2022年1月23日 主日礼拝「キリストのからだ」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  6番「われら主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  164番「こひつじをば」
聖 書  ローマ人への手紙12章3〜8節
説 教  「キリストのからだ」佐藤伝道師
讃美歌  388番「みむねのまにまに」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙12章3〜8節

説教題

「キリストのからだ」

今週の聖句

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

ローマ人への手紙12章5節

訳してみましょう

2164 God has made this Jesus, whom you crucified, both Lord and Messiah.

2165 Dear Father, thank You for Your extravagant love that rescued me from my sin. Please take all my fears and help me to trust You.

説教「キリストのからだ」

ローマ人への手紙12章3〜8節

  考えてみると不思議です。以前の私たちは、お互いにまったく顔も知らずに、何の関わりもなく過ごして来ました。過ごして行っても良かったはずです。それなのに、何の因果か(因果はあまり良い言葉ではないですが)、どんな理由があって、結果今こうしてこの長野聖書教会に集い、集い続けて、ご一緒に神さまに礼拝を献げているのでしょうか。それは奇跡的なことではないでしょうか。色々な理由が考えられます。近所だから、知り合いがいたから、結婚、転勤によって、生まれてからずっと。他にもたくさんの教会がある中で一つの教会に繋がり、ここに集われている方はこの長野聖書教会に繋がれて、毎週ご一緒に礼拝を献げ、祈祷会でご一緒に祈り、また日々互いのことを祈り合いながら、助け励まし、助けられ励まされながら生きています。同じみことばに聞き、同じみことばに生かされて、ともに成長し、同じように年を重ねていきます。でもなぜこの長野聖書教会なのでしょうか。長野聖書教会だったのでしょうか。ここに集われている皆さんとご一緒でなければならないのでしょう。私がクリスチャンになりたての時に、「偶然はクリスチャンにとっては必然だ」と言われて、そうなのかと思ったことを思い出しました。

 パウロは本朝与えられましたみことばの冒頭でこう言っています。

12章3節 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたに言います。

 私たちが大好きな言葉「恵み」があります。ギリシア語では「カリス」ですが、カリスを恵みと訳すのは聖書の中の意訳のようです。これ以上ない素晴らしい訳だと思います。一般のギリシア語辞書では「神の意志、思い、召し」と訳されており、また活用法を変えると「理由」と訳されます。ですから恵みとは本来、私たち一人ひとりに対して神さまが持っておられる理由、私たちに対する神さまの意志、思い、御心、そしてそこへの召し、招きであって、まさに「神さまの思し召し」なのです。思し召し、それはやはり恵みなのです。ですから私たちにとって良いと思うことはもちろん、悪いと思ってしまうようなことも思し召しであるならば良いもののはずです。神さまにはちゃんとした理由があって、そこへと召される。来なさいと呼び寄せられる。神さまがなさること。それは「神の権威」とも呼ばれるものです。神さまは神さまの権威によって私たちをある所へと召されるのです。所というのは場所であったり、状況であったり。神さまの思い、御心への召し。思し召し。それを私たちは「恵み」という素晴らしい言葉で呼ぶのです。

 パウロは「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います」と言い、新しい具体的な勧めを語り始めます。ここでの「言います」という語は、12章1節の「お願いします、勧めます」とは違い、神の恵み、先ほども申し上げましたが神さまの理由、思し召し、人の思いや決定ではない、神さまの権威によって使徒として召されたパウロが、その権威をもって呼びかける、語るというものです。もっと積極的に訳すなら「命令する」のです。誰に命令するのかというと、この手紙はローマ人への手紙ですから、当然ローマの教会に、そしてその教会に恵みによって、神さまの理由、思し召しによって、人の思いや決定ではない神さまの権威によってその教会に召されている一人ひとりに、パウロは命令するのです。

