2021年6月27日 主日礼拝「いのちを与える御霊」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  5番「こよなくかしこし」1節と5節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  532番「ひとたびは死にし身も」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙8章1〜11節
説 教  「いのちを与える御霊」佐藤伝道師
讃美歌  529番「ああうれし」1節と3節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙8章1〜11節

説教題

「いのちを与える御霊」

今週の聖句

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

ローマ人への手紙8章10節

訳してみましょう

2106 I sing in the shadow of your wings, I cling to you; your right hand uphold me.(PSALM63:7-8)

2107 When have you experienced God’s care for you while you were in a difficult place? In what current struggles might you learn to sing in the shadow of [God’s] wings?


説教「いのちを与える御霊」

ローマ人への手紙8章1〜11節

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、尊い御名を崇め心から賛美致します。神さまから恵みをたくさん注いでいただき、一週間守られましたことを覚えて感謝致します。けれどもその恵みの深さに気づけず、感謝の足りない者、呟きの多い者であったことをお赦しください。そのような私たちを、そのような私たちであるからこそ、みことばを、そして祝福を与えようと今朝もこの礼拝に主が招いてくださりありがとうございます。今朝もみことばの前にへりくだる者としてください。御前にへりくだり、霊とまことをもってあなたを礼拝することができますようにお守りください。私たちの一週間の歩み、戦い、傷つき弱くなっているところもすべて主はご存知でいてくださいます。主はそのような私たちを決してさげすまれません。依り頼む者としてくださいます。今朝もまた全能なる御力によって、新たに私たちにいのちを与え、力を与え、主の栄光を現す者へと造り変えてくださいますようにお願いを致します。聖霊様が臨んでくださり、霊的な知恵、理解力を与えてくださり、神さまの父の心、御心を正しく知ることができますようにお守りください。語るこの者の上にも臨んでくださり、肉の故に貧しい奉仕をどうぞ全能なる主が聖めてお用いくださいますようにお願いを致します。ひとときをお委ねし、救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈りを致します。アーメン

 前々回、前回と、私たちはローマ書7章7〜12節で律法と罪と死の関係を教えられ、続く13〜25節を通して、「私は、ほんとうにみじめな人間です」と告白するパウロの悲痛な叫びを聞きました。この世にあって救われた者の、依然続く激しい罪との戦い。そして敗北してしまうみじめな姿。そこから漏れるように聞こえる苦しいうめき声。それはそのまま、私たち自身の姿や声であることを見させていただきました。神さまの深い愛、イエス・キリストの十字架の犠牲、そして復活による救い。聖霊、御霊を通して、注がれる恵み、憐れみの大きさに目が開かれ、それは他でもないこの私の身に起こったことであったと知って、信じる信仰をも与えられた私たちであるからこそ生まれる苦しみ、そしてうめき声。

 何かを成し遂げるには、新しいステージへと進むためには、私たちはありのままの自分を認めることが必要です。その役目を果たしてくれたのが、パウロの脱線部分、7章7〜25節だったように思います。

 本朝から入りました8章は、キリスト教会の歴史を通して、キリスト者に大きな力と慰めを与えてきました。7章での嘆きの声が、8章では喜びの歌となっていくのです。

 その8章には、実は命令形が一つも用いられていません。これは注目に値することだと思います。命令がひとつもない。つまり、自由だということ。厳しい束縛ではないということ。また、私たちの行いによるのではなく、すべてが神さまからの恵みによるものだということです。さらにここでいよいよ御霊、聖霊が集中的に登場しますけれども、8章ではキリスト者に究極的な勝利、決して負けて退くことなどない、罪に対する完全な勝利と罪からの解放、真のいのちを得させてくださる、それが私たちに注がれている、そして宿っておられる聖霊、御霊の働きであることが述べられて行きます。

8章1節        こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 パウロは宣言しています。この宣言は7章6節から直結するものですが、その間に挟まれた7章7〜25節で死の支配力の恐ろしさが語られた後でなされた宣言なので、私たちはそのありがたみが身に染みてくるでしょうし、いっそう深い感謝、いっそう深い恵みを覚えてこれを聞くことができるのではないでしょうか。

