2018年3月18日 主日礼拝「イエスの洗足」

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書13章1〜17節

奨励題

「イエスの洗足」

今週の聖句

それで、主であり師であるこのわたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

ヨハネの福音書13章14節
 
 
訳してみましょう。
1969 Our love for christ is only as real as our love for our neighbor.
(キリストに対する私たちの愛は、隣人に対する私たちの愛によってはじめて真実となります。)
1970 Only God can transform a sin — flawed soul into a masterpiece of grace.
(神のみが、罪に汚れた魂を、恵みの傑作に変えることができます。)
 
 

説教メモ

<本日は、佐藤神学生による奨励となります。>

 
ヨハネの福音書は長老ヨハネがその晩年に記したものです。紀元85~90年に書かれました。ヨハネの黙示録が書かれたのが90年代。その頃はますますキリスト教会に対する迫害が激しくなっていた時代でした。そのような中を生き抜いたヨハネ、初めは血の気が多く短気で「雷の子」とニックネームが付けられたヨハネが、イエス様の十字架と復活の後に変えられ、「愛の人」と呼ばれるほどになり、晩年には両脇を支えられて講壇に立つと、たった一つのこと「互いに愛し合いなさい」とだけ語っていたそうです。そんなヨハネが記したヨハネの福音書は、様々な人生を経験したからこそ記せる単純でありながら、とても重みのある、そして深い書物だなぁと思わされます。
ヨハネの福音書13~17章は、十字架を前にしての「告別の説教」が始まります。これまで共に歩んできた弟子たちとの別れを前にして語られました。その冒頭に行われた今日の箇所の出来事「洗足」。洗足とは、イエス様が弟子たちの足を洗われるという行為です。これはヨハネのみが記したものです。この出来事が特別に書かれたその目的は、ヨハネによってはっきりと言われています。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

イエス様の公生涯の初めから、イエス様の十字架、復活を経験し、そして晩年まで生き抜き、迫害や様々な経験を重ねながら主の道を歩んできたヨハネだけが、私たちがイエス様を信じ、イエス様のお名前によって永遠のいのちを得るために必要な、重要なこととしてこの洗足の出来事を思い起こして記しました。永遠のいのちとは何なのかということもまた、ヨハネによって説明されています。それは、「唯一の神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ること」。知るとは単なる知識ではなく、主との深い交わりを持つ、関係を持つ、持ち続けることです。
 
13章1節は、ここから17章まで続くイエス様の告別説教全体の序文にあたります。私は今日、新改訳2017年版でお読みします。どのように翻訳が変更されたかもあわせて参考までに見ていただければと思います。

さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)

イエス様は「世にいるご自分の者たち」を愛されました。ヨハネ1:11には「ご自分の民」とありますが、ここでの「ご自分の民」は、イエス様を受け入れなかった人たちのことです。それに対し今日の箇所で言われている「世にいるご自分の者たち」とは、イエス様を受け入れた人。そしてイエス様と共にこれまでの道のりをずっと共に歩いてきた者たちのことです。ルカ22:28にはこう記されています。開かなくて結構ですが、お読み致します。

あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。(ルカ22:28/新改訳2017)
あなたたちは、わたしの諸々の試みの時にいつもわたしとともにとどまり抜いてくれた人たちだ。(同/岩波)

イエス様はご自身を信じ、受け入れ、そして共にその道をずっと歩んできた地上でのわずかな信仰者の群れ「世にいるご自分の者たち」を心から愛して来ました。そして最後の最後まで愛し抜き、その愛をすべてあますところなく示されました。洗足、そして別れの説教は、これら弟子たちのために行われたものでした。それを通し、イエス様は弟子たちに対する愛のこれ以上ない証拠を示されました。13章2節から。

夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
(ヨハネ13:2~3)

