2016年12月18日 主日礼拝「高慢のとりこサウル」

本日の聖書箇所

サムエル記第一8〜15章

奨励題

「高慢のとりこサウル」

 
夏休みの宿題に、旧約時代の誰か一人を選んでレポートを提出するというものがありました。私はイスラエルの初代の王さま、サウルを選びました。そのことを北村先生に報告したところ、一度発表してみてはどうかとおっしゃっていただき、断れる立場にはありませんので、やらせていただくことにしました。ただこの宿題はサウルの生涯を追っていくもので、もしかしたら淡々としたお分かちになるかもしれません。ですが、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(Ⅰペテロ2:9)
また、私たちを王国(または王)とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった。(黙示録1:6)

自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、主が私たちに油をそそぎ、この世、また来たるべき世において王とされた。そのことを覚えつつサウルの生涯をたどると、何か感じるものがあるのではないかと思います。
提出したレポート用紙も相当な枚数なってしまっており、すべてをお話しすることはできませんので、今日は8章から15章あたりまでのサウルの生涯を見てまいりたいと思います。それでもとても長いので、所々はしょっています。未熟な者で、所々分かりにくいところもあるかと思いますが、主に期待しつつご忍耐をもってお聞き頂ければと思います。
時代は士師の時代の終わり頃。最後の士師である預言者サムエルは、その務めに励み続け、今、晩年を迎えています。ところが二人の息子といえば、その父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていました。周りを見ると、イスラエル民族がカナンに到着してまもなく大挙して押し寄せてきて南西の海岸平野部を占領し、5つの町を建てたペリシテ人による執拗な攻撃。そんな中、イスラエルの長老たちはサムエルのもとに来て、丁寧な口調で言いました。「まことに言いにくいことですが、あなたはもうお年を召されました。あなたのご子息たちは、主の道を歩まず、人の道にも反したことをしています。神に仕える家庭でどんな教育をなさってきたのでしょう。もうあなたの一族の支配を受けるには及びません。あなたに代わる支配者として、私たちに王を立てて下さい。」個人生活の非難の後に、それとのかかわりで出された「私たちをさばく王を立ててください」との要求。この時のサムエルの表情はどんなだったでしょう。しかしサムエルは主に祈りました。
サムエルは王制導入には反対でした。当然、主も同じお考えだろう。ところが、主の回答は予想に反していました「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。」なんと王を立てることを、あえて主の御旨として承認されました。サムエルは民にも、そして主にも退けられたと思ったことでしょう。それに対し主は「民はお前を退けたように発言し、お前も自分が退けられたと思っているが、それは間違いである。民は、実はお前の背後にあるわたし、主を退けたのである。」さらに主はここで、サムエルと共に三つの点について確認しておられます。王を願う民は不信仰の民である。出エジプト以来今日まで、偶像礼拝の事実は多々あった。主に従ったかに見えた行動の中にも背信が満ちていた。そのような民の声を聞くに当たっては、民に厳しく警告しなければならない。王が主権を持つ政治体制では王の権利が強調され、民は服従を要求される。それは事実上、王の奴隷である。奴隷が苦しみの中で叫んでも、主は答えない。それでもなお王制を望むのか。その覚悟を確かめなさい。しかし民はかたくなにもこう言いました。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。」こうしてイスラエルの王制導入が決まりました。この王制導入ですが、実はモーセの時代において、イスラエルの民がいつか担うべき体制としてすでに予告されていたことでした。申命記17章14~20節に書かれています。

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、
あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
(申命記17章14~15節)