 キリストを信じ、キリスト者、キリストに属する者としていただいて、日々罪との葛藤を覚える「今」の私たちです。その今の私たちに対する宣言を信仰をもって、神さまからの恵みとして、疑うことなく感謝して聞きたいと思います。神さまの宣言です。それは間違いのないもので、私たちが疑ったり拒否したりできるものではない、力強い宣言です。この神さまの力強い宣言は、今の私たちが本当に必要としている慰め、励ましなのではないでしょうか。だから聞くのです。

 たとえ過去に消せないような酷い過ちを犯したとしても、たとえ今、どれほど罪を繰り返しても。それこそ7章15節以下で聞こえて来たうめき声、したいと思う善を行えず、したくない悪を行ってしまうような不甲斐ない私であったとしても、「心では神の律法に仕えている、けれども肉では罪の律法に仕えてしまっている」。そんな私であることを神さまは知っていても、それでもイエス・キリストを信じ、キリストに属する者とされている今の私たちは決して罪に定められることがないのだと、決定的で力強い赦しの宣言がされているのです。

 私たちが何か良いことをしたからでしょうか。私たちは何もしていません。何も出来ませんでした。ただ恵みによってこの赦しの宣言を頂いているのです。本当に驚くばかりの宣言ではないでしょうか。本当に感謝です。今の私たちにとってこの宣言は、もうこれ以上のない喜びで、まさに福音です。

 では、なぜそんなことが言えるのでしょうか。根拠はどこにあるのでしょうか。聖書ははっきりと断言します。

8章2節        なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 いのちの御霊の原理とは、神さまの御霊の支配と権威と力とによって、私たちにいのちが与えられ、また罪に勝つ力が与えられることです。私たちはこの御霊の支配と権威と力とによって、逃れることのできなかった罪と死の原理・法則から解放されたのです。御霊にはものすごい力があるのです。イエス様を通して表されて、そして人の内に注がれ宿る神さまの愛の心には、もの凄いパワーがあるのです。臆病だった使徒たちを大胆に立ち上がらせたあの実際の力です。

 私たちは以前、知らずして罪に支配され、罪の奴隷であり、罪と死の原理「罪から来る報酬は死です」という法則に支配されて、一方的に死に定められて生きていたその生き方から私たちは根本から変えられて、今、イエス様にあるいのちの御霊の原理・法則によって生きる者とされている。もはや私を支配しているのは罪と死ではない。御霊が私を支配してくださっている。神さまの心、私に対する愛が私を支え配慮してくださっている。以前は恐ろしくて冷たい罪と死が権威を振るっていたけれども、今はそれに代わって優しい暖かな御霊がその権威をもって治めてくださっている。そして力強い御力によって罪に完全勝利される。

 私たちはイエス様を通してはっきりと表された神さまの愛が注がれて、その支配の下に移されて、永遠のいのちが与えられる生き方へと根本的に変えられた者たちです。全く新しくされた者たちです。もう罪を犯さなくても良い、もう死ななくても良い。苦しまなくても良い。それは霊的にも、肉体的にもです。今から永遠に。これこそ聖書が語る救いではないでしょうか。恵みではないでしょうか。

8章3節        肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 本来の律法の役割とは何だったのでしょう。律法を守り行うことによって罪から守られ、聖別され、神の民、神のものとされ続けるというもの。異教の習慣から、偶像礼拝から守られて、貪り、自己中心から守られて、いつまでも神さまとの良い関係に留まっていられるために、律法はあったのではないでしょうか。

 「肉によって無力になった」。この無力になったというのは、病気によって苦労するとか、病魔にさいなまれて痛むという意味があります。人間が罪、自己中心、自分勝手という病気に冒されて、無力になり、律法を完全に守ることができなくなってしまった。そのせいで聖く、完全で、本来人間を罪から守り、神との関係に留まらせ、いのちをもたらす力がある律法は、その役目を果たすことができなくなってしまった。

 そのようなことを思い巡らしていた時に、ある場面が思い起こされました。ルカの福音書の14章の場面です。

【ルカの福音書】
14章1節      ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
14章2節      そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
14章3節      イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
14章4節      しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
14章5節      それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
14章6節      彼らは答えることができなかった。

