2020年5月17日 主日礼拝「キリストの勝利」

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書16章25〜33節

説教題

「キリストの勝利」

今週の聖句

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネの福音書16章33b節

訳してみましょう。

2195 Children of the King have no reason to live like paupers.
2196 Heaven — no pain, no night, no death, no tears.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  1番「神のちからを」
主の祈り
讃美歌  461番「主われを愛す」
聖 書  ヨハネの福音書16章25〜33節
説 教  「キリストの勝利」
讃美歌  294番「みめぐみゆたけき」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」

音声はこちら

動画はこちら

https://youtu.be/vUGb9ulqr9k

説教「キリストの勝利」

佐藤伝道師

 シャローム、おはようございます。

 毎年、この時期に話題になる「五月病」ですが、今年はどうなのでしょうか。あまり聞こえてきません。今年の4〜5月は例年とはだいぶ違っていて、今年はそれどころではないと言ったところでしょうか。五月病は「新入社員や大学の新入生、また社会人などに見られる、新しい環境に適応できないことによって起こる精神的な症状の総称」だということです。皆さんは経験がおありでしょうか。私にはあります。高校を卒業して東京で一人暮らしを始めた時。寂しくて心細くて、アパートには電話などなく、それまですぐそばにいた家族や友人たちと、そう容易く繋がることができませんでした。当時の歌で題名は忘れてしまったのですが、鉄橋の上から故郷に向かう列車の屋根に自分のリップクリームを落として、せめて自分の持ち物だけでも故郷の親しい人たちの所に帰したい、そんな形でも繋がっていたいといったような、そんな思いが込められた歌がありました。私が通っていた学校は特急あずさが窓の下を通るところにあって、その歌詞の通りにやってみたいなんて衝動に駆られたことを思い出します。

 ある年の信州クリスチャン修養会で、堀肇先生が講師でみえた時にこのように仰っていました。それは「人間の悩みというものは、最終的には『孤独』なのです。孤独の手前に『恐れ』とか『不安』といった様々なものがあるのです」。私はそのことばを思い巡らすほどに「その通りだなぁ」と思わされています。皆さんはどう思われるでしょうか。

 今朝もみことばより、いつも私たちとともにいてくださる主の恵みと愛の深さを知らされ、主の前にへりくだり、礼拝を献げてまいりましょう。お祈りいたします。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。本朝もあなたに生かされ、赦され、愛され、そしてこのように御前に招きだしていただいていることを覚えて心から感謝します。今、心を静め、すべてをお委ねして、平安をもってみことばより教えていただけますようお願い致します。聖霊様がそれぞれに臨んでくださり、神さまがお一人お一人に語りかけてくださいますように。足らない者の奉仕を全能なる主が聖めてお用いくださいますようにお願い致します。私たちの主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 冒頭の五月病の話しですが、恥ずかしながら、私は新潟に行っていた4年間というもの、ずっと五月病がかっていたように思います。40才を超えた信仰者が、しかもほんの100㎞離れたところでそんな状態だったとはとても恥ずかしいことなのですが、その時も一つの歌の歌詞を思い出していました。それはミスターチルドレンというグループの「星になれたら」という歌でした。賛美歌ではないところが申し訳ないのですが、大まかに言うと一人の人が故郷を後にする。皆とは会えなくなるけどさみしくなんかない、そのうちきっと大きな声で笑える日が来るから、と自分を励ますような歌の内容です。

 若い時からずっと好きだった歌でしたが、信仰を持つとその歌詞の内容に信仰的な、何か霊的なものを見るようになるものです。歌詞全体がイエス様のことを詩にしているようにさえ聞こえてきてしまいます(機会があったら検索してみてください)。韓国のイ・ジュンソクさんが美空ひばりの「川の流れのように」を何度も歌ってくださいましたが、教会で聞くと賛美歌のように霊的に響いて聞こえて来なかったでしょうか。

 その星になれたらの中にこのような歌詞があります。

「何かにつまずいた時は、空に手をかざしてみよう。この風はきっとどこかで、君とつながっているから」。

 近くにいて当たり前、手を伸ばせばすぐそこにいた家族、親や兄弟、友人たち。遠く離れてみて、一人になって色々な恐れや不安に襲われて、ようやくそのありがたさや愛が分かるものです。それは自分が困難な時ほど強く慕い求めるようになるものではないでしょうか。離れていても何とか繋がっていたい。繋がっていることで強くなれるような気がする。

 堀肇先生は、恐れや不安といった人間の悩みの根本は「孤独」であると仰いました。その通りだと思わされますね。

 今朝与えられましたみことばは、ヨハネ16章25節から33節です。

16章33節   「あなたがたは、世にあっては患難がありあす。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 今日の箇所も先週に続いてイエス様の告別説教の中の一部で、さらに結びの部分となります。弟子たちを世に遣わすにあたって、最後の説教の、最後の結びにこのように仰いました。