場面は一転して、一人の青年の紹介が始まります。何が始まるのでしょうか。神、主の選ぶ者、主の選びによる王の選出です。サウルの家は先祖代々の農家で、数代前はかなり裕福でした。また、家系をたどることができ、由緒正しき家柄でした。加えてこの青年はその姿形だけでなく、人間的にも問題ないようです。父の命令に従い、雌ろばの捜索に出掛け、忠実に仕事を全うしようとしています。捜索が行き詰まり中止しようとする時にも、「父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから」と言っており、親子関係も良好だったのではないかと推測できます。旅に同伴した若いしもべは、若主人のために尽くしています。また、予見者を訪問するにあたって贈り物がないことを心配するほど世間的な常識も備えていたようです。このサウルが、今イスラエルの王に選ばれようとしています。このようなサウルの紹介は、事実であるにせよ少しばかり不安を感じさせます。人々から好感を持って迎えられる人物であるからといって、王に選ばれるのにふさわしいと言えるのだろうか。これは今後の物語の進展と共に明らかにされていくのです。
王に選ばれるのにふさわしい青年も、このままでは選ばれることはありません。サウルはサムエルと神に出会わなければなりませんでした。そのきっかけがろばの捜索でした。そのすべてが、神の計画の中に組み込まれていました。サウルは捜索を通してサムエルと神に出会います。そしてサムエルは、サウルがイスラエルの王に選ばれたことを告げたのです。翌朝、サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、口づけして言いました。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油を注がれた。」こうしてサウルはイスラエルの最初の王として立てられました。
サウルは王となるために、次に民の前で公に選出されなければなりませんでした。サムエルはミツパで民を主のもとに集め、主の前でくじを引き、サウルが王に選ばれたことを宣言しました。その時サウルは荷物の間に隠れていましたが、サムエルに見つけられ、人々はサウルを人々の前に連れ出し、王様万歳と喜びました。
サウルがその指導力を発揮したのは、アモン人がヤベシュ・ギルアデという町に攻めてきたときでした。町は降伏の意思を示したのに対し、アモン人は住民の右目をえぐり取るという残忍な要求を突きつけてきたのです。この知らせを聞いたサウルは怒り、牛を切り分け、それをイスラエルの各部族に送りつけ、サウルとサムエルに従わない者の牛は皆こうなる、と半ば脅しのような命令をしました。これが効を奏して部族は結集、見事にヤベシュ・ギルアデを奪い返しました。
この勝利によって、サウルは民衆の支持を集め、ギルガルで全ての部族の前で正式にイスラエルの王の座につきます。
12章に入り、引退が近いサムエルは、すべての民の前で説教をしています。サムエルは1節で、サムエルの息子たちの不祥事がこの王制導入のきっかけになったことに対する、複雑な心境を吐露しているようです。そして自身がさばきつかさとして、神の御前に正しく行ってきたこと。続けて、イスラエルの王制が祝福されるための条件を中心に説教の本題に入ります。

もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。
(Ⅰサムエル12:14~15)