 イエス様は律法の専門家に尋ねられたのです。「安息日に病気を治すことは正しいことか、正しくないことか」。罪という病気に冒された人間の律法理解には限界がありました。人を救うことができなかったのです。

 律法には安息日規定がありました。同時に「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」(出234-5)。このような律法もありました。

 そこでイエス様は言われました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか」。

 当時の井戸は、大きくて深い穴に螺旋状に細い道が作られて、その断崖絶壁の道を人とか牛が水の入れ物を持って穴の底まで降りていって水を汲むというものでした。大変危険なものでした。自分の息子や牛がその穴に落ちてしまった。足を踏み外して、目の前をもの凄い音を立てて落ちていく。石や岩に打ち付けられながら転がり落ちていく。その様子を見ながら、今日は安息日だからといって助けない人がいるでしょうかとイエス様は律法の専門家に尋ねましたが、彼らは答えることができませんでした。

 「肉によって、人の肉の欲、罪のせいで、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」。穴の底に転がり落ちていくひとりの罪人を救うために、迷わずイエス・キリストを遣わして、井戸の底に、地よりも低い地の底にまで降られて救い出してくださいました。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、犠牲にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられて、罪のために罪の深みに落ちてしまった人を救うために、実にそのからだをもって地の底にまで下られたのです。穴に落ちてしまった人には、安息日に働いてはならないと知っていながら、神さまを第一とする以上に働かなければならない理由があったのでしょうか。してはならないと分かっていながら欲が勝ってしまったのでしょうか。神さまに献げる牛を、井戸の穴の底に落としてしまった。そのような罪人、我が子であると知りながらも、救い出してくださったのです。我が子の罪を赦し、愛し、いのちを守られたのです。救われた人は心から感謝したでしょう。穴の底まで助けに下って来てくれた方を心から愛したでしょう。愛に感動して、新しいいのち、新しい生き方がもたらされたのではないでしょうか。神さまとの新しい関係が回復したのではないでしょうか。そのことを神さまは御子キリストを通してしてくださったのです。

8章4節        それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 私たちを罪と死から解放し、新しい生き方をもたらす力。それは御霊です。御霊が私たちに神さまの御心、私たちをこれほどまでに愛してくださっているその愛、私たちに対する親心を教え、神さまの愛、親心が私たちの内に宿られ、これからは肉に従って歩まないようにしたいという悔い改めの心、悔い改めの力となってくださる。神さまの御心に従って歩みたいと願わせてくださる。神さまの御心に背いて自らの思いを追求する「肉に従わず」、神さまの御心を求めて生きたいと願う。自己中心を捨て、貪りを捨て、自分勝手な道に進もうとする罪の力から守られて神さまとの親しい関係に留まるようにする。キリストを通して、キリストを信じることによってその御霊、神さまの心を頂いたので、神さまの愛をこの心に頂いたので、そしてそれは私たちの内に宿られて、もう二度と離れ去ることはないので、今や私たちは、神さまの御心を示す律法に従順して、神さまに喜ばれることを十分に行うことが出来るのです。

 では、具体的に、今の私たちが従順に従うことのできる律法とは何なのでしょうか。従順に従って、神さまに喜んでいただけることとは何でしょうか。私たちが出来ることとされている御心にかなった生き方とは何でしょうか。

 キリストに目が開かれた律法の専門家であるパウロが教えています。

【ガラテヤ人への手紙】
5章13節      兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5章14節      律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

 キリストに目が開かれ、目からウロコが落ちて、律法のすべてを理解した律法の専門家であるパウロの律法に対する結論は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この一語に尽きる」なのです。また思い出してください。実はイエス様ご自身もこんなに明確に言われていました。

【ヨハネの福音書】
13章34節   あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13章35節   もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ローマ書に戻ります。

8章5節        肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8章6節        肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8章7節        というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8章8節        肉にある者は神を喜ばせることができません。

 肉的なこと、御霊に属すること。肉の思い、御霊による思いとは何でしょう。前回も見ましたが、それらもガラテヤ書に記されています。肉の行いは明白です。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもです。このように、肉の行いは貪り、自己中心の表れではないでしょうか。

 そして御霊の思い、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらは肉の行い、貪り、自己中心が悔い改めによって、御霊の力によって変えられたものであると思います。

