2017年11月5日 主日礼拝「バベルの塔」

本日の聖書箇所

創世記11章1〜9節

説教題

「バベルの塔」

今週の聖句

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

ヤコブの手紙4章6節
 
 
訳してみましょう。
1933 So faith by itself, if it has no works, is dead.(James2:17)
(それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。)
1934 Faith apart from works is barren.
(行いから離れた信仰は不毛です。)
 
 

説教メモ

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
(創世記11章1〜9節)

 
 

1.新しい技術によって

私たちが生きている世界がどのように出来たのか。これまで学んできました創世記1章から11章で分かります。神さまによる天地創造、神さまのかたちに似せられて造られた人間の創造。人間の犯した罪と神さまのさばき。文明の広がり。真実の神を信じる人々の流れ。人の罪による神さまの裁きである洪水。人間の寿命についての説明もありました。私たちの住んでいる世界はある面では非常に美しく高貴であります。同時に愚かさと醜さ、悲惨が満ちている世界でもあります。人は科学を通して、芸術を通して、様々な手法を用いてこの世界というものを考察してきました。多くの場合は科学者が仮説を立てて説明しました。創世記は神さまご自身からの説明として、一連の問いへの答えを与えています。その答え方には独特のものがあります。必ずしも私たちが期待するような自然科学的説明一辺倒ではありません。確かに起こった歴史の記述ではありますが、いつの時代、どのような人であっても素直な心があり、探究心があり、また未知のことを知ろうとする真面目さがあれば理解できる仕方で創世記は私たちに語っています。その最後に扱っているのが、世界にはなぜたくさんの言語があるのか。なぜ諸民族がいて世界各地に住んでいるのか。バベルの塔にはそこに見られる人間の技術の進歩と高慢さがあります。その結果、人間は神によって全世界へと散らされていきました。
水曜日の祈祷会で、ある問いが出されました。世界には何カ国存在しているでしょうか。外務省が認めている国は196カ国です。さて、言葉、言語はどれくらいあるのでしょうか。ウイクリフによりますと、約6,900の言語があるそうです。その中で聖書全巻が翻訳されているのは550の言語だそうです。まだまだ自分の国、自分の部族での言語で聖書が読めない人々が多くいます。ある部族には書き言葉が存在しません。現在も言語の研究から始めるなど、地味な作業が続けられています。
なぜこれほどの国々、そして言語があるのか。それは今朝見ておりますバベルの塔に原因がありました。バベルの塔の時には一つの言語でした(1節)。
また、彼らがやったことは技術が非常に進んだということです。3節には「瀝青」を用いたと記されています。アスファルトのようなものです。彼らはそれを発見し用いました。それにより、より堅固な、より高さのある建物を造ることができるようになりました。ただ、彼らの心の思いが良くありませんでした。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
(創世記11:4)

これが彼らの間違いでした。大きな塔を建てよう。頂きが天に届くような高い塔を建てよう。そして「名をあげよう」。
神さまはアダムとエバを造られたとき何と言われたでしょうか。「生めよ、増えよ、全地に満ちよ」と言われました。ですから全地に散らばって住むべきでした。それからノアの時代になり、ノアの家族以外が滅び、人類は初めからやり直すことになりました。しかし彼らは一つの町をつくりそこに住みました。そして高い塔を建てようとしたのです。
サタンは御使いが神になろうとし、そして堕落してサタンとなりました。神さまの使いであるはずの御使いが神になろうとした。名をあげようとした。それはなんと愚かなことでしょう。

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
(創世記11:5)

神さまが天から地に降りて来られました。天の高い所から降りて来られたのです。天ははるかに高いのです。塔の高さと天の高さを比べること自体とても愚かな考えです。そこに人間の浅はかさがあります。

主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
(創世記11:6〜7)

エデンの園でアダムとエバが罪を犯した時、同じようなことがありました。神さまが降りて来られ「あなたがたはどこにいるのか」とあえて語りかけられました。この時も彼らが立てた塔がいかに小さくちゃちなものであったかをご存知でした。しかしあえて天から降りて来られご覧になったのです。そして神さまは人間のことばを混乱させられました(7節)。

こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
(創世記11:8)

それまで言葉が通じていた隣の人とも話しが通じなくなり、作業の継続ができなくなりました。
人間の技術が進歩すると、人間はとんでもないことを考えるようになります。少し前は「クローン」が騒がれました。現在ではその技術が人間にまで応用できるようになっているとか。しかし倫理的にそれは良くないと言うことで、私の知る限りでは人間の間には取り入れられていないと思います。また細胞の研究によって、一つの細胞から新しい臓器を造る技術も研究されています。願わくば、それらに関わる医者や技術者たちが神さまを恐れるものであって欲しいと願います。ただ技術万能だけでやっていってしまうと、とんでもないことになってしまうでしょう。
新しい技術は良いものです。しかしその動機が大切です。彼らの動機は自分たちの「名をあげる」ことでした。「われわれが全地に散らされるといけない」(4節)と考えたからでした。
アダムから各地に散り始めた人類は、ノアの洪水の後、小さな家族からやり直すことになりましたが、10章にはノアの子どもたちから諸民族が誕生し、散って生活していく様がまとめられています。しかし、散らされることに恐れを感じる人もいたようです。散らされるよりも集まって生活していく安心を見出した者もいたようです。また「高慢さ」がありました。散らされることを恐れているよりは、神さまに対する先制攻撃として自分たちが高みに到達して、神に並ぶものとなればよいではないか、自分たちの技術をもってしたらそのことができる、というおごり高ぶりがそこにありました。
こうして塔の建設は単なる建物の工事ではなく、人間の恐怖と高慢さの発端となりました。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
(ヤコブ4:6)

