2021年1月1日 新年礼拝「新しい歌を主に歌え」
本日の聖書箇所
詩篇96編
説教題
「新しい歌を主に歌え」
新年礼拝式順序
前 奏
招 詞
*賛 美 讃美歌539番「あめつちこぞりて」
*使徒信条
主の祈り
祈 り
賛 美 讃美歌411番「すべしらす神よ」
聖書朗読 詩篇96編
説 教 「新しい歌を主に歌え」佐藤伝道師
賛 美 讃美歌294番「みめぐみゆたけき」
献 金
*頌 栄 讃美歌541番「父、み子、みたまの」
*祝 祷
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説教「新しい歌を主に向かって歌え」
佐藤伝道師
新年明けましておめでとうございます。
色々な思いの中で新年を迎えられたことと思います。喜びの中で新年を迎えられた方々には、一層喜びが増し加えられますように。寂しい思いをされていたり、様々な不安や大変な中で新年をお迎えの方もおられるかと思いますが、そういったお一人おひとりの上に、この新しい年を迎えた朝も、主の慰め、励ましがありますようにとお祈りいたします。
「明ける」という言葉は、暗い夜が明けて明るい朝になるとか、ある期間が過ぎて次の状態となる、これらのことを「明ける」と言いますが、その字の通り、私たちに明るさ、光、明るい希望や期待、新たな良きスタートを感じさせる言葉ではないでしょうか。
古い年が過ぎ去って新しい年を迎えて、私たちは「新年明けましておめでとうございます」と、新年のご挨拶をしますけれども、これは年明けを無事に迎えられたことを祝う挨拶ですね。年明けを無事に迎えられたということを喜び祝うその思いの中には、無事に一年を過ごせた、守られてきたことに対する感謝もあるでしょうし、あるいは大変な苦労の多い一年だったなぁ、それでも何とか年を越せたという安堵の思いもあるのでしょうか。
本朝は2021年が明けた朝にお献げする新年礼拝ということで、私たちの心を新たにして、主に感謝と賛美をお献げし、主に心からの礼拝をお献げし、そこからまた新たな喜び、確かな希望、祝福を注いでいただいて、良き一年のスタートとしていただけるよう祈りたいと思います。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。過ぐる一年も、この長野聖書教会を、そして集われるお一人お一人を守り、導いてくださり、2021年最初の朝に、このようにして新年礼拝が守られますことを感謝致します。今朝もみことばを祝福して、御前に集う私たちにお与えください。聖霊様が臨んでくださり、お一人お一人を祝福してくださいますようにお願いをいたします。主がそれぞれに新しい思いを与えてくださり、その思いを持って新しく明けた一年の良きスタートとしてくださいますようにお願いをいたします。感謝し、またみことばに期待しつつ、主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
「おめでとう」と聞いて、私はある場面を思い起こします。つい先日までクリスマスを過ごし、クリスマスの福音に耳を傾けて覚えて来たこともあるのでしょうが、思い起こす場面というのはマリヤの受胎告知のところです。そこでマリヤの前に御使いが現れて最初になされた挨拶。それは「おめでとう」でした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ128)という挨拶でした。そしてこの「おめでとう」とは、以前のメッセージの中でも見ましたが、原文では「喜べ、喜びなさい」というものでした。マリヤはこの挨拶を聞いて「これはいったい何のあいさつか」と考え込みました。しかし最終的に「あなたのおことばどおり、この身になりますように」「御心がこの身になりますように」と信仰を新たにして応答しました。そしてあのマリヤ賛歌と呼ばれる歌を歌ったのでした。
そんなことを思い巡らせみると、私たちがお互いに交わす新年の挨拶、「新年明けましておめでとうございます」も、また少し違った響き、信仰の響きをもって聞こえてくるように思います。クリスチャンの新年の挨拶は、「主にあって、明けた新しい年を喜びなさい」、なぜなら主がこの新しい年も共におられるからですという、少し大胆ではありますが、そんな挨拶であっても良いのかもしれないと思うのです。