 では、この患難に満ちた人生において、勇敢に生きるにはどうしたら良いのでしょうか。

16章25節   これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

 「これらのこと」とは、イエス様の告別説教のことでしょう。イエス様は弟子たちにも分かるように、〜のようであるとか、まるで〜であると言ったような比喩、たとえをもって話されました。そのように話さなければ、この時の弟子たちには、天の父なる神さまについての事柄は決して理解できない、謎めいたことでしかなかったからです。救われる以前の私たちもそうだったのではないかと思います。丁寧に「神さまはお父さんのような愛を持ったお方で」などと説明されなければ少しも理解できなかったでしょう。

 しかしはっきりと告げる時、遠回しではなく直接的に明白に告げる時、あなたがたにもその意味がはっきりと分かる、見出せる時が来ると言われました。その時とは、イエス・キリストを心から信じ、聖霊が与えられる時、その時がイエス様が言われる「その日」です。

16章26節   その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに変わって父に願ってあげようとは言いません。

16章27節   それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

16章28節   わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

 イエス様は告別説教の締めくくりで言われました。この箇所を、塚本虎二訳ではこのようになっています。「以上、わたしは天のことを地上の事柄になぞらえて、謎のように話したが、間もなくもはや謎のように話さず、そのものずばりに父上(父なる神さま)のことを知らせる日が来る。その日あなたたちは、前にも言ったようにわたしの名で父上にお願いするのだ。しかし『わたしの名で』と言っても、それはわたしがあなたたちのために父上に願ってあげると言うのではない」。

 「その日」。それはこれまでイエス様が何度も弟子たちに話されたこと。ご自身が天に昇られ、そして聖霊が弟子たちに与えられる時です。

 ところで、私たちには、イエス・キリストを信じた時、例外なく聖霊が与えられています。それは見たり感じたりする経験ではない、イエス・キリストを信じた時に、私たちの努力によるものではなく、一方的に与えられる神さまからの賜物です。プレゼントです。それは信じて受け入れるべき事実です。

 そんな私たちはすでに、聖霊によって人生の中の色々な謎に霊的な目が開かれて、その中に隠されている本当の意味を、父なる神さまの御心、ご計画を見出せるようになりました。そして、聖霊によって父なる神さまと顔と顔を合わせて会話できる者となっているのです。

 私たちはイエス様の名によって祈ります。それは先週も申し上げましたが、イエス様の御心と同じ願い求めをもって祈ることです。それは神さまと隣人とを愛する祈りです。私たちの祈りはすでに変えられています。私たちの祈りを振り返ってみてください。イエス・キリストを信じる以前の祈りとは変わっていることに気付くのではないでしょうか。例えば、イエス・キリストを信じる以前は「あの人が憎い、酷い目にあえばいいのに!」と言ったものが、相手の祝福を祈る祈りになっているのではないでしょうか。「あの人が憎い」それは変わらないかもしれないけれども、「あの人の心が変えられますように、憐れんでください。私にも赦す力を与えてください」と、そのような祈りに変わっているのではないでしょうか。自分勝手な祈りが、自分さえ良ければそれで良いというような祈りが、そうではないものに変えられているのではないですか? 今朝も主の祈りをご一緒に祈りましたが、主の祈りをご自身の祈りとして心を込めて祈られているのではないでしょうか。それこそ聖霊が与えられている証拠です。

 そしてまた、旧約時代にあのモーセがシナイ山で神さまと顔と顔を合わせて会話をして山から降りると、モーセの顔が光輝いていたではないですか。それは罪を犯したイスラエルの民を必死に自分のいのちをかけて執り成して、その後に神さまとの親しい交わりを赦されたことによってのことでした。私たちも私たちを憎む人のために執り成し祈り、そして神さまと顔と顔を合わせるように親しく交わるならば、実際に私たちの顔が光るのではないかもしれませんが、私たちを憎む、迫害する人の前でも自信に満ちた、喜びに満ちた光輝くような表情になるのではないでしょうか。人々は私たちのその顔を見て恐れるのです。恐れると言ってもただ怖がるのではありません。もし私たちが急にもの凄い光を見たらどうしますか? わーっと身を隠そうとしたり、目を覆ったりするでしょう。人々が私たちの顔に神さまの栄光、素晴らしさを見て、まぶしくて思わず身を隠す、目を覆う、そのような恐れです。これもまたイエス・キリストにある勝利者の姿ではないでしょうか。

16章29節   弟子たちは言った。「ああ、あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話しはなさいません。