まだ王制が始まったばかりの段階で、このような警告がなされること事態、主が王制にかけておられる期待を物語っているのではないでしょうか。
さて、ここでサウルは堕落への第一歩を踏み出しました。
ことの始まりは、サウル王に期待された外敵との戦いでした。すでにアモン人ナハシュとの戦いの勝利で自信を得たサウルは、戦いの全貌を確認せず全面戦争に突入してしまいました。そして敵陣を見て初めてことの重大さを知り不安に陥っていきます。敵は戦車三万。騎兵六千、そして海辺の砂のように多い歩兵。対するイスラエルは三千人。しかも手にしているのはすきやくわ、斧、突き棒、鎌などの農具のみ。戦わずして結果は明白と思われました。この危機的な状況の中、唯一のよりどころはサムエルでした。サムエルには期待できる。神の力が彼と共にあるから。そこでサウルも民もサムエルをじっと待っていました。サムエルが来ていけにえをささげ、戦いのために祈ってくれれば、危機的状況から脱し勝利することができる。サウルも民も、その神への信頼を最後のよりどころとしていました。期待は裏切られました。約束の時にもサムエルは現れなかったのです。震えながらもサウルに従おうとする者が、こらえきれず一人、二人と去って行く。サウルのあせる気持ちが痛いほどに感じられます。やがてサウルは意を決して自らいけにえをささげました。ささげおわるころにサムエルは到着し、言いました。「あなたは、なんということをしたのか」。
サウルの何が悪かったのか。待てと言われていたのに待たなかったこと。全焼のいけにえと和解のいけにえはサムエルがささげるべきもので、俗の人であるサウルがささげることは越権行為である。それだけでしょうか。このような緊急事態だからこそ、主の指示が仰がれ、冷静に行動することが求められていました。サウルは、サムエルの来る、来ないにかかわらず、主の指示を仰ぐことを求めなければならなかった。更にサウルに求められていたことは、イスラエルの王であることの意味をよく自覚して歩むことでした。
もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
王は主のみこころに反したことをしてしまったのです。サウルの側の事情はどうだったのでしょうか。サムエルの叱責に対し、サウルは答えます。
「民が私から離れ去って行こうとし、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。」正直に不安であったことを語りました。サムエルは答えます。「今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、民の君主に任命しておられる」
一度立てられた王が、こんなに簡単に退けられてよいのでしょうか。私が夏休みのレポートのための人物選定において、サウルを選んだ理由の一つです。しかしこれが、「イスラエルの王」に要求されていることでした。
さて、主はただちにサウルを王位から退けてはおられません。それは続く、「聖絶の神による試み」のためでした。
主は時に私たちを試みられます。ご自身に従うかどうか。このお話しの時代は士師記の時代の終わり頃。士師記といえば、イスラエルが異邦の民を完全に征服することができなかった。それは民の符従順のゆえであったが(士師記2:20:21)、と同時に、それは神のご計画でもあった。すなわち、神は先住民を残して、イスラエルが本当に神に従うかどうかを試そうとされたのである(士師記2:22~23)。そのような時代でした。
ペリシテ人との戦いは、ヨナタンによる奇襲が成功してペリシテ人の軍勢が崩れ、勝利を収めることができました。すると、サウルは第二の失敗を犯してしまいました。第二の失敗は、イスラエル人の出エジプト以来の宿敵とも言うべきアマレクとの戦いにおいて主の命令に従わなかったことでした。
サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあったと、14:52には記されています。
戦いに明け暮れる王の姿は、王制導入の際、民がかたくなに求めた通りでした。民の期待する王サウルは、期待通り輝かしい戦績を上げました。しかし、神が目指しておられる王は、「神のしもべ」です。
サウルはアマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出しました。今回の戦いにはいくつかの特徴がありました。サウルをイスラエルの王とされたのは主であることを改めて確認していること。主がサウルに、聞き従うようにとの命令を与えていること。今回のアマレクとの戦いは、出エジプト時代にイスラエルを苦しめたアマレク人への罰としての戦いであること。そしてこの戦いは「聖絶」の命令を含んでいること。サウルは聖絶において、神の命令に従うかどうかが試みられています。そして失敗しました。
サウルは戦闘が終わった時に、サムエルからの指示、神からの指示を自分なりに解釈してしまいました。サウルは戦いに勝利することが神への服従であって、そのために王に選ばれたのであるからと考えました。そのような自分なりの解釈には落とし穴がありました。「聖絶せよ」との命令の意味を、ただ「戦いに完全に勝利すれば良い」くらいの意味に取ってしまったのです。神が言われたとおりのことをするのがイスラエルの王。聖絶の部分でサウルは第二の失敗を犯し、神の試験に不合格となってしまいました。
サウルは完全な勝利を収め、それは神にも民にも祝福をもたらしたと思っています。戦勝記念碑の建立は自分のためではあったが、それは許されていいだろう。彼の心は満たされています。サムエルがサウルのところにいくと、サウルは喜び溢れ開口一番「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました」と自信満々、得意げに言います。「では、私の耳に入るあの羊の声は一体なんですか」「そのほかのものは聖絶しました」「やめなさい」。この激しいやり取りの中で、サウルは反抗しているのでもなく、とぼけているのでもありません。サウルは自分が主のことばを守ったと本当に思っていたのです。だからなぜ非難されるのか分かりませんでした。サムエルの説明を受けてもなお「私は主の御声に聞き従いました」と言っています。一般的にこれは、サウルのいやらしい弁解と考えられていますが、でもサウルは依然としてサムエルの言うことが理解できなかったのかもしれません。サムエルでさえ、夜通し主に叫んでやっと初めて分かったことなので、サウルが理解できないことは無理もないことです。
サウルはどこでつまずいたのか。確かにサウルは聖絶命令の内容を知っていましたが、民が惜しんだためその内容があいまいになってしまいました。サウルも民も最上のものを滅ぼさずに、神にささげる方が神に喜ばれるに違いないと考えたのです。サムエルはさらに14章22節から言います。

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
(Ⅰサムエル15:22~23)

