2024年12月15日 主日礼拝「私たちは大きな光を見るだろう」

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇8篇1〜9節
讃  美  讃美歌14「わがたまさめて」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌96「エサイの根より」
聖書朗読  イザヤ書9章1〜7節
説  教  「私たちは大きな光を見るだろう」
讃  美  讃美歌112「もろびとこぞりて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 イザヤ書9章6節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

イザヤ書9章1〜7節

説教題

「私たちは大きな光を見るだろう」

今週の聖句

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

イザヤ書9章6節

説教「私たちは大きな光を見るだろう」

イザヤ書9章1〜7節

今朝は3本目のキャンドルに火が灯されました。今週もこのキャンドルの火を見つめながら、神の真実の愛とあわれみ、そして救い主が闇に生きる私たちのために光としてこの世に来てくださったクリスマス、そしてやがて救い主が闇に生きる私たちのために再びこの世に光として来られる日を覚えたいと思います。

「神さま、もう勘弁してください、放っておいて」と思われたことはありますか。あまりの悩み苦しみ、困窮、体の痛みなどの苦難の中、これは私の罪による神の「罰」なのではないかと思ってしまう。特に日本人は「バチが当たる」と言い聞かせられていますから、この今の苦難は罰(バチ)が当たったのだとどこかで思ってしまうかもしれません。神が私に怒り、とっちめようとされているのだと。しかしイエス・キリストを信じ、すべての罪が赦され救われた私たちと神との間には完全な平和が与えられています。本当に恵みであり、感謝です。そこに私たちに対する憎しみなどの感情は一切ありません。そこにはわが子を思う親心に例えられる神の真実の愛とあわれみがあるのです。何があろうとも変わることのない愛、「あなたは私の大切な存在である」という、神の御大切があるのです。ですから私たちの経験する様々な苦難は、神からの罰(バチ)ではなく「懲らしめ」です。罰(バチ)と懲らしめと、何が違うのか。微妙な違いのように思われるでしょうか。しかし全く違うのです。「あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。『わが子よ、主の訓練(ギリシャ語:懲らしめ)を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか」(ヘブ125-7)。神は私たちをわが子同様に愛し、目を留め、目が離せないでおられるからこそ、私たちを懲らしめる。しかしそれら苦難が懲らしめであると分かっていたとしても、やはり辛いものです。感謝だけれども辛いものです。あのヨブも大変な苦難の中で行き場のない葛藤の思いをこのように神に訴えています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。朝ごとにこれを訪れ、その都度これを試されるとは(次から次へと苦難が襲ってくる)。いつまで私から目をそらしてくださらないのですか。唾を飲み込む間も、私を放っておいてくださらないのですか。私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。私は、自らを重荷としなければならないのですか。どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか。私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。あなたが私を捜しても、私はもういません」(ヨブ717-21)。一方で詩篇の記者は神への感謝に溢れ、感動して歌うのです。「あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩83-4)。

神の愛が信じられなくなってしまったら、私たちは恐らく簡単に神に背を向け、自ら神から離れてしまうことになるでしょう。もしかしたらすでに気づかずに離れようとしている、少し離れてしまっているかもしれません。ヨブのように「神さま、もう勘弁してください、私のことは放っておいて欲しい」と神を恨んだり文句を言ったりしているとしたら……、それは素晴らしいことです。それでも神がおられることを信じてすがる姿がそこにあるからです。神を恨んだり文句を言ったりしている私たちの姿をご覧になって、神はそのような私たちを受け入れてくださっています。そして神に背を向け、滅びに向かって出て行こうとする者に対しては、神は懲らしめられるのです。愛しているからです。本当に大切だからです。深い愛ゆえに、その手が緩められることはありません。神はあらゆる手を尽くしてでもその人を救おうと願われるのです。

今朝与えられましたみことばは、イザヤ書9章です。皆さんとご一緒に拝読したのは1〜7節の良く知られているところでした。しかし8節からも預言は続きます。そこを見ると、とても喜ばしくないことばかりが語られています。