16章30節   いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」

 この流れの中で、弟子たちのこの言葉の意味が分かるでしょうか。弟子たちは「今」、その「今」とはイエス様が言われた「その日」ではなく、自分たちの「今の時」です。そして自分たちによる信仰の決心の時でした。

 「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」と言った「これで」とは、16章17節からを見ると分かります。弟子たちはイエス様が言われたことが分かりませんでした。でも質問しませんでした。その質問をイエス様がご自分から見抜いて答えられました。その不思議とも言えるイエス様の能力をさして、「これで、あなたが神から来られたことを信じます」と言ったのです。もちろん、この信じ方は間違いです。イエス様は弟子たちに、ご自分が天に昇られて、弟子たちから遠く離れてから聖霊が与えられるその日、その時、聖霊によって謎が理解できるようになると言われたのです。

 そして続けて、人間の信仰的努力、決心によっては、決して困難に勝利することができないことも教えられました。

16章31節   イエス・キリストは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。

16章32節   見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」

 別の訳ではこうです。「あなたがたは『今』、信じています。『しかし』、見なさい。あなたがたが各自、自分のところへの散らされ、わたしをひとり置き去りにするような時が来ようとしている。いや、来てしまっている」。

 これはこの訣別説教のすぐ後に、ゲツセマネの園で実際に起こってしまった出来事を指していることは明らかです。

 「しかし、わたしはひとりきりではない。父が私と共におられるからだ」。これも同じこの後のゲツセマネの園での出来事です。これこそイエス様の勝利の姿です。キリストの勝利の要因です。

 「わたしはひとりきりではない」。イエス様の十字架の受難は、父なる神さまがともにおられるという確信によって大きな慰め、人の罪のために死にまで従うという力が与えられました。ほんの一瞬、イエス様は父なる神さまの愛から見放される恐ろしい瞬間が襲いました。罪を知らない方が罪とされて、イエス様はそれこそ罪の本質にほかならない神さまからの徹底的な関係断絶、徹底的な孤独を味わわれて、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし、32節の終わりに「父がわたしといっしょにおられるからです」と言われたイエス様のおことばどおり、その一瞬を除けば、イエス様は終始一貫、父なる神さまがともにおられるという確信に支えられて、ついには平安のうちにご自分の霊を委ねることができたのです。そして死んで3日目によみがえられ、今は天の父の右の座につかれ、今も生きておられる。この受難と復活におけるイエス様の御姿こそ、この世、また罪、そして最後の敵である死にさえも勝利された勝利者の姿です。その勝利者には常に天の父なる神さまが共におられます。

16章33節   わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 イエス様は「信じる」と宣言した弟子たちを愛おしげに見やりながら答えられたのです。「今、信じると言うのですか」。

 イエス様が弟子たちの苦難や試練、失敗を語られたのは、弟子たちを失望させたり落胆させるためではありませんでした。真の意味で平安を持つことができるだめだったのです。ではどうやって弟子たちは平安を持つに至るのでしょうか。弟子たちはイエス様の予告どおりにゲツセマネの園でイエス様を残して散っていきました。弟子たちの失敗、裏切り、敗北です。また、弟子たちは恐らく、ゲツセマネの園での失敗だけではなく、イエス様が言われた通りの患難に満ちた世において、遣わされた者として生きる時に、何度も失敗し、弱さを自覚したのではないかと思います。敗北を経験したのではないかと思います。敗北の中で、「失敗してしまった自分から主はもう離れてしまわれたに違いない」と、霊的な孤独を感じたのではないかと思います。そのたびにイエス様の弟子たちをいとおしげに見つめる、慈しみに満ちた眼差しを思い起こしたのではないでしょうか。そして、自分たちの失敗、敗北を通して弟子たちは、イエス様が彼らの失敗や弱さを完全にご存じの上で自分たちを理解しておられたことを悟っていったのでしょう。だから自分たちは決して見放されることはないのだと、そのようにしてイエス様の赦しと大きな愛をもっともっと深く知らされるようになる。失敗の中でも絶望することがない。失敗を通して、逆に真の望みを神さまに置くことが出来るようになる。こうして自分たちの内に真の平安を見出すに至るのです。

 しかしそれもまた聖霊の力によるのです。自分たちの信仰的努力、決心ではできないことです。聖霊が私たちに、すべてのことを、イエス様が言われたおことば、イエス様の御姿を思い出させて、そして失敗の中にある平安を、意味を、理由を見出させて教えてくださるのです。