過ぐる一年の私たちの歩みは、本当に色々なことがあって、大変なことが多かったと思います。昨日は朝起きてテレビをつけて番組表を見るとまぁ、「コロナ、コロナ」でした。届いたクリスマスカードの中にも「コロナで始まり、コロナで終わる2020年・・・」というような文字を多く目にしました。その通り、昨年は本当にコロナの影響、健康的にも、経済的にも、学業にも、また霊的にも大きな打撃を受けたのではないでしょうか。コロナ以外であっても、親のことや子どものこと、仕事のこと、人間関係、健康のことや経済的なこと、将来のこと。たとえ信仰があっても、弱い私たちにはそれぞれ、誰かに話しても理解してもらえないかもしれない弱さや、現在や将来に対する悩み、恐れが絶えなかった。いつでもどんな時でも喜んでいられなかった。信仰的でいられなかった。罪の満ちる世において、全く聖い者ではいられなかった。それが正直なところではないでしょうか。
それでも新しい年が明けました。年明けを無事に迎えられました。けれども聖霊が与えられている私たちには、それが当たり前のことではないということに気付かされていることでしょう。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(エレ322−23)。
エレミヤが恐らく新しい朝を迎え、新鮮な思いをもって歌ったこの詩が、特に2021年の年明けを何とか無事に迎えて私たちには、より自分自身の詩として強く迫ってくるように感じられるのではないかと思います。
霊の目が開かれて、これまでを振り返ってみると、私たちの日々の歩み一歩一歩に主がともにいてくださった。主の尽きない憐れみ、寛容、忍耐。決して変更されることのない真実の愛、主の守り、本当にたくさんの祝福があったことを見るのではないでしょうか。多くの神さまの祝福に感謝しつつ、そこからお互いに「主にあって、新年明けましておめでとうございます」と挨拶ができるのではないでしょうか。「主の守りがあって無事に年明けを迎えることができて感謝です」。「過ぐる一年を守られた主は、この新しい一年も変わらずにともに歩んでくださる、守り導いてくださいます」。そのことを信じて、心から期待して、そしてお互いに「おめでとう、喜べ、恵まれた方。この新しい一年も主があなたとともにおられます。」「新年を喜びましょう」と挨拶し合える、励まし合えるのではないでしょうか。そして互いに「アーメン」と応答し、信仰と期待をもって新しい年の一歩を賛美とともに踏み出せるのではないでしょうか。
今朝与えられましたみことば、詩篇96編ですが、8節、9節のみことば
詩篇96篇8節 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭に入れ。
詩篇96篇9節 聖なる飾り物を付けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。
ここなどは、何か「初詣」を連想させないでしょうか。もちろん、善光寺の初詣の様子ではありません。正直、少しは分かりやすいイメージとして私の頭をかすめますけれども、しかし主への初詣で、初礼拝への招きのように聞こえます。そして詩篇96篇は、私たちを信仰と確信、感謝と喜びをもって新たな一歩を踏み出すことへの招きです。それは2節にある通り、「日から日へと」「日毎に、毎日」献げる礼拝への招き、日毎に新たな一歩を踏み出すことへの招きではありますが、やはり2021年最初の朝は、特に深く心に覚えたいところです。
この詩篇は、バビロン捕囚から帰ったイスラエルの人々が、神は今もイスラエルを愛しておられるという確信が新たに与えられ、その喜びを新しい思いで歌っている、主への賛美です。
前回のメッセージで、私たちは神さまとヤコブとの格闘のところを見ました。格闘の末、ヤコブはもものつがいを打たれ、それでも這いつくばってその場から去ろうとする神さまを去らせまいと、祝福を求めて掴みかかるヤコブに、神さまは「あなたの名は何というのか」と問われました。そしてヤコブは答えました。「私の名前はヤコブ。かかとを掴む者。他人を押しのける者。騙す者です」と。そして神さまはその場でヤコブを祝福されました。名前がイスラエルと変えられました。ヤコブはペヌエルの体験をしました。皆さんは昨年末、どこかでペヌエルの体験をされたでしょうか。年末にはこれまでの自分を振り返り、また正直に向き合う時を少しでも持たれたでしょうか。そして私たちはイエス・キリストの十字架によって、すでにすべての罪が赦されている者であることを改めて覚えられたのでしょう。また、罪赦された以降も、神さまに対していつでもどんな時でも真実ではいられなかった私たちを、神さまは今も変わらずに愛してくださっているのだという確信が与えられたのではないでしょうか。新たに気付かされる主の恵みを数えるのではないでしょうか。その新しい感謝と喜びは、新しい歌、新しい主への賛美となって心から湧き起こってくるのではないでしょうか。