小国であったユダは強国に囲まれ、その覇権争いに巻き込まれ、大変な苦難の中にいました。神の民であるはずのユダの実情は、国を支配し導く王は主を信頼するよりも人間の力を頼みとしており、その雰囲気は国民の多くにまで浸透していました。強敵が攻め入ろうとしていた時、王も民もその心は林の木々が風に揺らぐように揺らぎました。しかし神である主はイザヤを通して「それは起こらない。あり得ない」と言われました。また「あなたがたは信じなければ堅く立つことはできない」とも言われました。主は時の王アハズに告げられました。「あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも」。これはアハズに神への信仰を求められたのです。「しるしを求めよ」とは、「神に信頼せよ」ということです。しかしアハズは言いました。「私は求めません。主を試みません」(イザ710-12)。一見信仰的に見えますが真逆です。それはまさに滅亡に向かう一直線の道。神に背を向け出て行く第1歩。イザヤは言いました。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わす(神から迷い出させ、弱らせ、疲れ果てさせる)ことで足りず、私の神までも煩わすのか」(イザ713)。それに続けてイザヤは不思議な預言をしました。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(714)。それゆえと言われる。だからと言われる。神をうんざりさせ、これ以上我慢できないと思うほど嫌にさせる者に、それゆえ、だから、主自らがしるしを与えられると言われるのです。何という神のしつこさでしょう。迫りでしょうか。しかし私たちは、この神のしつこさがなければ、熱心がなければ、真実の愛がなければ救われないのです。私たちは本当に弱い者で、信仰を失いやすく、迷いやすく、自分の思い通りに生きたくて、生きられずに悩み苦しんで、すぐによそ見をして、真の神に対して「私のことは放っておいて」とつぶやいてしまうのです。ですから神のしつこさというのは恵みであり感謝なのです。

神はそのしつこさ、真実の愛ゆえに、愛する者を懲らしめるのです。懲らしめのために御顔を隠されることがあるのです。聖書の中で「御顔の光」と言われますが、神が御顔を隠され、つまり関わりを断たれると、光が失われ闇が覆うのです。しかしそれは、冒頭でも申しました通り罰(バチ)ではありません。懲らしめです。根底には真実の愛があるのです。闇の中で、ある1点に光が絞られていくように、神を求める者とされて行く。「この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき」(イザ812-13)。先の見えない闇の恐れの中、神は人に神による真実の救いを求めるようにされるです。神の御顔を求め、御顔を拝するようにさせるのです。神の関わりを心から慕い求めるようにさせるのです。インマヌエルの神を求めるようにさせるのです。神に立ち返らせようとされるのです。

私たちが神を見失いそうになろうとも、神は私たちとともにおられ、私たちから目を離さないでいてくださる。どのような状況にあっても、神は私の敵ではなく味方であられるのです。

それにしても、神の懲らしめは恐ろしく、苦しく感じるものです。私たちには神の怒りのように感じてしまうものです。イザヤ書1〜7節の幸いな預言に続く、8節以降の預言をご覧ください。イザヤは9章12節、17節、21節、そして10章4節で「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている」と繰り返し言われています。

主が御顔を隠され、親密な関係を断たれてから、暗黒の時代は長く続きます。国にわざわいがあり、政治は腐敗し、社会も無秩序となり、あからさまな悪政が行われる。まるで神から見放されているかのような最悪で悲惨な世の状況にあっても、「なおも神の御手は伸ばされている」とイザヤは預言するのです。苦しむわが子を平気で見ていることができる親はいるでしょうか。神は苦しむ民を決して平気で見ておられるわけではありません。そこには「万軍の主の熱心」があるのです。「熱心」とは「ねたみ」とも訳せる強い感情の語です。断腸の思いです。はらわたが千切れるほどの痛みを感じながら、神はなおも神の民に目を留めておられるのです。わが子がご自分に立ち返ることを信じて。わが子が反省して、本当に自分が悪かったと泣きじゃくりながらご自分の腕の中に飛び込んで来ることを期待して。わが子がご自分に救いを求め、赦してと、ご自分の絶えず差し伸べておられる御手を自ら掴んでくれることを信じて。

イザヤは「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている」と繰り返し語っています。主は神に背を向け離れて行こうとする主の民を懲らしめ、懲らしめ、そして懲らしめるのです。万軍の主の熱心がこれを成し遂げるのです。それはあくまで懲らしめですから、悪い奴は絶対に滅ぼしてやるというような怒りの熱意ではありません。それははらわたが千切れるほどの痛みを覚えるくらいの、神の愛とあわれみによるのです。ご自分に立ち返り、ご自分の元に帰って来るようにという、絶対にあきらめない、しつこいほどまでの猛烈な愛です。

9章13節      しかし、この民は自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めない。

そのような民に対して、神はなおも御手は伸ばされている(912)。なおも御手は伸ばされている(917)。なおも御手は伸ばされている(921)。なおも御手は伸ばされている(104)。神はあらゆる手を尽くして救おうとされるのです。

主は私たちに期待しているのです。ご自身の愛に応える者となることを信じてくださっているのです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る」(イザ1020-21)、その日を信じ、はらわたが千切れるほどの痛み苦しみを覚えながらも、なおも「御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされ」るのです。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」のです。