序文と本文の間に、2節のみことばがあることに不思議さを感じますが、3節を合わせ見ると、イエス様はこれまでのことも、これからのこともすべてをご存知だった。すべてご承知の上で洗足を行われたのだということが分かります。
洗足が行われた舞台は、過越の祭りの前、他の三つの福音書に記されている、ある家の二階で、弟子たちと持たれた最後の晩餐の席でのことでした。
マルコの福音書によると、この最後の晩餐の席上で、イエス様はパンとぶどう酒をとって、それらが自分の体であり、多くの人のために流す契約の血であると言いました。同様の記事はマタイの福音書、ルカの福音書にもあり、最後の晩餐が過越の食事、過越の祭と結びつけられており、このことは、過越の小羊の血がイスラエルの罪を贖ったように、イエス様の十字架の死が人々の罪の償いのための死であることを指し示しているという、とても重要なことを記しています。ところがヨハネの福音書にはこのことが記されていません。それは、ヨハネの福音書は他の三つの福音書よりも30~40年も後に書かれており、そのような記録は、初代の教会が、後に聖礼典の一つと定められた「聖餐」としての礼拝に集うときに繰り返し引用されていて、ヨハネの読者にとっては改めて証明したり、特に詳しく説明したりするまでもなく、明らかなことだったからだと思われます。しかし、洗足は他の誰も記していません。年老いたヨハネが、これまでを振り返り、あぁそうだったのかと、洗足に込められた主イエスの深い思いをはっきり理解して、これはどうしても伝えなければならないこととして記したのではないかと思います。
洗足、そしてそこから始まる告別説教は、主の晩餐のことばと同様に印象深く、ヨハネの心に深く刻みつけられました。しかし、13章7節で、イエス様ご自身が「わたしのしていることは、今は分からなくても、あとで分かるようになります」と言われている通り、ヨハネが信仰を全うし、晩年になって、ようやくその意味の深さを知ることになり記したのではないかと思うと、これは私たちにとっても、とても深い意味となり迫ってくるのではないかと思います。
 
ルカの福音書22:24~27、最後の晩餐の席上で、弟子たちは誰が一番偉いのかという論争を繰り広げました。それに対して

「世間では王が人民を支配し、また主権者は自分を恩人と呼ばせる。しかしあなたたちはそれではいけない。あなたたちの間では一番偉い者が一番若い者のようになり、上に立って支配する者が給仕する者のようになりなさい。食卓につく者と給仕する者とどちらが偉いか。食卓につく者ではないのか。でもわたしはあなたたちの間で、あたかも給仕する者のようにしている」

と仰いました。そしてイエス様が地上を去った時、神の国の王権は弟子たちに与えられる。しかしその王権はこの世の人民を支配するような権力ではなく、かえって人々に仕えるものである、自らのいのちを差し出さなければならないものなのだという、その真理をはっきりと示すために、イエス様はおもむろに立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めました。それは、過越の食事の前に奴隷が客の足を洗うといった当時の習慣を用いられて示されたものであり、弟子たちの目には、「自分たちのうちの誰が一番偉いか論争」に対する主の戒め、そしてへりくだりの模範、それだけのことに映ってしまったのかもしれません。しかし、イエス様がこのことをされたのは過越の祭りの時、過越の食事の最中か後であり、その祭りの意味することと深い関わりがあることをヨハネは後に十分に理解し、そして特別な意味を持つ出来事としてここに記しました。その証拠に、ヨハネは13:4「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」という動詞を、10:11、10:15で「イエスが良い牧者としていのちを捨てる」の「捨てる」と同じ意味として使っています。
イエス様は上着を脱ぎ、謙遜の限りをつくし、へりくだり、威張り散らす主権者のようにではなく、仕えるしもべの姿となり、弟子たちの足を洗いました。それは単に謙遜に仕えるという模範だけではなく、十字架の死と罪の赦しを象徴的に示したものでもありました。洗うとは、罪の赦し、救いを見える形で表現したもの。そしてそれは、イエス様がご自分を信じ従ってきた弟子たちを最後まで愛し抜き、その愛のこれ以上ない証拠として示されたものでした。そして示された愛の証拠を心に覚え、いのちを差し出すほどの厳しい神の国に至る信仰の道を歩むようにということでもあったと思います。何をもってこれ以上ない愛の証拠となるのでしょうか。
イエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロは「とんでもないことです」と辞退しました。「私こそ主の足を洗うべきです。その逆などとんでもないことです」と言い、イエス様の行為をやめさせようとしました。それはペテロが、過越の食事の前に奴隷が客の足を洗うといった行為としてしか見ていなかったからです。洗足の意味は十字架と復活の出来事のあとに理解できるようになると諭されても、ペテロは固く辞退したまま。ペテロの辞退は、私たちにも理解できる、人間としての自然な感情、謙遜な態度の見本のように見えます。しかしイエス様は、人間の自然な感情から生じるものが、そのまますべて真理にかなうものではないとされました。ペテロの見せた態度の内に、なお砕かれなければならないものがあることをイエス様はご覧になったのです。それは私たちの内にも見られるものです。
ペテロが洗足を拒んだことにより、ペテロの高慢さがあらわになってしまいました。ペテロはイエス様に足を洗っていただくよりも、自分がイエス様の足を洗って差し上げたいと思っていたくらいでした。「私はあなたに洗っていただかなくても、自分で洗って聖くすることができます。」自分で自分を救うことができる。神の恵みによって聖められる必要はないという自惚れでした。行いによって救われるのだという高慢さ。そこには生まれつきのままの人間の肉的な誇りがあります。
しかしペテロは、自分にそんな力などないことを、この後、嫌と言うほど知ることになりました。
イエス様はペテロに言いました。

