2020年5月3日 主日礼拝「死者の復活」

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章1〜28節

説教題

「死者の復活」

今週の聖句

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

コリント人への手紙第一15章20節

訳してみましょう

2191 Your life is like a newspaper : do people read honesty in you?
2192 God’s grace shines brightest where sin is the darkest.

説教メモ

  1. 福音とは
  2. 死人の復活
  3. キリスト・イエスを初穂として

礼拝式順序

開 祷
賛美歌 162番「あまつみつかいよ」
主の祈り
賛美歌 158番「あめにはみさかえ」
聖 書 コリント人への手紙第一15章1〜28節
説 教 「死者の復活」牧師
賛美歌 332番「主はいのちを」
聖餐式
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」

音声はこちら

動画はこちら

https://youtu.be/iTYhZP0Py50

「死者の復活」

北村牧師

 私と家内が結婚して、今日で25年経ちました。この事とコロナウイルス、共通点があるのですが何でしょうか。私たちの結婚25周年とかけてコロナウイルスと解く。その心は・・・。「忍耐」です。早いものでもう25年が経ちました。

 イエス様が死からよみがえってくださった。4月12日はイースター礼拝でした。私たちはイエス様が十字架で死んでくださったことは、クリスチャンでなくても世界の歴史の事実として受け止めていると思います。死とは何か。そう問われたならどのような言葉が浮かんでくるでしょうか。「罪から来る報酬は死である」(ローマ623)という聖書のみことばがあります。罪の結果が死であるということです。しかし世の中の人々はそのことに気付いていません。私たちクリスチャンは聖霊のお導きによって私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストが十字架で死んで、そしてよみがえってくださったことを知らされております。しかし、イエス様が復活された故に、私たちも復活するということは、クリスチャンであっても決して容易く信じられるものではないかもしれません。私自身の信仰体験からですが、最初から復活を信じられたわけではなく、徐々に信じられるようになり、そして歴史的事実として受け入れることができるようになりました。ところがパウロはコリントの信者たちに宛てた手紙の中で、「福音とは何か」というところで復活を最重要なこととして取り上げているわけです。コリントの教会には大きな問題がありました。ひとつは不品行。他にもいくつかの問題があり、その中の一つに今朝取り上げます「死者の復活」についての問題がありました。

  1. ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 このようにパウロは手紙の中で問うています。それではいけないということで、パウロは「福音とは何か」ということを改めて手紙の中で明確に示しました。

 私たちは皆、死にます。死こそすべての人に平等に与えられるものでしょう。それで多くの方々は、生命保険に入ったり貯金をするなど、死に対する備えをしています。けれども「死」そのものに対する備えとなると、世の多くの人々は何もしていない、死をしっかりと受け止めていないというのが現実ではないかと思います。

 しかし、たとえ死に備えが出来たとしても、すべての人は死を免れることはできません。人間は死に直面するとき、絶望のどん底に陥ります。それが死です。

 パウロはキリストが復活されたのだから、死者も復活するのだとコリントの信者たちにもう一度言うわけです。

 聖書は主イエス・キリストはからだをもって復活された事実、それは男性の使徒たちの前に現れた事実を3回ほど記しています。最初の復活の夜、弟子たちが集まっている部屋に現れました。次にトマスも一緒にいた時に。そして3回目はガリラヤ湖畔で。

 キリストの十字架と復活は、人類の堕落以来、すべての人に入った罪と死が完全に滅ぼされ、信じる者に永遠のいのちが与えられ、やがてこの方と同じ復活のからだが与えられる。そして新天新地に住むことを確かなものとする。

 私はかねがね、天国の福音を証ししてくださいとお願いしてきました。どんな人でも本当は天国に行きたいのです。ですから「天国に行けるのだ」という希望を語るのが一番簡単と言いますか、分かりやすいのではないかと思います。いきなりイエス・キリストの十字架と復活を語っても分かりにくいものでしょう。ですが天国に行けるのだという希望を語るのは分かりやすいと思われないでしょうか。それから天国に行くためにはどうすれば良いのかを証しして行けば良いのです。