 「しかし、勇敢でありなさい」。イエス様はそう言われました。

 この患難に満ちた世で、弱い私たちは、どのようにしたら勇敢に生きられるのでしょうか。悩みや心配に満ちた世に勝利できるのか、勝利者として生きていけるのか。

 詩篇の記者も言っています。「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。そのほとんどは労苦とわざわいです」(詩90)。今はもっと長く健康で生きられる時代ですが、しかし長く生きれば生きるほど労苦とわざわいも増えるというのです。確かに、私たちがこの世で生きることには悩みが多くつきまといます。若い時には将来のこと、結婚のこと、仕事のこと。家庭を持てば子育てのこと、経済のこと、病のこと、親の世話のこと。年を重ねれば健康のこと、老後の生活のこと、そして死のこと。

 患難に満ちた世を勇敢に生きるために必要なものとは何なのでしょうか。ドイツのある牧師がこう言っていました。「それは死に際の確信である」。地上の生涯を閉じる時、そればかりではなく、人生の中で死を予感させる悩みや悲しみ、出来事に遭遇する時、私たちはやはり恐れるのではないでしょうか。冒頭では「人間の悩みというものは、最終的には『孤独』なのである。孤独の手前に『恐れ』とか『不安』といった様々なものがあるのだ」ということを見ました。そしてイエス様も最終的にこの「孤独」と戦い、勝利されました。それは「父がともにおられるから」という確信においてです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。『あなたが』私とともにおられますから!」。この確信において、私たちは何も恐れることなく、勇敢に、勝利者としてこの世を生きていけるのです。死を予感させる様々な困難にも、勇敢に立ち向かっていけるのです。そして最終的には、この世の生涯を終えて私たちは父なる神さまとイエス様がおられる天に凱旋するのです。そこで永遠に一緒に生きるのです。孤独も、涙も、悲しみも苦しみもない神の御国で生きることになる。それこそキリストの勝利に与る私たちの最終的な勝利です。

 皆さんはこの確信をいただいておられるでしょうか。

 聖書には驚くべき約束、真理が記されています。ヨハネの福音書14章23節。同じ告別説教の中でイエス様が示された約束、真理です。

14章23節   「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは(つまり父なる神さまと御子イエス様は)その人のところに来て、その人とともに住みます。」

 父なる神さまは天におられます。イエス様は天に昇られ、神さまの右の座についておられます。「わたしたちは(父なる神さまと御子イエス様)その人のところに来て、その人とともに住む」。それは私たちに聖霊を送られることによって実現することです。そして私たちはイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けたその日、その時、聖霊が賜物として与えられています。すでに孤独ではありません。患難に満ちたこの世を生きるにおいて起こる様々な人間的な問題すべてに対して勝利しているのです。「あなたがともにおられるので、たとえ死の陰の谷を歩こうとも何も恐れない」。聖霊によって平安が与えられている。聖霊によって私たちは神さまとイエス様といつでも繋がっているのです。手を伸ばせば風を感じるように、その風は、聖霊は天におられる主と繋がっているのです。そしてそのことによって、様々な問題や失敗の中に、私たちは霊的で鋭い感覚と洞察力をもって神さまの御心を理解できるようになっているのです。ですから、何も恐れず勇敢に、主から遣わされた者としてこの世で、人々の間で生きていけるでしょう。

 しかし私たちは、手を伸ばさなければなりません。

 聖霊はすべてのクリスチャンに例外なく与えられていますが、満たされている時といない時があるのです。時に失敗や敗北してしまうのは、聖霊に満たされていない時です。主よりも他の何かを愛している時でしょう。私たちはいつも、神さまの方向に手を伸ばして、聖霊に満たされることを祈り求め、キリストに従って喜びと勝利の道を歩んでまいりましょう。そうすることで恐れなく、喜びに輝く私たちの表情、人生の生き様がそのまま神さまの栄光を現すことになるのです。

 もし、私たちの隣人の中に、兄弟姉妹方の中に、「孤独」であるために問題を抱え苦しんでおられる人がいるならば、聖霊が与えられるように、満たされるように導いて差し上げましょう。パウロもこのように勧めています。

Ⅰコリント15章57-58節。

15章57節   しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

15章58節   ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 イエス様が天に帰られ、私たちに送ってくださった聖霊こそ私たちの勝利であることを覚えたいものです。聖霊によって父なる神さまと御子イエス・キリストが常に私と共におられることを覚えましょう。そして聖霊の力によって、私たちは遣わされているこの世で、神と隣人を愛することを諦めることなく、あた主にある兄弟姉妹の愛による一致をもって、いつも主のわざに励んでまいりましょう。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばより、神さまがいつも私たちとともにいてくださる確信をいただき感謝致します。この平安をもって、この世での私たちの一歩一歩の歩みを強めてくださいますようにお願い致します。いつも聖霊様が私たちのうちに満ちていてくださいますように。感謝して私たちの主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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