている本当の理由を悟らせて、そして悔い改めへと、さらに祝福へと招いてくださっているのだ。そんなことを思い巡らせていた時に、イエス様のこんな招きの声が聞こえて来るような気がしました。「あなたは、良くなりたいか」。
このヤコブの神さまとの格闘は、ヤコブという人を変えた格闘でした。「あなたの名は何というのか」。神さまの問いかけ、神さまのみことばは、私たちに変化を求めるものです。今の世の中、カウンセリングといったら「そのままのあなたで良いのだ」というものが主流なのではないでしょうか。確かにそれは人を慰め、励ますものかもしれません。しかし神さまは同じ事を言われるでしょうか。神さまは私たちに変化を求めておられるのです。「良くなりたいか」と問うてくださるのです。そして祝福を遮るものを打ち砕いて、真の祝福を注がれたいと願われるお方です。私たちはそのままの姿で神さまの御前に進み出て良いのでしょう。そのままの姿で御前に招かれています。しかし、病気をそのままで良いとは言われないでしょうし、苦しみをそのまま残しておいて良いはずはありません。しかし何故か人は、自分を変えることには全力で抵抗しようとするのではないでしょうか。そこに神さまとの激しい格闘があるのです。そしてその先にこそ、真の祝福があるのです。
ヤコブはこの時、夜明けまで神と争い、もものつがいを打たれ、神から祝福を受け、その名をイスラエルと変えられました。いわゆるペヌエルの体験をしたのです。ペヌエルの体験によって、真の罪の赦しを得たのです。
後に老年のヤコブは不動の信仰を持っていたと称賛されていますが(ヘブル1121)、しかしその信仰はこの時のペヌエルの体験、赦しの体験一度きりで得たものではありませんでした。この後の聖書を辿ると、イスラエルと名前が変えられたはずなのに、相変わらずヤコブと呼ばれています。そしてその歩みも、かつてのずる賢いヤコブは影を潜めていますが、依然見え隠れしているのです。ヤコブが真のイスラエルとなるためには、一日一日、一年一年の積み重ねが必要だったようです。ヤコブはもものつがいを打たれ、そのために足を引きずっていました。それは、ヤコブがこの時のことを忘れないように、祝福になれて高慢にならないようにとの神の意図であったのでしょう。パウロも言っています。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリ127-9)。
時には傷がうずくこともあったでしょう。そのたびにペヌエルの経験を覚えたのではないでしょうか。そして一日一日、一年一年と、数々の経験を通して、ペヌエルの経験を積み重ね、不動の信仰を獲得していったのではないでしょうか。そのようにして、神さまは随分後になって、改めてヤコブのことを「あなたの名はイスラエルである」と呼び直してくださっています。
私たちは、イエス・キリストの十字架によって、すべての罪は赦されています。「霊的イスラエル」とされています。神と戦う者、真っ正面から神と向き合う者へと変えられています。しかし、やはりどこかに、以前の私が見え隠れしている。私たちは様々な出来事を通して「あなたの名は何というのか」と問われるでしょう。そして私たちは答えるでしょう。これまでの自分を振り返り、自分とは何者なのかを知らされるでしょう。ペヌエルの体験をするのです。
しかしこの時のペヌエルの体験は、「私は罪人です」と告白するものではなく、「私はすでに赦された罪人です」と告白するものなのではないでしょうか。私たちはもうヤコブ、人を騙す者ではありません。自分を欺く者ではありません。自分を欺き、私は今のこのままの私で良いのだと諦めないのです。私はすべての罪が赦された罪人、過去も現在も未来の罪も、すべての罪が赦されている者であると、感謝するのです。神さまが与えたいと願われる真の祝福を得るために、私たちはイスラエル、神と戦う者、神に真っ正面から向き合って、からみついて、望みを置いて、真の祝福を求める者へと変えていただきましょう。主がともにおられ、主の導きに従う者へと変えていただきましょう。それは積み重ねです。年の瀬の今日、一年が終わろうとしているこのタイミングに、主は私たちをペヌエルの体験へと招いてくださっているのかもしれません。一人静かなところに退き、聖別された時間の中で主と自分とに向き合える時間が持てるならば幸いです。そして、イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦された者であることをあらためて覚え、主への感謝を新たに覚え、新しい一年の祝福された歩みへと、備えさせていただきたいと願わされます。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から感謝と賛美をお献げいたします。みことばを感謝いたします。クリスマスを過ごし、そして今日、2020年最後の礼拝、改めてクリスマスにこの世にご降誕くださった救い主、私たちを罪から解放してくださったイエス様を覚えます。一つの区切りを覚える今日の礼拝、今年残された数日間、ひとときでも世の喧噪から退き、あなたからの恵み、慈しみ深さ、祝福を数え、救われた喜び、感謝を新たにすることができますようにお導きください。依然として私たちの内にある、神さまの祝福を遮るものがあるならば、どうぞそれをお示しくださいますようにもお願いをいたします。新しい年を、兄弟姉妹ともどもに、全員が、感謝と喜びをもって歩み出すことができますように。感謝して、救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。