 私たちが天国に住むことは確かなこととされています。キリストの復活は、罪による天におられる神さまとの関係の断絶があって、その断絶を繋ぐ唯一の方法です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ146)にある通りです。

 よみがえられたイエス・キリストを信じて救われた者は、この地上にありながら御国の喜びを味わうことができます。神の御力によってこの地上での苦難の歩みを全うすることができます。ですからキリストの復活は私たちクリスチャンの信仰の要であります。それはクリスマス以上と言えるでしょう。

 当時、「霊は善、物質は悪」というギリシアの思想「二元論」というものがありました。イエスは人であり物質。しかしキリストは救い主、そして復活されたのであり霊的。パウロはそのことをコリントのクリスチャンたちに宣べ伝えました。そしてキリストは弟子たちが明確にイエス様であると認識できる肉体をもってよみがえられた、これが大切であると述べています。肉体をもってイエス様はよみがえられた。しかし、以前と同じではありませんでした。閉められたドアを通り抜けて弟子たちの前に現れました。そのようなからだに変えられていました。ですから、復活とは「霊の復活」だけではなく、「からだの復活」でもあるのです。そのことを先ほども申し上げましたが、当時のギリシアの思想が根底にあってなかなか信じることができなかったコリントの信者たちに述べました。霊は善であり肉体は悪である。霊は人が生きている間は牢獄(体)に閉じ込められていると考えられ、死は悪の牢獄から霊が解放される時であり、肉体が復活することになれば再び霊が悪の牢獄に閉じ込められることになってしまう。だから肉体の復活はあり得ないのだと当時のコリントの信者たちは考えていました。この考えが「死者の復活はない」という主張の基でした。この考えは後に歴史の中で色々に形を変えて何度も何度も現れました。例えば使徒の後の時代には「仮現論」となって現れました。それはイエスの身体性を否定するもので、イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目に“そのように見えただけであった”というものです。また合理主義の時代には、理性で合理的に把握できない神に関わることは「非合理的な世界」とされ、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする風潮となり、キリスト教の聖書の権威や教会の伝統を根底から揺るがし続けるものとなりました。今日では人としてのイエス、メシヤ(救い主)としてのキリストとを二元論によって分離してしまい、復活の事実を否定する考えもあります。

 もしキリストの復活が歴史的事実ではないと否定してしまうなら、神さまが聖書によって啓示された信じる者の復活も、新天新地もないことになってしまいます。ですからキリストの復活は天におられる神さまと地上にいる私たちとを一つに結ぶ信仰の基本であります。私たちはこの基本に立って益々そのことを信じていかなければなりません。

 コリントの教会の信者の中に、死者の復活はないと主張する人々がいることを聞いて、パウロはこの書簡をしたためました。もし死んだ人の復活を否定するならば、イエス・キリストの復活も信者の復活も否定することになります。

  1. ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
  2. もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

 パウロは彼らの根本的な間違いを正し、彼らが復活の信仰に歩むようにと勧めました。これは使徒パウロが彼らに福音を伝えたとき、福音の全容を深く把握しないままに信じた人たちの中から出て来た主張であったと思われます。彼らが伝えられたままの福音を信じてキリストの信仰をかたく保つならば救われるとパウロは言います。神さまの完全な救いを告げるキリストの福音は、神ご自身が最も重要なこととして伝えたものであり、パウロもそのまま受けて彼らに伝えたものです。福音の中心はイエス・キリストであり、聖書の示す通りに救いのみわざを成し遂げられた。

  1. 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
  2. また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
  3. また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
  4. その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
  5. その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
  6. そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

 多くの者たちが目撃証人であり、ダマスコへの途上で復活の主イエス・キリストに出会い、使徒として召されたパウロ自身もその証人でした。

 かつて教会を迫害していたパウロが使徒として召されたことは、ただ神さまの一方的な恵み、憐れみによるものであると告白しています。

 大切なのはコリントの信者たちが、使徒たちが宣べ伝えたキリストの福音を語られた通りに信じたことです。ですから私たちは、神さまが聖書を通して語られた通りにキリストを信じる信仰に立って日々の生活を歩まなければなりません。