 私たちは今、どちらを考え、どちらに思いを向けているのでしょうか。二人の主人に仕えることはできないと、すでに私たちはイエス様から教えられています。私たちの考え、思いがある方に私たちは属しているのです。神さまを喜ばすことのできる存在であるのか、それとも神さまを悲しませる存在であるのか。

 しかし私たちの今の本当の状態が、続く9節から記されています。

8章9節        けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは、肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8章10節      もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8章11節      もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 9節、10節、そして11節と、「もし、もし、もし」と日本語では訳されています。しかしこの「もし、もし、もし」は、日本語の文字通り、安易に条件とか制限を表すものとして読んではならない、気をつけなければならない語なのです。実際は「確かに、確かに、確かに」と、肯定の意味、しかも確実なことを重ねて表している語なのです。

 「確かに、神の御霊があなたがたのうちに住んでおらます。神の愛が注がれています。だから今、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」。
 「確かに、キリスト・イエスがあなたがたのうちにおられます。だから今、もしからだが罪のゆえに死んでいるようでも、霊が、義のゆえに生きています」。
 「確かに、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、神の愛があなたがたのうちに住んでおられます。ですから今、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、愛によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」。

 私たちは確かに今、すでに、このような者とされているのです。条件とか、命令ではない。恵みによって、御霊によって、父なる神さまの愛、親心によって、すでにそのような者にされているのです。今の私たちにとって、罪と戦いうめき声をもらす私たちであったとしても、神さまがすでに私たちを確かにこのような者にして下さっているとは、何と言う励まし、慰めでしょうか。

 今や私たちは御霊によって、御霊に従って、神の律法に喜んで従い、神さまに喜ばれることを行えます。神の律法とは、隣人を愛すること。イエス様が与えてくださった新しい戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この一語に尽きるのです。

 自分のことよりも相手を優先すること。心とか、感情とか、時間とか。それらを犠牲にすることはまさに、自分を殺すことのように思えてしまいます。しかしそうではないのです。自分が死ぬことによって相手が生きる。しかしそれによって実は自分自身も生きることになるのです。それが神さまの御心です。それが人の罪のために十字架に架かられ死なれた、しかしよみがえられたキリストの御霊です。愛です。模範です。力です。

 私たちは隣の人を尊敬を持って愛することが出来ているでしょうか。家族、親戚、友人、知人、また教会の近隣の方々をどれくらい愛しているでしょうか。どれだけ愛し、どれだけ自分を献げているでしょうか。

 隣人を最優先にする。自分を後回しにする。それこそ死ぬほどに辛く、困難なことかもしれない。けれども、神さまの確かな約束があるのです。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたを愛する神の愛が、あなたがたのうちに住んでおられる。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちにすんでおられる御霊によって、愛によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」なんと慰めと励ましに満ちた約束でしょう。この確かな約束をいただいている私たちは、そのように生きるのです。生きることができる者とされているのです。命令ではない、生きることができる自由が与えられているのです。そのような歩みがどれほど幸いであるのか、信じられないところはあるかもしれません。しかし信仰によって、私たちをこれほどまでに愛し、犠牲をもって罪と死の原理から解放してくださった、罪から解放し救ってくださった方の約束を信じ、歩んでまいりましょう。歩みなさいではなく、歩むことができる者とされているのです。

 そしてさらに、キリスト者の内に住まわれる御霊は、終わりの時、終末において、キリスト者があずかるからだの復活が確かなものであることをも保証するものです。私たちのうちに住まわれるのはキリストご自身の霊です。その御霊は、私たちがキリストの復活のからだに似るものとなるまで、支配、権威、力をもって、その力ある働きを決してやめることはないのです。私たちを守り導いてくださいます。私たちは終わりの時に至るまで、御霊によって、神さまの愛によって与えられているこのいのちをもって、私たちを真に生かすこのいのちをもって歩ませていただきましょう。歩むことができる者とされているからです。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。今週も、そしてこれからも、終わりの時に至るまで、信仰により、恵みにより、自由と勝利に与り、神さまの力強い宣言に聞き続け、心からの喜びと平安をもって歩んで行けるよう、聖霊様がいつも私たちに満ちていてくださいますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

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