2020年6月14日 主日礼拝「神の民の誕生」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙10章1〜17節

説教題

「神の民の誕生」

今週の聖句

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

ローマ人への手紙10章17節

訳してみましょう。

2203 God has work for all His children, regardless of age or ability.
2204 The resurrection is a fact of history that demands a responce of faith.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  6番「われら主を」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌  501番「いのちのみことば」
聖 書  ローマ人への手紙10章1〜17節
説 教  「神の民の誕生」佐藤伝道師
讃美歌  199番「わがきみイエスよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

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説教「神の民の誕生」

佐藤伝道師

 もし八百屋さんとか、スーパーとかの前で、「安いよ、安いよ! 寄っていって! 決して損はさせないよ!」なんて声を聞いたら、皆さんどうでしょうか。どうせ必要があって買うなら安い方がいいかと思って、まぁ、よほど呼び込みの人が怪しくない限り、ちょっと寄ってみようかということになるのかなぁと思います。その場合、まず皆さんは何を信じますか? 何を信じて次の行動に移るのでしょうか。それは呼び込みの「声」でしょう。

 またこれはどうでしょう。私たちの教会には勝田さんという素晴らしいマジシャンがおられますけれども、勝田さんが握り拳を示して「ご覧ください、この手の中にコインがあります」と言われたら、もちろん私たちは勝田さんが信頼に価する方であることを知っていますから、なおさらのこと、「この手の中にコインがあります」という声、言葉を信じて、その握り拳を見つめるでしょう。その声に従うのです。そして見事コインが消えるのを見て、「わーっすごい」と、その奇しい不思議な業に驚いて喜ぶのです。

 まずはじめに「声」というものがある。その「声を聞いて」「声に聞く」。ややこし言い方ですが、「聞く」という言葉には「従う」という意味も含まれています。「親の言うことを聞きなさい」とか、良く聞いたり言ったりしますが、それは文字通りに親の声をしっかり聞きなさいであり、また同時に応答してその声に従いなさいということでもあります。

 さて、新約聖書の中で「教会」を「エクレシア」というギリシャ語で記されているのですが、それは「召し出された人々の集まり」という意味で、それを「教会」と訳しています。私たちはそれぞれ神さまに召し出され、こうして集まり、長野聖書教会を形成し礼拝を献げています。私たちが今朝も集まり礼拝を献げるという行動の前には、まず神さまの招きがあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのです」。「あなたが礼拝に行こうと思う前に、神さまがあなたを礼拝に招いておられるのですよ」と、これは私が教会に来始めた頃に説教の中で聞いて、心から感動した神さまの招きの声でした。

 神さまは今朝も私たちをそれぞれ選んでくださり、召し出し、その招きの声に応える者としてくださいました。そしてみことばを通して聖霊によって語りかけてくださいます。この恵みに感謝して、今朝も従順にみことばに耳を傾け、そして神さまの素晴らしい御業に驚き、そして喜び、心からの礼拝を献げてまいりましょう。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今朝も私たちを礼拝に招き、その招きに応える者としてくださった恵みを心から感謝致します。礼拝を通して語られる神さまの御声を今朝も聞くことができますように。聖霊様が満ちていてくださって、お一人お一人にあなたがお語りくださいますようにお願いを致します。御手にお委ねし、また期待しつつ、感謝して私たちの主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

 先月、私たちはペンテコステを記念する礼拝をお献げしました。ペンテコステは聖霊が降った日。そして教会が誕生した日とも言われています。

 ところで、旧約聖書の中に「教会」という言葉は見当たりません。旧約聖書では「わたしの民」、「わたしの国民」、「主の民」といった表現があります。「これらを信仰共同体の姿、新約の時代に入り「教会」とよばれるその原型として捉えることができるのではないかと思います。

 冒頭で新約聖書の中で「教会」と訳されている「エクレシア(神によって召し出された人々の集まり)」という語を紹介しましたが、旧約聖書の中でこの教会、エクレシアに一番近い語が「カハル」というヘブル語です。カハルは「集まる」という動詞から出来た言葉です。そしてカハルという語の中に「声」を意味する「コル」が入っています。上から呼ばわる声「コル」によって集められた人々。神さまの声を聞いて集まった人たち。それが「カハル(わたしの民、わたしの国民、主の民)」です。まず神さまの呼ばわる声があった。その声を聞いて集められた人々が「神の民」でした。その「神の民」は聖霊が降られたペンテコステに「教会」となったのです。

 神さまの声を聞いて誕生した神の民という共同体、教会、そしてそこに集う私たち。では、私たちを神の民として生まれさせた神の声とは何だったのでしょう。新約の時代を生きる私たちが今も聞くべき声、心に留めておくべき神の声、そして留まっているべき信仰とは何なのか。