12章3節 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 ローマの教会の特徴はどういうものだったでしょうか。それは、ユダヤ人と異邦人の混合教会でした。元々の宗教も文化や習慣も、育ってきた環境、その中で育まれてきた生き方とか根本的な考え方がまるで違うユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、それぞれの所の中から救い出されて、ひとつ所に集まって共同体を形成していたのです。主はお一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父なる神はただお一人でした。しかし、それぞれの中に染みついて離れない色々な違いがあるそこには、当然対立を生み出す可能性もありました。そこでパウロは、「誰でも思うべき限度を越えて思い上がってはいけません」。あなたが考えるべきよりも、自分自身を高く考えてはならない、自分自身を誇ってはならないと言います。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと言います。

 信仰の量りとは何でしょうか。私たち一人ひとりには、神さまによって分け与えられた信仰の量り、信仰の重量のようなものがあるようです。

 信仰の量りとは、信仰生活における力量です。信仰の程度ということです。信仰の程度は人によって違うものです。それは当然です。性別も年齢も、信仰のスタートも、成長のスピードも違うからです。誰かが誰かに対して誇れるものでもなく、逆に恥ずかしく思うものでもありません。それは「神さまがおのおのに分け与えてくださっているものだ」と聖書が言っているのです。神さまには理由があって、ご計画があって、それぞれにひとつの信仰を「分け与えて」くださっているのです。神さまから与えられているということは、神さまからの賜物です。おのおのに一番良いものを与えてくださっている。おのおのに与えられている神さまからの賜物を、誰かが誰かに対して誇ったりすることなく、逆に自分自身を恥ずかしく思うことなく、慎み深く取り扱うことです。思うべき限度を越えて思い上がること。それは前回申し上げました「私物化」につながるものでしょう。何かを私物化してしまうならばそれは生かされず、やがて腐り、死んでいくのです。私物化の反対は何でしょう。共有化、公有化です。私情ではなく利他です。私たちは、思うべきことは思い、言うべきことは言い、行うべきことは行わなければなりません。ただし、神さまのあわれみによって一つ所に呼び集められた共同体の一員として、主にあってお互いのために、全体の益のために考え、言い、行うのです。ですからパウロが「思い上がらず、慎み深く考えるように」と、そのように言うのは、ただ教会の中で黙っておとなしくしていなさいと言うのではありません。神さまのあわれみによって、恵みによって、権威によって一つの教会に召された者は、神さまのために、教会のために、互いのためにふさわしく賜物を用いなさいということです。そのことをパウロは続く4節から多くの肢体(身体の部分部分、メンバー)を持つひとつの体にたとえて教えていきます。

12章4節 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12章5節 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 一つのからだには多くの部分があり、それぞれの部分がすべて違った機能を果たしています。お互いがお互いのためにしっかり機能して、お互いを健やかに生かし、からだ全体を健やかに生かす。それが生きて、しかも元気に健やかに成長するからだというものです。パウロはそれを教会に適用するのです。

 世界の中心のローマ、巨大都市、文化も教養も、政治も経済も、色々なものの中心であったローマには多くの人々、様々な人々が集まってきていたことでしょう。そのような中で救われ、教会に呼び集められた人々の中には、実に優れた多種多様な賜物を持つ人々が集まっていたのではないでしょうか。勤勉で霊に燃え、それぞれの優れた賜物を持ち寄って熱心に教会に仕えている、そのような神さまの御心にかなった麗しい教会の姿も想像できます。けれども、そのような勤勉、熱心さがどこかですり替わってしまう危険があることをパウロは知っていたのでしょう。「この世と調子を合わせてはいけない」とパウロは言いました。自分の栄光を現そうと躍起になるこの世、自分を神としようとする、自分中心に物事を考えてしまったり進めたりしようとするこの世と調子を合わせてはならない。教会であったとしても、うっかりするとこの世と調子が合ってしまうのです。教会の中で自分が神のように振る舞う。強い人の陰で弱い人が遠慮していたり、何かを諦めさせられていたり、泣かされている。誰かの益のために誰かが損をしている。傷ついている。それではこの世と何も変わりません。神さまのあわれみによって罪が赦され、恵みによって神の子とされ、一人ひとりがとことん愛されていて、神の国に入れて頂ける永遠のいのちが与えられていることを知らされている者たちが集まる教会の姿として、それはふさわしくないと、今の私たちであるならそう思えるのではないでしょうか。