9章1節        しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。

ここに神の救いを自ら求め、神の差し伸べられる手を自ら掴む時の素晴らしい約束があります。

「苦しみ」とありますが、これは元々「鋳造金属」という意味の語です。型に流し込まれガチガチに固められる。それに続いて「苦悩、困難、悩み、苦しみ、困窮、悲嘆、痛み、悲惨、苦渋、憂い」などと訳される語です。このことから、この苦しみというのは、罪ある悲惨な世にある圧迫、支配を意味し、ゆえに苦悩があり、困難があり、困窮(霊的にも、生活にも貧しさ)があり、嘆き悲しみがあり、悲惨がある。そしてそこに住む人には「闇」がある。「闇」という語は、暗闇、薄暗さという意味の他に、陰気、憂鬱、気分が沈んで塞ぎ込んでいる、しょげて沈んだ面持ち(顔つき・表情)という意味があります。世に、また罪によって支配、圧迫され、心に闇がある。暗い表情。どうやら昔も今も変わらないようです。

9章1節        先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
9章2節        闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

ゼブルンの地、ナフタリの地は強国の脅威に真っ先にさらされ、攻撃され、支配され、辱めを受けた地でした。異邦人が流れ込んできてガリラヤは異邦人の血が混ざった混血民族の土地となってしまった。そのようなことなど誰も望んでいなかったでしょう。やはり支配があり圧迫があり、苦悩があったはずです。それなのに同胞からは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、軽蔑され、差別されてきた。そのような闇の中にいた民にも、いや民にこそ、神の憐れみ深い働きが臨んで光が与えられるとの約束。このような者たちが真っ先に栄誉を受ける、偉大な光を見いだす、そしてその者たちの上に光が輝くという幸いに与ることになる。苦しみの中、闇の中を歩くように自分たちの人生を歩んで来た。最も神の恵みから遠いと考えられていた異邦人のガリラヤに、最も神の恵みから遠いと考えていた私の人生に、「こんな所に」と思われるところに光が臨んで、御顔の光が、御顔が向けられ、関係が回復し、神が豊かに顧みてくださるようになるとは、なんという深い憐れみでしょうか。そしてこれは、イエス・キリストの宣教開始、ガリラヤ伝道にて成就したのです。そしてますます異邦人の間に、こんな所、こんな人にと思われるところに福音が伝えられ、万軍の主の熱心によって預言が成就して行くのです。

イザヤは神のみことば(約束)を預かりながら聖霊に満たされたのでしょう。3節では喜びに満ち、神を「あなた」と呼ぶほどに神を慕い、感動しています。そしてその喜びの根拠や理由を4〜6節で3つ挙げています。

9章4節        あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。

4節の頭には訳出されていませんが「なぜなら」という接続詞がついています。喜びの理由の第1は、光が来たことで重荷が取り除かれるからです。肩を打つ杖、追い立てる者のむち、圧政者たちの厳しい取扱いから逃れるように、罪と罪から来る悪い影響からの解放が与えられるので、そこには大きな喜びがわく。世に、罪に翻弄され圧迫され、その苦しみと闇を知り、経験した者にしか分からない大きな喜び。私たちも経験した喜びでしょう。しかもそれは、ミディアンの日になされたように打ち砕かれる。ミディアンの日とは、ギデオンが32,000人のうちから300人が選ばれてミディアン人を打ち破ったという有名な日のことです。それは人間の力によらず、徹底的に神の力に依り頼むことによって得た勝利であったことを教えるところです。

9章5節        まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

5節の頭にも「なぜなら(〜だからだ)」という前置詞があります。喜びの第2の理由は、主が神の民の敵を打ち破った、その神の勝利の結果は、完全な平和であるということ。確かな平和が恵みによって与えられるから。「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブ124)。しかし主が私たちの罪と戦われ、私たちに悲惨をもたらす罪に完全勝利された。ですから私たちはもはや罪に支配されることはない。罪に支配され神に敵対してしまうこともない。神と私の間にあるのは、完全な平和なのです。神との平和な関係。神が私たちとともにいてくださり、関係を妨げるものは何もなく、真に神と親しく交わることが許される。問いかければ答えてくださる。祈れば聞いてくださる。安心して神の懐に飛び込んで行ける。すべて恵みによるのです。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる」(91)。闇はなくなるけれども、苦しみはなくならないのでしょうか。確かに私たちから苦しみ(世、罪の圧迫)がなくなることはないのかもしれません。しかし闇はなくなる。霊的な平安がある。恵みによって神との全き平和な関係が与えられているからです。

9章6節        ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9章7節        その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

6節の頭にも「なぜなら(〜だからだ)」という前置詞があります。喜びの第3の理由は、子の登場です。ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。この男の子は、イザヤ書7章14節にあった男の子、その名はインマヌエルのお方にほかなりません。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ714)。そしてその方は処女マリアの胎に宿り、この世に降られ、「イエス」と名づけられた方にほかなりません。この方の登場が第3の喜びの理由であり、最高の喜びの根拠です。それで私たちはイエス・キリストの誕生を記念し、毎年繰り返しクリスマスを喜び祝うのです。

