2025年9月7日 主日礼拝「あなたの賜物は神からの贈り物」

賛  美 
前奏(黙祷)
招  詞  ローマ人への手紙12章1〜2節
讃  美  讃美歌67「よろずのもの」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌181「みたまよくだりて」
聖書朗読  コリント人への手紙第一 12章1〜11節
説  教  「あなたの賜物は神からの贈り物」
讃  美  讃美歌385「うたがい迷いの」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 12章7節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一 12章1〜11節

説教題

「あなたの賜物は神からの贈り物」

今週の聖句

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。

コリント人への手紙第一 12章7節

説教「あなたの賜物は神からの贈り物」

コリント人への手紙第一 12章1〜11節

○あなたに聖霊は注がれていますか。どうしてそう言えますか。
○神の御霊によってあなたに贈られた賜物は何でしょうか。それをどのように用いるのが、神に喜ばれることになるでしょうか。

聖霊の恵みはすべての信徒に——

ある町で長年牧会して来られた老牧師がおられました。その教会に長いこと続けて通っていた一人の男性がいました。でもその男性は、決してイエス・キリストを信じようとせず、いつも老牧師に対してつっかかり、福音を否定することばかり言っていました。その老牧師が引退し、電車に乗ってその町を去ろうという時、電車のホームにその男性が現れました。男性は老牧師が座っている電車の窓を叩き、しつこく大声で言い続けました。「誰も聖霊によるのでなければ、イエスは主であると言うことはできないだって? イエスは主である、イエスは主である、イエスは主である。どうだ。言えるじゃないか!」。老牧師は静かに言いました。「分かりました。では、回れ右をして、このホームにいる大勢の人に向かって同じ事を言ってみてください」。男性は何も言えなかったのです。人々に向かって「あ」とも「う」とも言えなかった。

これはとても深く考えさせられる話しではないでしょうか。この世にあって、私たちが教会に集っている、そればかりでなく「イエス・キリストは主、救い主である」と告白できた、告白できていること。それは実は凄いことなのです。しかも恵みなのです。それは自分の知恵や力ばかりによるものではありません。ばかりではないと言うのは、信仰というのは決して感情的で見切り発車的なものではなく、きちんと理性的に考えること、さらに決心すること(自分をしっかりとそこに立たせ歩き出すこと)が必要だからです。そして人間的な自分の知恵や力だけによるのであれば、恐らく私たちはこの世にあって「イエス・キリストは主、救い主である」とは告白出来ません。私たちは聖霊を注がれ、力が与えられなければ、先ほどの男性のように「イエス・キリストは私の主です」と、この世の真ん中で、世の人々の前で告白出来ないのです。私たちにはそれが出来ている。ですから神に選ばれ、神に召され、神に呼ばれてここに集められている私たちは皆、間違いなく同じ聖霊が注がれ、同じ聖霊に満たされているのです。

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(エペ210)と聖書は証しします。イエス・キリストを心で信じ、口で告白することができた私たちは皆、神によって、キリスト・イエスにあって新しく造られた者。神の意図や目的が込められている。そして神は良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださり、さらに良い行いをするために必要なものさえも与えてくださっているのです。与えられていない人は一人もいないのです。今日の箇所の12章7節には「御霊の現れ」とありますが、神の意図や目的が込められた作品である私たち一人ひとりに備えられている「良い行いをするために必要なもの」、それは神の御霊の現れなのです。神のみこころ、ご計画の現れなのです。そしてそれは神からの贈り物、賜物なのです。贈り物というのは、もしかしたら一方的なものかもしれませんが、しかし贈り物には贈る人の愛情、心がこもっているものでしょう。贈る相手のことを考えて、何が一番良いか、何が一番喜ぶかなど色々考えてのものです。迷惑となるようなものは贈りません。ましてや私たちの事を誰よりもご存知の神がそのようにして贈られたもの。それが賜物。与えられた能力、性格、環境など。それはどんなものであっても感謝して受け取り、感謝して神のみこころのために喜んで献げて行く、正しく用いて行くべきものだと思います。

パウロは前回までの教会内の秩序(神のトーヴ)の乱れ、愛餐会、聖餐式の乱れ、そこに見られる教会の混乱、分裂の問題に対する叱責と勧告を一旦は閉じ、そこから「さて」と言って話題を変えます。この「さて」というのは、1つの話しが終わって新しい話題に移る時、しかし直前に述べた事柄を受けて、あとに続ける時に用いる接続詞です。パウロは引き続き教会の中の秩序の乱れ、分裂の問題を扱っているのです。