このことばによって、サウルはやっと自分の罪を認めました。しかし、サウルはサムエルによって宣告された罪を十分な深刻さをもって受け止めていませんでした。

サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。
(Ⅰサムエル15:24)

この「そむいた」という語は、言語のヘブル語を調べると、「過ぎ越す」「大目に見る」とでも言うような意味を表すようです。私は主の命令を大目に見た。そのような意味です。そして神よりも民を恐れて彼らの声に従いました。多くの有力な長老たちの中で、若いサウルが指導力を発揮することは難しかったことでしょう。有力者や戦いで犠牲を払ってくれた者たちが、肥えた牛や羊を惜しんだ時、どうしてそれを拒めるでしょう。それに対してもサムエルは言っていたのです。

「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。
主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
(Ⅰサムエル15:17~18)

イスラエルの王は、神の御旨に完全に従うことが求められていました。それなのにサウルは神よりも人を恐れ、自分の立場を神よりも高い位置に置いてしまったのです。
サムエルは、取り消すことの出来ないサウルの失墜をもう一度告げました。この時になって、サウルは彼の失墜の本当の意味を悟りました。

サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」
(Ⅰサムエル15:30)

本当の意味を知りながら、なおも自分の面目を気にしているサウルの姿がここに見えます。
ここから16章に入り、

主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
(Ⅰサムエル16:1)

そして急転直下、奈落の底へと沈んで行くことになります。

主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。
(Ⅰサムエル16:4)

神はすでにダビデを選ばれていました。捨てられるサウルの運命は日に日に傾いていき、選ばれたダビデの名声は高まるばかり。高慢なサウルはこれを見て穏やかな心でいられるはずはありません。ダビデをねたみ、ダビデを恐れ、敵となり、ダビデを殺そうとしたこともしばしば。ついには悪霊が彼に臨み彼の心は全く主を離れ、馬術死に頼るほどに堕落してしまいました。最後には彼は自殺を至、滅亡の断崖からまっさかさまに堕落してしまいました。
沢村五郎先生は、このようなサウルのことを「高慢のとりこサウル」と紹介しています。
「高慢のとりこサウル王」。サウルは自分流の考えで王の地位というものを頑なに追求し、最終的には神の恵みを失うことになってしまいました。これは私たちが経験する現実の人生と重なるのではないでしょうか。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
(Ⅰペテロ2:9)
また、私たちを王国(または王)とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった。
(黙示録1:6)

自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、主があなたに油をそそぎ、王とされました。
私たちクリスチャンも王とされています。私たちは一度、または何度か、砕かれ、心から悔い改め、へりくだるものとされたのではないでしょうか。サウルも王としてのスタートはとても謙遜なものでした。それなのに、サウルも、私たちも、神とともに歩む人生の中で、神さまの奇跡的な介入によって絶望や苦しみ、危機的状況の中から勝利し、あるいは当たり前のように受けている主の恵みに甘んじるうちに、その頭には高慢の冠が置かれ、それが知らず知らずのうちにどんどん大きく、重くなってしまってはいないでしょうか。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。
(箴言16:18)

また、

主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、
邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、
まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。
(箴言6:16~19)

順番に重要な意味があるのかは分かりませんが、確かに主は高ぶる目、高慢を忌み嫌っておられます。その高慢はどんな結果を招くのでしょうか。Ⅰサムエル15:23の、サムエルがサウル王に向かって言っていることから見て取れます。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
(Ⅰサムエル15:23)

神に対して高慢になること。神の権威の代わりに自分の意志を高く上げること。それゆえ、それは「占い」と同じ悪であり、「偶像礼拝」に等しいものです。なぜなら、自己という別の神が、真の神の座を奪うからです。自己という偶像が立てられる。これは十戒において、第一の戒めとされて厳しく禁じられていることです。そして長いイスラエルの歴史の中でも、絶えずそのことは言及されてきました。
サウルの頭には高ぶりの冠が置かれていました。実はサウルの後に王として立てられるあのダビデの頭にも冠が置かれる場面があります。Ⅰ歴代誌20:2です。

ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持って来た。
(Ⅰ歴代誌20:2)