 今朝与えられましたみことばは、先ほども皆さんとともに拝読しましたローマ人への手紙10章1〜17節です。この箇所を通して、改めて私たちを招き、私たちを神の民の一人、教会の一員として生まれさせたその声に耳を傾け、心にしっかりと覚えたいと思います。覚えておかなければならない神さまの声について知ることができると同時に、ここには私たちが陥りやすい間違い、これは神さまの声だと聞き間違えてしまいそうな、そんな自分の中から聞こえてくる声についても知る事ができると思います。

 10章1節から4節のところで、パウロはパウロの同胞、同じ民族であるユダヤ人たちに向かって「兄弟たち」と親しく呼びかけながらも、その不信仰を鋭く指摘しています。ユダヤ人たちの何が不信仰なのでしょうか。彼らは神さまに対しては熱心すぎるほど信仰が篤かった人たちではなかったでしょうか。

 話しは申命記にまで遡ります。

 出エジプトを果たし、約束の地を目指す荒野の旅の途中で、イスラエルの民は十戒を契約書として、神さまとの契約へと招かれました。そして申命記においてその契約に誠実であるようにと、モーセを通して民に語り聞かせました。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたがたの神、主を愛しなさい」(申614−15)。これは「シェマ」と呼ばれるユダヤ教の最も重要な祈りとなりました。聖書のすべてのテーマがここに集約されています。つまり信仰の中心点です。「シェマ」とは「聞きなさい」の意味で、またヘブル語の聞きなさいには単に耳で聞くだけでなく「聞いたことに応答しなさい」、つまり聞き従うことをも意味します。日本語と同じです。そして「愛しなさい」「愛する」というヘブル語も、単なる感情的な愛ではなく、意志と感情と思考と思いのすべてをもって自分を神に献げるという決断を表す言葉です。

 モーセは警告しました。「もしイスラエルの民がこの契約に聞き従うならば豊かな祝福が与えられる。しかし聞き従わず逆らうなら、最終的に滅ぼされる」。そして「私たちの神、主が命じられたように、すべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのだ」言い渡しました。

 パウロが「兄弟たち」と呼び、救いを心から願っていた「彼ら」ユダヤ人たちは、このシェマに忠実だったと言えるでしょう。熱心すぎるほどでした。例えば旧約聖書の律法には、年に一度、定められていた日に断食することが定められていたのですが、彼らの中のある人たちは、熱心なあまり、週に二度も断食をしていたようです。信仰において熱心というものはとても素晴らしいこと。時に車のエンジンのガソリンに喩えられるものです。車にエンジンがあっても、燃料であるガソリンがなければ走らない。パウロはそのことを認めつつも、それでも彼らを不信仰だと言ったのです。その熱心は知識に基づくものではないからだと、その熱心な行いを否定しました。

 パウロの言う知識とは何でしょうか。それは神さまのご性質に関する知識です。

10章3節      というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

 彼らは神の義について知りませんでした。神さまのご性質について知らなかったのです。いや、知っていたはずなのに、熱心なあまり、いつの間にか間違った方向に行ってしまったと言って良いでしょう。聖書は常に神さま中心の物語をいています。まず神さまがおられ、神さまが事を成し遂げて、それから人間が応答している歴史を描いています。人間が何かを行って、それに神さまがまるで重い腰を上げるかのように反応されるのではありません。彼らは「義」というものを熱心に追い求めて、神さまの祝福を自分の力で得ようと一生懸命でした。そのことは私たちもまた陥りやすい間違った考えでもあり、無視できない問題でもあると思います。信仰に熱心であればあるほど、陥りやすい考えではないでしょうか。これが私たちを神さまの声なのではないかと惑わす声となって響いてくるのです。

 ところで、「義」とは何でしょうか。これは法的用語であって、無罪とされること。神さまとの関係において見るならば、「義」とは「神の前に正しい者としてのすべての権利が与えられること」を意味しています。「義と認められる」「義認」とは、それが宣言されることです。罪によって壊れていた神さまとの関係を正しいものに回復して罪の刑罰である死と滅びを免れるだけでなく、神さまからの永遠のいのちが与えられ、天国に行くことができるという権利を得るものです。ですから「義」とは「救い」を意味することになるのでしょう。

 ちなみに「天国(英語のヘブンから連想される天国)」という言葉は聖書の中に見当たりません。「天の御国」「神の国」がいわゆる天国です。そこは神さまが支配される現実的、実際的な国。