【マタイの福音書】
1章18節      イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1章19節      夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1章20節      彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1章21節      マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1章22節      このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1章23節      「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1章24節      ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
1章25節      子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

喜びの根拠、神が私たちとともにおられる。イエス・キリストがこの世に降り、十字架につけられ死なれ、そしてよみがえり、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束され天に上られた。世の終わりまでともにいてくださるイエス・キリストの肩に「主権はその肩にある」と言われる。「わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」(イザ2222)。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタ2818)。神が世に与えられた救い主イエス・キリストによる完全な支配。愛による完全な支えと配慮。この世を愛し、私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちを犠牲にしてまでも私たちを愛されたその愛による完全な支えと配慮がなされる。それは不思議(wonderful)。不思議に満ちた助言(こうするのが良かろうと、脇から言葉を添えて助けを出す)。それによって導かれる結果もまた、人間の想像をはるかに越えた知恵、素晴らしい驚異、奇跡です。イエス・キリストは力ある神。この「力ある」という語は戦士、英雄、そして興味深いことに暴君とも訳される語です。あらゆる敵の手から、罪から救い出すことのできる力ある神。そして暴君でもある。しかしそれが喜びの根拠として語られるのです。暴君と言えば、民を苦しめる暴虐な君主をイメージしますが、しかし私たちの暴君は同時に永遠の父、平和の君なのです。イエス・キリストは私たちの永遠の父である。永遠の父というのは、永遠にわたってご自分の民を保護し、支え、愛するお方。そのためなら暴君と呼ばれるほどの権威をもって望まれる。子に対する親心、真実な愛のお方。だから私たちは喜ぶ。うれしい。感謝。そしてイエス・キリストは平和の君であるから。平和の王子、平和の支配者、平和のリーダー。人生の荒波にもまれ、苦難の嵐に弄ばれる者にとって、平和、平安とはなんとありがたいことでしょう。なんという救いでしょうか。

イエス・キリストは不義不正を赦さず、公正と正義によって世を確立してくださる。公正と正義。私たちが神に求めていることではないでしょうか。悪は懲らしめられ、正義は報われるべきであると、私たちは神にこれを求めているのではないでしょうか。正直者が馬鹿を見る世ではなく、正直者こそ正しく報われる。この世にあって主と主のみことばを信じ、正直に従う者に幸いな報いがある。日曜日に世の楽しみを後にし、主の前にへりくだる者にこそ恵みが注がれる。これほど喜ばしいことはありません。

イエス・キリストの誕生は、万軍の主の熱心により、なおも御手は伸ばされていた、そのことのしるしです。主自らが与えてくださったしるしです。イザヤの預言のとおり、ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。万軍の主の愛とあわれみの成就です。

苦しみの中にあり、闇の中を歩む者、神に懲らしめられていると思う者、もう勘弁して欲しいと思うほどに疲れうんざりしている者があるならば、その人はそれほどまでに神に愛されている者であることを知るのです。それほどまでに救われて欲しいと神に期待されていることを知るのです。あなたはきっとわたしに立ち返るであろうと、断腸の思いで目を留められていること、神の愛とあわれみが特別に注がれていることを知るのです。そして弱った手と衰えた膝をまっすぐにして、勇気を出して、元気を出して神のみことば(約束)と聖霊の力によって立ちあがり、神自らがあたえてくださった光、しるしとして世に来られたイエス・キリストを訪ね求める。そこに神があなたに与えたいと願っておられる、最高の救い、神との平和があります。

さらに救いをいただいた私たちは、さらに先を見つめ、今主の再臨を待ち望む者たちです。神の伸ばされた御手である救い主イエス・キリストは今も生きておられます。今もインマヌエルの神です。主権はその肩にあり、不思議に満ちた、素晴らしい助言者、そしてあらゆる敵の手から、罪から救い出すことの出来る力ある神です。今もイエス・キリストは、永遠にわたって、神の国の完成に至るまでご自分の民を保護し、支え、愛するお方です。イエス・キリストは今も変わらずに平和の君、平和の王子、平和の支配者、平和のリーダー。私たちは日々、そのような主のみわざによって主にますます近づく者とされています。日々の主のみわざ。それは主がこの世に生きておられた時と変わりません。今も主は日々みことばをもって私たちを教え、奇跡(癒やし)をなされ、私たちを訓練される。日々恵みは増し加わって行きます。神の国、天の御国に導かれます。万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。

私たちは今朝、「なおも御手は伸ばされている」という主の熱心を覚え、感謝してこれに応える者とさせていただきたいと願います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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