そして1節には「御霊の賜物については」とあります。古い訳では「御霊の賜物についてですが」となっています。これはコリント教会からパウロのもとに送られてきた質問に対する回答であることを示しています。つまり、この「御霊の賜物」においても、コリントの教会の集会に混乱や分裂があったのです。特に問題となっていたのは「異言」でした。異言も神からの贈り物、賜物です。異言を聞いたことがある方もおられると思いますが、それがなぜ教会に混乱と分裂をもたらすことになっていたのでしょうか。何を言っているか分からないから?

そうではありませんでした。コリントの教会ではこの異言が語ることができる人が偏って重んじられることにより、信者の間に混乱や分裂が起こっていたのです。異言を語ることができる人が重んじられ、尊敬され、異言を語ることができない人が軽んじられ、辱められていたのです。私たちの間ではそのような考えは見受けられませんが、ある教派のある教会では実際にあるようです。ある先生から聞いた話しですが、集会では皆がこぞって異言を語り出す教会があるそうです。イエス・キリストを信じて救われているなら、異言を語ることができるのは当たり前。異言を語ることができないなんてあり得ない。実際にそのようなことはあり得ないのですが、しかしそのような雰囲気が集会に漂う中、異言を語ることができなかったそのある先生は、集会ごとにギリシャ語で主の祈りを唱えて乗り切っていたそうです。先生は笑い話のように話されていましたが、笑えない話しです。

12章1節      さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

パウロはこのように言います。「知らずにいてほしくありません」とは、「是非知っておいてほしい」というものです。何を是非とも知っておいてほしいのでしょうか。それは2〜3節で述べているとおり、「聖霊の恵み、神の御霊の現れである賜物は、あなたがたイエス・キリストを信じ告白し、神の作品として新しく造りかえられ、御心によってイエス・キリストの名のもとに集められ、そして集まっているあなたがた全信徒に及んでいるのだ」ということです。異言が語れない。あの人のように優れた能力とか、神に献げることのできるものなど何も持っていない。見てよ、愛餐会、聖餐式には皆ご馳走を持ち寄って神に献げ、それを食べているけれども、私にはそれがないではないか。だからハブられてる。自分には何の賜物もない、何も持っていないのだとがっかりし、元気を無くしているあなたであっても、あなたがたの中に一人として神の御霊の現れ、神のお心の現れ、恵みの贈り物として分け与えられている賜物、それに漏れている者などいないのだということです。その根拠として、

12章2節      ご存じのとおり、あなたがたが異教徒(=キリスト教の信仰を持たない人々を指す言葉で、特にローマ帝国時代に多神教や他の宗教の信者を指す言葉)であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。

コリントの信徒はかつて、物言わぬ偶像を礼拝していました。また、当時ローマ皇帝を主と告白する世界で、イエス・キリストを主と告白することはいのちの危険を招きかねないことでした。「誘われるまま、引かれて行った」。これは自分の意志を奪われた人間のように、偶像崇拝、皇帝崇拝をさせる力(悪霊)に支配されていたことを示すものです。今となっては、私たちは偶像崇拝の異様さ、また特に戦時中の天皇崇拝の異様さ、異常さが分かりますが、その中にあった時には微塵も感じていなかったのです。まさに悪霊の力です。そればかりではありません。パウロはコリントの信徒にこのように言っていました。「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(Ⅰコリ69-11)。

12章3節      ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

「イエスはのろわれよ」というのは、福音に対して猛烈に反対し、イエス・キリストを信じる人を迫害する者の言葉です。コリントの信徒、また私たちは、そのような福音の反対者の立場から神の御霊によって、聖霊によって実際に変えられた者たちです。かつては福音を馬鹿にしていました。世はイエス・キリストの十字架の福音を愚かだと心の中で笑い、「信じる者は救われる」と、馬鹿にするように言いますが、以前はその仲間でした。他にも神の国を相続できない悲惨な罪の中にいました。悪霊の支配の中にいました。しかし「イエスは主です」と言うことができた。しかし今「イエスは主です」と臆することなく、恐れることなく世に対して言うことができている。恐れることなく、喜んで、こうして毎週礼拝に来ることができている。それは実はすごいこと。それは本当に私たち人間の知恵や力によるのではない。聖霊によるのです。神がイエス・キリストを信じる者に注がれる聖霊の満たしによるのです。ここに集う私たちの内で誰一人として聖霊の賜物、聖霊の恵みに漏れる者はいない。聖霊の恵みは皆に及んでいることは明らかなのです。それなのにコリントの教会の中では、御霊の賜物、特に異言という特定の賜物を持たない信徒は、信徒として何か欠陥があるかのように扱われるという雰囲気がありました。それで、先ほどのギリシャ語で主の祈りを唱えて乗り切っていた先生が集われていた教会のように、特定の賜物、異言の賜物を求めて変なベクトルに向かって熱中してしまっていたというところがありました。混乱がありました。