 ところが、福音の中心である十字架と復活の事実をもう一度彼らに告げたパウロは、死者の復活はないと主張する者たちに対して厳しく立ち向かいました。

  1. ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 この考えについては当時も様々な議論がありました。パウロはここで、すでに旧約の時代から聖書を通して告げられている死者の復活を否定することは、聖書の預言通りに起こったイエス・キリストがからだをもって復活された歴史的事実を否定することになると論じています。キリスト者はキリストの復活の事実の故に、主イエスを信じて死んだ人々もやがて主イエスと同じように復活すると信じています。皆さんは信じておられるでしょうか。

 ところが死者の復活はないのだという議論が行き着くところは、結局はキリストも復活されなかったのだということです。

もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

  1. そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
  2. それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
  3. もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
  4. そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
  5. そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
  6. もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 教えられた戒めを忠実に守ったとしても、いずれ死んで滅んでしまうのであるなら、戒めを守ることもまた空しいものとなります。空しい信仰によってこの世で信仰の故に苦しむことには何の意味もないことになります。復活を否定している者たちは、最も大切であるキリストの復活について良く考えもしないで福音を信じたのかもしれません。その結果、自分たちの周りの福音に反する議論に引っ張られ、死者の復活を否定したのかもしれません。パウロはそんな彼らがもう一度復活信仰に立ち返るようにとすすめています。

 復活はキリスト者の信仰と生活の要です。

 20節からはキリストの復活は御国の完成に繋がる重要な神さまの真理である事を伝えます。

 第一に、キリストの復活から御国の完成について28節までで述べます。私の大好きなおことばなのですが、今週の聖句にも取り上げていますが

  1. しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 当時「初穂の祭り」というものがありました。これはレビ記に由来することです。神さまに献げられる全収穫の初穂としてキリストの復活がある。

 私は百姓をしていますが、私の畑の周りには麦の畑があります。もう少しするとその麦の畑に穂が出て来ます。百姓をやっている者にとって、この穂が出て来るというのはとても嬉しいものなのです。初穂が出るということは、それに続いてたくさんの穂が出て来るということだからです。ユダヤ人にとっても同じだったでしょう。それで神さまは初穂の祭りを定められたのでしょう。皆で喜び宮に持って行き神さまに献げたのです。

 全収穫の初穂としてのキリストの復活があった。キリストの復活は信者の復活の初穂であり、キリストを信じる者もキリストと同じように復活する。これはアダムの罪によって全人類に入った死に対する、神さまの完全な救いが全人類にもたらされたことを示しています。キリストを信じる者はこのお方によって復活するのです。

 キリストが初穂としてよみがえってくださった。私たちはそれに続いて復活させられます。順番があります。

  1. しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
  2. それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
  3. キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
  4. 最後の敵である死も滅ぼされます。
  5. 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
  6. しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

 このようにして神さまの完全な救いが完成するのです。私たちはこのことを待っているのです。主が再臨されるのを待っているのです。主が再臨される時、順序としてまずすでに眠っている者(死んだ信者)がよみがえらされます。そしてもし私たちがこの地上でまで生きているならば、私たちは一気に空中に引き上げられのだとテサロニケ人への手紙で記されています。いずれにしても私たちは必ず復活させられるのです。

 死に方は色々あります。しかし、私たちがどのような形でこの世から取り去られたとしても、それはそんなに心配することではありません。やがて私たちは復活させられるのですから。イエス様はからだをもって復活されました。私たちもからだをもって復活させられます。焼かれて無くなってしまうからだではありません。私たちがよみがえらされるからだとは、そのような体ではないのです。新改訳聖書では「からだ」と「体」をきちんと使い分けています。わたしたちにはそのような「からだ」が与えられます。わたしたちはそのように変えられて行くのです。

 天国の福音を信じる者は、やがて天国へと行きます。そこには信仰の先達がいます。アブラハム、モーセ、ペテロ、パウロ・・・。他にももっと身近な方々。みなさんはどなたに会いたいですか。会えることは私たちにとって喜びではないでしょうか。そして私たちは永遠にイエス様とともに天にいることになります。

 しかし私たちはこの地上で生かされている限り、天国の福音を証ししていく者でありたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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