「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
(ヨハネ13:8)

それは、二人の交わりは永遠に失われてしまうということです。

シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」
(ヨハネ13:9~10)

「足以外は」という言葉に注目したいと思います。「足以外」は、最初のギリシャ語原文には含まれていません。つまりイエスはこの時、足を洗うことによって、水浴、全身のきよめを弟子たちに分かりやすく示されたのです。ペテロはそのことを理解していませんでした。足を洗っていただいたことだけを見て、手と頭も洗ってくださいと願い出ました。ペテロはイエス様がさらにもっと完全なきよめをしてくれるだろうと考えました。しかしイエス様はペテロに、水浴した者にはさらなる洗いの必要はなく、すでに全身がきよいことを思い起こさせました。それは何を意味しているのでしょうか。イエス様が上着を脱ぎ、謙遜を尽くして行われるわざを受け入れる者、すなわち、良い羊飼いであるイエス様が羊である私たちのためにいのちを捨て、死にまで従うことによって可能にしたきよめ、罪の赦しを受けた者は、すでに全身がきよくされ、すべての罪が赦されているのであり、さらに他の場所を部分的に洗う必要はなく、また他の救いの手段も必要ないのだ、ということです。
このように足を洗うとは全身のきよめ、救いを見える形で分かりやすく示したもの。それは現在、聖餐とともに聖礼典の一つとして定められている「洗礼」を表現したものでもあります。そして洗礼に見る罪の赦しは、繰り返される必要のないこと、どんなことがあろうとも、決して取り消されることなどないものであると、愛の証拠の一つとして示してくださいました。
そしてもう一つ示された愛の証拠。それは日々の悔い改めによって主との関係が保たれる、主と私たちの関係を持ち続けるようにという、イエス様の愛の招きです。
先ほど、「足以外」は最初のギリシャ語原文には含まれていないと申し上げました。しかしほとんどの訳に加えられており、しかもかなり初期の段階で挿入されています。その理由として考えられるのは、10節「水浴した者は、洗う必要はありません」ここの水浴=それは全身を洗うという意味の語が使われており、洗う=それは部分的に洗うという語が使い分けられているということ。また、チェーン式聖書に説明されているのは、「バプテスマ、洗礼を受けた者はその後の罪の赦しを必要としないと解釈される危険性を避けるために、水浴して家に帰る者が足の汚れだけを洗い落とす慣習と結びつけたのであろう」とあります。
ところで、日常の言葉で「足を洗う」という言葉があります。人生で何か悪い道にはまっているときに、「足を洗う」という言葉によってその道から正された事を意味します。足を洗うというのは、裸足で修行のために歩いた修行僧が、泥足を自分で洗う事によって一日を終え、悪行から洗い清めるという意味で使われたのが言葉の語源だそうです。しかし、聖書では、足を洗われるのは主イエスご自身です。主イエスが、例えば一日の終わりに、私たちひとりひとりの汚れた足を洗い清めてくださいます。
初期の教父たちの多くは、バプテスマを受けてから犯す罪を、旅人の足に付くちり、汚れのように考えていました。ヨハネもまた、ヨハネ自身が書いたⅠヨハネ1章7~10節でこのように言っています。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
(Ⅰヨハネ1;7~10)