多様な賜物と一つの起源

パウロは再び「さて」と言って、直前に述べた事柄(異言の賜物問題)を受けて次の話題に移ります。

12章4節      さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
12章5節      奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
12章6節      働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。

神が私たちに賜る賜物には、実に様々なものがあるのです。

12章8節      ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。

「知恵のことば」や「知識のことば」は、聖書の他の箇所には見られず、パウロも特に説明していないので、正確には何を意味しているのか分かりません。恐らく「知恵のことば」とは、神のまことの知恵であるイエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えることを指すのではないかと思います。また「知識のことば」というのは、キリスト教の真理を人々に教えたり訓練したりする教師に与えられる知識を意味するのかもしれません。私たちにはそれらが立派な賜物のように思われますが、しかしそれらも御霊の賜物、神が意図と目的をもってその人に贈られた贈り物なのです。人間的に高ぶり、誰に対しても誇れるものではありません。

12章9節      ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
12章10節    ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

「御霊による信仰」とは、愛を伴う山を動かすほどの完全な信仰でしょう。愛をもって熱狂的に、強力に、そして良い意味で信仰的に楽観的に、周りの人々を励ますことのできる人。そういう人がいますね。賜物です。凄いなと思います。

「御霊による癒やしの賜物」とは、実際に病気を癒やすことであったり、優しい言葉をかけてほっと安心させ、魂を癒やすものだったりするのでしょうか。またある人には奇跡を行う力、素晴らしい力あるわざをなすことのできる力が与えられている。ある人には神のことばが預けられ、それを人々に伝えることのできる力が与えられている。神のみこころを伝えて、その人に悔い改めと信仰を呼び起こすことができる能力が与えられている。ある人には「霊を見分ける力」、預言者が神の霊に本当に動かされて語っているかどうかを見分ける力が与えられており、ある人には「異言」、聖霊に思いを燃やされて人には理解できない言葉で神に語る賜物が与えられている人がいて、その異言を「説き明かす」ことのできる力、賜物が与えられている人もいる。これまでおもにに扱ってきた異言が一番最後に挙げられているのは、異言が偏って重んじられていることに水を差す意図があったのではないでしょうか。(余談ですが、異言と異言の説き明かしはセットでなければなりません。異言だけだと様々な混乱が生じてしまい、たとえ異言が素晴らしい御霊の賜物であっても、それは誰の益にもならないからです。パウロは「だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていなさい」と命じています)

皆さんもここに挙げられている素晴らしい賜物を持っている人が、一人や二人思い当たるのではないでしょうか。それを羨ましいと思われますか。しかし、ここに挙げられている賜物が賜物のすべてではありません。ただ、そのように様々な異なる賜物があるということを例として挙げているだけです。教会の中には大小様々な奉仕があり、その様々な奉仕をすることができるそれぞれ異なった賜物も、神が一人一人に意図と目的をもって分け与えてくださっています。

汚れた所に気づくことができ、それを掃除することができる人。私にとってそれはとても素晴らしいその人の賜物だと思います。私にはできないことだからです。また自分に与えられたものを惜しみなく献げたり、他の人に分け与えたりすることができるのも賜物。困っている人に気付き、訪問したり助けたりすることができるのも賜物。歌うことが得意で、賛美することができるもの賜物。人知れず誰かのために祈ることができるのも賜物。このように教会には多種多様な賜物が見られます。それを一人ひとりに分け与えられる方は、ひとりの御霊、ひとりの主、ひとりの父なる神です。三位一体なる神です。教会の賜物、奉仕、働きは、この三位一体なる方から分け与えられるものなのです。神はそれぞれ一人ひとりに違った賜物を分け与えておられる。もちろん私を愛し、私のために、私を思って賜物を与えてくださっているのでしょうが、しかし私一人が神に愛されているのではない。教会を愛し、教会の成長を願われる神が、教会の益となるために、皆の益となるために、御心を持って、目的をもって、ご計画によって違った様々な賜物を分け与えておられるのです。