12章6節 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、

 教会はキリストをかしらとする一つのからだ。生きて成長するからだ。そこに恵みによって呼び集められた一人ひとりは違った器官であって、違った機能を果たしているのです。神さまの理由があって、一人ひとりに機能が割り当てられており、それで教会は生きているのです。生きているだけではなく、きちんと成長しているのです。

 神さまによってそれぞれに分け与えられている、任されているそれぞれに違った機能。それが賜物です。私たち一人ひとりに備わっている能力です。こうしてお互いを見回してみると、男女がいて、血統、環境、気質、才能、職業など、きわめて変化に富んでいます。そればかりか、キリスト者になってから、神さまによって様々な霊的賜物も分け与えられています。それぞれに分け与えられた信仰。他には愛することや、主にあって喜べること、祈ること、感謝すること。忍耐、品性、希望。優しさも、また主にある厳しさも。それらは賜物であり、実に多種多様な賜物を持っておられる方が集められていることが分かります。どのように備わったのでしょうか。それは一瞬にして与えられることもあり、長い年月にわたる教育と訓練を通して与えられることもあります。私たちはそれぞれの信仰生活の中で、信仰のスタート地点も、成長の度合いもそれぞれに異なっている中で、それぞれに違った経験を通して、時には一瞬に、または教育され、訓練され、その中でそれぞれに賜物が分け与えられています。12章6節で「異なった賜物を持っている」とありますが、この「持っている」というのは、私たちに取り憑いている、根付いて離れないという意味の語です。私たちにはそれぞれ異なった賜物、根付いて離れない賜物が必ずあるのです。「神の賜物と召命は、決して取り消されることはない」(ロマ1129)のです。

 神さまは理由があって私たちに一瞬にして賜物を与えられる、あるいは理由があって信仰生活を通して、様々なところをそれぞれを通らされて、教育し、訓練し、根付いて離れないそれぞれに違った賜物を分け与えられるのです。時に神さまの教育、訓練とは喜ばしいものばかりではないでしょう。しかし神さまの教育とか訓練には理由があるのです。思し召しがあるのです。ですから私たちは悲しんだり、力を落とす必要はありません。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」(ヘブ1211-12)と聖書で言われている通りです。

 そのように主は、私たち取り憑いて、根付いて離れないそれぞれに違った賜物を分け与えられます。その理由ははっきりしています。このキリストの教会に、その賜物が必要だからです。この教会に皆さんの賜物が必要だから、このキリストの教会に恵みによって、権威をもって召してくださっているのです。

12章6節 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12章7節 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12章8節 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 主は賜物を分けて、分割してそれぞれに与えておられます。ある一人にすべて与えられたなら大変なことです。担い切れないし、何よりもそれはもう私物化であり、本当に生かされることなく、腐り死に行く他ないものになってしまいます。

 主は言われます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザ431)。ただ唯一の神、主のあわれみによって罪の束縛の中から腕を掴まれて救い出された私たち。私たちの名を呼び、わたしのものと言ってくださる主。その主が、恵みによって、神さまの権威によって私たちひとりひとりを呼び集め、この私を必要としてくださり、私の名を呼び、このキリストの教会へと招いてくださいました。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためである」(ヨハ1516)。そうイエス様が語られたのは、イエス様がまことのぶどうの木、あなたがたは枝であると語られた中ででした。またイエス様が弟子たちに「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と語られ、「互いに愛し合いなさい」と語られた文脈の中ででした。「あなた」が実を結ぶのではありません。「あなたがた」がともに実を結ぶのです。

 私たちをキリストのからだに組み込み、私たちそれぞれに異なった賜物を与えられたのは、神さまが愛されるキリストのからだ、教会に必要だからです。キリストの教会で互いに愛し合い、実を結ぶために必要だから。実を結ぶためにはどうしても成長しなければなりません。その成長のために、私たち一人ひとりを必要とされているのです。私たち一人ひとりが神さまの思し召しによって与えられたそれぞれに異なった賜物を必要とされているのです。能力、才能はじめ、神さまが私たちに分け与え、備えてくださった霊的なものを必要とされているのです。それを土の中に隠しておいてはいけないのです。

