2020年5月24日 主日礼拝「キリストの昇天」

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章44〜53節

説教題

「キリストの昇天」

今週の聖句

そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

ルカの福音書24章51節

訳してみましょう。

2197 How canwe know what is evil if we deny the God who is good?
2198 Safety is not the absence of danger but the presence of God.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  75番「ものみなごぞりて」
主の祈り
讃美歌  159番「あおげや輝く」
聖 書  ルカの福音書24章44〜53節
説 教  「キリストの昇天」
讃美歌  512番「わがたましいの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」

音声はこちら

動画はこちら

https://youtu.be/O7Cfhig6OVw

説教「キリストの昇天」

佐藤伝道師

 シャローム、おはようございます。

 どうか皆さんに平安がありますようにと祈りつつ、ひとつのお話しをさせていただきます。

 私は先週の水曜日の夜に夢を見ました。とても気分の良い夢でした。それは、自分が二日後に死ぬという夢でした。自分が死んでしまう夢が気分が良い夢だなんてと、気分を悪くしてしまう方がおられましたら申し訳ないのですが、でも私は、朝起きてからとても気分が良かった、平安だったのです。何か嬉しかったのです。

 その夢とは、自分が二日後に死ぬことが分かっているというものでした。それでも普通に生活していました。それから家族とか母とか、色々な人たちと一緒に過ごして、別れの挨拶をして、というところで夢が終わりました。

 日本人にとって、死というものは忌み嫌われるものだと思います。けれども私たちクリスチャンにとって死とは、患難に満ちたこの世での働きを終えて、神さまがおられる天に凱旋すること。そこで神さまから栄冠を受ける。そこで死の先に続く永遠のいのちを生きるという神さまの約束が成就されることです。

 「しかし、勇敢でありなさい。」とイエス様は言われました。

 私は正直、死というものが全く恐ろしくないかと言うとそうではありませんでした。その時自分がどうなるのかが分からないので、それで怖かったのです。しかし先週の説教の準備のために聖書を調べたり思い巡らしていた時に、主はどんな時でも、今も、死ぬ間際も、そして死んでからも、いつも、ずっと永遠に共にいてくださるのだ。ずっと私を愛してくださっているのだ。だから勇敢でいられるのだと、自分自身がみことばから教えられ、心が燃やされる思いがして、そのことがずっと私の心の中に残っていて、それであんな夢を見たのかなぁと思います。実際に自分が死ぬ時は弱さ丸出しになるかもしれません。でも、それもすべて神さまはご存じの上で、今の私を愛し、最後まで私を愛し、さらにその後に続く永遠のいのちにおいても、私を愛してくださるのです。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇めこころから賛美致します。過ぐる一週間、それぞれの場で過ごし、業を終え、本朝も私たちを御前に集わせ、あなたに礼拝を献げる者としてくださっていることを心から感謝致します。今朝も聖書のみことばを祝福して私たちにお与えください。聖霊様が満ちていてくださって、それぞれに語られ、それに応えて行くことができますようお守りください。そして、私たち自身を聖められた聖なる献げものとしてあなたにお献げできますように導いてください。語るこの者の罪、弱さ、足りなさをあなたが覆ってくださり、聖めて用いてくださいますようにお願いを致します。私たちの主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

 先週、祝祷が終わった後に、北村先生がこのように仰いました。「イエス様は本当に優しいお方だったんだと思いました」。私はそれを聞いて本当にそうだなぁと思いました。嬉しくなりました。

 ヨハネの福音書の13章には、イエス様がこの世を去って父のみもとに行くという、ご自分の時が来たことを知っておられて、そして弟子たちを愛してきたイエス様は、彼らを最後まで愛された、その愛を「残るところなく示された」と記されています。今朝の箇所は、いよいよイエス様が弟子たちから離れ、天に昇られるところが記されています。この世で弟子たちが見た、イエス様の最後のお姿でした。イエス様がわざわざこのようにしてご自分の最後のお姿を見せられたのも、やっぱり愛によるのだと思わされます。