この時のダビデは、戦いはすべて人に任せ、戦勝の栄誉を受けるために、戦いの最終段階にだけ戦場に招かれていました。人が戦っている最中、ダビデは家で優雅に暮らしていました。その場面を想像すると、なんと高慢な姿が見えるような気がします。その高慢の最中に、ダビデはバテ・シェバとの姦淫の罪を犯しました。人は高慢になると、まさに罪を犯し失敗してしまう者です。しかしダビデは詩篇51篇で、心からの悔い改めをしています。それに対しサウルはどうでしょうか。

サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」
(Ⅰサムエル15:30)

私はサウルが言った「あなたの神」この言葉に心が留まりました。「私の神」ではありません。何か感じないでしょうか。
「あなたの神、主を礼拝させてください。」それで、サムエルはサウルについて帰り、サウルは主を礼拝しました。自分の面目のために、自分の栄誉のために。サウルの礼拝の対象は自己という偶像でした。もちろん主はそのような礼拝を望んではおられません。
本当の礼拝とはどのようなものでしょうか。それは黙示録4:10~11です。

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
(黙示録4:10~11)

ここにも冠が出てきます。そしてその冠を、御座の前に投げ出しています。ヨハネの黙示録が書かれた時代には、王がローマの軍隊に征服されると、彼は皇帝の足下にひれ伏すためにローマに連れていかれるか、ローマ皇帝の巨大な像の前にひれ伏し、自分の冠をその足音に投げ出すことが要求されました。これが、彼の皇帝に対する完全な服従と自分の王位の放棄の行為だったのです。私たちは礼拝において、まずひれ伏して礼拝する方に服従します。そして礼拝する方の足下に、冠を投げ出すのです。

神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(創世記3:4~5)

モーセは履き物を脱ぐように命じられました。履き物を脱ぐ行為もまた、神の前にへりくだり、服従の意を表すものです。
私たちの礼拝は、主に何かをしていただくためにささげるのではなく、私たちの頭の冠を投げ捨て、履き物を脱ぎ、ただただ、神さまのご栄光以外、何も求めずに神の前にひれふし礼拝するのです。そしてその副産物として、神のすべての武具が与えられるのではないでしょうか。

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
(エペソ6:14~17)

私たちが私たちのすべてを主の足下に投げ捨て、へりくだり、ひれ伏して礼拝から立ち上がり、そこから新たに歩みだそうとするとき、すべて必要なものが与えられます。そして神のことばを受け取ります。

「私はあなたのいことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
(エレミヤ15:16)

みことばをいただき、それを食べるように深く黙想し、味わう。それは自分の血となり肉となり、楽しみ、喜び、生きる力となります。
さて、私たちは誰にひれ伏すのでしょうか。王の王、主の主。その方は、クリスマスの夜、ひっそりと馬小屋でお生まれになった方。人として成長され、私たちのすべての試練を経験されご存知の方。虐げられている人を訪ね、友なき者の友となり、心砕かれる方。すべてのものを与え、死の他はなにも報いられず、十字架の上で敵を赦し祈られた方。イエス・キリスト。
私たちはこの方よりもさらに低くなり、へりくだって礼拝しなければなりません。イエス・キリストの前にへりくだること。それは北村先生を通し、何度も何度も語られている「自分に死ぬ」ことにつながるのではないでしょうか。
私たちは次週、クリスマス礼拝をおささげします。心からの礼拝をおささげすることができますように。今週はアドベント最終週です。主を待ち望みつつ過ごしたいものです。待ち望むということは、何かをしながら、ついでに待っているようなものではありません。信仰によって待ち望むのです。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル11:1)

私は色々なことを子どもたちから学んでいます。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」
(マルコ10:14)

私の息子は今、楽器が大好きです。そして、「大人になるまでに買う楽器リスト」というものがあります。さらに毎日、おそらく目の前に現れることのないだろう見えない楽器を待ち望み、何をしているかというと、カタログを集め、毎日毎日それを熟読しています。待ち望むとはこのようなことなのだと思わされます。待ち望みつつ、決してそれから目を離さないのです。大人である私たちも、子どもたちに見習って、救い主から目を離さずに、心から待ち望むアドベントを過ごしたいと思います。
今、少しの時間、クリスマスを待ち望みつつ、ただ何も求めずに神の前にへりくだる時を持ちましょう。その後、一言お祈りし、終わりたいと思います。

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