私たちクリスチャンも、時々高慢が出てきます。それは本当に気をつけなければならないことです。

それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
(ヤコブ2:17)

口では何とでも言えます。文章は好きなように書けます。しかしその人にクリスチャンとしての行いが伴っていないとしたらどうでしょうか。その人の言っていることは誰も信じないでしょう。いくら立派なことを言っても行いが伴っていなければ、それは無いと同じ事です。ない方がむしろ良いのです。
皆さんに質問です。

  • クリスチャンになって教会に来なくなった方が、急に何年かぶりに教会に戻ってきた。
  • 一生懸命クリスチャン生活を生きようとしているのだけれども、自分の言っていること、書いていること、話していること等がまことしやかに信仰的に聞こえるのだけれども、クリスチャンとしての行いが「ゼロ」である人が毎週教会に集っている。

みなさんはどちらの方が好きですか? 何年かぶりに戻って来た方を私たちは喜ぶのではないでしょうか。歓迎するのではないでしょうか。
なぜ私たちは高慢になるのでしょうか。それは自分の心に「自我」があるからです。理屈的に言えばクリスチャンには「自我」というものがないはずです。私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きているからです。
信仰があるなら、行いが伴っていなければなりません。それが神さまが私たちに求められている生き方です。それがへりくだりではないでしょうか。イエス様が自分の中心におられる。自分ではなくイエス様がこう考えておられる。イエス様が私を通してどう考えられるか。私たちはそのことに探究心を持っていたいものです。あまり自我が強すぎると、そこに高慢さが表れてきます。
 
 

2.神による混乱

神さまは天から降りて来られました。アダムとエバが罪を犯した時にも神さまは彼らに近づかれ、呼びかけられました。カインにも目を留めて声をかけられました。ノアにも地をご覧になりました。神さまは近づいたり、降りて来られたり、目を留めたりされなければ人々のことが分からないような方ではありません。神さまは全知全能なお方ですから、わざわざ降りてこられなくてもすべてお分かりでした。しかし降りて来られました。実際に見られるために、降りて来られました。神さまはいかに私たちに配慮してくださり、公平に評価しようとしておられるのか、そういったことが一連の神さまの動作によってみることができます。
人間に対する神さまの評価は「有罪」です。

  • 不服従(地に満ちよと言われたにもかかわらず、従わなかったこと)
  • 高慢(高い塔を建て、神と等しくなろうとしたこと)

それによって神さまは人を全地に散らばらせました。その手段として言語を混乱させました。
世界には多くの言語があるのは、人間の罪によるものでした。
 
 

3.ペンテコステの出来事

ある意味において、1948年はイスラエルにとって「ペンテコステ」だったのではないかと思います。二回目のペンテコステです。最初のペンテコステは聖霊が注がれたこと。二回目は、ユダヤ人がイスラエルに戻って来たことです。色々な国から戻ってきました。皆が違う言語を使っていました。その人々が集まり、イスラエル国家が立てられたのですから大変だったはずです。ある指導者がおこり、ユダヤ人皆がヘブル語を一から学び、そしてヘブル語を話すようにすすめました。そして現在はイスラエルではヘブル語が話されています。それまではバベルの塔とまったく逆のことが起こっていました。最初のペンテコステでも真逆のことが起こりました。ペテロはじめ弟子たちは各国の言葉で語り出しました。
ペンテコステの時は、待ち望んでいた弟子たちに聖霊が注がれ、そしてそれぞれが他国の言葉で語り出しました。大きな物音に驚き群衆が集まってきました。その群衆とは、祭りのために世界各地から集まってきた人々でした。そんな彼らの前で弟子たちはそれぞれの国の言葉で語りました。それを見て驚きました。これがペンテコステでの出来事でした。この出来事は心を通わせ言葉を通わせる道が何であるかを教えてくれます。私たちが自己主張をする時、結果いつも「バベル」=「混乱」です。自己主張は混乱ばかりを招きます。会話の中でお互いが自分のことばかりを話していたら、混乱するばかりではないでしょうか。混乱は心の王座に自分を据えることによりそれが起こります。私の考え、私の確信、主義主張。それを基準にしてすべてを考えていってはいけません。自分の人生も人間関係も混乱に陥ってしまいます。しかしイエス様を心の王座に据え、イエス様の前にひざまづき、イエス様に聞き入るとき、そこには平和と一致があります。喜びがもたらされます。それが神さまが私たちの望んでおられる姿です。
イエス様がなぜ十字架で死んでくださったか。それは私たちの罪を洗いきよめるためでした。その私たちがその新興国派をする時、イエス様が私たちの心の中に入ってくださいます。心の中を支配してくださるのはイエス様である。もはや自分ではないのだ。イエス様が心の中心となり私を導いてくださる。用いてくださる。
今日の一つのテーマはバベルの塔であり、「高慢の罪」でした。高慢というものを私たちの中から取り除いていかなければなりません。私たちの考え、思いの中から自分というものを取り除いていかなければなりません。もしイエス様だったら、このような時どうされるだろうか。そのことを考えていく必要があります。そのような人は神さまに褒められる人生を送れると思います。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
(ヤコブ4:6)

この神さまがおられます。

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