 私の父は一昨年の11月、およそ2週間の病院生活の末に召されました。その間に、皆さんのお祈り、また多くのクリスチャンの方々の訪問をいただきました。神学校の先輩は、天国のことをストレートに、聖書を通して語ってくださいました。またK姉が教会に備えてくださったトラクトには罪のこと、その罪の解決方法、天国への道のことが大胆に教えられていて、父はそれを読んで、ついにイエス様を救い主として受け入れてくれました。その時、神さまが父の心を開いてくださったのだと思います。それからすぐに病状が悪化し、ほとんど眠っていました。私は神学校の先生や先輩方のすすめもあって、神学校を休ませていただき、夜も泊まり込みで付き添っていました。普段は絶対に握ることなどない父の手をずっと握っていましたが、たまに呼吸が苦しくなって強く手を握り返す時がありました。怖かったのだと思います。そんな姿を一晩中見ているのは辛いことでした。ある日の夜中、父は急に目を覚まして、にっこり笑ってこう言いました。「たっくん、バイバイ」。それが父と私との最後の会話でした。それから数日間、父の意識は戻ることなく、召されて行きました。ですから、私の中で父の最後の姿、印象に残っているのは、救われた父。そして苦しんで怖がっている父の姿ではなくて、小さな子どもに対して言うように、「たっくん、バイバイ」とにっこり笑いながら言ったその姿なのです。私は、その父の最後の姿が、今でも私の中に残っていることによって慰められています。父には「お前とはソリが合わない」とはっきり言われたこともあります。私もいつも反抗的な態度をとっていました。そんな関係が父に対する記憶の最後となってしまっていたら、悲しいことだったろうなと思います。また苦しそうに、辛そうな姿だけ見せられて、それが最後の姿として印象に残っていたとしたら、私にとって辛いことだったと思います。でも最後の最後に、私は父の愛を感じることができました。やっぱり私は父の子どもで、私が自分の子どもを愛するように、私も父の子どもとしてずっと愛されてきたのだと、その愛を信じることができました。今は本当に、不思議と感謝しか残っていません。

 イエス様は、十字架で苦しまれた姿を最後に、弟子たちの目の前からいなくなることをされませんでした。弟子たちがご自分を見捨てて逃げてしまった、その失敗の経験の記憶を最後にして、弟子たちから離れることをされませんでした。弟子たちの前に現れて、直接弟子たちに聖書を詳しく教えてくださいました。聖書全体に書かれている神さまの御心を詳しく説明するように丁寧に教えてくださいました。これはやはりイエス様の愛、最後まで弟子たちを愛された、その愛を残るところなく示されたイエス様の優しさではないかと思うのです。そのイエス様の愛、優しさは、弟子たちの心を開き、その後の弟子たちの歩みを支えたのではないかと思わされます。

 本朝与えられましたみことば、ルカの福音書24章44節からです。

24章44節   さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 このようにイエス様は話し始められました。それはイエス様が復活された日曜日の夜のことです。24章1節からに記されているように、その日は一日を通して、信じられないような色々なことがありました。その日の夜に弟子たちはみんなで一つの部屋に集まって、「ほんとうに主はよみがえった」と騒いでいるその真ん中に、イエス様ご自身が立たれました。

 何を騒いでいたのでしょうか。喜んだのでしょうか。

 弟子たちは復活されたイエス様を見て「驚き、恐れ、取り乱し、心に疑いを起こした」とあります。この時のイエス様に対する最後の記憶は、自分たちの裏切り、そして痛めつけられ、辱められ、十字架上で死なれたイエス様の姿だったのでしょう。

24章45節   そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

24章46節   こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

24章47節   その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

24章48節   あなたがたは、これらのことの証人です。

 イエス様が教えられたこと。それはここに記されている3つのことでした。

①キリストは苦しみを受けること
②3日目に死人の中からよみがえること
③その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられること

 これらすべてが、実は旧約聖書全体に書いてあるのだと、具体的に丁寧に説き明かすように教えられました。

 イエス様は、弟子たちに聖書を悟らせるために、旧約聖書のみことばに記されている真の意味をはっきりと理解できるようにと、弟子たちの心を開かれました。しかしこの「心」とは、原語から「理性的な心」。感情とか心情に動かされない知性、冷静に物事を考えて知識として得ようとする心を指しています。

 確かに、マタイの福音書22章37節で、イエス様は「律法の中でどの戒めが一番重要なのでしょうか」という質問に対して、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知力(2017では知性=理解)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが重要な第一の戒めです」と答えられました。

 私たちの心を尽くして、いのちを尽くして主を愛することと同時に、どこか冷静な、知性、聖書に対する知識、理解を尽くして主を愛することも重要であることを教えてくださっていると思います。

 自分のいのちを燃やすような愛。確かにそれはとても素晴らしいものです。しかし人間というのは弱いもので、私たちの心、主に対する愛はその時の気分によって、体調によって変わってしまうものではないでしょうか。しかし知性や知識というものはそういったものに左右されるものではなく、冷静な、どっしりと底辺にあって動かされることなく、私たちの信仰をしっかりと支えることができるものだと思います。