12章7節      皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。

一人ひとりに御霊の現れが与えられている。神の作品である一人ひとりに神のみこころ、意図、目的、ご計画をもって分け与えられている異なった賜物がある。それらはすべて神から出たもの。ですから、どの賜物、どの奉仕、どの働きが優れている、優れていないではなく、どの賜物も、どの奉仕も、どの働きも等しく神からのもので、素晴らしく、重要で、必要なもの、尊いものなのです。賜物の違いは互いに劣等感や優越感を生むべきものではありません。また、神のために、神が愛する教会のために、神が愛する兄弟姉妹の成長、教会、また互いが建て上げられるために、何ができるだろうかと考え、そして実行する。これもまた「御霊の現れ」ではないでしょうか。コリントの教会で異言の賜物が異様に偏って重んじられるというのは、これらの点からも誤りで、改善されるべき問題でした。

みこころのままに賜物は分け与えられている

12章11節    同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

コリントの教会の中で、御霊の賜物は霊的な力の象徴として認識されてきました。そして彼らは、自分の御霊の賜物が他の聖徒のものよりも霊的であると考えて競い合っていました。自分の賜物こそが重要だと言って、人よりも自分を立てようとしたのです。

神が様々な賜物を分け与えてくださったのは、賜物の多様性によって教会を悩ませ、混乱や分裂を生じさせるためではありません。神がそれぞれに異なった賜物を分け与えてくださった目的は、教会を一つにして、教会が教会としての機能を十分に発揮するように助けるところにあります。

賜物は実に多様です。種類とか、用いられる場所とか、どのように活かされ用いられるのか、実に多様です。それは神のみこころによるのですから、私たち人の思いをはるかに超えたものでしょう。聖徒一人ひとりがどんな賜物を持つのかは、ひとえに神のみこころによるのです。ですから、神が恵みによって与えてくださった賜物、それがどんなものであっても、それを自分の手柄のように思うことがあってはなりません。また、逆に誰かと比べて悲観することがあってもなりません。使徒の働きに登場するアナニアとサッピラ夫妻のように、自分が人よりも有能で、教会ではより重要な役割をしていることを示すために、賜物を求めたり、恵みによって与えられた賜物を自分の益のためだけに、自分の欲望を成し遂げるためだけに用いてはなりません。それでは教会が死んでしまうのです。そうならないためにアナニアとサッピラ夫妻は罰せられてしまったのでしょう。私たちがすべきことは、与えられた賜物とその目的を本当に知り、わきまえ、それを教会のために活用することです。神から贈られた賜物を隠しておいてはならない、土に埋めて眠らせてはならない。死なせてはならないのです。神のために、キリストのからだとなる教会に仕えるために、教会を建て上げるために、互いを建て上げるために賜物を正しく用いて行くのです。神の働きのために、それは人々の救い、私たち救われた者たちの救いの完成のために用いて行くのです。すべての賜物をもって、人々を神へと導くのです。

また、御霊が人それぞれに与えられる賜物は神からの贈り物です。感謝して受け取り、感謝して献げ、感謝して用いてまいりましょう。当時の聖餐式のように、神が与えてくださった賜物を普段の生活の中で増やし、増やされたものをそれぞれが喜んで持ち寄り、進んで喜んで神に献げ、さらにそれを喜んで皆の益のために、皆の体の成長のために、教会を建て上げるために分かち合うのです。私たちはそれぞれに分け与えられている賜物、神からの贈り物をそのように用いているでしょうか。

私たちには一人ひとり、神からの贈り物である多様な賜物が分け与えられています。その多様な賜物を認め、互いに認め合い、感謝しましょう。その賜物を神と教会に献げ、その賜物をもってそれぞれが神のみわざのために、皆の益のために、教会の一致と成長のために用いてまいりましょう。かつて不信者であった私たちを新しく生まれ変わらせ、イエス・キリストを主と告白させた力ある御霊が、それぞれに分け与えられた賜物をもって神の働きを熱心に正しく果たして行けるように、またどのように用いたら良いのかとか、惜しみなく用いることができる知恵と力を与え、助け導いてくださり、これからもこの教会を建て上げてくださることを信じます。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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