詩篇96篇1節 新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。
この1節の「新しい歌」の意味についてですが、ここで言われているのは、新たに作られた詩、また新鮮な思いで歌われる詩篇を表しています。
詩篇96編2節 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
日から日へと、毎日、日毎に体験する救いのみわざ。罪の赦し、罪からの解放、悩みや苦しみからの解放。明るい兆し、問題の解決。永遠のいのち。そのような神さまの救いを体験すればするほど、新たな気付きとともに、自然と新しい賛美が湧き出ることでしょう。使い古された言葉ではまるで足りなくて、それで新しい作詞の必要も感じることもあるでしょう。日毎に救いのみわざを新たに体験するなら、そこから湧き起こる喜びというものは、これまでの感謝や賛美の言葉ではまるで足りないはずです。新鮮な思いや感謝を、新鮮な言葉で紡ぐことは難しいと思われるでしょうか。しかし96篇の詩は、実際には他の詩篇やイザヤ書からの引用が多く、何か寄せ集めのようではありますが、その結果、「新しい」賛美となっています。私たちの賛美もそれで良いのでしょう。すでに聖書にあるみことばをそのまま自分の思いとして、組み合わせたり、積み重ねたりするなら、それはもう立派な新しい賛美となります。さらにそれが新鮮な思いで歌われるなら、それはもう全く新しい賛美、「新しい歌を主に歌え」と求められている賛美であって、主が喜んで受け入れてくださる賛美です。しかしあくまで「新鮮な思いで歌われ」るのです。過去の感謝だけに留まって満足するわけでは決してありません。
私たちはよく過去の恵みを語ります。けれども過去の恵みは単なる思い出にすぎません。何年前に、私はこんなことがありましたとだけ言うのは、ただ過去を懐かしく思い出しているだけであって、新しい賛美は出てきません。神さまが重要として求めておられることは、「新しい歌を主に歌え」です。日毎に新しい賛美を主に献げよということです。今どうか、明日どうかということです。あの時私を救ってくださった方は、助けて守ってくださった方は、正しい道へ導いてくださった方は、今日も明日も私を救ってくださっている。助け、守り、導いてくださっている。今、主の恵みを存分に味わい、そしてその喜びを新しい歌として献げよという招きです。
詩篇96編3節 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。
詩篇96編4節 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。
私たちは、主から受けた恵み、主の栄光を国々の中で語り告げるのです。主の奇しいみわざ、罪人を愛し、赦されるその不思議なほどのみわざ。神に背く罪が世に満ちているにもかかわらず、神は決してこの世とこの世に生きるすべての人々を見捨てられてなどいないということを、国々の民の中で語り告げるのです。「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる、雨のように恵みを注いでくださる」天の父なる神さま、主は大いなる方、賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方であることを、この世で、この地上で、人々の間で語り告げるのです。私たちが主を賛美し、主の栄光を褒め称えるのは、決して死後の天国においてだけではありません。この世で、この地上で、人々の間で主を賛美し、主の栄光を高らかに褒め称えるのです。それは証しでしょう。証言です。証言するためには、私たち自身が大いに主の栄光、奇しいみわざを体験しなければなりません。その必要を神さまは誰よりもご存じでいてくださいます。それが使命だからです。神の民は、世界の諸国に祝福を取り次ぐ使命が与えられているからです。そして、この使命を全うするためには、まず「私自身が」神の栄光を見て体験し、「私自身が」その福音にあずかり、「私自身が」その奇しきみわざの中に生かされる者でなければなりません。その必要を神さまは誰よりもご存じでいてくださる故に、私たちをそのような者としてくださいます。祝福を遮るものはすべて解決してくださいます。神さまがすべてご存じだからです。神さまは私たちの弱さ足りなさ罪深さに対して、他の誰も同情し得ない同情をお持ちの方です。その神さまに私たちが全く信頼する時、神さまは絶えず私たちを最善へと導いてくださいます。そして神さまはその時、私たちの口に新しい歌を授けてくださいます。