 ただ知識としてだけでは、やはりどこか冷たく、静かなものです。知識としてだけ教えられるのなら、学生時代の退屈な授業と一緒です。でも、今日の箇所のすぐ前、ルカの福音書24章32節に記されていますが、あのエマオでの途上で二人の弟子たちは、イエス様による聖書の説き明かし、丁寧な説明によって知識が与えられて心燃やされたではないですか。なぜでしょうか。イエス様によって心が開かれたからでしょう。また新共同訳では「心の目が開かれた」となっています。私たちは興味のあることに対してはその中に何かがあるのではないかと目を凝らすものです。教えられる聖書のみことばを、ただ知識とだけ教えられるのではなく、それら一つ一つを自分の人生にすり合わせて、その意味がはっきり分かる時、私たちの心が燃えるのではないでしょうか。その燃える心の炎こそ、自分の感情や体調によっては左右されない、長く燃え続けるもの、いつまでも消えないものとなるのではないかと思うのです。

 イエス様は復活された日の夜にこれらのことを教えられました。しかし使徒の働きを見ますと、イエス様はその後40日にもわたって弟子たちに現れて、聖書のみことばの確かな証拠をもって教えられたことが記されています。たった一晩の出来事ではなく、それほど時間を要するものでした。そして

24章49節   さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエス様が天に昇られ、約束の聖霊がそそがれるまで、聖霊による天からの力が着せられるまで、都に留まっているように言われました。

 とどまるということは、私たちの信仰生活には欠かせないキーワードだと思います。あの大使徒となったパウロも、復活のイエス様と出会ってからじきに、他の弟子たちがだれもいない荒野に退いてそこにじっと留まって、3年間もかけて旧約聖書のみことばと自分の人生に起こった一つ一つの出来事をすり合わせるようにして学びました。神さまから注がれていた愛を知っていったのです。「そこに」とどまっていられなければ、その愛を深く知ることもなかったはずです。「そこに」とどまればとどまるほど深く愛を知る。「今いるところに」とどまればとどまるほど主を待ち望む思いが深くなる。そのような者にこそ主は最も親しく現れてくださるのではないでしょうか。そのようにしてパウロは新約聖書を数多く残した他、神さまに大いに用いられる大使徒となったのです。

 実は、聖書のみことばをしっかり知識として学ぶこと。これこそ弟子訓練なのです。今はコロナのために延期されていますが、朴先生による弟子訓練とはまさにこのことなのです。イエス様とは誰なのか。イエス様はあなたに何をされたのか。イエス様はあなたに今、何をされているのか。そのことを聖書のみことばからしっかりと教えられ、私たちのうちに動かされない知識として植えられ、そして心燃やされていく。本物の弟子とされていく。弟子となって世に遣わされて行く。そのことを目的とした学びです。学びの始まりを期待して待ちましょう。

 さて、47節はルカの福音書における「大宣教命令」です。「その名によって」。これは何を意味するのでしょうか。その名によって。つまり「キリストの御名によって」ということです。新約聖書の使徒の働き以降を見ますと、キリストの御名によって行われたことが記されています。それは

①弟子たちがキリストの御名によって病を癒やしたこと
②弟子たちがキリストの御名によって洗礼を授けたこと
③弟子たちがキリストの御名によって、キリストについて語ったり教えたりしたこと

 これらが記されています。

 当時は病気と罪とは深い関係があり、病が癒やされることは罪の赦しが決して不可能ではないことを具体的に示されることでした。その癒しがキリストの御名によってなされたのです。そして人々を洗礼へと導く。それからさらにキリストについて教えることとは、私たちに与えられた聖書の知識を人々に教え、その人々をキリストの本物の弟子としていくことです。つまりこれは、マタイの福音書28章の大宣教命令と同じです。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。

 私たちはこのことの証人。事実を証明する人。つまり主の働き人として召されているのです。証人とは、前々回に申し上げましたが、殉教者を意味する言葉です。

 「あなたがたは、この世にあって患難があります」と主は言われました。その患難に満ちた世の中で、それでも信仰に留まっていられるのは、証人として留まっていられるのは、しっかりとした信仰の土台としての、神さまの御心についての知識。そして、それでも私たちに注がれる神さまの愛に対する確信ではないでしょうか。その確信を与えるために、イエス様はご自身の愛を残すところなく示してくださいました。

24章50節   それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

24章51節   そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

24章52節   彼らは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、

24章53節   いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 ここに新改訳の第三版では省かれていることばがあります。そして聖書研究が進むにつれ、省かれていたことばが再び記されたところがあります。新改訳2017で、51節からをお読みします。

24章51節   そして、祝福しながら、彼らから離れて行き、天に上げられた。

24章52節   彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、

24章53節   いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 再び訳し出されたのは、イエス様が弟子たちから離れて行った。それは天に上げられたこと。そして、弟子たちが天に上げられたイエス様を礼拝したことです。