「私たちは神に従い、神の戒めを守って歩むその歩みの中でも、罪を犯してしまうものであり、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とヨハネは言っています。主イエス・キリストがみずからの手で私たちの足を洗い、綺麗にしてくださったその足で私たちは主の道を歩いていく。たった一度の罪の全身の洗い、聖め、罪の赦しから始まった信仰の歩みの中で、私たちの足には汚れ、罪がついてしまう。その罪は告白によって聖められるのであると、イエス様の公生涯の初めから、十字架、復活を通り、さらにローマによる激しい迫害の中をも通らされ、信仰の道を歩んで晩年を迎えたヨハネが言っているのです。とても重みがあると思いませんか。
冒頭にも申しましたが、イエスは、様々な試練のときに一緒に踏みとどまってきた弟子たちを愛されました。誰よりも試練に遭われ、その辛さや苦しさ、困難さを誰よりもご存知の主イエスが、ともに歩んできた弟子たちを愛し、そして足を洗われました。ともに歩むその歩みの中で多くの罪、不信仰、失敗もあったことでしょう。試練の時こそ人間の本性というものがわかるのですから。しかし主は、その罪を責めることなく、自らへりくだり、足を洗ってくださいました。主を信じ受け入れ、主との親しい交わりの中に入れられてからの、主とともに歩んだ歩みの中でついてしまった足の汚れのある弟子たちをそのまま愛し、その足を洗ってくださった。さらに、別れの説教を終え「さあ、ここから行くのです」と送り出されてからの弟子たちの歩み、すべても知っておられた。「さあ、ここから行くのです」と送り出された弟子たちの、そして私たちの信仰の歩みもすべて知っておられる。ある者はわずかなお金のためにイエス様を売ってしまう。ある者は人を恐れ、そんな人は知らないと言ってしまう。いざとなると主をおいて逃げ去ってしまう。そのような者の足を、主イエスはすべてご存知の上で洗われたのです。
イエス様は仰いました。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」私たちの信仰の歩み、その道は険しく困難なものです。主はそのことをも承知しておられました。その中で、私たちは犯したくもない罪を犯してしまいます。人を憎みたくなくても憎んでしまう。主を疑いたくないのに疑ってしまう。私たちはそんな自分自身を恥ずかしく思ったり、自分の弱さや失敗が赦せなくて苦しみます。そんな私たちを主は愛し、慰めてくださいます。以前にもお話ししましたが、慰めの意味を調べて見ると、悲しんだり苦しんだりしている人に、やさしい言葉をかけたりして心をなごやかにさせ、静まらせる。心にうるおいを与えたり、楽しませたりする。心の波立ちを静める、労をねぎらい、いたわる。とあります。また、ヘブル語の一つ(ナーハム)を見ると「大きく息をさせる」という響きを伴う言葉であることが分かります。悲しみ苦しむ私たちに言葉をかけ、御許に招き、励まし、心の波を静めてくださる。労をねぎらってくださる。そして大きく息をさせ、落ち着かせ、わたしを見なさいと言われます。ご自分がどのような方で、なにをなさる方なのかを思い出すようにしてくださいます。主は私たちの目の前で、私たちの足についてしまった汚れを洗われるのです。
罪を赦し「子よ。しっかりしなさい。子よ。安心しなさい。」と仰る主の中に、子とされた者に注がれる親の愛、慈しみを見るような思いに迫られます。先週はみさとちゃんがマラソン大会に出たと聞きました。もり君はかつてそのマラソン大会で、スポーツ部の強豪たちを抑えて見事2位になったことがあるとも聞きました。我が子が長い距離を一生懸命走って、汚れて、マメなんかできてたりする足を見て、親はどう思うでしょうか。「よく頑張ったね。辛かったでしょう。こんなに痛々しい足になっちゃって。」なんて涙ぐむでしょうか。もちろん不完全な人間の親の愛には限界があるかと思います。臭い!汚い!なんて。しかし、完全な愛をお持ちの天の父に、共に信仰の道を歩いてきた弟子たちを最後の最後まで愛されたイエスの目に、これから先も信仰の道を歩いて行く私たちを最後の最後まで愛そうとなさる主イエスの目に、私たちの汚れた足はどのように映っているのでしょうか。
私は社会でずっと働き、信仰生活を送ってまいりました。そして神学校という、とても恵まれた環境にぽっと移されたからこそ見えてくることがあります。それはこの社会で生きていくことの難しさ、この社会で信仰を告白し続けることの難しさ。クリスチャンとして完全に正しく生きることの難しさです。信仰があるからこその試練の多さ。そして罪を避けられない人の弱さ。主はそれらすべてをご存知です。私たちは信仰の道を歩む中で、やはり足を汚し続ける者たちです。罪を犯し続ける者たちです。そのことを思う時、私たちは主に「足ばかりでなく、全身を洗ってください!」と訴えるかもしれません。しかし主が私たちに必要なのだと仰るのは、さらなる全身の洗いではなく、足を洗うことだけ。つまり、日々の罪の赦しです。主は日々、私たちに悔い改めを求めてくださっています。あのイエスを裏切ったイスカリオテのユダに対しても、主は足を洗い、ご自身の愛の証拠を示され、そして悔い改めを迫ってくださいました。私たちは主の愛の迫りに応え、罪の告白をもって近づかなくてはなりません。主を知る、主との関係を持ち続けなければなりません。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」