詩篇96編5節 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。
私たちの信じる主は、天をお造りになったお方です。天とその下にある一切のものをお造りになったお方です。「光、あれ」と仰せられ、創造のみわざをなさいました。しかし、神さまが大昔に創造のわざをすませたあと、もはや世界に対して無関心となって、支配も世話もせずに退いたわけでは決してありません。ヘブル語には過去形というものがありません。つまりヘブライの思想では、天地創造というものも過去のことではなく、いまだ終わっていないのです。「一寸先は闇」などと言いますが、神さまはその闇を切り裂くように、「光、あれ」と力強いみことばをもって今を、一寸先を創造されているのではないでしょうか。私たちは何かすでに完成された世界、神さまがまるで無関心な世界にふらっと一歩を踏み出しているのではなく、神さまが力あるみことばをもって創造され、そして支配し世話をしてくださっている世界に一歩一歩信仰をもって踏み出しているのです。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」(イザ6517−18)。
確かにこれは神の国の完成について言われているのでしょう。しかし神の国の完成に向かって、神の国の完成に至るまで、今も毎日を、瞬間瞬間を創造されている神さまの御心でもあると思います。何と言う祝福でしょうか。
神さまの創造するもの、神さまの創造する毎日を、いついつまでも楽しみ喜べと仰ってくださる。そして楽しみ喜んで生きる民を、楽しみとしてくださる神さま。この新しい年が明けた今朝もまた、喜べと招いてくださっています。私たちが神さまの祝福を存分に味わい、そして喜びを新しい歌にしてご自身に献げるよう、求めてくださっています。
「新年明けましておめでとうございます」。「おめでとう、恵まれた私たち。喜べ、恵まれた私たち。主がこの一年もともにおられます」。このような新年の挨拶をもって、今日から新しく歩み出しましょう。新しい歌を日毎に歌う歩みへと、招かれて出て行こうではありませんか。
神さまが創造されるこの新しい一年も、あたりまえのように移りゆく毎日の中で、しかし神さまの力強い日々の新しい創造のみわざ、そして神さまの恩寵を知らされた私たちは、いつも目を覚まし、日々のどんな小さなことにも神の守りと導きがあることを見出し、体験させていただき、この身に毎日起こるたくさんのみわざを目に留めて、そして力強く証しする者でありたい。湧き起こる抑えきれない喜び、感謝が賛美となり、日々、新しい歌となって、素晴らしい神さまを証ししていく者、神さまの栄光を表していく者でありたいと願わされます。
詩篇96篇6節 尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。
最後に、パウロの祈りを私たちの祈り、またお互いを励ます挨拶として終わりにしたいと思います。またこの長野聖書教会が、今年もまたキリストをかしらとする、主のご栄光を現す、新しい賛美に満ちた共同体であるようにと、エペソ人への手紙1章17〜23節をご一緒にお読みし、共に祈る祈りとしましょう。
エペソ17章17節 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
エペソ17章18節 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
エペソ17章19節 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
エペソ17章20節 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
エペソ17章21節 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
エペソ17章22節 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
エペソ17章23節 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
アーメン。