 イスラエルの民の歴史はアブラハムから始まって、約束の地を目指す旅の歴史でした。異国の地での奴隷生活、国を追われ囚われの身となって他国へ連れて行かれたこともありました。そしていつも周りを取り囲む強大な国によって支配され、苦しく辛い生活がずっと強いられてきました。ですから素晴らしい神さまが支配される平和な王国の訪れ、約束の地での生活を心から慕い求める気持ちがあったことと思います。義とされて、救われて天国に入るとは、神の国の一員、神の民の一員とされることなのだということを覚えておきたいと思います。

 彼らは律法を厳格すぎるほど、真面目すぎるほど一生懸命に守ることで、神さまの義を獲得しようとしていました。そこでパウロはこう述べます。

10章4節      キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義とみとめられるのです。

 律法をとことん守ってきた彼らには信じられない不思議な言葉だったことでしょう。律法を守ることによって神の祝福を得られるのだと信じて、忠実に神さまに聞き従ってきたと考えていた彼らには、律法が終わったなどとは決して受け入れられない言葉だったかもしれません。しかし実際は、キリストは律法を終わらせた、廃棄した、無効にしたのではありません。キリストご自身が「わたしは律法を廃棄するために来たのではない。成就するために来たのだ」(マタ517)と言われています。

 「終わらせた」と訳されている語は、「目標」とも訳せるもので、新改訳2017年の訳では「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです」となっています。律法は神さまが人間に義を与えるために、彼らが真の救いを心から待ち望み、その救いをキリストを通して受け取ることができるようにと与えてくださったものです。

 律法を完全に守れる人は誰一人としていない。神さまの目から見て、「義人はいない、一人もいない」。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と聖書は断言しています。私たち人間は生まれながらにして罪人です。純真無垢な赤ちゃんであっても、誰も悪いことを教えなくてもちゃんと悪いことを覚えてするではないですか。「やだ」と言ったり「嫌い」と言ったりします。小さな子どもでも、嘘泣きをする。あれは誰が教えたのでしょう。

 私たちは自分の心をすべて人にさらけて見せることができるでしょうか。大和田ひろみさんというクリスチャンのシンガーの歌にこんな歌詞があります。「本当の私を見せたなら、だれでも私を殺すでしょう」。とても正直な詩だと思います。私もそう思います。本当の私をそのまま皆さんにお見せすることはできません。これが罪ある人間の姿であり、人間の本質、聖書が私たち人間に対して語っていることなのです。このような私たちが、いったいどうやって神さまの要求を満たして義とされることができるというのでしょうか。

 できません。

 ではどうしたらいいのでしょうか。自分の義を立てようとするのではなく、神の義に従えば良いのです。人間がどんな努力をしても解決できなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって砕かれた。これが神さまが備えてくださった方法だったのです。この世の方法では不可能なので、神さまは十字架という特別な方法を備えてくださったのです。神さまは、ご自分のひとり子を十字架で死なせることによって、私たちの罪の代価「罪の報酬である死」を身代わりとして負われました。ですから私たちは、ただその十字架で死なれたイエス・キリストが私を義としてくださるお方、私の救い主であると信じて、このお方に頼って生きればいいのです。これが、神さまがこの世に与えてくださった唯一の救いの道なのです。イエス・キリストご自身がこのように証言しておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハ146

10章6節      しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

10章7節      また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

10章8節      では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

 信仰による義はすぐに受け取ることのできるすぐそばにあって、大胆にただ素直に信じて受け取るようにと言っています。素直に受け取ろうとしないことは、神の恵みを無駄なものにしてしまうことであると言っています。私たちは神さまの恵みを無駄なものにしてはいけません。

10章9節      なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10章10節   人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 「心に信じる」とは福音、つまり神が用意してくださったキリストによる救いを自分の心にただ受け入れること。「口で告白する」とは、それを包み隠すことなく、はばかることなく、自分が信じていることをはっきりと表明することです。洗礼はその一つでしょう。神さまのご性質に従って、まず神さまが成し遂げてくださったことに対して私たちが私たちのすべてをもって応答することの、目に見える証しです。そしてイエス・キリストを心から信じること、そして告白、洗礼を通して、私たちには聖霊が注がれています。聖霊は私たちが天国に行くためのパスポートに押された証印です。神の国に入り、神の民とされる保証です。神さまは、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました(Ⅱコリ122)。それで私たちは確実に天国へと行くことができるのです。それほどまでの保証が恵みとして与えられていながら、それを信じないのはどうなのでしょう。

 私たちがもしどこかに旅行に行こうと計画した時、旅行代理店にすべてお任せするのが一番確実な方法でしょう。「どこそこへ行くのですが」と言えば、すべてのことを業者がしてくれます。つまり代行です。イエス様はそういう意味で、私たちのしなければならないことを代行してくださいました。代行してくださっているのに、まだ時刻表とかをめくって間違ってはいないだろうかと疑い深いことをする必要はありません。そういうことをするのは、代行してくれた人を引き下ろすことになる。恥をかかせることになり、してくださったことを無意味なものにしてしまいます。