主が示されたもう一つの愛の証拠は、日々罪を犯し続けてしまう私たちの悔いた心を、主は決してさげすむことなく、罪深い私たちを愛し、そして悔い改めへと招き、ご自身との関係を持ち続けることを望んでくださっているということです。
13章12節。

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席について、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」(13:12)

私たちは完全ではないけれども、弟子たちが分かる必要があった主の深い心、愛の一端を分からせていただいたのではないかと思います。そこで主はことばを続けられました。

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」(13:14~15)

主が足を洗われた。主が模範となられたのですから、私たちは互いに足を洗い合う務めから免除されることはありません。これは、洗足のすぐ後に語られた新しい戒めです。13章34節。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

「互いに愛する」とは、自分も愛されるべき存在であるということです。主がこれほどまでに愛してくださった自分を、まず自分が愛することです。
イエス様がご自分のいのちを捨てたほどに尊いと言われた私たち一人ひとりを、まず各自が感謝して受け入れる。謙遜になり、イエス様と議論したり言い訳をしたりしないで、ただ信じて従ってくるようにと。主に従い、赦され、罪から自由になり、神に愛されている尊いかけがえのない自分であることを、ただ謙遜に認めることを主は命じておられます。変な人間的な遠慮は高慢です。「わたしと何の関わりもありません」と言われてしまいます。これほどまでに愛されている自分を知り、自分を愛することによって、本当の意味で互いに愛し合うことができるのではないでしょうか。相手が自分と同じように愛されている人であることを覚えることで、心から互いに仕え合い、重荷を負い合い、赦し合い、愛し合い、励まし合い、また戒め合うことができるのです。13章16節。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」(13:16)

主に愛されている私たちはまた、遣わされた者でもあります。どこに遣わされているのでしょうか。それは先ほどの新しい戒めの後に続けて言われています。少し進んで、13章35節。

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
(13:35)

私たちはこの世にも遣わされており、この世に対して、私たちが互いに愛することによって証しをしていかなければなりません。私たちが遣わされて歩んでいる信仰の道は、永遠のいのち、神の国に至る道です。神の国の完成を目指す道です。神の国は目に見えない教会であり、教会は目に見える教会です。目に見える教会には、目に見えない神の国を、この地上において目に見えるものにするという役目があります。どのようにして目に見えるものにするかというと、私たちが互いに愛することによってです。
主は私たちを愛されました。そして教会を愛されました。エペソ5:25には、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」とあります。
今日はこのあと、教会総会が行われます。主イエス・キリストがいのちをささげられたほどに、主に愛されている教会として、これまでの歩みを振り返り、教会として罪を告白し、そして互いに赦し合い、愛し合いましょう。個人として、教会として、神の国の完成、一致を目指して新たに歩み始めましょう。
13章17節。

「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。あなたがたは祝福されるのです。」
(13:17)

私たちが主の洗足に込められた深い心を知り、主の模範にならいお互いの足を洗い合う時、私たち一人ひとりは、そして私たちの教会は祝福されるのです。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す