 イエス様は弟子たちを祝福しながら天に上げられました。

 弟子たちは、このイエス様が祝福の姿勢をとられたまま天に昇って行かれた姿をみて、どれほど慰められたことでしょう。別れの時の最後の姿というのは、私たちの心に印象深くいつまでも残されるものです。もし私たちが、誰かと別れるときに何か恨みとか憎しみとか、喧嘩したままとか、心残りがあるとかの状態のままで別れてしまったらどうでしょう。もし、イエス様と弟子たちとの最後の別れの記憶が、十字架につけられた時で止まっていたなら、弟子たちの心の傷は一生癒えることはなかったのではないかと思います。けれども、イエス様はそうされませんでした。ご自身に対する弟子たちの色々な誤解を解いてくださいました。心の目を開いて、現実の出来事の中に神さまの御心があることを、聖書のみことばから丁寧に説き明かして、知識として与えてくださった。その感情などに動かされることのない事実を自分の人生の中に起こった一つ一つのことにすり合わせてみた時に、みる時に、心を燃えさせるものとなったのです。

 そして最後に、イエス様は弟子たちを祝福しながら天に上げられ、弟子たちの目には見えなくなりました。そして弟子たちは、ここで初めてイエス様を礼拝しました。イエス様は礼拝されるのにふさわしいお方である事をついに悟ったのです。ただの恐ろしい相手を本当の意味で礼拝できますか?

 弟子たちを最後まで愛され、ご自身の愛を残すところなく示されたイエス様。弟子たちはその愛をしっかり受け止め、イエス様を愛し、喜びと希望にあふれて心から礼拝したのです。そして非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。

 イエス様は弟子たちに命じられました。都にとどまっていなさいと。それは、あなたがいるべき所で腰を据えて生活し続けなさいということです。そこで腰を据えて人々の間で生活しなさいということです。弟子たちにとっては、イエス様が殺されたエルサレムで、またイエス様を十字架につけた敵が大勢いるそのの真ん中で生活すること。敵の真ん中で証人として生きていくことでした。詩篇でも歌われています。「主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。主の前に静まり耐え忍んで主を待て」。弟子たちは、いつも宮にいて神をほめたたえていました。いつも宮にいてとは、ずっと宮にい閉じこもっていることを意味していません。いつも、それは「すべてを通して」あるいは「頻繁に」と訳せる語です。証しの生活の中で起こる様々な出来事を通して、頻繁に神さまのみこころを求めて宮に行った。そしてそこで神をほめたたえたのです。

 宗教改革者のルターがこういうことを言いました。「イエス様が地上におられた間は、私たちから遠かったけれども、イエス様が昇天して神さまのみもとに帰られたことによって、限りなくイエス様は私たちに近くなった」。

 イエス様がこの地上におられた頃は、イエス様に実際にお目にかかれたのは、その時代の、その地域にいるごく限られた人たちだけでした。けれどもイエス様が天に昇られ神さまのもとに帰られた。そしてすべての制約から解放されて、今はどこにでもおられるお方となってくださった。ですから今、私たちが仕事をしている時も、家庭にいる時も、学校にいる時も、いつでもどこでも何をしている時でも、イエス様は私たちとともにいてくださることが可能となりました。そして共にいてくださいます。驚き、恐れ、取り乱し、心に疑いを起こしていた弟子たちの真ん中に立たれたイエス様は、私たちの生活のただ中にも立ってくださいます。そこで心の目を開き、感情には決して左右されない確かな聖書の約束を見せてくださいます。

 この後、讃美歌512番を賛美しますが、「君は谷の百合」とイエス様を賛美します。世に遣わされ、この世で生きていく私たちには、本当に涙の谷を過ぎなければならないような、死の谷の陰を通らなければならないようなことがどうしても起こります。しかしその谷にこそ咲いている花があり、そこで百合の花を見つけることができるかどうかが大きな問題です。それを見つけた人は谷がもはや谷ではない。死の陰の谷を歩く道が、パラダイスへの道となるのです。そこに聖霊様が働いてくださいます。聖霊様は知識の霊とも言われています。聖霊は教えるだけでなく、私たちがすでに知っていること、つまり、イエス様がすでに教えられたこと、それは私たちが学んだ聖書の約束を思い出させます。そのようにして私たちはどんな時でも、すべてのことを通しても、いつも宮にいて神さまを褒め称えることができるのです。

 その宮にはイエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」と言われる兄弟姉妹がいます。コロサイ人の手紙ではパウロが祈っています。「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」(コロ19)。またこのように勧められています。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」(コロ316)。

 私たちはこの宮で、この時の弟子たちのように、イエス様が弟子たちを愛されたその愛をもって互いに愛し合い、教え合い、戒め合いながら、世に遣わされた者として、今いるところに腰を据えて生活し、そこで主に遣わされた者として歩んでまいりましょう。神さまの約束を信頼し、いつも喜び、祈り、賛美しつつ歩んでまいりましょう。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝いたします。イエス様の昇天のところから教えていただきました。今日からの歩みにもあなたが共にいてくださり、守り導いてくださいますように。感謝して私たちの主、キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

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