 また、私たち日本人は勤勉で謙遜な民族だと言われます。より努力してパーフェクトを目指そうとする特性があるのではないでしょうか。けれどもそれが恵みに対してだとどうでしょう。ただで受け取るのは申し訳ないとか、自分がもっと頑張らなければ受け取る資格がないだとか、そう思ってしまいやすいのではないかと思います。勤勉、謙遜は世界の人たちからも良い評価を得るような日本人の長所でもありますが、それが信仰においては落とし穴、弱点、恵みを惑わす自分自身の声ともなり得ます。とても信仰的に見えて、実は不信仰とされてしまう、落とし穴ともなり得ます。

 ではどうしたら良いのでしょうか。

10章11節   聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 主イエスに信頼しましょうということです。神さまが成し遂げてくださった救いに対して、私たちは素直に応答して、素直に受け取りましょうということです。

10章12節   ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

10章13節   「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 このみことばも、私たちユダヤ人ではない者にとっては本当に感謝な、素晴らしい福音です。この神さまの義、ご性質によって私たちは救われました。

 そんな私たちに対して、神さまはどんな応答を私たちに求めておられるでしょうか。

 それは、救いを呼び求めるすべての人に、神さまの声、神さまの招きの声を届けることでしょう。神さまは救われた者、クリスチャンだけの神さまではなく、すべての人の神さまです。そして救いを求めて心の中で叫び求めている、その叫びに耳を傾けておられるのです。そして「わたしは一日中、手を差し伸べた」と21節にある通り、イエス・キリストによる救いは、求めていなかった異邦人に、また拒み続けるイスラエル人たちにさえ、提供され続けていました。そして今も提供され続けています。

10章14節   しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

10章15節   遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

10章16節   しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。

 聖霊が注がれて後、キリストの弟子たちは、その行く先々で、福音に従わない人々の間で、福音に反対する人々の間で大胆に叫びました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒412)。

 私たちは初めにこの声を聞いて、救いへと導かれたのではないでしょうか。イエス・キリストのお名前を聞いて、求めて、信じて、イエス・キリストというお方のもとに来たのではないでしょうか。

10章17節   そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 信仰の旅は、聞くことから始まりました。この上から呼ばわる声によって、私たちは召し出され、集めら、そしてキリストの十字架の福音を知り、ただ信じ、義とされて、救われて、永遠のいのちが与えられた。神の民として新しく生まれさせられました。神の民として生まれ変わったその喜びは当然、感謝をもって神さまに応答することになるはずです。私たちは神さまを愛しています。そして愛するとは、単なる感情的な愛ではない。意志と感情と思考と思いのすべてをもって自分を神さまに献げるという決断をもって愛しているのです。この身も霊もすべて神さまに献げ、神の民として、約束の地、天国、神の国を目指して今、神さまをたたえつつその旅を続けているのです。その旅の途中で、私たち自身がまず、初めて聞いた時と同じ招きの声に聞き続ける。そしてキリストについてのみことばを全身全霊で聞き、そして従っていく。「聞いている」と「聞こえている」は全く違うものです。私たちはみことばにしっかりと耳を傾け、間違いなくみとこばに従って行かなければなりません。どんなに誠実に行動しても、悪気がなかったとしても、指示に従わなければ意味がないのです。会社の上司に指示されていないことを自分が勝手に行って「こんなに一生懸命やったのに・・・」と言うことはできません。それと同じように、神さまの御心と違う行動をしてしまっては、神さまに喜ばれることはありません。それにはまず、しっかりと聞くということです。

 自分自身や周囲の声に惑わされず、神さまの声、みことばと恵みにただ信頼していく。従順でいる。さらにそこから、神さまが愛するすべての人々に向けて手を差し伸べている、その手の中にある奇しい救いの福音を、私たちは神さまの招きの声となって正しく宣べ伝えていく者でありたいと願うものであります。

 神さまは私たちが律法を行ったからではなく、信仰をもって聞く私たちに、私たちの間で力あるわざを行われる方、聖霊を与えてくださいました。そしてその聖霊によって私たちの信仰の旅路を終わりまで守り、導き、力づけ、祝福してくださいます。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美いたします。みことばを感謝いたします。みことばからそれぞれに与えられた思い、また決心によって今日からまた歩み出してまいります。その道中もみことばにしっかりと耳を傾け、御心にかなった歩みができますように守り導いてください。主キリスト・イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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