 今日は詳しく取り上げませんが、パウロは別の手紙で、弱いと見られる者こそ必要とされていることを述べています。

【コリント人への手紙第一】
12章22節 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12章25節 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

 弱いとみられる器官にこそ重要な機能があって、賜物が備わっているのです。神さまは「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザ431)。「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザ434)。そう仰ってくださっているのです。弱いと思われている方の賜物とは何でしょうか。弱さこそ神さまの目に高価で尊い賜物なのではないでしょうか。自分の弱さを私物化し、土の中に隠してしまっておくならば、その人はますます傷つき弱り果て、からだの一部分であるその人が弱り果ててしまうならば、他のからだの部分も弱り果て、からだ全体も死んでいってしまいます。自分の弱さを隠してしまったり、逆に弱さは時に強力なふりかざす武器になってしまう可能性もありますが、お互いに慎み深く考え、私物化せず、隠さずに、弱さという賜物をも神さまに、教会にお献げするならば、主はそれをお互いのため、教会の健やかな成長のために、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うために、互いに愛し合うために用いてくださるでしょう。そうしてひとつからだである教会は健康になり、生き生きとますます成長していき、御霊の実を豊かに結ぶことになるのです。

 私たちに備えてくださった賜物は何でしょう。預言でしょうか、奉仕でしょうか。教えること、勧めをすること、呼びかけ、慰め、励ますこと、祈りを励ますことでしょうか。分け与えることでしょうか。分け与えてもらうことでしょうか。指導することでしょうか、慈善を行うことでしょうか。皆さんは強いですか、弱いですか。積極的ですか、臆病ですか。即決できる人ですか、慎重に考える人ですか。誰かとお話しをするのが好きでしょうか、それとも一人静かに深く考えることが好きでしょうか。目立ちたいですか、縁の下の力持ちでいたいでしょうか。病気の人や弱っている人を訪問したり、電話をしたりするのが得意でしょうか。逆に訪問され、電話をもらう側でしょうか。それぞれの仕事、才能、生活、環境、どれもこれも神さまからの賜物です。この教会に必要な賜物です。神さまからの賜物であることをちゃんと認め、思うべき限度を越えて思い上がることなく、主にあって慎み深く考えて、高ぶることなく、逆に蔑むことなく、すべて必要があって神さまが与えてくださっている賜物であることをまず認めたいと思います。そして、様々な弱さも含め、今までは自分のために使っていたかもしれないそういったすべての賜物を、神さまのために、お互いのために用いるならば、一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んで、陽気に、朗らかに、すすんで用いるならば、どんな賜物も活かされ、強さも弱さも活かされて、キリストのからだである教会は活き活きと機能して行きます。健康になり、健やかに成長して行きます。同じみことばに教えられ、同じみことばに生き、キリストによって、からだ全体は、キリストをかしらとするキリストの教会、長野聖書教会は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて持っている賜物を用い、きちんと機能することによりますます成長して、愛の内に建てられて行きます。多くの実、御霊の実を結びます。愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実をたくさん結ぶのです。そして、罪と死の中に縛られてしまっている世の人々、私たちの救われていない家族や友人たち、教会の隣人たちは、私たち教会が結ぶ御霊の実を見てそれに憧れ、主に助けを求めるならば、主のあわれみによって手を掴まれ救い出されるのです。そして彼らもまた組み合わされ、つなぎ合わされ、教会は成長し、ともに礼拝を献げ、同じみことばに聞き、同じみことばに生かされ、神の国を目指して日々健康に成長して行くのです。ますます実を結んでいくのです。素晴らしい光景ではないでしょうか。そんなビジョンを私たち教会は持ちたいと思います。

 神さまは必要があって私たち一人ひとりに今持っているすべての賜物を与え、必要があって、理由があって、恵みによって私たち一人ひとりの名を呼び、この教会へと呼び集めてくださいました。世の偶然は主を信じる者にとっては必然。神さまが置いてくださったところこそ、私たちが最もより良く用いられ、活かされて、輝ける所、神さまが喜んでくださる所なのです。すべてが神さまの思し召しです。

 ですから、兄弟たち。私は、神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる、生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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